>2 来訪者の思惑 VISITOR
病院にはおよそ似つかわしくない、紺のスーツに身を纏った若い女が病室に飛び込んできた。
「やっほー!だいぶリハビリ頑張ってるみたいだね、お疲れ様!」
突然の明るい声に、喉が固まる。なんだこの人は。
「ぁ...あの...あなたは?」
他人とほとんど喋らないせいで、喉が言うことを聞かない。
「あ、ごめんごめん。私は倉崎雫。君、今日から私の受け持ちになったから、よろしく!」
「はぁ......」
ぼさぼさの髪をわしゃわしゃと整えた彼女は、どこからか名刺を取り出して僕へと差し出す。紙の質感はほとんどあのゲームと変わらない。久しく触れる"物"という感触が、やけに生々しい。
【電脳病理研究所 副所長 倉崎雫】と記されている。
名前だけやたら立派な、研究機関らしい。
「君、名前は?」
「......水山脩です」
僕を"僕"たらしめる付与された記号。
「ふうん、じゃあ脩くん、よろしく。私のことも雫でいいからね」
「......それで受け持ち、ってなんなんです?」
「ああ、そうだよね、説明しないとね」
彼女は椅子を引いて座り、少し真面目な表情になった。
「君さ、レイヤー4から回復したんだってね。それって本当に、あり得ないくらいすごいことなんだよ。世界でも数例しかない、超レアケースなの」
「......それは、聞いてます」
正気を取り戻してからというもの、担当医からは『そもそもEID患者ではなかったのではないか』とまで疑われた。
「だからね、私たち研究所としては、あなたのことをもっと詳しく知りたいわけ。どうやって回復したのか、脳にどんな変化が起きてるのか、今後どうなるのか——」
彼女は少し言葉を詰まらせながら、続けた。
「いや正直に言うね。あなたは、私たちにとって貴重な研究対象なの。だから、観察させてほしい」
あまりにストレートな物言いに、僕は何も言えなかった。
「でもね」
彼女はゆっくりと明るい声に戻る。
「これはあなたにとっても悪い話じゃないと思うよ?このままここにいても、退院の目途は立たない。それにご両親のことも、正直どうしていいか分からない状態でしょ?」
あまりにも図星だった。仮に退院できたとして......彼らと暮らす生活を僕は想像できない。
沈黙が支配する。鼓動が速くなる。
「もう、はっきり言っちゃうけど——」
彼女は声を落とした。
「このままここにいても詰むよ?」
「......」
「退院できず両親との関係も修復不可能。行政も病院も、EID患者なんて厄介者扱い。で、最終的に——」
彼女は言葉を切った。
「まあ、想像つくでしょ」
そのときだけ、彼女の目から笑いが完全に消えていた。数秒の沈黙の後、急にいつもの柔らかい表情に戻る。
「私たちの施設なら、ちゃんとしたサポート体制がある。それに——」
彼女はちょっとイタズラっぽく笑った。
「W::W、できるよ?」
その瞬間、僕の心臓が強烈に跳ね上がった。
「え」
声が出ない。喉が締まる。
「W::W。やりたいでしょ?ふふ、禁断症状、辛いよね?」
耳鳴りがして、手が痙攣している。殴られたみたいに。
彼女はにやっと笑ったが、やがて真剣な目で僕を見た。
「白海学園っていう特別療養学校に転入してほしいんだ。そこにはEID患者専用の設備があって、監視下でならゲームに復帰できる。今日はその提案に来たの」
戻れる。戻れる。戻れる。思考が、その言葉だけでループする。
「でも、また——」
声が震える。一言一言、確かめながら言葉を口から吐き出す。
「重度のEIDを発症するかもしれないじゃないですか」
「そうだね、リスクはある。でもね——」
彼女は表情を変えずに淡々と続ける。
「完全にゲームを断って生きることは、これからのあなたには不可能だと思う。その禁断症状とは一生付き合っていくことになる。それは君が一番知ってるはずだ。ならむしろ、コントロールされた環境で、安全にプレイする方がいい。そうでしょ?」
「......」
「それに研究対象としてデータを提供してもらうから、給与もぼちぼち支払われるよ。まあ、実験台ってことだけどね」
彼女は自嘲気味に笑った。
「僕は......」
「うん、分かってる。迷うよね」
彼女は優しい声で言った。
「じゃあさ、このまま何もしないで、ここでずっと待ってる?」
——待つ?
何を? 退院? 記憶の回復? それとも——死?
視界の端でHUDが明滅する。心拍数のバーが、赤い領域ギリギリまで跳ね上がっている。
ゲームに戻りたい。でも——またあの地獄が始まるかもしれない。
記憶を失い、現実を失い、自分も失う。
でも、このまま何もしないで——
HUDの幻覚に苛まれて。
空っぽの自分のまま、両親らしき人たちの哀れみの目で見られ続けて——
両手を見る。震えている。
「......戻り、たい」
声が、出ていた。
「戻りたい......です」
それが自分の意思なのか、渇望の代弁なのか——
僕には、分からない。
彼女は少し表情を曇らせてから、頷いた。
「......うん。白海学園には、専用の設備がある。君はそこで、W::Wに再度ログインできる」
ああ、戻れるんだ、あの世界に。脳が沸騰しているのがわかる。味気ない"今"が色付いていく。
僕は間違いなくあの世界で生きていたからだ。
血の気が指先まで一気に戻ってくる感覚があった。
彼女は黙って、僕の手を取った。
「......大丈夫。今度は私がそばにいるから」
その言葉が、どうしようもなく心に侵入してくる。
誰かに優しく言葉をかけられるなんて、いつぶりだっただろうか。
「実はご両親には相談させてもらっていて、すでに許可を頂いてます。だから君さえよければ今日から私が、あなたの仮の保護者だ」
彼女はまた事務的な口調に戻る。
「学園の寮で共同生活をしながら、あなたの経過を観察させてもらう。もう一人、私が担当している患者も同居することになるけど——まあ問題ないよね?」
頷くしかなかった。
ゲームに戻れる——それだけで、十分すぎる理由だった。
「よし!じゃあ決まり!それじゃ、来週には退院できるよう手配するから」
彼女は立ち上がり、ポケットから飴玉を取り出して僕に渡した。
「これ、あげる。甘いもの食べると元気出るよ」
そう言って、彼女は笑うと颯爽と病室を後にした。
その笑顔には、どこか影があって侘しさがちらついて見えた。
一人残された病室で、僕は飴玉を見つめる。白い包みを開けて、口に入れる。酷く甘い。
でも何の味なのかは、分からなかった。




