>12 死者たちの書院 NECROPOLIS
強制ログアウトから三日。俺は再びW::Wにログインしていた。
心拍数異常で一時危険な状態だったらしいが、今のところなんともない。食欲もあるし、HUDの幻覚も、ゲームに復帰する以前に比べればマシになっている。
それよりも雫の様子が、なんとなく妙な気がする。いつもよりもテンションが高いというか、やけにハイというか。でもまあゲーム内では普段通りだし、気のせいかもしれない。そもそもまだ彼女のこと、何も知らないじゃないか。
「とりあえずレベル上げだね。安全圏《Lv50》まで上げちゃおう」
俺は【月蝕書院ルナルヴァイン】へやってきていた。
月蝕書院ルナルヴァインは巨大な図書館だった。
図書館だったものの残骸、と言うべきか。崩れかけた書架が迷路のように入り組み、破れた本のページが宙を舞う。床には朽ちた机や椅子が散乱し、天井からは人間には不釣り合いなサイズのシャンデリアが斜めに吊るされている。
空気は静謐で、紙とインクの匂いが漂う。でも時折、遠くから何かが崩れる音や、ページがめくれる音が聞こえてくる。
「で、なんでついてくるの?」
俺は隣を歩くニイナを横目で見る。
白いフードで艶やかな髪を隠し、安っぽいマスクにサングラス。どう見ても不審者なのに、NiN△としての派手さだけは綺麗さっぱり削ぎ落とされている。
「雫に変なことするかもしれないでしょ」
フードの奥から返ってきた声は、いつものように素っ気ない。
「それに」
ニイナは一度足を止め、じろりと俺を見上げた。冗談半分なのか、本気で警戒しているのか、その目だけでは判別しづらい。
「この前のアリーナ、どうやって私の技使ったの?」
「教えると思う?」
肩をすくめて返すと、彼女の眉間に皺が寄る。
ニイナはむっとしたまま――
「もういい!」
ぷいと顔をそむけ、そのまま俺たちの少し前を歩き出した。
……が、距離を取りつつも、進行方向だけはきっちり合わせているあたり、ついてくる気は満々だ。
「ねえねえ、あんた本当に雫の彼氏なの?」
唐突に、ニイナが振り返りざまに投げてきた。
「......」
俺は無視して歩き続ける。
「無視するんだ」
「別に答える義務ない」
「ふーん」
短い相槌とともに、それ以上は追及してこない。
その空白を満たすように、果ての見えない書架が視界の奥へと伸びていく。
やがて、書架の迷路の裂け目――その先の薄暗がりから、最初の敵が姿を現す。
[余白を喰う徒弟]
HP: 889
Level: 38
顔面を真っ白な紙で覆った魔術師見習いのようなシルエット。ぼろぼろのローブはインクで汚れていて、手には朽ちかけた杖を握っている。紙の顔には、目も口も描かれていない。ただ、気味が悪いほどに白い。
「なんか、こいつちょっと可愛いよね」
こいつを"可愛い"なんて評する神経、やっぱり雫は少しズレてる。
「でも注意ね。こいつプレイヤーの空スロットに応じて強化されるから。ほぼ裸の君には危険だよ」
ひらりとウィンドウを開きながら、さらっと物騒なことを言う。
たしかに俺はまだLv5で、装備スロットはスカスカだ。
つまり――
徒弟が一歩、床を踏み鳴らす。
杖が振り上げられた瞬間、紙の顔面からページが一枚落ちて、それが刃物のように空気を切り裂く。
咄嗟に横へ跳ぶ。回避。
間髪入れず、二発目。もう一度、床を転がってなんとか躱す。
「やっぱ装備揃ってないから、結構キツイね」
息を整える暇もない俺の横で、雫は状況を眺めながら呑気に喋る。
そのとき、横合いから銀色の軌跡が走った。
飛来した短剣が徒弟の肩に突き刺さり、紙の下からくぐもった呻き声が漏れる。HPバーが一気に削れた。
「勝手に手伝うなよ」
「別に。暇だから」
ニイナは、投げ終えた手を軽く振りながら、あくまで興味なさげに言い捨てる。
口調の割に、短剣のコントロールだけはやたら正確だ。
俺も短剣を抜き、前へ踏み込む。
徒弟が慌てたように紙の壁を展開するが、溜め斬りを叩き込むと、壁ごと脆い紙束が弾け飛んだ。
最後の一撃を叩き込んだ瞬間、徒弟の体は細かな紙吹雪になって崩れ、空間に吸い込まれていく。
[経験値獲得: 2390]
[Level 12に到達しました]
「弱い割には経験値美味いな」
伸びていくレベルゲージを眺めながら、思わず本音が漏れる。
「ここはLv60くらいまでは効率いいよ」
雫は歩きながら、あたりの書架を指でなぞる。
彼女の視線の先には、さっきまで戦っていた徒弟と同種のモンスターが、静かに徘徊していた。
「でもずっとここで狩り続けるわけにはいかない」
「獲得技量減衰システム、ですね」
「その通り」
W::Wを理不尽なまでの高難易度に押し上げている、基幹システムのひとつ。
簡単に言えば、同じモンスターを倒せば倒すほど、獲得できる経験値と技量値がじわじわと減っていく。
それによって単調な周回プレイは抑制され、プレイヤーは半ば強制的に、新エリアや新モンスターを求めて足を伸ばさざるを得なくなる。
さらに厄介なのは、その減衰係数が固定ではないことだ。
一定期間に狩りが集中したモンスターは係数が増加し、ほとんど狩られていないマイナーなモンスターは係数が減少する。
