氷炎之華
【壱】
「姐御。準備整いました」
月夜に、黒ずくめの衣を纏った盗人達がずらり。
「…………」
城下町を一望できる高い屋根の上。部下からの言葉に、儂は頷き一つで返した。
宝暦元年、九月十五日。十五夜のこの夜に、お月様も丸々と肥えて光り輝いている。だがそれ以上の感想は湧いてこない。
「各自、三両分の金品を持ち出すことを目標とせよ。儂は手筈通りの順路で暴れるから、城の武士が手に負えん時は儂のところまで逃げ仰せ。助けてやる」
儂は再び部下達に目を向けると、淡々と今回の段取りを話した。最低限の仕事さえしてくれれば良い。期待以上の成果を出したところで褒めはしないし、期待に満たない者は斬り捨てるだけだ。
「では──開始」
儂の合図とともに、十名の部下達は散り散りに飛び去った。腕に自信のあるならず者を色々な藩からかき集めただけあって、どいつもこいつも超人的な運動能力である。
だが、いかなる超人も人には変わらない。
だから、本当に人間を辞めている者、最早人ではない者が、ここにいるとするならば。
「……お、おい、あれッ!!」
「出あえ出あえ!! "火狐"が来たぞッ!! 江戸で騒ぎを起こした大泥棒であるぞッ!!」
きっと、儂くらいのものだろう。
"火狐"それが儂の通り名だ。炎の覆面で顔を覆い、服も髪も燃え盛る妖怪のような女、ゆえに火狐と呼ばれるようになった。本当の名は、もう覚えていない。
「さっさと抜け!! 指名手配の罪人ならば、切り捨て御免である!!」
この藩を治める大名はえらく心配性で、夜中でもこうして数多くの武士が見張りをしている。故に、正門から堂々と侵入した儂は、かように容易く奴らの警戒の的となった。
「……燃えよ」
まあ、それが目的なのだが。
「ひいっ!? 馬鹿な……」
「この女、体が燃えてっ……ホラ話ではなかったのか!?」
残念ながら、ホラ話でも嘘話でもない。
特異体質というやつだ。儂の体温は八十度。本気を出せば、そこから千度にまで上げられる。
猿でも分かる言い方をするならば──儂の体は、着火する。
「炎に化ける人間など、どう斬れば……ぬあああああっ!?」
恐れ慄く武士達を、儂は燃ゆる拳で容赦無く殴り、焼いて投げ捨てる。そも、容赦する理由がない。運良く生き残れれば見逃してやるが、焼け死んでも知ったことではない。儂にとって重要な命は、儂の命ただ一つだけだ。他の全ての命は、"道具"か"敵"か、どちらかだ。
この城、江戸城と比べるとやはりずいぶん小さいな。おかげで燃やすのが楽だ。あちこちで響く武士達の罵声や女子供の悲鳴を聞き流しつつ、儂は金品が眠ると聞いた城の最上階を目指した。
「これは、屋上を突き破って上から侵入すべきだったか……」
「ぬおおっ!?」「う、うわあああああ!!」
「いやしかし、陽動ならばやはり正門から行くしかあるまい……儂が目立たねば部下達が動きにくいし」
「ぎゃあああああ!!」「お、の、れ…………」
「だが遠回りになってしまったのも事実か。面倒だな、集団戦というものは」
「ええい、死なば諸共おおおぉぉぉ……がはっ」
「だあもう、やかましいんじゃ主ら」
いちいち付き纏ってくる武士どもを一蹴しながら、儂は赤く燃え盛る城の中を──あぁ煙臭くてわずらわしい、誰じゃ火など付けおったのは──駆け抜けた。
「さて、ようやく一番上か」
確か、この城の最上階には千両の業物の刀があると聞いた。それを売れば部下どもも喜ぶだろうか。仕事上の付き合いである奴らが笑おうと泣こうと、儂の知ったことではないが。
「くちっ」
くしゃみをひとつかましつつ、儂は燃える手で襖を焼き破って、最上階をまっすぐに駆け抜けていく。
…………くしゃみ? 風邪など引けぬ、火の塊の儂が?
「ッ!?」
何かがおかしい。様子を見るべきだ。そういう思考が頭をよぎった。
だが、襖を開く手の方が早かった。最後の襖だけ何故か燃やすことができず、わざわざ引っ張って開けた儂の手の方が。
こういう時は次の一瞬に備えろ。あらゆる罠と攻撃を想定しろ。ここは戦場、何が起こるかわからない。
「…………心地よい」
五感全てを研ぎ澄まして、襖の向こうにあるものに備えた結果。
儂の口から出た感想は、それだった。
そして。
「…………ごきげんよう。随分熱くなっていらっしゃいますね」
他に見るべきもの、注視すべきもの、警戒すべきものがいくらでもあるのに。
襖の向こうから現れ、そう言った一人の女に、儂の視線は釘付けとなった。
真白い髪の、氷のような女に。
昔、アイヌの地で凍った湖を見たことがあった。青と白を内側に閉じ込めた、硝子のような美しい氷の大地を。景色が綺麗だと感じて心奪われた経験は、二十年の生涯でその時の一回きりだ。
彼女の瞳は、その湖に似て透き通っていた。そして瞳の向こうには、灰色に焦げた髪の醜い儂の姿が映っていた。
「煙のにおいが鼻に入って目を覚ましたのですが……あらあら。将軍様はご無事でしょうか」
火が燃え広がる灼熱の城の中で、白髪を長く伸ばした若い女は能天気に独り言を言った。えらく華美で高価そうな服を見るに、大名の家族だろうか──いや。あの大名に娘はいなかったはずだ。
「…………布団を片付けてさっさと逃げよ。ここはもうじき、城とは呼べなくなるぞ」
物思いから帰って来ると、儂は彼女にそう告げた。
……いや。敵に避難など勧める必要がどこにある。
「ありがとうございます。ただ、まずは下の火を鎮めなくては」
「下の……?」
その言葉で気がついた。会話と思考に夢中になっていた儂は、観察を疎かにしていたのだ。
儂がこの階に付けた火が、全て消えているではないか。
「な……何をした……!?」
儂の問いかけを無視して、女は床の畳に手を添え、目を閉じた。
「妙なことをするなッ!!」
儂はすぐさま、女の元へ駆け出した。こやつ、何か妙だ。ここで始末せざるを得ない。
その白髪を赤い焔で染めようと、儂は頭に手を伸ばした。
「業火よ、どうか鎮まりたまえ……!!」
──駄目だッ、勝てない!!
