開戦から南方作戦
開戦から南方作戦
1941年12月。日本は米英に対し宣戦布告を行った。
宣戦布告後、日本の機動部隊はハワイ真珠湾を攻撃した。宣戦布告後の攻撃であった。
宣戦布告後の攻撃である事から、奇襲ではなく強襲になると覚悟していたが、第一次攻撃で真っ先に飛行場を破壊した事から、米戦闘機の反撃は許容範囲内になった。
第二次攻撃隊も米戦闘機の反撃を押さえ込み攻撃を成功させた。
一次二次攻撃隊を収容し再出撃させた第三次攻撃隊は、米戦闘機の反撃をほぼ受ける事無く攻撃できた。
米軍施設に多大な損害を与え、停泊中の戦艦などの艦艇にも攻撃し、多数の戦艦を撃沈する事に成功した。
米海軍は当分の間、作戦行動は不能になったのである。
参加した機動部隊は、空母6隻と防空戦艦に改装された金剛型戦艦4隻を中心とする艦隊だった。
空母の艦載機は、九九式艦上戦闘機、九九式艦上爆撃機、九九式艦上攻撃機、九九式艦上偵察機であった。
大鳳がもたらした情報により、海軍は真珠湾奇襲作戦が必要になる未来を想定し図上演習などはやっていた。
しかし、米英との関係が良好になったためそれ以上の事は行ってこなかった。
ソ連との戦いの戦訓で、搭乗員不足に対処するため熟練搭乗員は教官となり、搭乗員育成に務めた。
よって、真珠湾攻撃に参加した搭乗員の練度はまずまずであったが、真珠湾の浅い水深での航空魚雷攻撃は、訓練期間が短かったにもかかわらず概ね成功した。
攻撃に参加した搭乗員の中でも技量が高い者が選抜され、九九艦攻による雷撃を担当した。
三次に渡る攻撃を終えた機動部隊は、一路補給部隊との会合点に向かうのだが、九九艦偵が米艦隊を発見する。
空母1隻を含む艦隊であり、見逃す手はなかった。
ただちに攻撃隊が編成され、米機動部隊を攻撃し空母を撃沈することに成功した。
これで、ハワイ真珠湾攻撃は大成功となったのであった。
日本海軍は、効率よく南方資源地帯を押さえるため、戦艦を出し惜しみする事無く投入していた。
長門型戦艦2隻も例外ではなく、マレー沖でイギリス戦艦と艦隊決戦を行っていた。
この世界では、初代大鳳の世界と違い、1940年9月に北部仏印進駐を行っておらず、その影響で状況が変わっていた。
具体的には航空戦力の展開が遅れており、マレー沖で英艦隊を陸上攻撃機が雷撃する事はできなかった。
仏印の航空機、主に戦闘機はマレー攻略の支援に務めており、マレー沖へはもっぱら索敵機が英艦隊の警戒に当たっていた。
そして発見された英艦隊には、戦艦と巡洋戦艦が1隻ずつ発見され、長門型戦艦2隻を中心とする艦隊が迎え撃った。
マレー沖海戦は、数に勝る日本艦隊が始めから有利であった。
水雷戦隊が露払いと共に英戦艦に雷撃を行い損傷させ、そこへ長門型戦艦2隻による砲撃が加えられ撃沈したのであった。
フィリピン攻略でも戦艦は投入され、扶桑型戦艦2隻伊勢型戦艦2隻が砲撃支援を行っていた。
大鳳のもたらした情報に、バターン半島・コレヒドール要塞で手間取ったと記録にあり、主にこれらの地域を砲撃した。
グアムは滞りなく占領し、ウェーク島に関しては手間取る事が分かっていたので、真珠湾攻撃を終えた機動部隊に給油を行った後ウェーク島攻撃に参加させた。
金剛型戦艦4隻を中心に艦砲射撃を行い、砲爆撃支援を受けながらウェーク島を占領していった。
日本が米英に宣戦布告をした事で、オランダが日本に宣戦布告を行った。
蘭印も攻略対象になったが、南方攻略は順調に進んでいった。
海軍は大鳳がもたらした情報により、補給が負担になり損耗が激しくなるニューギニアやソロモン諸島へは進出しなかった。
南方資源地帯を押さえた後はインド洋へ進出し、ソ連への支援経路を遮断する作戦に出る事になった。
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