係数そのものは非公開で、解析も「ほぼ不可能」というのが現状の共通認識だ。
「ま、同じ奴ばっか狩っててもつまんないしね」
ニイナは踊り場の手すりにもたれ、退屈そうにあくびをかみ殺す。
パーマデスだからといって、安全圏で延々とレベル上げしていればいい――という逃げ道は、このゲームには用意されていない。
この世界は常に、プレイヤーを危険の方へと押し出す。死という名の壁際まで。
書架の迷路を抜けると、視界が一気に開けた。
今度は、上へと伸びる長大な螺旋階段が待っていた。
古びた石段を踏みしめながら登っていくと、その途中の踊り場で、また別種の敵影と遭遇する。
[栞の処刑人]
HP: 2340
Level: 42
肩に巨大な栞が刺さった騎士。分厚い本を首のあたりで挟み、栞の紐が処刑用の縄のように垂れ下がっている。
ページの隙間から覗く赤い目が、こちらを冷たくなぞった。
[経験値獲得: 3,273]
[Level 21に到達しました]
何体かの処刑人をいなしながら螺旋を登り切ると、空気が変わる。
それまでのダンジョンの空気が、ぐっと密度を増し、音のない重さになってのしかかってくる。
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迷路みたいに入り組んだ書架のすき間に腰を下ろす。折れた机の残骸をテーブル代わりにして、俺たちはひと息ついていた。
「なあ、ニイナ」
「......なに」
「最近のジョブの流行って分かるか?」
「知らなーい。そういうの興味ないし」
ニイナは不愉快といった具合で続ける。
「でもま、ビルドアドバイザーとかビルドコンサルとかはいるよ。そういうのキモイけどね」
「それもそうだな。自分で考えるのが楽しいのに」
「......そうね」
ニイナは少し考えたように、付け加えた。
「ルナルヴァイン、死亡報でも上位のランキングに載ってるから、舐めてると痛い目みるんじゃない?」
「死亡報?」
「週間でプレイヤーの死亡原因をまとめた報告書のことだよ」
雫がウィンドウを操作しながら説明してくれる。
どうやら今のW::Wは、俺が知っている頃よりもずっと"人の不幸"に飢えているらしい。
「それってクランとかが出してるやつですか?」
「そうそう。いくつかの記者クランが合同でまとめてる。今時のビルドの脆弱性見たいならおすすめよ」
「後で買い方教えてください」
常に死と隣り合わせなこのゲームでは、死因の分析が強力な生存戦略になる。
休憩を終えて、さらに奥へ進むとより一層空気の密度が重くなって張り詰める。
いつの間にか静寂が、耳鳴りに変わる。書架の影が、ひときわ濃く揺れた。
[⚠蝕書の大書記ルクシオン]
HP: ????
Level: 55
机ごと空中に浮遊している書記官。
上半身は人間のようだが、腰から下は破れた本の束に変わっており、常にページが風もないのにめくれ続けている。
その手に握られた巨大な羽根ペンが、空中に走り出した瞬間、俺は背筋を冷たいものに撫でられた。
「エリアボスだよ!」
雫が短く警告する。
彼女の声は明るいが、その目だけは笑っていなかった。
ちょうどそのとき、俺たちより先行していた中堅プレイヤーのパーティーが、ルクシオンへ突撃していくところだった。
五人パーティ。レベル帯は50から60といったところだろう。
「あーあ、あいつら死ぬよ」
ニイナが、興味なさそうにぼそっと呟く。
その言い方が冗談じゃないと分かってしまうのが、このゲームの残酷なところだ。
ルクシオンが羽根ペンを振るう。
空中に書きなぐられた文字列が、インクの塊となって実体化し、弾丸の雨に変わってパーティーへと襲いかかる。
先頭のタンクが盾を構え、一斉に防御姿勢を取る。
「いける!」
誰かが高揚した声をあげた、その直後だった。
ルクシオンの動きが、不意に変わる。
まるで、たった今の攻防を"インプット"として取り込んだかのように。
次の瞬間、奴はパーティーの攻撃パターンを完璧に見切り、滑らかに回避してみせた。
そして、カウンター。
奔流のような文字の弾丸が、一人の胸を容赦なく貫く。
[YOU ARE DEAD]
「くそが!!立て直せ、陣形Bだ!」
誰かが叫ぶが、ルクシオンはもう止まらない。
こいつ......学習速度が異常だ。
二人目、三人目、四人目と、まるで既に"未来"を知っているかのような正確さで崩れていく。
最後の一人がパニックのまま逃げ出そうとした瞬間――
ルクシオンの羽根ペン、その横薙ぎが胴を断ち切った。
[YOU ARE DEAD]
数秒のうちに、足元の床には五つの墓標が並んでいた。
五人のプレイヤーが、この瞬間、この場所で"野垂れ死んだ"ということを、冷酷なまでに簡潔に示す石柱。
「……」
喉が勝手に鳴る。
息を飲んだ俺の頬を、現実には存在しないはずの冷風が撫でていく。
このゲームでは、ああやって、一瞬で全てを失ってしまう。
ルクシオンの羽根ペンが、今度はこちらに向き直る。
空中へ紡がれる文字列が、俺たちを射抜く座標へと収束していくのが分かった。
「パターンを読まれちゃダメ!」
雫が鋭い声で叫ぶ。
その声に背中を押されるように、俺は床を蹴った。