「くっ」
直感と反射で三歩下がった儂は、自分の本能が後退を選んだ理由をすぐに知ることとなった。
「……白い、花……?」
そこには、奇怪な現象がいくつか起きていた。
一つ。城の中だというのに、粉雪が舞っていた。
二つ。黒掲げた木の柱に、白く透き通った氷で出来た花が咲いていた。
三つ。それらの現象は、かの女が畳に伏せた両手を源としていた。
「雪女……?」
そう呼ぶのが相応しかった。儂と同じ、人の理を外れた者だから。
「ふぅ。あら」
ふいに畳から手を離した女の目が、儂と合った。
女は桜色の唇で、ふって微笑むと。
「女の子でしたか。可愛らしいお顔ですね」
水のような透明に響く声で、囁くように儂にそう言った。
「!!」
その一言だけで察した。というか、気が付いた。あぁまただ、また気付くのが遅れた。
儂の体の火が消えている。城を焼くのに使った両手の火も、覆面の代わりに顔と髪を覆っていた火も。
「ッ……!」
顔が知られるのはまずい。儂は踵を返すと、部屋の障子を突き破って隣の部屋へ飛び込んだ。
「よし、これだけ頂いて……」
目当ての業物の刀は、偶然その部屋にあった。儂は刀を取り上げて握りしめると、そのままその先の襖へと更に飛び込んだ。
その先に──よし、壁が燃え尽きて穴になったところがある。儂はそこから脱出し、下にあった瓦の屋根に着地した。
「あ、姐御!? どうしました!?」
「撤退だ! 緊急事態につき撤退! 皆に伝えておけ!」
たまたま下にいた部下にそう告げると、儂は再び走り出した。あの女のせいか、どうも上手く体を再点火出来ない。燃えていない時の儂の身体能力は人並みに戻るので、このままでは武士達に斬り殺される。ゆえに、逃げ一択だ。
頭のくせに真っ先に逃げて、と彼らに思われるだろうが、知ったことではない。儂以外の命など知らぬ。儂以外の人間に興味は無い。
「…………興味は無い、はずだろ」
自分に言い聞かせながら、儂は瞬きするたびに、何故かまぶたの裏で思い出してしまっていた。
あの女の微笑みを。
【弍】
夜明け前、儂らは拠点である山中の隠れ家に帰って来た。
「おーいもっとじゃ! もっと酒寄越せい!」
「はっはっは、今回も稼げたのう! かように美味い酒が呑めるなら、人の道を外れるのも悪くないわい!」
城の武士達を無事に振り切り、此度の火事場泥棒も儂らの完勝。十三の時に家出してこの稼業を始めたから、今年でもう七年。大分慣れてきたというものだ。
かくして、儂らは家の広間で祝いの酒を交わしていた。このまま朝まで呑んで、そして昼まで寝過ごすのだろう。まあ、儂は酒抜きで飯だけだが。ただでさえ熱い体が、さらに火照っては堪らん。
「姐御! ささ、一杯どうですかいっ!」
「や、儂は……」
新入りの下っ端が一人、横から這い寄って来て儂に酒壺を寄越してきた。
「んで、よければ自分と今夜……」
顔は悪くないが品のない新入りの男は、早くも泥酔気味のようだ。気持ち悪い所作で儂に擦り寄り、あろうことか儂の肩に頰をすり寄せてきおった。防火の袴の上を脱いで、さらし一枚になっていた儂も悪いかもしれぬが。
「……っ、熱っつ!?」
ともかく、百度近い儂の肌に触れれば、当然そうなるわけで。
「う、うつけ者! 姐御に触れてはならぬと言ったではないか!」
「う、うぅっ……」
盛り上がっていた宴は一気に静まり返り、火傷を負った男の身を案じて部下達が集まってきた。儂はというと、別段何もしない。儂が男の元へ近寄って何か施した途端、事態は悪化するだろうから。
「……無類の強さは頼りになるが、やはりこれでは……」
集まった部下達の中に、そんなことを呟く者がいた。聞こえていないと思っているのだろうが、あいにく儂は耳が良い。
「……興が覚めた。寝る」
だが、別に失言を咎める気も無い。儂はそれだけ言うと立ち上がり、広間の出口へと足を運んだ。
「身を案ずるそぶりも見せぬな……やはり、心すら既に燃え尽きておるのか」
その独り言も聞こえておるわ。
「………………はぁ」
数分歩いて移動した後、儂はため息と共に、自室の畳の上に寝転がった。そういえば、この防火畳にもだいぶ金を吸われたな。普通に生活するだけで一苦労だ。
疲れただけだ。別に先の言葉が効いたわけではない。儂と奴らは双方の利益のために徒党を組んでいるだけ。仲間ではない。ゆえに裏で何と思われていようと、儂の知ったことではない。
「寝よう」
飲み込もうとしても、飲み込みきれなかった不満の欠片。それを無理やり闇に沈めるように、儂は目を閉じた。
意識は、すぐに溶けて無くなった。
【参】
昔の夢を見た。強盗になる前の頃の夢を。
貧乏でも富豪でもない、小さな農村の娘。かつての儂は、ただそれだけの存在だった。
「水だ!! もっと水を持って来んかい!!」
「クソッ、駄目だ!! とても消火できぬぞ!!」
その日、儂の家が火事になった。両親が近所の仲間に呼ばれ、幼い儂を家に残して数分だけ外出した際に、囲炉裏の火が近くの藁に燃え移って、それからあっという間に真っ赤な地獄が出来上がった。
「⬛︎⬛︎⬛︎!! あぁ、⬛︎⬛︎⬛︎ぉ!!」
「よせ旦那!! 娘はもう助からねえよ!!
