>11 温室の管理者 GREENHOUSE
ヘッドギアを外した瞬間、脩の身体が激しく痙攣した。
「バイタル異常!心拍数197、血圧180over110!」
モニターが甲高い警告音を発し、生体データが赤く明滅する。私は緊急処置キットを掴み、看護師が駆けつける前に鎮静剤のアンプルを折った。20ml、静脈に直接。針を刺すと脩の腕が跳ねるが、慣れている。こんな光景は何度も見てきたじゃないか。
「呼吸が浅い」
看護師の声と同時に酸素マスクが装着され、点滴ラインが追加される。機械の唸りが病室を支配する中、脩の顔は汗で濡れ、歯を食いしばったまま意識を失っている。身体だけが見えない敵と戦い続けているようだった。
「脳波パターン異常、θ波の乱高下を確認」
担当医の南が端末を操作しながら報告する声は、いつもより低い。
「EID再発の兆候は?」
「現時点では閾値以下ですが」
南は画面から目を離さずに続けた。
「ゲーム内で何があったんです?初日から、こんな負荷をかけるなんて」
「......戦闘です。圧倒的に力の差がある相手と。私の判断ミスです」
言い訳はしない、全て私の責任だ。
脩のバイタルが徐々に安定し始める。180、170、150と心拍数が降下していく過程を、私は黙って見守るしかなかった。
「落ち着いてきました」
看護師たちが安堵の息を吐く。
「このまま24時間は厳重監視ですが、もし再発したら」
南が私を睨む。
「次はないですよ、倉崎先生」
「承知しています」
医師と看護師が撤収した後、病室に残されたのは脩の寝息と、壁を一枚隔てた向こう側、ニイナを生かす機械たちの息遣いだけだった。穏やかな寝顔を見下ろす。まだ子供じゃないか。
——何をしているんだ、私は。
初日から、こんな馬鹿みたいな無茶をさせて。ニイナと戦わせて。
分かっていたことだ。
彼氏として紹介すれば、ニイナが突っかかること、そしてアリーナに連れていくだろうことも。
もしニイナが本気で闘ったら、脩の身体が耐えられない可能性が高いことも。
でも——それでも
私は彼の"強さ"をこの目で確認したかった。
彼は本当に、かつてのyomogimoch1なのか。
Lv409まで到達してなお、ロード認定を拒否し続けたあのプレイヤーの残滓が、この少年の中に眠っているのかを。
最低だ、と思う。
でも、その自己嫌悪すら、もう何度目だろう。
この言葉を、自分を守る盾にしていることも分かっているのに。
ポケットが震える。着信......か。
【NINDIA Corp. 統括本部】
——来た。深呼吸。数秒待ってから通話ボタンをタップした。
「はい、倉崎です」
『お疲れ様です。明日15時、理事長室へお越しください。役員の方々がVer11.2に関する重要案件でお見えになります』
「かしこまりました」
通話が切れる。手が震える。明日、あの「査定」が始まる。
私は、研究者だ。でも同時に——プロデューサーでもある。
この学園に在籍する約400人のEID患者を、「戦力」として育成し「資産」として運用する。それが、私の仕事であり、役割だ。
窓の外には静かな夜の学園が広がり、生徒たちは今頃W::Wの中で英雄を演じているだろう。現実では廃人同然の彼らが、ゲームの中では持て囃される。これは救済なのか、搾取なのか。だがもう誰にも止められない。
脩の手を握る。冷たいが、脈を打っている。彼は確かにここで生きているんだ。
「ごめんね」
その言葉は誰にも届かない。
◆
翌日15時。白海学園本館最上階、理事長室。
いっそのこと鼓動と呼吸を止めてしまいたい気分だった。
重い扉を開けると、すでに三人が長テーブルの向こう側に座っていた。
中央、エドワード・クライン。NINDIA Corp.極東統括責任者。50代、灰色のスーツに冷たい青い目。
右、佐伯哲也。白海学園統括理事。40代、無表情で何を考えているのか、いつも分からない。
左、リサ・チャンニン。データアナリスト。40代、タブレットを操作しながら室内だというのに煙草を吸っている。
「失礼します」
私はテーブルの反対側、一人だけの席に座った。
これじゃまるで——尋問じゃないか。
「倉崎先生」
エドワードが口を開く。流暢な日本語だが、訛りが余計に恐怖感を増幅させる。
「ご存知の通り、Ver11.2が3ヶ月後に迫っています。新エリアが3つ実装され、間違いなく過去最大規模のアップデートになる」
秘書官から資料を受け取る。
