国際連盟常任理事国日本の奮闘
国際連盟常任理事国日本の奮闘
日本は国連脱退を撤回し、満州国の市場を開放した。満州国への影響力を下げたのである。
さらに中国内陸の租界を返還し、上海の日本租界をアメリカに譲渡する事で、支那事変を回避する事に成功した。
中国での市場拡大を考えていたアメリカは、日本の提案に乗ったのであった。
日本はその間に満州に注力し、油田開発に勤しんでいた。
満州油田が出た事で、満州の重要性が高まり、防衛力強化が進められていった。
中国利権を手放したり、アメリカに譲渡した事を批判する声も上がっていたが、満州油田の話が出てくると徐々におとなしくなっていった。
ただ、満州の市場を開放したため、他国の石油企業も参入してきており競争となっていた。
これまで傀儡国家だった満州国は、この石油事業により資金を得られ、国としての力を付けていく事になるのだった。
日ソ間の紛争が起きる満州では、1937年正式採用の戦車や航空機、携帯式対戦車擲弾発射器の運用が開始されだした。
戦車は九七式中戦車や九七式駆逐戦車、航空機は九七式戦闘機
や九七式襲撃機、海軍機は九七式艦上戦闘機や九七式艦上爆撃機そして九七式艦上攻撃機などであった。
戦車はドイツのⅢ号戦車と戦える程度の物で、生産性の高い戦車に仕上がった。
満州に工場が建設され、九七式は現地生産も開始された。
九七式の航空機は全て金星エンジン搭載機であり、生産性・整備性・生存性の高い機体であった。
超々ジュラルミンや沈頭鋲などは使用せず、機体性能は金星エンジンの高馬力と機体構造によって出していた。
九七式戦闘機・艦上戦闘機は陸海軍でほぼ同じ機体となっており、海軍機はその機体に着艦装備を備えているだけであった。
九七式襲撃機は重防御で生存性の非常に高い機体となっていた。
ちなみに航空機工場は、大鳳がもたらした情報にあった昭和東南海地震の被害を避けるため、また航空機工場に隣接した飛行場を設けるため、南海地震の震源から離れた場所へ移されていた。
日本はこれら量産兵器が完成した事から、独ソと戦闘になるポーランドへ支援を始めるのであった。
ポーランドと相互援助条約を結び、量産兵器の供与やライセンス生産を持ちかけた。
ポーランドに実機を持ち込み、性能試験を行ってもらい、希望する兵器のライセンス生産を認め、兵器や対空電探の供与も行った。
対価として、独ソに挟撃される事を想定し備える事を求めた。
供与される九七式戦闘機・襲撃機の兵装は、欧米で調達しやすいブローニング12.7mm重機関銃を搭載していた。
日本国内向けは、13.2mm機銃を採用していた。
日本の航空機銃は陸海軍で統一され、7.7mmは別として、13.2mm機銃とエリコンFFL20mm機関砲を航空機の兵装として採用した。
しかし呼称は相変わらず別で、陸海軍で機関砲と機銃で呼び別けられた。
1939年日ソの軍がぶつかる国境紛争が拡大していく中、8月に独ソ不可侵条約が締結される。
日本は日独防共協定を破棄し、英仏と共にポーランド支援を表明した。
9月、ドイツがポーランドへ侵攻。日本は英仏と共にドイツへ宣戦を布告したのだった。
日本は英仏にポーランド支援の艦隊を派遣することを伝え、ポーランドに支援物資を送るのならばそれも護衛すると申し出た。
半月後にはソ連がポーランドへ進攻。日本はポーランドを援護するとして、北樺太や沿海州に軍を進めていった。
日本艦隊がソ連太平洋艦隊を撃滅し、機動部隊が後方拠点への空爆を行った。
10月、日本のポーランド支援艦隊が到着し、航空機や戦車を供与した。
支援艦隊は、ドイツの通商破壊に対応するための護衛艦隊と輸送船団で構成され、護衛艦隊は戦艦を含む相当の規模の艦隊であった。
その護衛艦隊には、水上偵察機瑞雲が航空戦力として配備されており、水上機母艦や巡洋艦に搭載されていた。
瑞雲は空戦や急降下爆撃をこなし、対潜哨戒も行う使い勝手の良い万能水上機だったのである。
11月、ようやく英仏のポーランド支援が始まり、輸送船団がポーランドへ向かった。
護衛には日本の水上機母艦を含む護衛艦隊も随伴し、ドイツの通商破壊に対応していった。
日本は北樺太と沿海州を占領し、さらに攻勢を強めポーランドを遠くから援護していた。
度々シベリア鉄道を空爆し、ソ連の補給を阻害して有利に戦闘を進めていた。
12月、ポーランドは独ソに挟撃されながらもよく耐えていた。
耐え得た要因として携帯式対戦車擲弾発射器があり、活躍が目覚しいものになっていた。
日本は、英仏にもポーランドに公開した兵器の情報を渡しており、さらに1940年正式採用される航空機や戦車の情報も公開した。
携帯式対戦車擲弾発射器や九七式襲撃機が採用され、1940年正式採用の航空機のライセンス生産が検討される事になった。
日英仏は、ポーランドに対し支援は行うが、今のところ軍の部隊の派遣は行っていなかった。
