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>1 禁断症状 WITHDRAWAL

また、死んだ。


夢の中で——僕は【紅の森】を走っていた。

本来なら序盤プレイヤーが足を踏み入れることすら許されない、高難易度エリアだ。


右手にロングソード。左手に甲虫盾。レベルは34。このビルドなら、本来なら推奨レベル120の血牙狼(ブラッドウルフ)だって、理屈の上では倒せる。


シミュレーションは完璧だ。回避タイミング、スキル発動、最適ルート——

そう、完璧なはずだった。

でも、血牙狼(ブラッドウルフ)は、僕の知らない動きをする。


フェイント、そして左から。回避が間に合わない。

牙が首筋に食い込む。

筋繊維が裂ける感触。骨に当たる硬質な音。

温かい何かが首を伝い滴る。

猛獣の呻きと涎が耳元で暴れまわり、生臭い肉の匂いが鼻腔を満たす。

鋭痛だけが、少し遅れてやって来る。

視界が赤い。一撃、HPバーが全損する。


[HP: 0/340]

[YOU ARE DEAD]


視界が暗転し、キャラクター削除の警告ウィンドウが、網膜に焼き付いたまま消えない。

Lv34。49時間のプレイ時間。手に入れたばかりのレアドロップ。

その全部が、今この瞬間まとめて消えていく。


[DELETE COMPLETE]


ログアウト。——目が覚める。


病室の天井。蛍光灯の光。点滴の音。

喉が渇きすぎて痛む。シーツは汗でぐちゃぐちゃだ。


枕元の手帳に、震える手で正の字を記す。


正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正

正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正


——ちょうど300回目だ。


ベッドサイドに放置された薬。今朝は12錠だ。昨日は8錠、一昨日は15錠。数えることだけが、僕に残された数少ない日課だった。ぬるい水で流し込む。喉を通る異物感、胃に落ちる重力。これが何の薬なのかは、もうとっくに忘れた。


効かない。一度も、効いたことがない。

でも飲まずにはいられない。何もしなければ、この渇きに飲み込まれてしまうから。


窓の外、朝日が昇り始めている。

——視界の端に、HUDが浮かびあがる。


[クエスト: 生存]

[制限時間: ∞]

[報酬: なし]


僕は目を閉じる。

また夜が来る。また、妄想の中で死ぬ。

そして——もう何回死ねば、この頭蓋の中の地獄は終わるというのか。


巡回に来た看護師の頭上に、薄いHPバーが浮きあがる。

赤と緑のグラデーション。HP: 87/100。少し疲れているのか?


——やめろ。


「大丈夫ですか?」


右手を強く握る。ベッド柵の金属がひんやりと冷たい。

看護師の声に意識を引き戻されて、ようやくバーが薄れていく。

それでも完全には消えない。半透明になって、僕の視界の端にしつこく居座り続ける。


でも僕は頷くしかない。 冷や汗が額からこぼれ落ちる。

大丈夫ではない。でも、それを説明する言葉を僕は持ち合わせていない。

どう説明すればいい?あなたの頭の上にHPバーが見えるなんて。



リハビリ病棟での生活は、果てしなく、無限に続くように思えた。

退院のめどは......全く立っていない。


両親は週に一度面会に来る。

でも僕は彼らの顔をよく思い出せないし、会話もどこかちぐはぐだ。

母が持ってきた写真を見る。海辺で笑う少年。それが僕らしい。


「覚えてる?七歳の誕生日」


「......えっと」


「初めて自転車に乗れた日なの。でもこの後転んで怪我しちゃってね」


僕はその写真を凝視する。でも、何も思い出せない。少年の笑顔は、完璧に僕ではない誰かにしか見えない。


「そう、ですか」


僕が言えたのは、それだけ。母らしき人は、泣き出す寸前といった具合だったが、それでも無理やり口角だけを持ち上げた。


「大丈夫。ゆっくりでいいから」


この人たちのために何か感じなければならない義務感だけが補充され続ける。でも何も湧いてこない。空っぽだ。


「また来週来るから」


父らしき人がそう言って、二人は帰っていく。

ドアが閉まる音と、廊下を遠ざかる足音だけが取り残される。

また一週間、誰とも喋らない日々が始まる。



僕は「電脳人格同化症」——通称EID患者だった、それもレイヤー4の。


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[世界精神医学会WPA公式HP「電脳人格同化症について」より]


