ドイツ降伏
ドイツ降伏
1942年7月。日英軍はシチリア島に上陸した。
手厚い航空支援の下、順調にシチリア島攻略が進んだ。
8月にはシチリア島を占領し、イタリア半島上陸へ向けイタリア半島各地へ砲爆撃を行っていった。
同8月、米英艦隊の支援の下、南フランスで上陸作戦が行われた。
上陸は容易だったが、内陸でのドイツ軍の抵抗が強く、南北が繋がるのに手間取ってしまい、イタリア上陸作戦に影響を及ぼしてしまった。
10月、イタリア半島上陸作戦が行われイタリアは降伏するも、イタリア駐留ドイツ軍がイタリア半島を掌握し、イタリアでの戦いは継続していった。
この頃になると、二式戦闘機疾風や木製双発夜間戦闘機月光がシチリア島へ進出してきており、イタリア半島への攻撃に加わっていた。
連合軍主力はフランス方面に展開しているため、イタリア半島攻略は砲爆撃の援護の下、主に日英軍が攻略を進めていた。
強固に構築された防御陣地には、爆撃の効果が薄く、機動部隊は効果的な攻撃を模索していた。
日本機動部隊はドイツ軍への補給を阻害する案を採用し、イタリア半島北部の鉄道や橋梁、道路といった輸送のための生活基盤を破壊していった。
イタリア半島南部のドイツ軍は地の利を生かした防衛線で抵抗していたが、連合軍はドイツ軍の補給を阻害する事に成功し、着実に攻略を進めていった。
1943年2月には雲龍型空母がさらに2隻増援に来て、日本機動部隊の航空戦力は相当な物になっていた。
日本機動部隊は交代で補給と休息を取りつつ、イタリア半島北部のドイツ軍補給線を攻撃し続けていた。
イタリア方面の連合軍は執拗にドイツ軍の補給線を攻撃し続け、ドイツ軍が全力を出せないよう努めた。
イタリア半島は山がちであるため戦車は使い難かったが、元々戦車の少ない日本軍にはあまり関係なく、擲弾筒等を多用し歩兵の力で攻略していった。
イタリア半島南部のドイツ軍を下すためローマ開放は優先せず、南部のドイツ軍を包囲し、5月に降伏へ追い込む事に成功した。
6月にはイタリア中部の戦いとなり、ローマが解放された。
7月にはフィレンツェに到達し、イタリア北部での戦闘が始まった。
8月、イタリア北部工業地帯を確保し、イタリア北部開放を行っていった。
日本艦隊の役割はほぼ終了したといえる状態となり、機動部隊は交代で欧州に派遣する態勢となった。
基地航空隊や輸送船護衛部隊は、引き続き欧州に派遣されていた。
9月、イタリア攻略軍はフランスの連合軍と握手し、イタリア攻略は完了した。
イタリアを攻略した日英軍は、オーストリア方面へ進軍していく事になる。
ドイツ本国でのドイツ軍の抵抗は強く、米英軍は強力なドイツ戦車の前に進軍が遅れていた。
10月、オーストリアを抜けた日英軍がドイツ本国へ到達した。
この頃ようやく三式中戦車が日本軍の元に届いた。新型の中戦車であり、イギリスから提供された戦車技術を注ぎ込み開発された戦車であった。
当初より大鳳のもたらした情報にあった、ドイツのⅤ号戦車と互角に戦える戦車を目指しており、そのため開発に時間が掛かってしまったが、ようやく量産に漕ぎ着け欧州戦線に間に合ったのであった。
日本軍の新型戦車の力もあり、11月には南ドイツは連合軍の占領下に入った。
日本軍は米英軍と歩調を合わせ、ベルリンに迫っていった。
12月にはベルリンを包囲し、市街戦の末、ついにドイツは降伏した。
しかし、東部戦線の戦闘は終わっておらず、ソ連に降伏したくないドイツ軍は戦い続け、米英への降伏を申し出ていた。
1944年3月。欧州での戦争が終結した。
ソ連は東欧に勢力圏を伸ばす事ができず、独ソ戦は終了した。
連合国の勝利であり、世界は連合国による新体制へと移行していった。
6月、日ソの国境紛争が再び始まった。
米英が仲裁に乗り出したが、アメリカはソ連寄りであった。
特に米大統領が偏っており、日本は不当に中国利権を独占していると糾弾までしてきた。
論調は徐々に強くなり、話は経済制裁にまで発展した。
いかにも米国政府がソ連により誘導されていると感じられ、支那事変で国民党と戦わされた時の焼き直しに見えた。
しかし日本とアメリカは遠く離れており、仮に経済制裁を受けたとしても石油は満州から得られるようになっているため、日本が挑発に乗る必要はなかった。
10月、アメリカ大統領選挙が近付き、日本への干渉が争点となり明暗を分けた。
あまりにもソ連寄りだった現職大統領は落選し、4選を逃してしまった。
本来なら対独戦争勝利で4選が確実視されていたが、ソ連に肩入れし過ぎてしまいそれが仇となってしまったのであった。
日本は米ソに挟撃されるという、最悪の状況を免れたのである。
現在のアメリカ海軍の艦艇数は、戦争直後という事もあり日本を大きく上回っていた。
主力艦である戦艦や空母も新鋭艦が揃っており、まともにぶつかれば日本海軍は危うかったのである。
危機を脱した日本だったが、ソ連との紛争は続いており、膠着状態でソ連軍に出血を強いていた。
やがて国共内戦で共産党が優勢となり、アメリカが国民党を支援しだすと日ソは再び停戦したのだった。
国共内戦は激化し、核兵器が使用され、国共内戦も停戦となる。
その後ソ連が核兵器を開発し、世界は冷戦時代へと入っていった。
日本はアメリカと同盟を結び、西側陣営に入った。
日本も核兵器を保有し、米英と歩調を合わせるように緩やかに発展していった。
日本は大陸の利権の関係上、日本海側に工業地帯が集中しており、人口も太平洋側よりも日本海側の方が多くなっていった。
四代目大鳳も近代化改修が行われ続け、現役を保ち続けた。
艦内には資料室があり、常に最新の情報が蓄積されていった。
2011年3月。東日本を大きな地震が襲い、巨大な津波が起きた。
四代目大鳳はこの津波に巻き込まれてしまい、消息不明となったのであった。
日本は全力で被災地の救助活動を行い、復興に取り組むのであった。
四代目大鳳の捜索も行われたが、行方はわからなかった。
日本はその後も米英との協調路線を貫き、ソ連とはやや険悪であるも、発展を続けていくのだった。
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IFルート1。米大統領4選目突入。日本への圧力を強めていき、どうにか対日参戦が容認されようとした頃、米大統領は体調不良で入院。4月に亡くなってしまう。その後日米の緊張は徐々に緩和していく。
IFルート2。1944年7月に、奇跡的に米国民の対日感情が悪化する事態が発生、米議会は戦争容認に傾き開戦へ。戦艦も空母もアメリカが上回っており、日本は窮地に立たされる。しかし、アメリカには機動部隊同士の戦いの戦訓がなく、日本には3代目大鳳の世界の戦訓があった。それが明暗を分け、日本艦隊大勝利。米大統領は選挙で落選し4選目を逃した。その後講和となり、この戦争自体が必要ないものだったとされ、元大統領の評価は地に落ちた。