「離せぇ!!」
外の叫び声が、微かに聞こえて来る。儂の名を呼んでおる。
「……お……かぁ、お…………とぉ」
儂はその声のする方へ、灼熱の苦しみに涙をこぼしながら這い進んだ。
「…………あぁ!! あなた、⬛︎⬛︎⬛︎が!!」
「⬛︎⬛︎⬛︎!! ほら、こっちに!!」
「うああああ……おとお……おかあ!!」
「ああ、よく頑張った……!!」
「おとお!!」
奇跡だ。何故か焼死も窒息死もしなかった儂は、炎の向こうで待っていた両親目掛けて、一目散に駆け出した。熱い、痛い、助けて、と。
幼子にとって、最も心安らぐ場所──父の胸の中へと、儂は鼻水を垂らしながら飛び込んで。
「………………うわああああああああああッ!?」
その身に火を付けた。
「え?」
「あああああああっ……がっ、ひ」
詳細な様相など覚えていない。ただ確かなのは、儂と触れ合った父が焼け死んだことだ。
あの家の火の中で、儂は化け物になったのだ。熱いのも痛いのも、原因は儂自身だった。
「お、おかあ──」
「きゃああああああ!!! ひっ、く、来るなぁ!!!」
母は優しかった。仕立ててもらった美しい茜色の服を、その日のうちに泥まみれにした時も、困った顔をしながら笑ってくれた。"また織れば良いから"と。
そんな母が、恐怖と憎しみの混じった、鬼を見るような顔で儂を睨んでいた。まだ七つだった、親にすがるしかない幼子の儂を。
「妖怪だ!! 焼け死んだ娘が妖怪に化けたぞ!!」
「違っ……おらは生きてる! 生きて──」
「だっ、黙れぇ!!」
「ひっ……! うああ!!」
村の男の一人が、鉄槍を構えて儂に向かってきた。ひたすらに錯乱していた儂は、泣きじゃくりながら、何故かその男の胸ぐらに飛びかかった。
「ぐおっ!? がああああっ!!」
そうしてまた一人、燃えた。
「ああぁ……違う……みんな、助けて……!!」
儂はもう、どうすることも出来なかった。だから助けを求めて、村のみんなに視線を向けた。
「……あっ」
昨日まで、温かい目で儂を見守ってくれていた大人達は。
「……いいか、一斉にかかるぞ。ここで殺さなくては」
おのおの武器を構えて、不幸な災いに見舞われた子供の息の根を止めようと、儂を取り囲んで憎しみと嫌悪の眼光を向けていた。
「助けて……おら、わるいこと、してない……」
「黙れっ、黙れ黙れ!! 化け物が、死ねぇッ!!」
「嫌ぁぁ……!!」
昨日、菓子をくれた人参農家の妻も。今朝、一緒にとんぼを追いかけて遊んでくれた、小作人の若い男も。
今まで儂と仲の良かった大人達が、一斉に儂に刃を向けてきた。
死ね、消えろと、呪詛を吐きながら。
儂も被害者だということに、誰一人として気づかずに。
(しにたく、ない……いきたいっ……!!)