深淵炭坑フラガ=オルド、堕ちぬ竜の至聖所レド・ヴァイン、星環機構管理塔オルビタル・スパイア。すでに公式発表された未踏破エリアの名前がそこに並んでいる。
「そしてこれらのコンテンツを誰が掌握するのかが、鍵になる」
エドワードは腕を組んだ。
「新鉱物、新素材、新武器、新スキル、新NPC。何もかも全てが経済的価値を持つ」
リサがタブレットを操作すると、宙にホログラムが展開される。複雑なグラフと数字の羅列が収束し、一つの結論を指し示す。
「Ver10.5実装時、最初の48時間で攻略されたコンテンツの経済的価値は——」
彼女は淡々と読み上げる。
「推定40兆2,000億円。そのうちの73%を上位20名のプレイヤーが独占しました」
「Ver11.2は単純計算でその3倍以上の規模と予測されています」
エドワードが続ける。
「つまり——約120兆円。それを、誰が手にするのか」
沈黙。私は、ただ頷くだけの役割を持たされた人形でしかない。
「倉崎先生。この学園は、多数の有力プレイヤーが在籍していると伺っておりますが」
「......現在のゲーム内ロードプレイヤー127名中、20名が当学園の生徒です」
「素晴らしい!」
エドワードは満足そうに頷いた。
「では、彼らはVer11.2で十分なパフォーマンスを発揮できますか?」
「間違いなく」
嘘だ。ロードプレイヤーの半分はもう、限界に近い。Lv200を超えると成長曲線が極端に停滞し、精神的にも肉体的にも摩耗していってしまう。
「ところで」
佐伯が口を開いた。
「我が学園のエースであるNiN△、ニイナ・アマノのパフォーマンスが最近落ちてきていませんか?」
背筋が凍る。
「そのようなことは」
「ここ半年のデータを勝手ながら見させていただきました」
佐伯がタブレットを操作すると、ニイナが各ボス級モンスターを倒す映像が投影される。
「確かに彼女は圧倒的です。しかし、反応速度が前年と比較して平均0.07秒遅延しています」
刻まれた数字を見た瞬間、喉の奥がきゅっと縮まる。
「......それは誤差の範囲では」
「誤差?」
佐伯は冷たく笑った。
「彼女が0.07秒遅れることがどれだけの損失を生むか、計算できませんか?」
言葉が出ない。唾液が張り付いた喉が声を出すことを拒絶する。
「それに」
リサが続けた。
「彼女の身体、生命維持装置の依存度が上がっています。このままでは、あと1年ももたないでしょう」
「つまり」
エドワードが結論を述べる。
「ニイナくんは、もう長くない。だから——」
彼は私を見据える。
「新しい、スター選手が必要なんです」
重苦しい静寂が部屋全体に行き渡る。
「......候補は、おります」
私がそう答えると、エドワードの目に生気が宿った。
「ほう。どなたかね?」
「ryokucha09。本名、水山脩」
タブレットを操作して脩のデータを表示する。
「彼はレイヤー4から回復し、現在は正気を保ったまま、ゲームに復帰しています」
「それは」
佐伯が身を乗り出した。
「Lv400超えの、shaienと同じケースになるとでも?」
shaien——現役最強のLv400超え。
誰も到達したことのないLv500の天井を打ち破る、と噂されるロードプレイヤーの頂点。かつてレイヤー5から奇跡的に回復し、今も最前線で戦い続ける、唯一の成功例。
「分かりません。ですが、可能性はあります」
「可能性では困るんですよ」
エドワードは鼻で笑った。
「我々が求めているのは確実性です。Ver11.2までに戦力を整えてください」
エドワードは窓の外を眺めながら、横目を向ける。
「それが、あなたの仕事でしょう?プロデューサー雫」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「3ヶ月。それまでに、彼をLv200まで引き上げてください。できますね?」
「......」
3ヶ月でLv200?常人なら2年はかかる数字だ。それ以前に、脩の身体が持たない。昨日の戦闘だけであれだけのダメージを負った少年が、この無茶な要求に耐えられるはずがない。
でも私は答えた。
「やります」
「よろしい」
エドワードは満足そうに頷き、ネクタイを緩める。
「期待していますよ、倉崎先生。あなたは我々の大切なパートナーですから」
彼らが部屋を出ていく。一人取り残された私は、机に額を押し付けることしかできなかった。




