立憲君主国家満州国は独立国家である
立憲君主国家満州国は独立国家である
アメリカは日本から上海の日本租界を譲渡され、中国市場を拡大し景気が回復するかに思われた。
しかし、中国市場拡大やニューディール政策も緊縮財政を行うと再び景気は後退し、アメリカ経済は低迷するのであった。
アメリカの景気は戦争特需でも起こらなければ、短期間での回復は難しいのではないかと思われた。
しかしそんな折、欧州で戦争が起こった。これが世界大戦の時のように大規模化すれば、アメリカはまたも戦争特需で好景気となり、大きく経済成長を果たすと考えられた。
だが、戦争は拡大せず、戦争特需も起こらなかった。
アメリカ大統領選挙は、一応世界大戦といってもいい状況である事から、現職大統領が3選を果たした。
欧州ではドイツとの戦争が終結し、やがてソ連との戦争も終結した。
ソ連が崩壊し、新たにロシア共和国が建国されたのである。
アメリカは蚊帳の外であった。
太平洋を挟んだ日本はというと、ポーランドを支援し戦争終結に貢献し、シベリア東部の採掘権を得て、好景気に沸いていた。
北樺太という新たな領土も得ており、これからますます経済成長を遂げようとしているようだった。
日本はアメリカが開国させた国である。
そんな日本が一人勝ちのような状況になっているのである。
アメリカにとって、米大統領にとって、非常に面白くない状況であった。
アメリカは中国国民党と手を組み、満州の奪還を計画した。
日本が不当に中国東北部を占拠し、傀儡国家を作っているとの非難を開始した。
一度は国連で非難され、日本が満州への影響力を下げ市場を開放する事で決着した話を、アメリカは再び蒸し返してきたのであった。
既に満州には日本以外の企業も多数参入しており、日本の傀儡とは言い難い状況になっていたにもかかわらずである。
1941年12月。国民党はアメリカの支援を得て、満州奪還に乗り出した。
日本はせっかく戦争を終わらせ、これから経済発展していこうかというところで、また戦争となったのである。
幸い戦場は満州南西部の国境地帯であるため、アメリカの挑発を警戒しつつ防衛に徹していく事になった。
国民党軍が攻め寄せてきたのだが、国民党軍は一部を除き士気は低く、満州防衛は容易に行えていた。
この事から日本軍は、満州防衛の主力を満州国軍に任せ、日本は後方支援を行っていった。
満州国は、地下資源による利益や各国が満州の市場に参入した事で、国力が上がり日本の影響力も徐々に下がっていた。
満州国軍も機械化していっており、九七式中戦車などの戦闘車両や九七式戦闘機・襲撃機などが配備され、国民党軍は物の数ではなくなっていた。
実際に満州国境での国民党軍との戦闘は、満州国軍が一方的に勝利していた。
そんな満州国に、戦争を終えた欧州各国が余剰な兵器を売却しだした。
満州国は景気よく欧州から兵器を購入し、満州国軍を強化していった。
国民党軍はアメリカからの購入や供与が中心であった。
不甲斐ない国民党軍に、アメリカから義勇軍が参加していった。
戦闘機隊で構成された義勇軍であり、戦闘地域の制空権確保が任務であった。
しかしP-40では、九七式戦闘機との格闘戦に勝てず苦戦を強いられていた。
満州国の防空体制は日本と同等に高く、電探や偵察機による警戒は常に行っていた。
進入してきた敵機は、悉く撃退していたのであった。
敵機の進入を許さず後方の偵察を阻んでいる間に、満州国軍の軍備は増強されていき、欧州から購入した航空機や戦闘車両などを含め大兵力を保有するにいたっていた。
兵器は充実していたが、それに見合う歩兵戦力は不足しており、国民党の捕虜を金で雇う事まで検討されていた。
日本軍は、満州国軍が十分戦線を支え国民党軍を撃退している事から、国民党軍との戦闘を満州国軍に完全に任せるようになっていった。
後はアメリカに言いがかりをつけられて戦争にならないように、細心の注意を払っていた。
日本は大鳳がもたらした技術情報を基に、工業力を始めとした様々な分野が急成長していた。
軍備も更新されており、有事にも備えていた。
そんな中、1942年6月に、突如として満州国が反転攻勢を仕掛けたのだった。
日本からは防衛に徹するように指導していたのだが、日本の影響力の低下もあり満州国軍は攻勢に転じてしまったのだ。
満州国軍は国民党軍を打ち破り、さらに進軍を続けていった。
アメリカもさらなる支援を国民党軍に送るも、満州国軍の進軍は止まらず、南京を目指す勢いだった。
日本も慌てて満州国に待ったを掛けるのだが、既に日本の影響力は弱くなっており、積極的に防衛戦闘を行っているだけであると回答されるのであった。
満州国軍は南京攻略を開始し、国民党政府は南京を脱出。アメリカ軍のいる上海に撤退した。
さすがに満州国軍も上海には手を出さず、上海以外へ進軍し次々と各地の軍閥を傘下に収めていった。
もはや易姓革命のようであった。
アメリカはこの事態に日本を非難した。
米大統領は日本の策謀であると糾弾し、アメリカの世論も反日感情が高まっていった。
日米交渉が行われ、満州国は既に日本の傀儡国家ではなく、れっきとした立憲君主国家になっていると日本は主張するのだが、アメリカは取り合わず交渉は平行線を辿っていた。
日本に経済制裁が課され、アメリカの対日強硬姿勢が強まっていくのだった。
1943年1月。満州国は中国大陸において清国の再建を宣言した。
立憲君主国家であり、日英を参考にした民主主義国家であった。
その国家に上海は含まれておらず、国民党政府がいまだ健在だった。
当然ながらアメリカと中華民国は清を承認せず、領土奪還を目指すと宣言していた。
日本はアメリカから経済制裁を受けていたが、特に問題になる事はなく、ましてや挑発に乗って戦争を仕掛けるなどするはずもなかった。
米大統領は好転しない状況に業を煮やしていた。
国民党への支援は増加し、P-47戦闘機やM4中戦車なども送り込んでいた。
清は、日本から払い下げられた百式戦闘機も保有し満州で生産も開始しており、さらに欧州から購入した最新兵器もあった事から問題なく対応していた。
もっとも主力兵器は、満州で大量生産された九七式ではあったのだが。
日本はアメリカとの緊張状態が続いているため、軍備は継続して増強されていた。
特に空母は力を入れており、蒼龍型空母は改蒼龍型として建造され続け、巨大な大和型空母が4隻建造されてもいた。
新たな空母は斜め飛行甲板を採用し、ジェット機の運用に対応させていた。既存の正規空母もこれに改修されていた。
一応戦艦も近代化改修が行われており、長門型戦艦を始めとする全艦が艦容が大きくなり、ガスタービン機関や50口径3連装4基12門の主砲に改装されていた。
日本の空母拡充にアメリカも対応しており、早くからエセックス級空母を量産していた。
また、戦艦も新型が次々と竣工し、戦艦戦力では日本を大きく上回っていた。
1943年12月。アメリカは戦争準備を完了したのであった。
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中華の王朝は、五行によって国名を決めてたみたいですね。水徳の清の次は、木徳になるようですが、半日考えても良いのが思いつかず、もう清の復活でいいやとなってしまいましたw