儂の胸中には、その想いだけがあった。
どうしたら生きられる? どうしたら切り抜けられる? 1秒にも満たない刹那の中、儂の思考は高速で回転し。
そして、数分前の記憶の中に答えを見つけた。
「……そっか。殺せば、殺されない」
周囲の全員に憎まれて、世界の全てが敵になって。
結果、儂をまともな人道に引き止めるものは、何も無くなった。
そうだ。世界が狂っているのなら、儂も狂っていいではないか。
「ぐああああああ!!!」
「ひぃぃ!!ああああっ……」
それからは、あっという間だった。
触れる、火が付く、その繰り返し。母が囲炉裏に火を灯していた時のように。父がかまどの火を焚いていた時のように。儂も、人身をひとつずつ焼いた。罪悪感など無かった。儂以外の人間は全て敵なのだ、申し訳なさなどどこにある──そう思っていたから。
そうして、やがて村人数十人を殺戮して。
「……はぁ。おなか、すいたな」
満足感と共に、最後に道端で儂が漏らした感想は、子供らしいそんな言葉だった。
食膳を囲む我が家は、もうどこにも無いのに。
【四】
翌朝、城下町はざわめいていた。城が一夜にして燃え、半壊したのだ。それも当然だろう。
「バチというやつかのう……昨晩の悪夢は」
「ん? お嬢さん、なんか言ったか?」
「いや」
それはさておき、儂は独り、町の茶屋で一服していた。普段は全身燃えているおかげで、知名度の割に容姿が知られていないので、昼間はこうして、防火袴一丁で堂々と出かけられるのだ。
ちなみにこいつは特注品で、内側を冷却して儂の異常な体温をある程度誤魔化すことができる作り。まあ、手で直接人に触れた際には、やはり火傷を負わせてしまうのだが。
ともかく、儂は極悪人の烙印を押されながらも、今日も茶屋の外の椅子に腰掛け、堂々と団子を嗜むのだった。
そうして昼間は優雅に過ごし、夜はまた盗みを働く。子供の頃から続けてきた、単純で単調な暮らし。今日もそんな風に、予定調和のように時間が流れていく。
「お隣、よろしいですか?」
「ん? ああ。じゃが近寄るなよ」
はずだったのに。
「お久しぶりです」
「久し、ぶり……?」
隣に座った女の声に反応して、儂は地面の蟻を眺めていた視線をそちらへ移した。
「え?」
「ふふっ」
一瞬、心臓が凍りかけた。
なんで? 何故、あの女がここに……!? 何故、儂の顔を……そうだ、こやつには顔を見られている!!
「くっ」
「あっ、お待ちください!」
儂は一目散に駆け出して、狭い路地裏へと飛び込んだ。
「どぉっ!?」
そして、何かを踏んづけて盛大に横転した。
「おっとと……捕まえました!」
日陰で仰向けになった儂の視界に、悪戯するようなしたり顔で飛び込んでくる、あの女の姿が映った。
「は、離せっ!! 燃え、あっ……いや、何でもないが、とにかく離せ!!」
つ、捕まった……まずい、儂もだがこやつもまずい! 燃えるぞ! だが、それを言えば他の民衆にも儂の正体が……いや、でも離れさせなければ、こやつ今にも……!!
「……燃え、てない?」
燃えていない。この女、燃えていない。それどころか、火傷すら負っている気配が無い。儂とこんなにも触れ合っているのに。
「なんで、儂に触れて……」
「やっぱり! 誰かと触れ合えるの、久しぶりですっ」
こちらは困惑を隠せぬというのに、奴は満足げによく分からぬことを言いおった。
「おい! お前らどうかしたか?」
「やばばっ」
矢継ぎ早に、儂がさっきいた路地から、民衆の騒ぐ声が聞こえてきた。きっと様子を見ようと、すぐにこちらにやって来るだろう。
それを察したのか、それとも気づいていないのか──ともかく、女は儂の手を取ったまま、急に立ち上がった。
「とりあえず、隠れましょうか」
「は? いや、だから離せっ……」
女に手を引かれ、儂は細い路地を半ば転びながら走り進んだ。
燃えろ、燃えればこんな女の腕力など振り解いて……ああくそ、また体に点火できぬぞ!?
「……ふぅ。振り切れたでしょうか?」
民衆の足音が遠くなったのと共に、女はそう呟いた。
「良いから、離せこのっ!!」
「駄目ですよ。わたくしの運命の相手だもの、手放すわけにはいきませんとも」
くそっ、女同士なのに振り切れぬ……こやつ、長身だから力が強いのか!? 儂も背丈が低い方だし!
「…………あぁ、分かった。儂を大名に差し出して処刑するんじゃろ。好きにせい」
諦め(るふりをし)て、儂は女にそう告げた。駄弁って逃げ出す隙でも探すか。
だが、女はきょとんとしてこちらを見つめてきた。何できょとんとしとるんじゃ。「お」の口でこっち見るな。
「違いますよ。少しお話がしたくて」
「話……? というかお主、運命って何の話じゃ」
そうだ、聞き流すところだった。勝手に運命を感じられてても困る。
「昨日お見せしましたよね? わたくしの異能を」
「異能……あっ」
そうだ、昨日見た。そして、今まさに目撃している。
この女、ただ火傷しないというだけではない。
握り合っている儂の手も、なんだか冷えてきた。冷えるなんて、十数年振りだ。
こやつ、随分と冷たいのだ。
「なんだか、生まれつき手が冷たいようでして。氷のようなこの身を、この地の大名様に気に入っていただけて、平民の出ながらお側に置いて頂けているんです」
まあ、分からなくはない。この女自身もさることながら、手で作り出したあの真白い花も美しかった。気に入る奴は気に入るだろう。
「実家に仕送りを頂けて、わたくしも裕福な生活をさせて頂いているのですが……やはり皆さん、冷たいわたくしとは、握手や抱擁を交わすことは出来なくて。でも、あなたの燃える体を見た時、もしかしてと思ったのです」
それじゃ、主の親は主を売って──いや、やめておこう。
「触れるかも、と? お互いに」
代わりに、儂は質問を投げかけた。
「はい! お互い、この世で唯一手を触れ合える存在。お互いを補い合える、二人で一つの存在。そんなの、運命じゃありませんか」
儂の問いかけに、彼女は頷き返した。
「氷華と申します。あなたは?」
「……カコ」
"火狐"の読み方を変えて、かこ。いつも使っている偽名だ。
「もう良いか? 行くぞ」
馬鹿馬鹿しい、何が運命か。そも、儂は運命という言葉は嫌いだ。
問いかけたくなるから。この世に不可避の運命があるというのなら、儂は最初からこうなるために生まれてきたのか──と。
「ああっカコさん、もう少しだけ!」
「ちょ……だ、抱きつくな阿呆!」
踵を返そうとした儂の身を、氷華はぐっと抱き寄せた。髪か服に何か付けているのか、花のような良い香りが──って、呑気に嗅いでおる場合か!
