終わらない悪夢
延々とめぐる夢の中で壮年の作家と担当編者の青年の交流を綴る悪夢の物語。
序
私は永い夢を見続けている。
果てしなく、何処まで救われない夢を。
それをここに記すことにした。
壱
「ソレ」はぐるぐると廻る。巡る。絶え間なく。永遠に。
何度見ても。何度眺めても。どうしてか「ソレ」は「ソレ」しか空間にはなく。
視る者の感情なんぞを嘲笑うかのように・・・
それを何時見出したのかを、私は覚えていない。それは数か月前だったのか…はたまた何年、何十年前だったかそして、何故そのような夢を一度だけでなく何回も何十回も見る羽目なっているのか…。
長年、眠りに落ちる度に苛まれる悪夢の連鎖にすっかりとココロが疲弊し、強い睡眠剤を飲まなければ眠れなくなっていた。だが幸いと私の職は作家である。なので幸い世一般間に外で働く人々の時間云々等で慌ただしくしなければいけないということはない。眠れなくともいい。人より幾分か起きている長い間はただただパソコンのキーボードを叩きながら、淡々と紡がれる文章に誤字脱字がないかとスクリーンと睨めっこする日々なだけなのだ。
契約している出版社からの担当編集者がいるのかと言えばいる。まだ年若い青年だ。
木々の葉が地に落ち冬に変わる寒風の吹く頃に、社長自らの頼みで仕方なく出版社に赴いた。
前任の自主退職を機に紹介されたのが彼との出会いだった。
背はすらりと高く、面長で表情も少なく口数も少ない。悪く言うととても不愛想と言っても過言ではない。これで作家相手に担当編集者が務まるのだろうかと初めこそは疑った。
彼が席を外した間に、私は社長になぜ彼を私の担当に推薦したのかと問うてみると、社長は悪代官も一歩
身を引いてしまう程の笑みをずいっと顔を私の方に寄せて小声で耳打ちした。
だが、彼は案外…というよりあの時の社長の言葉通りとても気骨のある有能な人材であった。
全員とは言えないものの作家というものを生業をしている人間というのは気難しいしい気質が多く、担当編集者というポストは作家との相性が悪かったからかで担当を外れるは社長のものや、最悪校正の時点で夜勤が続き、過労で倒れたり、精神を病み仕事に支障を来す者も少なくはない。
そんな中、彼「太郎田 智頼」というどこか風変わりな苗字の、新たな担当者はよくやっている。
物静かな分、とても周りを見ている。
それもきょろきょろと顔を動かす訳でもなく、ただ只管に視線だけを静かに動かし観察しているのだ。
本来このご時世だ。
原稿の送信なんてメールでも構わないはずなのに彼は必ず定期的に我が家を訪れる。
作家という職で、さらに独り身であれば仕事に集中している時の人間ほど部屋の乱雑さが浮き彫りになる。それを進捗具合を確かめに来る度に「ついでですから」と淡々目を合わせる事もなと静かに片づけるのだ。さしずめ彼は担当者兼ハウスキーパーと言ったところか?
