大鳳竣工からマリアナ沖海戦
大鳳竣工からマリアナ沖海戦
1943年10月。予定を繰り上げ大鳳が竣工した。
これより訓練に入るのだが、戦局は悪化の一途をたどっており、大鳳が加わっただけでは既にどうしようもない戦況だった。
また、米潜水艦の活動が活発になっており、輸送船が沈められ物資不足も深刻になりつつあった。
先代大鳳がもたらした技術により、水中探信儀も性能は上がっていたのだが、米潜水艦の跳梁を止める事はできなかった。
同年11月に海上護衛総司令部を設置したが、輸送船の被害は増える一方だった。
日本は、先代大鳳のおかげで技術が向上し、対空戦闘能力は先代大鳳の世界よりも高かった。
対空電探から始まり、九三式十三粍機銃から派生した13.2mm機銃の早期実用化。速射性能の高い長10cm砲がそれであり、米軍に相応の損害を与えていた。
しかし、米軍の物量は物資ばかりではなく人材も豊富であり、一定水準のパイロットが常に補充されていた。
対空戦闘能力は先代大鳳の世界より高いとはいえ、それは今の日本が知る由も無い話であり、ただただ米軍の物量に押しつぶされそうになっていた。
米艦隊は輪形陣を採用し、急降下爆撃に対抗し日本の艦上爆撃機に多大な損害を与えていた。対する日本艦隊は駆逐艦の数が不足し、米軍の急降下爆撃に対して満足な反撃はできておらず、回避運動を行う以上の対応が取れなかった。
そんな状態で決戦を迎えようとしていたのである。
あ号作戦と名付けられたマリアナでの決戦であり、米艦隊を迎え撃つため1500機の基地航空隊が準備されようとしていた。
決戦に向け準備が進む中、1944年3月末に海軍乙事件が起き、作戦の機密文書が漏洩してしまう事件が起きるが、機密文書を奪われた当人がそれを認めず、機密漏洩が判明する事はなかった。
アメリカ軍はこれを基に、日本軍の反撃を潰していく事になるのだった。
さらに、日本軍は渾作戦のためマリアナ方面に集めた1500機の航空機をニューギニア方面へ分散させてしまう事になった。
戦力の分散と米軍の空襲により、マリアナ方面の決戦兵力である基地航空隊は激減していったのである。
日本の機動部隊はというと、アウトレンジ戦法の訓練が行われていた。
しかし、作戦が漏れていたため米潜水艦による妨害を受けており、まともな訓練を行う事ができなかった。
そして、米軍のサイパン上陸を迎える事になる。
1944年6月。マリアナ沖海戦が開始された。参加した日本の空母は10隻であった。
ミッドウェー海戦の戦訓から大量の索敵機を飛ばし三段索敵を行い、見事に米機動部隊を発見する。しかし、発見の時間帯が遅くこの日のアウトレンジ攻撃は見送られた。
基地航空隊は米機動部隊を攻撃、戦力が激減している基地航空隊では戦果は挙げられなかった。
翌日、米機動部隊はマリアナ諸島の航空基地を攻撃。
激しい航空戦が行われ、結果としてマリアナ諸島の制空権を米軍が奪取する。
日本の機動部隊は索敵の結果、米機動部隊を発見。
各戦隊ごとに攻撃隊を発艦させたのであった。
大鳳は最初の攻撃隊発艦後、潜水艦の雷撃を受け魚雷を1本被雷してしまう。
ガソリンの漏洩などはなく、航行に支障はなかった。
翔鶴は2度目の攻撃隊を発艦後、潜水艦の雷撃を受け魚雷を4本被雷してしまう。
一度に4本も被雷してしまえば致命的であり、翔鶴は沈没してしまう事になった。
帰還してきた攻撃隊を収容する際、その少なさに司令部は愕然となる。
搭乗員に負担を強いるアウトレンジ攻撃とはいえ、あまりにも未帰還機が多すぎたのだ。
攻撃隊は、米機動部隊に辿り着く前に米戦闘機の迎撃を受け、大部分が撃墜され数を減らし、辿り着いても効果的に炸裂する高角砲弾によって損傷し、米機動部隊に有効な打撃は与えられなかったのだ。
日本機の搭乗員は未熟な者が多く、長時間の飛行で精一杯であった。
疲労しているところにレーダーで誘導された迎撃機の奇襲があり、まともに対応できた搭乗員は少なく各個撃破されていった。
そして米機動部隊に辿り着いても、最新兵器のVT信管搭載の高角砲弾が待ち受けており、ろくな戦果を挙げられなかったのだった。
中には敵機動部隊を発見できず空振りになった部隊もおり、そういう部隊は無傷で帰還できた。
翔鶴が失われていたが、損失機が多く出ていたため帰還した全機が各空母に収容された。
日本の機動部隊は一旦北上し、態勢を整えた。
翌日も索敵機を出すも米機動部隊は見付からず、逆に米機動部隊に発見されてしまう。
米機動部隊は、攻撃隊の帰艦が夜になるのもかまわず攻撃を断行した。
日本の索敵機もようやく米機動部隊を発見。
少数ながら攻撃隊を発艦させる。
日本機動部隊は電探で米攻撃隊を捉え、可動可能な零戦で迎撃。
電探で誘導された零戦により、米攻撃隊に相応の損害は与えるも、数的不利は覆せず蹴散らされてしまう。
日本の機動部隊へ米攻撃隊の攻撃が開始され、装甲空母である大鳳が矢面に立ち奮戦した。
被雷し速度が落ちており艦容も大きかったため、真っ先に狙われたのだった。
輪形陣による援護を受けながらも、大鳳は多数の急降下爆撃を受け被弾する。
しかしその厚い装甲で弾き返し、米急降下爆撃機の攻撃を凌いでいた。
しかし、米攻撃機の雷撃が集中し、大鳳は魚雷を4本被雷してしまう。
その分他の艦への攻撃は緩く、残り8隻の空母の損傷は軽微だった。
日本機動部隊が出した僅かな攻撃隊は、米機動部隊に損害は与えられなかった。
薄暮攻撃であったが、あまりにも寡兵であったため効果が得られなかったのだった。
魚雷を4本被雷した大鳳は、浸水が止められず沈没しようとしていた。
総員退艦が命じられ、生存者は全員退艦。
2代目大鳳は、海中へその姿を沈めていった。
日本は空母こそ8隻残ったが、多くの搭乗員と艦載機を失い、実質的に機動部隊の壊滅といえた。
もはや日本には、再び機動部隊を立て直す力は残されていなかった。
その後の日本は、先代大鳳の世界とほぼ同じような経過をたどる事になっていくのだった。
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ご指摘をいただき1話を少し改稿しました。大鳳が装甲空母であると認識される描写です。ありがとうございました。