「どけ! 鬱陶しいんじゃ!!」
「あっ…………はい」
……急に容易く手離しおった。両手に普段の体温が戻ってきたのを感じながら、儂は氷華の方を再び振り返る。
「げっ……」
「……そう、ですよね……こんなに人と触れ合えたこと、無かったから……ごめんなさい、わたくし……っ」
「あー、な、泣くな泣くな!」
くそっ、騒いで泣いて、情緒がどうかしておる! 面倒臭い!
「分かった、抱きしめて良い! じゃが満足したらすぐ離せ!」
……え。儂は今、何と言った。
「やったあ! カコさんっ!」
「っ……」
考える間もなく、凍てついた抱擁が再び儂を包んだ。
冷たい。だけど、ああ。だんだんと涼しくなって、暖かくなって、心地良くなって。
「…………馬鹿な」
そんなはずはない。儂が、そんなこと。この世に生きる他者は皆、道具か敵かどちらかだ。七つの幼子の頃に、すでにこの身で思い知ったことだ。
ゆえに、刹那の気の迷いだとしても、そんなのありえないはずなのだ。
「離れたくない」という感情を抱くなど。
他者と交わることを、こうも心地良く感じるなど。
「カコさん、温かいですね。ぽかぽかします」
「主の氷は、儂の火を鎮めてくれるな」
氷華の腕の中で、この身が冷える。何故だか落ち着く。それなのに、何故だが胸の鼓動は高まっていく。
何より──間近に迫った氷湖の瞳を、何故だか儂はまっすぐ見つめていられない。
「……はい、満足しました! ありがとうございますっ」
「あ……」
「あ、って……えっ!? カコちゃん、もしかしてまだ──」
「違っ、違う! 黙れ! あとしれっとちゃんと呼ぶな!」
ぱーっと笑顔になりおって。もう付き合っていられるか。儂は今度こそ踵を返して、表通りへと歩き出した。
【伍】
「カコちゃん、またいつでも言ってください。いつでも大歓迎ですよ」
「何がじゃ! 知るか!」
などと言い争っているうち、儂らはすぐに表に帰ってきた。民衆は先刻の騒ぎなどとうに忘れて、またおのおの歓談していた。
「というかお主、大名に叱られぬのか? 無断で勝手にほっつき歩いているのだろう、その感じだと」
「名探偵ですね! 大名様、今日はうちの実家に挨拶にいらしているそうなので大丈夫です。わたくしは実家にはこの前帰ったばかりなので、同行せずに留守番するふりをして、こっそり出かけてしまおう、と」
「意外とはっちゃけるな、主も……」
大名は不在。警護の武士達も、きっと城を建て直すのに忙しいのだろう。結果、大名のお気に入りの芸術品が、化粧箱から抜け出してこの通り、と。
「とにかく、良かったです。お友達になれて」
「なった覚えなどないわ」
儂は言い捨てると、大名の城の真反対の方角へ歩いた。こやつが城で暮らしているのなら──そういえばこやつ、自宅を燃やした儂とよく友達になろうと思ったな──、そこから延々と離れていけば、いつか諦めてうちに帰ってくれるだろう。
「あーっ、氷華ちゃん!」
ほれ、道の向こうから、儂を助けるように小さな子供が駆けて来て──氷華ちゃん?
「主の知り合いか?」
「町の子供達とは、仲良くさせて頂いておりまして。こんにちは、ののちゃん」
のの、と呼ばれた少女は、しゃがみ込んだ氷華と目が合うと、にっと無邪気に微笑んだ。
「あ! あのね、前作ってくれた氷猫、溶けちゃって……どうしよう」
氷猫……?
「はい、大丈夫ですよ。また作ってあげます。今度は親子にしましょうか」
状況が飲み込めないが、どうやら何か作るらしい。氷華は手のひらを上に向けて両手を合わせると、その手の上に冷気を集中させた。
「お耳を作って……尻尾はこうで……」
彼女の手の中で、空気が凍りついて氷の結晶になっていく。そして増幅し、形を変えて、四足歩行の動物になっていく。
「わーっ……!」
その様子を、ののは目を輝かせて眺めている。
ああ、まるで姉妹だ。
「はい、出来ました。日陰に置いて、大切にしてくださいね」
そんなことを儂が考えているうちに、あっという間に真っ白な猫の氷像が、大小二匹出来上がっていた。
「わーいっ! ありがとー、氷華ちゃんっ!」
ののは二つの氷像を受け取ると、浮き足だってくるくると踊り始めた。ああ、そんなに有頂天でいたら──。
「あっ」
「おまっ、阿呆が!」
言わんこっちゃない、滑らせて落としおった! 石畳に落ちれば割れる!