2038年、違法化されたにもかかわらず、睡眠型VRMMORPG《Wired Witch》(通称W::W)が爆発的に流行し始めると、ある精神障害が医学界で急速に注目を集めた。


長時間のVRMMOプレイにより、ゲーム内で構築された人格ロールプレイと現実の自我アイデンティティが病的に融合を引き起こす。のちに電脳人格同化症、EIDと呼ばれる症例である。EIDは症状の重さによってレイヤー1から5まで分類される。


当初、この症例はそこまで深刻視されてはいなかった。


だがW::Wは致命的なシステムを採用していた——パーマデス。ゲーム内で死亡すればキャラクターデータは完全に削除される。レアアイテム、スキル、愛用武器、邸宅、フレンドやNPCとの交友関係、個人に紐づいたトークンの価値。

ゲーム内で築いたありとあらゆる資産が消滅する。


このシステムがEIDと最悪の相乗効果を引き起こした。


発症する因子を持つのは重度のゲーム依存者に限られるものの、発症すればゲーム内でのキャラクターロスト——すなわち死亡、が人格崩壊を引き起こし、脳に不可逆的なダメージを与える。根本的な治療法は未だに見つかっておらず、精力的な研究が今もなお行われている。

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……だそうだ。


医者は前にこれを、わざわざプリントアウトして壁に貼り付けた。親切心のつもりなんだろう。

でも、「電脳人格同化症」なんて立派な名前をつけられても、僕の実感はもっと低俗で単純だ。ただ、W::Wに戻りたい。それだけだというのに。


僕は中学三年間をW::Wに捧げた結果、レイヤー4のEIDを発症した。

そしてある日ゲーム内で死亡した僕は、そのまま心肺停止となり強制ログアウトになった。

重度のEID患者は、キャラクターロストのショックのまま死んでしまうことが多い。


僕は運が良かった、だけだ。


中学三年間を、僕はそんなゲームに心血を注いでいたらしい。らしい、というのはゲームをやる以前に僕が何者だったのかを書面やアルバムを見たり、そして両親とされる人たちから熱心に聞かされてしか知らないからだ。


それほどに記憶は変質し、あるいは消滅してしまったと医者は説明した。不可逆の記憶と人格。今思えば——長い夢をずっと見ているような、そんな意識の中で暮らしていた気がする。


とはいえ、元の記憶がないのなら、それを失った痛みだって分かりようがない。


肉体は生きている。でも中身は空っぽだった。

僕はその空っぽを、二年間俯瞰し続けた。


でも記憶の喪失よりも、強烈だったのは禁断症状だ。W::Wに戻りたい。ただその渇望が、24時間、途切れることなく僕を苛んだ。


常時、視界にHUDが現れる。

各種パラメーターバー、メッセージ通知、クエスト表示。存在しないはずのステータス画面。

世話をしてくれる看護師の頭の上にはHPバーが見え、僕はスキルを使おうと手を振り上げては、出ない現実に泣き喚く。


『どうしてスキルが出ないんだ!』


ログアウトしてもそんな地獄が待っていた。


そして、この先どうなるのかも分からない。


いつ退院できるのか。そして......退院してどこへ向かうのか。

誰も答えてくれやしない。


ただ毎日、同じリハビリを繰り返し、同じ天井を見上げ、時間だけが過ぎていく。

寝てしまえば脳が作り出すゲームの「妄想」にログインしては、死ぬことを繰り返す。


本当に終わりの見えない螺旋のような日々。


——二年が経過した。


季節は冬から春に変わろうとしていた。窓から見える景色は刻々と移り変わる。

でも僕の中の冬は終わらない。


そんなある日だ——唐突な来訪者が現れたのは。

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