複雑怪奇な欧州に介入する
複雑怪奇な欧州に介入する
1939年5月より、日ソ間の国境紛争が始まった。
ノモンハン事件から端を発した紛争は、日ソ間の本格的戦闘に発展していった。
航空機と戦闘車両の数に勝るソ連軍に対し、日本軍は電探を用いた効果的な迎撃と携帯式対戦車擲弾発射器を大量投入し対抗した。携帯式対戦車擲弾発射器は、大鳳がもたらした設計図の中にあったパンツァーファウストの事である。
もちろん日本軍にも戦車はあったのだが、ソ連軍の戦車の数には劣っていた。
問題は補給であったが、ソ連の進攻に備え武器弾薬燃料は随所に備蓄されており、輜重も支那事変が解決しているため問題なく前線に届いていた。
消費量の多い携帯式対戦車擲弾発射器は優先的に輸送され、不足が出ないように配慮された。
日ソお互いに主張する国境線をめぐり、紛争は続いた。
ソ連は物量で押し、日本は効率的に防戦を行った。
日ソの紛争が続く中、独ソが不可侵条約を結んだ。
これに対し日本は劇的に反応し、ドイツが裏切ったとして喧伝し、日独防共協定の破棄とポーランドとの相互援助条約を結ぶと宣言した。
実際にそれは結ばれ、英仏はドイツを日本はソ連を牽制した。
1939年9月。ドイツがポーランドへ侵攻し、欧州で再び戦争が始まった。
半月後にはソ連もポーランドへ侵攻したため、日本はポーランドを援護するためと称し北樺太や沿海州へ軍を進めた。
しかし、同年10月にはポーランドは独ソに分割併合されてしまうのだった。
その間に日本は、北樺太・沿海州を占領し、さらに沿海州の北へと進軍していくのだった。
ソ連は日本に妨害されながらも同年11月にフィンランドへ進攻し、東と西で苦戦する事になる。
日本は、ソ連が冬戦争で苦戦している隙を付く形で、満州北部からオホーツク海へ伸びる線まで戦線を広げた。しかしそれ以上は進軍せず、後は防衛に徹するのだった。
日ソの戦いは、その後も続くが膠着し続けた。
そして1940年6月。フランスがドイツに敗れ、イギリスが窮地に陥っていった。
日英で交渉が持たれ、協力し合う事で合意した。
日本は最新の戦闘機である百式戦闘機鍾馗を供与し、イギリスは戦車の技術や満州での油田探査に協力する事になった。
鍾馗はバトル・オブ・ブリテンに間に合い、Bf109を上回る性能を見せイギリスを驚かせる事になった。
しかし、ドイツ海軍の通商破壊により届かない場合があった。
日本は、千歳型水上機母艦を複数義勇軍として送り込んだ。
千歳型水上機母艦に搭載された水上機は、電探と磁気探知機を搭載した水上偵察機瑞雲であった。
大鳳がもたらした設計図には瑞雲の物もあり、昼夜問わず対潜哨戒が出来る水上機として投入されたのだった。
義勇軍の瑞雲は、船団周辺海域や針路上の海域を昼夜問わず対潜哨戒し、潜望鏡を上げた潜水艦や潜航している潜水艦を徹底的に攻撃し、船団を護り抜いた。
この戦果にイギリス首相は歓喜し、満州での石油精製にも協力を申し出て、さらなる義勇軍の参加に期待を寄せた。
イギリスにしてみれば、最大の脅威であるUボートを押さえ込む対潜哨戒部隊が味方になったのである。
日英は協力関係を深めていき、日本へ対独参戦を要請するまでになっていった。
日本は対独参戦の要請に対して、ソ連と戦っているため難しいと回答していた。
ソ連と停戦するような事があれば、対独参戦の可能性があるとイギリスへは伝えていた。
1941年6月。ドイツが突如ソ連へ進攻した。
ソ連は日独に挟撃される形になり、窮地に陥ってしまう事になった。
日本はソ連に停戦交渉を持ちかけ、日本が現在占領している地域を日本へ割譲するならば、日本はソ連と中立条約を結び対独参戦する事を伝えた。
通常ならソ連が呑むはずの無い条件であったが、ソ連は追い込まれており極東ソ連軍を西へ向かわせる必要があったため、この条件を呑まざるを得なかった。
日ソ中立条約が締結され、日本は対独参戦を行うのだった。
しかし日ソ両国は、対独戦が終わるまでの条約だとお互いに認識していた。
日本は北樺太を併合し、沿海州含む大陸の割譲された地域には傀儡政権を樹立した。
満州含め大陸の傀儡国家は、ソ連の防波堤になってもらうため防衛力強化を行っていく事になった。
日本の対独参戦にイギリスは喜び、モスキート等のライセンス生産を日本に認めようとしたが、日本の工業力では造れないマーリンエンジン搭載機だったため断念された。
そこで日本は、木製航空機モスキートの製造に欠かせない、接着剤の技術を提供してもらう事にした。
木製のモスキートを参考に、日本も木製の双発夜間戦闘機月光の開発が試みられる事になった。
エンジンは誉を2基搭載し、その高馬力による高速性と、高い搭載能力による重武装、双発ゆえの長い航続距離が期待された。
日本は対独参戦後に、まず海軍を欧州へ送り出す事になった。
対潜哨戒における瑞雲の活躍から、瑞雲を多目に搭載できるよう巡洋艦を改装してきており、それら巡洋艦や空母に護衛される形で日本艦隊は欧州へ派遣された。
日本の機動部隊を中心とする遣欧艦隊は、主に地中海で活動していった。
東南アジア・インド洋・地中海は日本が主に担当し、イギリス海軍は戦力を欧州方面や大西洋へ主に集中させ、日本の対潜部隊もそれに加わっていった。