儂は周囲にバレない程度に体に着火して、体の瞬発力を上げると、すぐさま地面に体を滑り込ませ、落下する氷像に手を伸ばした。届、届っ……
「届いたっ!」
届いた。両方とも、しかとこの手に握りしめた。
「よし…………あっ」
しまった。何をやっている、儂は。
握りしめた手のひらにはもう、溶けて地面に滴る水しかないではないか。
「あっ……うわあああああああ!!」
途端に町に響く、甲高くやかましい子供の泣き声。
「の、ののちゃん落ち着いて! 大丈夫、また作りますから……!」
地に伏し、擦りむいた膝に痛みを感じながら、儂は泣き声と氷華の言葉を聞き。
「おい、氷が一瞬で溶けたぞ!?」
「氷華様の氷像、いつも1ヶ月は溶けずに残り続けるのに……」
「な、なんか昨晩の火事って、体の燃える妖女の仕業だって……まさか……!」
「!」
その外側から聞こえて来るボヤ騒ぎを小耳に挟むと、反射的に一瞬で立ち上がった。
「待って、カコちゃん!」
「悪かった。儂は少々思い上がっていた。じゃあな」
最後に告げた言葉は、それだけ。
【淕】
夜、帰路に着いた。追って来るものはいなかった。氷華も振り切ることができた。
「遅かったですね、姐御。今夜の仕事ですが──」
「知らん、主らだけで勝手にやれ」
ぶっきらぼうに部下達に言い返しながら、儂は淡々と隠れ家の自室へ向かった。
「……ふぅ」
自室に着くと、儂はすぐさま襖を閉めて、防火畳の上に寝転がった。
部屋というものは良い。締め切ってしまえば、そこはもう他者の介入しない、儂一人の世界になる。何も煩わしく思う必要は無い。だから好きだ。
「……そうだ。それで良いのだ」
思い上がっていた。雪女の甘い言葉と、心地よい抱擁に騙されて、勘違いしかけていた。
儂は人間じゃない。儂は火だ。火が人と交わろうとするなど、あってはならないのだ。生まれた時から今日まで、そして未来永劫、儂は孤独を運命付けられているのだ。
異能同士、仲間意識を抱いてしまった。氷華と儂は似ていると、少しだけ思ってしまった。とんでもない。
氷で何かを作れる彼女と、炎で破壊することしかできない儂は違う。
優しく凛として人に好かれる彼女と、恨み憎み合って人を傷つける儂は違う。
愛される華と、忌み嫌われる炎は、全くの正反対だ。
救われたいと、変わりたいと、願ってしまった。とんでもない。
壊して奪うだけの災いが、どうして誰かに救われようか。
「…………生きてはいかんのだな、儂は」
ああ、体が酷く熱い。体温はいつも通りなのに、なまじさっきまでが心地良かったせいで、今は余計に熱く感じる。
ああくそ。なんだか思考が重くて鈍い。油断したら、このまま溶けて死にそうだ。
「……氷華」
朦朧としつつある意識の中、儂は無意識にその名を呼んでいた。心が押しつぶされるような重圧の中で、脳裏にふとよぎったのが、彼女の笑顔だった。
……ああ、きっとそうだ。
こんな体になって、全てが手遅れになって、儂の人生はもう詰んでいるというのに。
儂は今更、人に惚れたのだ。あの氷の華に、心惹かれてしまったのだ。
儂はまだ、人肌が恋しい。そして、まだ人でありたいのだ。
今更、変わりたいと願っているのだ、儂は。
「姐御。今、よろしいですか。報告したいことが」
邪魔だ。人の感傷を遮りおって。
「………………」
「姐御?」
「……………………そこで言え」
儂の声、涙ぐんでいなかったか。
「はい、では」
襖の向こうから、部下が膝をつくような音が聞こえた。
「城下町全土が、凍りつきました」
「…………は?」
思わず儂は立ち上がった。凍り……凍りついた? 9月のこの季節に、本州の藩の城下町が?
