第二次マーシャル沖海戦
第二次マーシャル沖海戦
1943年12月。マーシャル諸島の二式飛行艇が、ハワイから出撃した米艦隊を発見した。
目標は再びマーシャル方面と見られ、前回同様迎え撃つべく日本艦隊は行動した。
マーシャル近海の島嶼や環礁に米攻撃隊が来襲。
基地航空隊は迎撃を行ったのだが、米軍機は全機同一の機体であり新型機であった。
護衛の機体と爆装の機体に分かれており、日本の迎撃機の数が多いと判ると一部の機体は爆装を解き空戦に参加した。
米軍の新型機は、艦上戦闘機F6Fであった。
護衛のF6Fが日本の迎撃機を押さえ込んでいる間に、爆装したF6Fが飛行場を爆撃していったのだった。
米機動部隊の位置は偵察により特定したが、その陣容は驚きであった。
厳重な輪形陣により空母は護られており、その空母のほとんどが小型空母であったのである。
1隻の搭載機数は少なくとも、数が集まれば脅威であった。
米海軍は正規空母は少なかったが、軽空母と護衛空母で艦載機数を補い、日本の機動部隊と同程度の艦載機を揃える事に成功したのであった。
日本の機動部隊は一次二次攻撃隊を送り出し、その段階で機動部隊は米偵察機に発見された。
米機動部隊も、日本機動部隊に攻撃隊を差し向けた。
マーシャル方面への攻撃はF6Fのみで行ったため、日本機動部隊への攻撃は全力で行えた。
日本の攻撃隊が米機動部隊へ近付くと、護衛の艦上戦闘機烈風を大きく上回る数のF6Fが出迎えた。
烈風がF6Fに拘束されている間に、艦上攻撃機流星へF6Fが襲い掛かり多くの損害が出てしまった。
それでも流星は米機動部隊に辿り着き、対空砲火を浴びながら空母を攻撃した。
急降下爆撃を行った流星は、輪形陣からの対空砲火にさらされ次々と打ち落とされていき、雷撃を行った流星も、ボフォース40mm機関砲等に絡め取られていった。
米艦隊の高角砲弾は最新兵器のVT信管であり、輪形陣を崩さず直接空母を狙った攻撃は自殺行為であった。
日本海軍は前回の海戦の戦訓を軽視した結果、直掩機の数が足りず攻撃隊はF6Fに撃墜され、輪形陣による濃密な援護射撃によって空母への直接攻撃は困難を極めたのであった。
それでも複数の米空母に損害を与える事に成功し、離着艦能力を奪った艦もあった。
しかし、軽空母や護衛空母の数が多すぎ、大した損害とはいえなかった。
日本の機動部隊にも米攻撃隊がせまり迎撃機を向かわせるが、護衛のF6Fが多く烈風は押さえ込まれてしまう。
日本の機動部隊は駆逐艦の数が足りず、輪形陣が不十分な状態で米艦爆艦攻の攻撃を受け、赤城・加賀・翔鶴・大鳳が急降下爆撃で被弾してしまう。その他の空母はどうにか回避運動に成功し難を逃れた。
大鳳は装甲が機能し、事なきを得た。
日本の攻撃隊が帰還し、その損害に司令部は驚く事になる。
戦果も少なく、現場からは護衛の戦闘機が足りないとの声が上がっていた。
目先の攻撃力に囚われ制空権を軽視し、戦闘機を増やさず攻撃機を重視した結果がこれであった。
今更後悔しても遅く、第三次攻撃隊が編成され、送り出されたのであった。
米機動部隊も攻撃隊を編成したが、烈風との戦闘でF6Fの損耗が高くなっており、護衛が心もとなかったが送り出した。
日本の第三次攻撃隊は、やはり米迎撃機よりも護衛の烈風が少なく、流星に被害が出てしまう。
それでも目標を絞り、輪形陣を乱す攻撃から開始し、どうにか米空母に攻撃を行えた。
結果は、複数の小型空母を撃破し、1隻の正規空母の離着艦能力を奪うので精一杯だった。
日本の機動部隊へ向かった米攻撃隊は、迎撃の烈風をF6Fで押さえ込み、複数の空母の離着艦能力を奪っていった。
烈風とF6Fはほぼ同数であったため、F6Fは撃墜される機体が続出した。
日本機動部隊は、三次に渡る米機動部隊攻撃で流星の損耗が高くなり、ほぼ攻撃能力を失ったに等しかった。
米機動部隊はF6Fこそ損害が多かったが、まだまだ余力があり、更なる攻撃隊を送り出す事にした。
日本の機動部隊は、立て直すためトラック方面に進路を向けていたのだが、更なる米攻撃隊の追撃を受ける事になった。
戦闘機の数はほぼ互角であり、烈風が優勢に戦いF6Fを落としていくが、その隙に米艦爆艦攻の攻撃を受け赤城・加賀が沈没し、さらに複数の空母が離着艦不能に陥ってしまった。
日本の機動部隊は艦戦の烈風はある程度残ってはいたが、戦艦部隊と機動部隊を十分護衛できるほどではなく、戦艦部隊の突入を行う事はできなかった。
艦攻の流星は再稼動可能な機体が僅かであり、機動部隊としての攻撃力は無きに等しく、撤退を決断する事になった。
第一次マーシャル沖海戦で、勝って兜の緒を緩めた日本海軍は、空母の性能も航空機の性能も練度すらも勝っていたのに、制空権と輪形陣を軽視したため敗北した。
もちろん警鐘を鳴らした者もいたが、慢心している上層部に無視された。
そもそもアメリカが格上の相手であるという事を忘れ、慢心と驕りから過小評価してしまっていたのである。
米機動部隊は一旦後退し、損失の多かったF6Fを補充した。
損傷した空母は修理に回し、陣容を整え再びマーシャル方面へ向かった。
マーシャル近海の島嶼や環礁は、米海軍に占領され前哨基地となっていった。
国力に勝るアメリカを相手に、今回の敗北は悔恨の極みであった。
日本海軍は立て直すべく、損傷した空母の修理を急ぎ、戦訓を生かし艦上戦闘機烈風を揃えた。
1944年2月には米機動部隊にトラック島を空襲され、日本は目に見えて劣勢になっていった。
しかし、どうにか挽回し時間を稼いでソ連を屈服させなければ、米英と講和するのは難しかった。
同年5月。ドイツはソ連を確実に追い詰めていた。
パルチザンに煩わされながらも進軍を続け、ついにソ連と講和交渉が始まるまでになった。
後一歩の所まで来ていたのであった。
6月。米英軍がノルマンディーに上陸。
ドイツ軍は東部戦線に注力していたため、手薄な所を突かれた形になった。
米英軍はフランスを開放し、ドイツ本土への侵攻を目指していくのだった。
そんな中、米艦隊はマリアナ諸島に来襲したのだった。
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