航空機の発展と支那事変
航空機の発展と支那事変
海軍は、大鳳がもたらした物により未来の技術を手に入れていた。
これらを調査解析研究すれば、さらなる技術を手に入れられる事になる。
通常であればそれら技術を手に入れるためには、研究開発費として相応の予算が必要となる。
しかし、大鳳によって答えがもたらされたのである。後はそこを目指すだけであった。
技術が追い付けば、更なる発展も可能といえた。
大鳳に搭載されていた航空機は修復され、各種試験が行われた。
その性能を目にした海軍は、これを量産しろと無茶を言い出すのだが、いずれは可能な話ではある。
製造に必要な資材と設備が整えば可能なのだろうが、例えば超々ジュラルミン等の資材はまだ開発されていないので今すぐの生産は無理であった。基礎工業力がまだその段階に達していないのである。
試験と解析が終わった機体は、未来で開発製造する企業が判明した事から、最終的に各企業へ引き渡された。当然の事だが、極秘扱いである。
零式艦上戦闘機は三菱と栄エンジンの関係で中島に、艦上爆撃機彗星は愛知に、艦上攻撃機天山は中島とエンジンの関係で三菱にそれぞれ引き渡され、早期に同等性能の機体が開発生産される事を期待された。
中島では開発を開始しようとしていたエンジンが、いきなり完成品として現れてしまった形になったのである。
今後は完成している栄エンジンの解析と再現を目指す事になり、いずれは改良と18気筒化に着手していく事になる。
愛知では、大鳳がもたらしたアツタエンジンを解析研究し、現在の技術での完全再現は困難と判断した。
そのため、全く同じ物を造るのではなく、大鳳がもたらしたアツタエンジンを参考にして、現在の技術で確実に製造可能な液冷倒立V型12気筒アツタエンジンを開発する事にした。
ゆくゆくは、その新生アツタエンジンを基にした性能向上版を開発していく事にした。
三菱では、後に金星と呼ばれるエンジンと液冷エンジンの開発に難航していた。そんなところに火星エンジンが現れたのである。
この世界の者達は知る由もないが、金星エンジンを基にして生まれたのが火星エンジンであり、参考にならないはずがなく火星エンジンを解析する事で、金星エンジンの開発が大きく前進したのだった。
三菱は、火星エンジンを切っ掛けに、空冷エンジンに注力していく事になり、金星エンジン開発と火星エンジンの複製を行う事になった。
大鳳の電装品はそれぞれの部門で研究された。
電波探信儀、水中探信儀、無線などであり同等以上の性能を目指して研究されていく事になった。
同時に真空管についても性能向上や安定性が求められた。
真空管に梃入れした事で、副次的効果としてラジオの普及が加速し、真空管が量産されるようになり、安定した性能の真空管が供給されるようになった。
1936年頃になると海軍の艦上航空機は、栄エンジンを搭載した単葉・引き込み脚の機体が開発されていた。
九六式艦上戦闘機も、大鳳がもたらした零式艦上戦闘機を参考にして開発された。
当然防弾は意識しておらず、現状開発できる最高性能の戦闘機となった。
九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機もエンジンは栄であるのだが、大鳳がもたらした彗星や天山を参考にして開発されていた。
九六式陸上攻撃機は、複製を試みた火星エンジンを搭載する事を前提に開発された。
完全な複製にはいたっていないが、火星エンジンは一応完成し生産が始まった。
ちなみに、大鳳がもたらした火星エンジンを参考にした金星エンジンは、無事に開発に成功し次期主力航空機のエンジンを目指して性能向上を行っていた。
陸軍は海軍の九六艦戦を知り、同等の性能を求め九七式戦闘機を開発させた。
陸軍は海軍とは違い、防弾を少し意識していた。
機銃は、大鳳がもたらした20mm機銃と13.2mm機銃が解析研究が行われていた。
これを基に、より高性能・高威力な機銃の開発が目指されていく事になった。
大鳳がもたらした技術の研究が進む中、1937年7月に支那事変が始まってしまう。
満州事変がようやく終わったと思ったらこれである。
欧米からは非難されており、大鳳の情報を知る者達は米英との戦争が近付いてきたと感じていた。
米英との戦争は回避したいが、日本にも言い分があり、支那事変を止める事はできなかった。
支那事変不拡大を唱える者達はソ連を警戒しており、支那事変を推し進める者達は対支一撃論を唱え、国民党に一撃を与え屈服させ、日本に有利な講和を早期に結び、ソ連に備えるつもりだった。
結局どちらもソ連を警戒しているのだが、支那事変では手段が目的となりつつあり戦火は拡大していった。
1937年12月。中華民国の首都南京を占領し、国民党に一撃を与える事に成功する。
しかし国民党は屈服せず、重慶に遷都し早期講和は実現しなかった。
1938年10月。日本軍は国民党政府のあった武漢を占領したが講和は成立せず、支那事変は終わりの見えない泥沼となっていった。
1938年頃になると、三菱では大鳳がもたらした火星エンジンと同等品の生産が行われており、またそれを基にした金星エンジンが高性能を発揮できるようになっていた。
その金星エンジンを用い、次期主力艦上戦闘機の開発が行われていた。
三菱は、中島が栄エンジンを18気筒化したものを開発中と知り、金星エンジンを18気筒化したエンジンの開発を始めていた。
中島では、三菱の火星エンジンを搭載した艦上攻撃機天山の複製改良が行われていた。
当初は大鳳がもたらした天山の複製品には、自社製品の護エンジンを搭載したかったが、三菱の火星エンジンが目標性能を発揮したため断念せざるを得なかった。
栄エンジンを18気筒化したエンジンの開発は進んでおり、2000馬力を目標にしていた。
愛知では、開発されていた新生アツタエンジンが完成していた。
大鳳がもたらした彗星艦上爆撃機が試作され、目標性能に近付いていた。
アツタエンジンの事を知った陸軍は、アツタエンジンを搭載した戦闘機を計画し、川崎にアツタエンジンを用いた試作を依頼した。
結果は良好だった事から、愛知にアツタエンジン供給を求めるも、生産能力の限界を超えると回答され、川崎にアツタエンジンのライセンス生産を行わせ、液冷戦闘機の開発をさせる事にした。
陸に打ち上げられていた大鳳の調査解体は終了し、解体して出た鋼材は鋳潰され新たな大鳳に利用される事になっていた。
新たな大鳳の起工は、1939年10月の予定だった。
お読みいただきありがとうございます。
評価・リアクション嬉しいです。ありがとうございます。
ご指摘をいただき、ライセンス関連は省きました。エンジンや兵器等のライセンスは、適切に対処しているとざっくり解釈してください。