「城も町も氷漬けになり、民衆の中には氷に足を取られて逃げられぬ者もいるそうです」
「何故じゃ? 何が起きた?」
答えは何となく察しているのに、儂はわざわざ部下に聞き返した。
「それが……昨晩あの城にいた女。あの女が犯人だと、町では噂に……詳しいことは、現在調査中です」
「分かった、そこをどけ」
「? は、はぁ」
直後、儂は両足に炎を纏った。そして、強化された右足で襖を突き破り。
「ちょおおおおおおおッ!?」
「やかましい」
驚愕する部下に一言告げると、そのまま隠れ家の壁を蹴り破った。
「…………行って、どうする気だ」
山火事にならん程度に火力を抑えつつ、夜の山を駆け、自問自答。否、答えが出ていないから自問不答か。
儂は何故駆け出した。駆け出して、彼女に会って、そして何をする。何ができる。壊すしか能のないお前に。
「……やかましいと、言っとるじゃろうが……!!」
知るものか。理屈など無い。この世が理屈で動いていたなら、儂がこんな理不尽な運命を押し付けられるはずがない。
この世は理不尽で狂っている。だから、理屈など必要無い。理に従う気など毛頭無い。
ただ会いたいから、会いに行くのだ。
【七】
「こりゃ、凄まじいな……!!」
町に着くや否や、儂はそんな着飾らぬ感想を呟いた。
町の端から端まで、地表が氷に包まれている。まるで、硝子の中に閉じ込められた立体模型のように。
だが、月光に照らされて鏡のように透き通った氷点下の大地は、同時に煌びやかでもあり。
「……どこまでも美しいな。嫉妬が止まらんよ」
自分とは対照的な創造的な芸術を、儂はそんな言葉で賞賛した。
「っ……寒いな」
九月とは思えん寒気だ。吹雪でも吹かせる気か。それに床が滑って煩わしい。
「くそ、うまく足に火が付かん……痛っ!?」
走り、滑り、転び、痛む。それでもまた立ち上がり、また走ってまた転ぶ。
「……ははっ。六歳の時の、川が凍った一月を思い出すな」
そんな道筋は、酷く面倒で煩わしいのに。
何故か儂の顔には、笑みが浮かんでいた。
「くそ、動けない!! 誰かぁ!!」
「屋根だぁ!! みんな屋根に逃げろぉ!!」
「ははっ! 氷華め、儂と遊びたいのか!?」
中央へ向かうにつれ、悲鳴を上げて逃げ惑う民衆が増えて来た。儂は彼らとすれ違いながら、彼らとは逆方向、町の中心の城へと、下手くそな滑走で駆けて行く。自意識過剰な独り言と共に。
「……む」
「あ……ああ、おい、そこのお前!!」
その言葉に、儂はふと足を止めた。
言葉の主、小太りでまげを結ったその男に、見覚えがあったから。
「大名……様。如何なさいましたか」
「お主、どこかで見覚えが……いや、まあいい! 見ての通り足が凍っておるのじゃ!! さっさと助けい!!」
大名だ。何故か一人でいる。家臣達はどこかで凍ってしまったのだろうか。
「なるほど……では、その前に質問をよろしいですか?」
「な、なんじゃ!? 早よ言え、早よ! そして早よ助けろ!」
意外と聞き分けが良いな──思いながら、儂はゆっくりと大名に近寄った。
「単刀直入に聞きます。この凍結の原因は、大名様がお城に置いている白髪の女の仕業ですね? 何故こうなったのです?」
「そ、そうじゃ! 氷華が原因じゃ! 奴め、少し灸を据えただけでかような謀反を起こしおって!!」
「お灸……?」
「ああ! 先日の火事、あれは火の妖女の仕業じゃ! 火を操る女など、氷を操るあやつと関わりがあるに違いない! 氷華の奴が、あの火の妖女をこの城に呼び寄せたのじゃ! 儂を騙しておったのじゃあ!!」
「何を……」
戯言にも限度がある。全てこやつの妄想ではないか。
「じゃから、二度と私に迷惑をかけぬよう、はっきりと力関係を示してやったのじゃ! 見せしめに殺した! 奴の父母を!」
「……え?」
「そうしたら奴め、怒り狂って泣き叫びおって……そしてこのザマじゃ! くそっ、昨日は火事、今日は氷……うぅっ、私が何をしたというのだぁ……!!」
「チッ、死ね!」
「ぐふっ!?」
動けない大名の腹を、儂は思い切り殴りつけた。
そして、それ以上は何も話さなかった。話したくもなかった。
「……氷華……」
この世は、儂以外の全てが敵。だけどそれは、儂にとっての世の理だ。氷華には、きちんと大切な友がいて、愛すべき両親がいた。それが彼女の当たり前なのだ。
彼女は、そんな当たり前を奪われたのだ。儂と出会ってしまったせいで。
両親を殺したのはあの大名だが、その原因は儂にある。儂が、彼女の当たり前を奪った。
「…………それでも、だからこそッ!!」
だからこそ、儂は彼女に会わねばならぬ。
それで過ぎたことが変わるわけではない。儂が変われるわけでも、救われるわけでもない。儂は、罪を重ねすぎたから。
だけど、彼女の未来をほんの少しだけ、変えられるのなら。
「氷華ッ!!」
「…………カコ、ちゃん」
そうして、儂は彼女の前に立った。
【捌】
ああくそ、本当に美しいな。認めよう、儂の一目惚れじゃ。
百合に、桜に、鳳仙花。数多の氷の花畑。
彼女は、全身に氷の華を咲かせて、そこに佇んでいた。足元はすでに凍りつき、民衆同様、動けなくなっていた。
「聞いたぞ。両親が死んだこと」
「……そう、ですか」
片目が華で塞がった彼女は、右目だけで儂を見ながら呟いた。
「勇敢な父も、優しい母も好きでした。わたくしの力を嫌わず、美しいと褒めてくれました。大名様の家に行った時も、売られただなんて思わなかった。わたくしだけの特技で両親に恩返しが出来て、嬉しかった」
「ああ。主は良いことをした。主は正しい。儂が、それを──」
「だけど、わたくしのせいで全て終わりました」
「違う! 主のせいではない!」
「わたくしのせいです。わたくしがこんな体に生まれたせいで、両親は亡くなった。みんなに求められるまま微笑んで、氷像を作って……そうして受動的に生きてきたわたくしは、何も出来なかった」
「……だったら、この氷はなんだ。全てを凍てつかせて、主は何がしたいのだ」
「あなたに、会いたかったから」
は?
