ノモンハン事件の拡大
ノモンハン事件の拡大
大鳳がもたらした情報は、対米英戦争のあらましがわかる程度で、世界情勢などは書かれていなかった。
しかし、支那事変がこのまま進めばその先に米英との戦争がある事は予想できた。
大鳳の情報を知る海軍は、支那事変解決の機会を伺っていた。
1939年5月。ノモンハン事件が発生する。
大規模な戦闘は一旦は落ち着くも、小競り合いが続いていた。
そこへ海軍が支援を申し出たのである。
関東軍は渋るも、大本営への根回しは済んでおり、海軍が全面的に航空支援を行う事が決定した。
海軍としては、米英との戦争を避けるため支那事変を早急に解決したかった。
ノモンハン事件を利用しソ連の脅威を喧伝し、中国と戦争している場合ではないという空気を作りたかったのだ。
参加した海軍航空機は、九六式艦上戦闘機、九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機、九六式陸上攻撃機、九九式艦上偵察機であった。
九九式艦上偵察機は、愛知で開発中の艦上爆撃機を偵察型に改修した機体であった。
この九九艦偵が、ソ連の大攻勢の兆しを掴んだのであった。
ソ連は航空機を大量に送り込み、航空戦力の物量で押してきていた。
日本は海軍の航空機が加わった事で、ソ連の物量に押し負ける事なく戦えており、制空権を奪われる事を防いでいた。
そんな1939年7月、九九艦偵がその高速と航続力を活かし敵中深くを偵察したところ、ソ連の大部隊を発見する。
ソ連に大兵力は無いという情報が出回っていたが、それが誤りである事が判明したのであった。
陸軍は増援を送る事を決め、海軍はよりいっそうの航空支援を行った。
1939年8月。ソ連の大攻勢が始まった。
日本は、ソ連の大部隊の情報を掴んでいたおかげで対応する事ができた。
海軍は地上用対空電探を持ち込んでおり、対空戦闘を有利に運ぶ事に成功した。
数に勝るソ連の航空機に対し、九六艦戦を電探で誘導し効果的な迎撃を行った。
しかしソ連軍もI-16を大量に投入し、急降下速度を活かした一撃離脱戦法で日本に打撃を与えていった。
航空機の性能も搭乗員・操縦者の練度も日本が上回っていたが、一撃離脱に徹したI-16とその物量により被撃墜率が上がってきていた。
陸軍は航空機の防弾の重要性をよりいっそう認識し、また一撃離脱戦法も研究していく事になった。
海軍もようやく防弾に意識が向くが、陸軍ほどではなく防弾装備は遅れる事になる。
そして陸海軍とも、戦闘機の火力不足を痛感した。
海軍はノモンハン事件を機に、支那事変を解決に導くべく政府と交渉を重ねていた。
しかし現内閣は、ドイツとの同盟を締結するかの是非を問う内閣であり、支那事変解決には積極的ではなかった。
ノモンハンで激戦が続く中、世界に衝撃が走る出来事が起きた。
独ソ不可侵条約が締結されたのである。
手を取り合うはずの無い2つの陣営が、手を取り合ったのである。
支那事変を解決に導きたい海軍は、これを大いに利用した。
ドイツが裏切った、ソ連が後顧の憂いを断って攻めてくる、国民党等と戦っている場合ではないと煽り立てたのである。
ノモンハンではソ連の猛攻を凌いでおり、損害はソ連の方があきらかに上回っていると考えられた。
ノモンハンでの現状を維持しつつ、このまま支那事変解決へ持っていきたい海軍は、総辞職しそうだった内閣を説得。ソ連の脅威を大袈裟に喧伝している今なら、日本国民も国民党政府への譲歩を許容するのではないかと訴えた。
1939年9月。ドイツがポーランドへ侵攻する。
英仏は即座にドイツへ宣戦布告を行った。再び欧州での戦争が始まったのだった。
海軍の粘り強い説得により日本政府は、国民党にある程度譲歩した講和を持ちかける事にした。
国民党と停戦が成立し、講和交渉が行われた。
そんな中、ソ連もポーランドに侵攻する。
独ソでポーランドを分割したのであった。
事実上独ソの軍事同盟と受け取れた。
日本は国民党に譲歩し、支那事変を解決。講和が成立した。
来るべきソ連との全面戦争に備える、という建前を掲げ支那事変終結に成功したのだった。
海軍は、米英との戦争に繋がると思われた支那事変を終わらせる事に成功した。
しかし、ノモンハン事件が予想以上に拡大していた。
海軍が全面的に支援した事で、ソ連の大攻勢を凌ぎ、押し寄せるソ連の航空機に対処し続けた。
ソ連がポーランドへ侵攻する頃には、ノモンハンの戦闘も小康状態であったが、ポーランドの占領が終わった後は再びノモンハンの戦闘が活発になっていった。
ソ連の損害は日本の比ではない筈なのだが、ソ連は日本が引いた国境線を認めず、徐々に戦域が拡大していった。
せっかく支那事変を終わらせられたのに、今度はノモンハン事件が収拾できなくなっていた。
しかし、米英との関係は改善した。
支那事変で悪化していた米英の対日感情だったか、国民党と講和し兵を引き上げた事で好転した。
さらに、ドイツと手を組んだソ連と戦っている事で、一転して米英の陣営に移ったようにも見えた。
日本国内はというと、好景気に沸いていた。
国民党に譲歩したとはいえ、利権を得ていたからだ。
しかし、戦時体制は続いており、軍事費は増える一方だった。
そんな最中の1939年10月に、大鳳が起工した。
竣工予定は1942年12月であった。
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