1940年1月、日本機動部隊が到着し、海上からの航空支援を開始した。
空母は、赤城・加賀・大鳳・蒼龍型3隻であり、なかなかの戦力であった。
空母大鳳は軍縮条約の枠内で収めるとして起工し、条約失効後に計画を変更して拡張したと主張し建造された。
四代目大鳳までの世界であれば、軍縮条約の空母保有枠は蒼龍・飛龍に使われていたが、この世界では五代目大鳳が建造された。もちろん鋼材は四代目大鳳の鋼材を鋳潰して使われた。
艤装には四代目大鳳の乗員が携わり、四代目大鳳の電装品が五代目大鳳へ引継がれた。
兵装は補給の観点から、今現在の兵器を採用し、電装品はそれに合わせて調整された。
五代目大鳳の乗員の半数は、四代目大鳳の乗員が勤める事になった。
蒼龍型空母は、四代目大鳳の世界の雲龍型空母に相当し、この時点の日本で建造できる最高の量産空母として誕生した。
設計図は大鳳がもたらしており、量産性と高性能を両立させていた。
蒼龍型は軍縮条約失効後から毎年3隻ずつ起工していた。
機動部隊の補給や休養は、輸送船の護衛艦隊同様に英仏で行った。
2月、機動部隊に増援の空母として、大鳳型2隻、蒼龍型3隻が加わった。
さらに、1940年正式採用の航空機と戦車が送られてきた。
航空機は百式戦闘機、零式艦上戦闘機、艦上攻撃機流星、艦上偵察機彩雲であり、どの機体も誉エンジン搭載であった。
百式戦闘機と零式艦上戦闘機はほぼ同じ機体で、零式艦上戦闘機の着艦装備を外した機体が百式戦闘機である。
戦車は百式中戦車であり、4代目大鳳の世界の三式中戦車に相当する戦車であった。
生産性が重視されており、当面の間独ソを圧倒できると考えられていた。
これらも英仏に公開され、性能試験が行われた。
英仏は、百式戦闘機の性能に驚愕したのであった。
百式戦闘機は、速度性能・運動性能・航続距離・攻撃力において、この時点の英仏の戦闘機を上回っていた。
武装はエリコンFFL20mm機関砲×4であり、しかも弾倉ではなくベルト給弾になっていたのである。
艦上機は機動部隊が調達しやすいように、日本側からライセンス生産を要請する事になった。
百式戦闘機は英仏からライセンス生産を求められ、日本はそれに応じ、見返りとしてポーランドへのさらなる支援を要請した。
イギリスは、零式艦上戦闘機と艦上攻撃機流星そして艦上偵察機彩雲を、空母艦載機として採用した。
イギリスはこの機体に合わせて、空母を改修する事になるのだった。
戦車に関しては、英仏は自国で開発するとの事だった。
ポーランドに百式中戦車を持ち込むと、現代の重騎兵だとして量産体制を整える事になった。
3月、ポーランドにおけるソ連軍の圧力が弱まっていった。
理由は、極東で日本軍がソ連軍を押しているからであった。
ドイツではポーランドをソ連と挟撃しているにもかかわらず進攻は捗らず、さらに日本機動部隊に妨害されている事もあり、戦線は膠着し、逆に苦境に立たされていた。
莫大な債務の返済のためにも、ポーランドを占領する必要があったのである。
このまま戦争が膠着し長引けば、ドイツは経済破綻する恐れがあり、打開策を模索していた。
通商破壊を行おうにも、日本の有力な護衛艦隊が護りについており迂闊に手が出せず、潜水艦も未帰還が増えるばかりであった。
そんな中、ドイツとスウェーデンの通商を妨害すべくイギリスが動き出そうとしていた。
この動きを掴んだドイツは、デンマークとノルウェーの占領を決意した。
4月、ドイツはデンマークとノルウェーに侵攻を開始した。
日本艦隊は、大鳳がもたらした情報にあったドイツの作戦が、ポーランドを占領していないにもかかわらず実行された事に驚いていた。
一応は警戒していたおかげで即座に対応でき、ノルウェー上陸船団を叩く事ができた。
デンマークに関しても、千歳型水上機母艦や巡洋艦から発艦した瑞雲がまず防衛に当たり、日が昇ってからは機動部隊によるドイツ地上部隊への空爆を行った。
ドイツ空軍との空戦がありつつも、機動部隊や瑞雲による攻撃はドイツ軍が撤退するまで行われた。
その後も大鳳型空母を中核とした機動部隊が交代で警戒し、デンマークへの侵攻を牽制していた。
ドイツによるノルウェー・デンマーク占領を防いだ事で、ポーランドへの航路を塞がれる事を防いだのであった。
ドイツは、デンマーク近海に日本の機動部隊が展開している事から、作戦を中断する事にした。
生半可な戦力では日本機動部隊の妨害を撥ね退けることができないため、仕切り直す事にしたのであった。
今回の件で、今まで行ってこなかったドイツ国内での戦闘が発生した。
地上戦ではないが、航空機による空戦や地上攻撃が行われ、まやかし戦争と呼ばれていた戦争も、次の段階へ進む事になった。
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