「死ぬつもりでした。でも、最期にあなたに会いたくなってしまった。火事場泥棒なら、事件を起こしたら来てくれるかと思って」
儂に会いたい? それだけで、ここまでしたのか?
「きっと迷惑でしょうけど……きっと、一目惚れしたのです。あなたが咲かす、焔の華に」
「え……」
「その手で自らの道を切り拓くあなたの姿に、わたくしは心惹かれたのです。だから、お会いしたかったのです」
だけど──彼女はそう続けて。
「時間切れです。ご覧の通り、もうすぐわたくしは眠ります。わたくしの力を全てを使って、この大寒波を起こしましたから。これからカコちゃんが全ての氷を焼き溶かしたとしても、わたくしは力尽きるでしょう。わたくしは厄災をばら撒く雪女としてこの世から消え、地獄に落ちます」
そう語って。
「何かの間違いで、愛されてしまいましたが……きっとわたくしは、生きるべきではなかったのですから」
最期に、哀しげに微笑んだ。
「……そうか。よく分かった」
よく分かったさ。
彼女は、大うつけだと。
「うああああああああ!!」
「ッ……!?」
儂は両手足に炎を宿した。この寒波の中では着火できないはずだが、それでも無理やり火をつけた。加減をしくじっていつも以上に痛いが、もう気にするものか。
儂は氷を溶かしながら走り、凍てついた氷華の体に両手を突いた。
「間違いだと!? 主が愛されたのが──儂が主に惚れたのが、間違いだと!? 違う!! 主はな、愛されるべくして愛されたのだ!!」
「違う……違う! わたくしは、この力で両親を殺して──」
「殺してない!! 主は誰も傷つけてなどいない!! 主は儂とは違う!! 自分のために力を使わなかった!! 両親のために!! 子供達のために!! 間違いなどではない!! 主が人を愛したから、人は主を愛したのだ!! 主は誇るべき人生を生きてきたのだ!!」
儂はろくでなしだ。儂は救われるべき人間ではない。
「本当は生きたいのだろう!? 未練があるのだろう!? だからこんな回りくどいことをしてでも、儂に会いたかったのだろう!? ありがとうなァ!!」
だけど、こんなろくでなしを抱きしめてくれた彼女の選択は、誰にも過ちだなどとは言わせない。
だから、彼女は救われなければならない。儂が救わねばならない。
「逃げるな!! この世の苦痛から目を逸らすな!!」
「でも、でもっ……!」
「儂は逃げなかった!! どれだけこの世が地獄でも、儂なりに精一杯生きてきた!! だから、主と出会えた!!」
ああくそ、指が凍りついて──負けるかッ!!
「そん、な……火なんて、付くはずない気温なのに……」
「くくっ、悪いが人を辞めておるからな。人の作った物差しで、儂の火を測れると思うな」
ようやく、儂の温度が氷華を上回った。白い湯気を上げながら、灼熱の両手が彼女の纏う絶氷を溶かしていった。
「二十年、誰も愛せなかった儂が、ただ一人惚れた女に捧げる灯火じゃ!! そんじょそこらのノロケと一緒にするなァ!!」
届く。届かせる。繋いでみせる。
「死ぬな、とは言えんさ!! 散々人を殺して来た儂に、それを言う資格は無い……だが、後悔の残る道を選ぶな!! そしてッ!!」
硝子が砕けるように。鏡を叩き割るように。
彼女を閉じ込める氷を、儂は急速な発熱で粉々に壊した。
「…………苦しいなら、もっと素直に儂を頼れ。二人で一つと言ったのは、主じゃろうが」
ああ、氷を割ってしまったのは失策だったか。
儂が、今、ちゃんと微笑みかけられているか、自分の顔を確認する術が無い。
「決めたぞ。儂も決心した。もう、独りで平気なフリをするのはやめる。儂は人肌が恋しい。誰かと一緒でないと、そろそろダメになりそうじゃ」
倒れそうになる氷華の体を、儂はぐっと抱き寄せた。誰かさんのように、決して逃がしはしない。
「だから、儂は主のそばにいる。悲しい時も、辛い時もずっと。死ぬまでずっと付き纏うぞ、覚悟しておけ」
下手くそな告白だけど、儂のようなろくでなしでも言う資格のある言葉は、それくらいしか無かった。
「だからどうか、儂と添い遂げて欲しい。儂には主しか──貴方様しか、他にいない」
人間でもないくせに、人間のような台詞を吐いて。
「…………はい」
その一言に、儂は一丁前に涙をこぼした。
「カコさんの手、温かいですね。大好きです」
「主の咲かす華は、儂の心を満たしてくれるな」
彼女の胸の中は心地よくて、ずっとそこに身を寄せていたかった。
そうして、独りのろくでなしが、二人のろくでなしになって。
「なあ、家には防火を施したじゃろ」
「駄目です。何かあったら大変ですから、ちゃんとわたくしと手を繋いでいましょう」
この先のことは分からないけど。
儂にどんな天罰が降るのかも、彼女にどんな幸せが待っているのかも、まだ分からないけれど。
「……ったく」
「そういって、いつも離さずにいてくれるじゃないですか」
「うるさいんじゃい」
二人で紡ぐ、三十六度の丁度良い日々が、今日もまた続いていく。