しかも私の他に幾人かの担当する作家がいるにも関わらず、だ。
それをさり気なく問うと、彼はやはり愛想という言葉を何処かに置き忘れてきたのか、無表情で温かみの欠けた声で「スケジュール管理はちゃんとできているので問題ないです」と生活環境を直しつつ言う。
そんな彼をふと見ると思わず口に出して言った「ほかの作家にもこういう事をしているのか?」と。
さすがにその質問にはかがんでリビングに散乱していた衣類のを取る手を止めて、怒っているのか、えも言えぬ眼差しをこちらに向け、更に冷ややかな目で「俺が担当している作家の中で貴方の家が一番汚いからですよ」言われ、あまりにも正論過ぎてぐうの音も根も言えなく、奥歯を噛み締め顔をくしゃっとするしかなった。
確かに、配偶者も居なければ外の喧騒が作業の妨げになるので、郊外にリノベーションされたモダン建築の一軒家を買った。が、単身故に部屋を持て余している。
基本作業部屋に使っている部屋から出張った丸窓のある和室か、リラクゼーションにリビングの大き目に買ったソファに横たわりを身体を伸ばしてみたり、だがあまりにも寝て無い事を察した太郎(担当者の名前が長いので略している)に圧をかけられ睡眠薬を飲まされ精神科へ数か月に一回引っ張り出される始末で、結果ベッドルームもあるが、太郎が痺れを切らして己より一回り半も体格も歳も離れた年長者をやはりいつもの感情の読み取れない冷ややかな目で無言の圧をかけ、半ば強引に連れて行かれる程度でベッドメイクすら難なく仕上げる彼を、本当に一出版社の若手編集者なのだろうか?と疑問に思うことを諦めた。
それはともあれ、だ。
太郎が担当になってから、数ヶ月経った頃に指摘される事が多くなった。
「先生、最近また眠ってませんよね?」
そしてこう言われる回数も増した。
図星過ぎてキーボードを叩く速度が自然と鈍ってしまった。
そして沈黙が数分訪れる。
太郎は普段ぼんやりと、どこを見ているのか判らない風貌だがその実、相手のことをよく観察している。
なのに視線を感じ取らせなず、悟らせない様にするのが頗る上手い。そうしてまたいつものように処方された睡眠薬を飲まされ無理やり寝室に連れ込まれ眠りに落ちるまで監視されるのだった。
弐
私はいつも昏い空間にいる。
そこは室内なのか。はたまた室外なのか。
その場によって立つところが変わる。そこが地面なのか。上なのか。下なのか。横なのか。
ぐるん。と視点が暗転した。
強く睡魔に屈しそうになり、私はハッとなってこめかみをぎゅっと強く摘まんだ。
いけない、またあの夢に引き込まれそうになっていた。息抜きにと立ち上がり背筋を伸ばす。そして出窓に腰掛け壁に背を凭れ、網戸だけにする。とっぷりと陽が沈み、夏の暑さから解放された虫たちが、ころころ、りぃんりぃんと心地よい音色を奏でてくれる。
庭に伸びた植物の葉も、そよそよと入ってくる風に揺れて僅かにさらさらと鳴る。真に心地が良い。
新鮮な空気を室内に迎え入れ、大きく深呼吸すると根詰まっていたのか全身に酸素が行き渡る心地を感じる。あぁ、まだ自分は此処(現実)に居るんだと教えてくれる。
不意に執筆中だった作品はどうなっているのかと腰を上げパソコンに目をやる。
画面上には五分前に作品保存済みの表記がされていて胸を撫で下ろし、改めてスティックタイプのメモリーカードにデータを保存して安心して息を吐いた。
急に自身を襲った睡魔は意識をどれほど奪っていたのか・・・考えたくもないのに昼夜問わず襲うに辟に視る暇さえ与えない限りは、日常のソレは、更に私が眠ることを拒む要因となった。
幸いにも太郎はスケジュール管理がとても上手いのか、私の見えないところで頑張っているのか、来訪し、私が睡眠薬で深く眠り、また意識が戻るまでの数時間、ずっと傍に居てくれる。その間は何をしているのかと聞くと彼は胡坐の上に乗せたノートパソコンをこつこつと指でつつき「先生が寝ている間暇になるんで、他の先生の作品の添削やそれ以外の各書類を作成しています」と言う。
彼はどうやら若手と侮ってはいけない位に賢く、そして時間の使い方が上手いようだ。
そんな作業をしつつ、私の睡眠状況を常に注視しているらしく私が異常をきたした場合は、最悪物理で以って覚醒させる(極稀であるが故にいざその起こし方をされると身体にかなりクる痛みは慣れない)
「全く・・・食えないやつだよ」
苦笑しつつ、一人ポツリと呟いた。