機動部隊の空母は、赤城、加賀、蒼龍型2隻、大鳳型2隻、雲龍型2隻が参加していた。内地には後4隻雲龍型がいたが、新型機の訓練に使われていた。
大鳳型空母や雲龍型空母は軍縮条約開け以降建造されており、雲龍型は12隻建造予定だった。
海軍艦艇の次に欧州へ向かったのは、陸海軍の航空隊であった。
陸軍は鍾馗と九九式襲撃機の数が多く、海軍の基地航空隊は九九式艦上戦闘機と零式陸上攻撃機の数が多かった。
液冷の九九式戦闘機は操縦者には好評な機体だったが、Bf109と外観が似ており誤認される恐れがあって、欧州へは送られなかった。
必然的に鍾馗ばかりになるのだが、操縦者の評判は賛否が分かれており、格闘戦ができる戦闘機を求める声が上がっていた。
一撃離脱戦法も格闘戦もこなす、万能戦闘機として二式戦闘機疾風が開発されており、1942年に正式採用になる予定であり待望視されていた。
海軍の新型機は、艦上戦闘機烈風と艦上攻撃機流星、そして艦上偵察機彩雲であった。
内地で訓練中であり、1942年には空母と共に欧州へ派遣予定であった。
日本陸軍も徐々にエジプト入りし、ドイツアフリカ軍団との戦闘を行っていった。
トブルクで防衛戦が行われ、日本機動部隊の援護もあり、ドイツアフリカ軍団に大打撃を与え追い返していった。
日本機動部隊がマルタ島周辺の制空権・制海権を確保している間に、マルタ島の補給が大々的に行われた。
これによりマルタ島を中心とする海域の制空権・制海権を日英は確保した。
ドイツ軍は東部戦線とアフリカ戦線で苦戦しており、特にアフリカ戦線では度々輸送船を沈められ、兵站が届かず劣勢となっていった。
ドイツアフリカ軍団は補給が断たれたため、リビアからチュニジアへ撤退していった。
1942年1月。アメリカが対独参戦し、日英米ソで連合国が形成された。
アメリカでは1941年6月よりドイツの非道が喧伝され始め、11月にはドイツが劣勢になっている事が盛んに報道され、アメリカの参戦機運を高めようとしていた。
あきらかにアメリカを参戦させるため英ソが扇動していると感じられ、特に独ソ戦が始まってからはそれが顕著であり、日本があのままソ連と戦争を継続していれば、ドイツと同盟を結んでいなくてもアメリカと戦争になる可能性があったと思われた。
冬将軍でドイツの攻勢が止まり逆に押され始め、アフリカ戦線でもドイツは日英に敗れた事から、勝ち馬に乗るなら今だとアメリカの民衆は煽られていた。
アメリカの世論が戦争容認に傾いていき、議会でも承認され、アメリカは対独参戦したのだった。
これで世界の海軍上位3位までが連合国として揃い、制海権は磐石な物となった。
陸軍もソ連が圧倒的に兵数が多く、その物量にドイツは押されていた。
ドイツは東部戦線とアフリカ戦線に兵力を割く状況なため、フランスが手薄と感じられた。
連合軍がイタリアへと上陸作戦をを仕掛ければ、イタリア方面にもドイツの兵力を誘引する事ができ、フランスへの上陸作戦を行う事が可能なのではないかと考えられた。
1942年2月、日本機動部隊は新たに雲龍型空母が4隻到着し、シチリア島への攻撃を強化していった。
日本機動部隊とマルタ島からの攻撃が強まり、連合軍のシチリア島上陸が近いと判断したドイツは、シチリア島の防衛強化のため増援を送り出した。
シチリア島上空では制空権をめぐる航空戦が行われ、ドイツの東部戦線から冬の間送られてきていた航空機は磨り減っていった。
日本機動部隊は主に新型機の烈風を大量に投入し、地上攻撃には陸軍の九九式襲撃機が用いられた。
時にドイツ空軍の反撃を食らい、前面に出ていた大鳳型空母が急降下爆撃を受ける事があったが、甲板の装甲が機能し弾き返していった。
シチリア島とチュニジアの間にある、バンテッレリーア島にも砲爆撃が加えられ、守備隊を弱体化させていった。
流れとしては、補給を終えた日本機動部隊がシチリア島を攻撃し、その後ついでにバンテッレリーア島も攻撃し、そしてまた補給を受けに下がるのを繰り返した。
3月にはアメリカ海軍も地中海に入り、ドイツアフリカ軍団の補給が厳しくなっていった。
制海権を確保した上で、米英軍はモロッコとアルジェリアへ上陸した。
チュニジアで孤立したドイツ軍は孤軍奮闘していたが、制海権を奪われているため補給が届く事はなかった。
4月、補給を断たれたドイツアフリカ軍団は、ついに降伏を選択した。
チュニジアを占領した連合軍は、さらにシチリア島への圧力を強めていった。
5月、弱体化していたバンテッレリーア島を占領し、シチリア島への上陸準備が整った。
6月。連合軍はフランスのノルマンディーに上陸した。
ドイツ軍は意表を突かれたが、連合軍に雪崩れ込まれるのは防ぎ、フランス国内で防衛線を引いた。
欧州戦線はついに第二戦線が構築され、ドイツは連合軍に挟撃される形となった。しかし日本軍は引き続きイタリア方面を任されたのであった。
何故か途中参加のアメリカ軍が、我々こそが解放軍の主役だといわんばかりの態度を取るのであった。
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