死んだあの子は、毎日ロッカーを開けていた
四月の終わり。少し蒸し暑いその日は、じっとりとした雨が降っていた。
雨上がりのロッカーには、どこか濡れたような匂いが残っていた。そしてその中に、ふと、あの子の髪の香りを思い出させる匂いが混ざっていた。
甘くて、けれど少しだけ切ない匂い。
思わずツンと刺す毒のような香りだった。
わたしがロッカーの扉を開けた瞬間、一枚の封筒が滑り落ちた。差出人の名も宛名も書かれていない、真っ白な便箋。
まるであの子のように、無垢で、穢れを知らない、きれいな便箋。
わたしは丁寧に、ゆっくりと、それを開いた。
「あの子のロッカー、貴女が代わりに開けてくれる?」
その一文を読み終えたとき、わたしの鼓動は、どこか別の時間へと引きずられていった。
――あの子、有村は、二年前、突然いなくなった。
自殺だとも失踪だとも言われたけれど、本当のことは誰にもわからなかった。
正直、心当たりがなかったわけじゃない。
有村は、わたしにとって、たったひとりの“親友”だったのだから。
彼女が姿を消してからも、その衝撃は、わたしの中にずっと残っていた。
でも、あの夏の日、有村は確かに言っていた。
「わたしの鍵、あなたに預けるね」
――と。
しばらくして、わたしはあの子のロッカーの前へ向かった。
おそるおそる、躊躇いながら、そっとロッカーの扉を開ける。
中には、見覚えのない小物たちが並んでいた。片方だけのピアス、焦げた手紙、割れたメダル……。
どれも、確かに“彼女”の匂いがした。
――そして有村は、わたしの目の前に“カタチ”となって現れた。
「あたしたち、“貴女”をめぐって殺し合ってるの」
その夜、夢の中に現れた“有村”は、なにかが違っていた。
髪型も、声も、笑い方も……微妙に、いや、明らかに違っていた。
それは、有村に“似た”まったくの“別人”だった。
「ひどいな。あたしのこと、忘れちゃったの?」
そう言って、彼女はさめざめと泣いた。
まるで、からかうように。まるで、面白がるように。
次の日、有村のロッカーの中の品物が、一つだけ変わっていた。
ガラスの破片。
触れると、指先に小さな傷ができた。血がじんわりと滲み、その先に、また別の“彼女”が現れた。
それからというもの、有村のロッカーには、“知らない有村”の記憶が毎日ひとつずつ並んでいった。
リボン。鏡。ぬいぐるみ。定規。爪――。
そのたびに違う有村が現れ、泣きながらわたしにすがりついた。
声にならない声をあげながら、まるで救いを求めるように、懺悔するように――。
「貴女は、あたしの“貴女”でしょう?」
「ほかのあの子たちに、奪われないで」
「あたしだけを、見て」
「好きよ、愛してる」
……「ゆっこ」って呼んだのは、あの子だけだった。
わたしは、あの名前が好きだった。誰にも呼ばれたくない、唯一の名前だった。
「みんなみんな、ゆっこのことが大好きなの。正気を失うほどに。心が壊れてしまうほどに」
そして、有村たちは出会ってしまった。
「あたし以外のあたしが、ゆっこに近づくな」
「あたしのゆっこに、触らないで」
「あなたなんて、ゆっこの記憶にも残っていないくせに」
罵声が飛び交い、爪が伸び、髪が引き裂かれ、鏡の破片が振りかざされる。
ロッカーという息苦しいほど狭い空間で、有村たちは、まるで獣のように醜く争い合った。
――自分こそが“わたしのたったひとり”であると証明するために。
血と悲鳴が交差するその場所には、かつての優しい面影など、もうどこにも残っていなかった。
わたしは止めようとした。
けれど――気づいてしまった。
争いの理由は、“わたし”を愛しているがゆえだった。
どの“有村”も、自分だけの“わたし”を欲していたのだ。
わたしという存在を、我がものにしたくて。
歪んでいても、一途なその想いの中に、確かに“親愛”の形が見えた。
――でも、わたしは、誰のものでもない。
それでも彼女たちは、皆、わたしを「自分だけのもの」だと信じて疑わなかった。
そして、やがて、有村たちは完全に正気を失っていった。
――でも、それは違う。あとになって、ようやくわかったこと。
彼女たちは正気を“失った”のではなく、最初からもう“壊れていた”のだ。
有村たちは、からからと笑っていた。
でもその声には、もう体温なんて残っていなかった。
それからのち――
気づけば、わたしはロッカーの前で倒れていた。
目の前には、感情の温度を失ったひとりの有村がいて、
わたしの胸には、深々とナイフが刺さっていた。
どうやら、“わたし”は、致命傷を負ったらしい。
有村たちが、わたしを取り囲んでいた。
笑いながら、泣きながら、傷だらけで、でも確かに“わたし”を見ていた。
「あたしが守るはずだったのに」
「あたしだけの、貴女でいてよ」
「この世で、いちばん愛してるのは、あなただけなの」
血の中で、“わたし”は微笑んだ。
「どの“あの子”でも、好きだったよ」
「……苦しかったね。全部、わかってた。でもね、わたしも――ずっと、寂しかったんだよ」
わたしが最後に口にしたのは、有村たちへの“心からの赦し”だった。
「また、逢おうね。いつか」
誰に届いたかもわからないその言葉を最後に、わたしは意識を手放した。
「……バイバイ、有村」
――そして、“わたし”は息を引き取った。
それから。
この世界にやって来た“わたし”は、かつて“わたし”が通っていた学校に転校してきた。
少し蒸し暑いその日、じっとりとした雨が降っていた。
雨上がりのロッカーには、あのときと同じ、濡れた匂いが残っていた。
そしてその中に、ふと、“あの子”の髪の香りがした。
甘くて、けれど少しだけ切ない匂い。
ツンと刺す毒のような匂い。
――そして、雨の匂いが残る、あの日と同じ放課後。
わたしのロッカーの中には、一枚の白い便箋が入れられていた。
「ロッカーの鍵、“あの子”の分も開けておいたよ」
それは、死んだ“わたし”への手向けであり、
また、新たに始まる、終わりなき“愛と憎しみ”の物語だった。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
ご覧いただき、心より感謝申し上げます。