秋の夜長は部屋の明かりを少なくし、ランタンに灯かりを灯し、独特な模様が語られた木製のお香ケースの中に新しい一本をセットして火を付けて蓋をする。こうすると香りが阻害されず、少し離れた棚に置いきながら、幾分かリラックスするんで。と彼は何かに浸るように少し目を細めたのを俺は見逃さなかった。始めこそはその行動が億劫だったのだが、夜に作業しするだけ線香を焚く事がいつの間にか習慣付いてしまった。燻る煙に混ざり部屋に漂うのが樹木に近いどこかエキゾチックな香りだ。
喫煙や飲酒をしない代わりに部屋に漂う香の薫りの中で仕事をすりことが心地よくなってしまっている自分がいることに、香箱の蓋を閉める手前ぼんやりと思った。
香の補充はいつも太郎が勝手にしてくる。食事以外は割と面倒臭がりながらも身の回りのことはしてくれる奴だ。通院からの薬の管理も彼の得意分野だ。専用のメモ帳を持参するレベルだから本当に、この年若い編集者は、編集よりハウスキーピングの方が向いているのでは?と何毎回思う。本当に不思議な青年だ。
「先生、生きてます?」
彼が私の邸宅の敷居を跨ぐ際の謎の挨拶。
本来ならば「こんにちは」や「ごめんくだいさい」だ。
だが彼だけは常識を最低限だけ敬語だけで礼を欠いた不躾な挨拶をする。
私でなければ激昂されて門前払いものだ。
「太郎君や、仮にも他人の邸宅に赴いているのだけれども。他に真面な挨拶ができないのかね?」私が独り身であり不摂生なのは自覚しているがあえて聞いてみたこともある。が、「俺が第一声でそう声かけなきゃ、先生みたいな生死が分かりづらい出不精な中年作家なんて、今頃孤独死まっしぐらですからね?寧ろ俺に感謝して欲しいくらいですよ」
まぁ、返事がなくてもあがりますけど。とぼそりと呟く始末。
この青年と二人三脚で話を書き出してから彼を観察して気付いたことが、もう一つあった。
幾ら年上で権力者であろうともその横柄な態度と、愛想のない癖の強さや言葉遣いは変わらないらしく、B型特有の自己主体で他人の意見の必要最低限しか参考にする事を一切しない実力主義者。
そして、彼の眼は誰のどんな情を決して受け入れることのない淀んだ暗さを秘めているのだ。
何時から彼が何故そこまで心を閉ざして生きてきたのだろう?と職業病でついつい考えてしまう自分がいる。
参
同じ光景、限りない空間。声なき悲鳴が繰り返される。永遠と。繰り返し。
己が己たらしめるモノが何なのかも。己がナニモノであるかも。徐々に溶け出して仕舞いそうで。
俺の担当する作家が変更すると聞いたのは概ね一年前。
他の作家の原稿の校正をしていた時に社長(元々はバイト先の上司だった人)に声を掛けられた時だ。
仕事の手を止めさせられるのはあまり好きではない、というか正直ウザったくて大迷惑だ。
その時もやはり俺のウザったそうな気持ちが顔に出てたのか社長は苦笑し「数分で終わるから」と無理やり腕を引かれ応接スペースに連れて行かれた。担当が変わることは通達されていたが顔合わせが何時なのかを知らさせれいなかったので普通にデスクワークに集中していたわけだが。
「前にお前に行ってたろ?その先生に来たもらったから挨拶しろ」
小さい舌打ちが自然に漏れた。が、割といつもの事だと認識されてるらしく、そのままその新しい作家先生とやらと名刺交換をして新しい担当作家様の様子を眺めた。それは明治だか大正だかから来たような和装と中折れハットと言う出で立ちの落ち着いた雰囲気の壮年の男性だった。
「…太郎田 智頼です。先生だからって無駄な遜りはしないのでこれからよろしくお願いします」
軽く会釈だけして挨拶をする。これは紛れもない本音だ。
さすがに先生も幾分か面食らったように唖然としていた顔からすっと目を逸らし、社長に目配せだけして指示を仰ぐ。社長も察したのか顎をデスクの方へスッと向けたので作業の続きに戻った。
後から社長に無言の圧を感じたと言われたのは気にしない。
俺は昔からおべんちゃら…所謂お世辞や無駄なご機嫌取りをすることがどうしても出来ない。愛想笑いなんてしようものなら確実に良くて苦笑い、一時間も耐えたら次の儀は表情筋が筋肉痛になってしまう程だ。クールだと学生の頃はからかわれて居たが、基本的に他人に興味がないだけなのだ。
今の編集の仕事は本屋でのバイトから卒業を機にと、上司に独立し新設した出版社に引き抜かれて入った。何人かの営業部メンバーが駆けずり回ってくれていたおかげで、契約してくれる作家の数も増え、各々のメンバーに担当作家を付けられ、作家との打ち合わせや校正作業の効率の良い方法をゆっくりと教われた。仕事も始めは校正作業を覚える事と、最小限の構成メンバーとの連携に集中するだけでよかった。だが、俺の最大の問題を言うとしたら、唯一対人コミュニケーションが壊滅的ということだった。
上記の通り、愛想を振ることがどうしても苦手な上、物書きと言った類の人間というのは一部除いてどうにも面倒くさい。まじめに謙虚に、なんてのはデビューしたての作家くらいだ。
何作も書いて売れて行くと、昔ながらと固執してPCが一般になったとしても紙とペンから離れられないわ、段々と執筆速度も落ちてくるわ、態度も横柄になってくるわ、挙句の果てにはどの速度で書いて出版しても売れるのだからと傲慢になってくるわで、それに正論を呈すれば、挙句の果てには、青二才に何が分かると謎の逆ギレをされる。
それに振り回される事にイラつき、揉める事が多くなり担当の作家を何度も変える事が多かった。
編集長が何度充てる作家とは悉く相性が合わず、数ヶ月と持たずに作家から担当変更のクレームが来るものだから、俺に関してのみ担当する作家を誰にするかを編集長が幾度も社長に相談してきたらしく、俺のことをよく知っていた社長が担当作家選びを引き継ぎ、俺も気質に合う作家を慎重に吟味して充ててくれた。
社長の手腕のおかげで俺は入社して三年経った頃には馬の合う作家の担当を数人任された。お互いに無駄な愛想を振ることもなく、だが毎回締め切りに前にきちんとまとめ上げた原稿の受け取りの連絡を律儀にしてくれるおかげでスケジュール調整もしやすくお互いが焦ることも待つことも待たされることも少なくなり、格段にやり取りやすくなった。今までのイラだちが何だったのかと思うくらい作業がスムーズで校正作業が出版期日も近くなって残業が増えても苦ではなかったし、部署内での必要以上なコミュニケーションと言った横槍が無ければ余裕を持って終業時間にPCを閉じ帰宅することが出来た。
入社して五年も経つと、癖の強い作家を担当される事も増え、どの作家たちとも俺のこの性格が特に役に立つらしく関係は良好だ。
そして六人目の初顔合わせが彼『字沼 仁』だった。
この変わった名前の作家の本は学生の頃に何作か図書館で閲覧したことがある。
多くは穏やかな小説を書くが、たまにすこし風変わりな比喩表現と文章構成で以ってどこか胸の奥がモヤモヤする作品を何作か読んだ事を思い出した。
そうか、彼だったか。と内心思い彼の違和感に少々気がかりな所に気づきつつ、後日改めて字沼の邸宅に赴いた。オフィスから何駅も離れ、尚且つそこからバスで揺られる事約30分程。さらにそのバス停から徒歩で20分。オフィス街のビルをオフィスにしていて雑踏や喧騒には慣れている。
随分と郊外の田舎に住でいる彼が出不精になるのは仕方ないかとスマートフォンの地図を頼りに家を探す。この日は特に急ぎの案件が無く時間に余裕があり、新しく担当する字沼氏と直接会事になった。
前任の引継ぎの件と今後の方針等の打ち合わせとは別に、俺が感じた違和感の正体を確かめる為でもある。初めて足を運んだ字沼邸の第一印象と言いえば、一言で表すと「大きくて立派な監獄」だ。
敷地を取り囲む生垣や、玄関に続く石畳の左右の庭もちゃんと手入れが入っていることはすぐ分かる。
だが、土地が悪いのか何が悪いのかは定かでないものの、外門を潜った瞬間に何故か「閉じ込められた」と錯覚してしまったような冷たさを感じた。
確か、社長が以前字沼先生はあまり表に出たがらない酷い出不精な人物で、オフィスに招くのに大層骨が折れたと言っていた。普段から人好きされる社長が骨を折ってまで粘って粘って重い腰を上げさせた作家の家はさてどんな所だと見たら、確かにこれでは外に出る気は起きない。起きない。と言うより、外門のから道路に行けない。そんな錯覚を起こさせる何かに俺は深く眉間に皺を寄せ、だが仕方ないと何度目かの大きなため息を吐いて、玄関横のチャイムを鳴らした。
ピロリロ~、ピロリロ~。と外観にそぐわないなんとも可愛らしい音を間をおいて2回。
何もかもがちぐはぐな邸宅と、その所有者の字沼氏の違和感を思い出し、初日にも関わらず段々嫌気が指してきた。前任の先輩が担当から外れたがる理由も、これでは仕方がない。と辟易した。
何分待っても返事どころか移動している気配すら感じない。アポはちゃんと取ってある。
「待っているよ」と彼も言った。
何処から何処までがその『待っている』に該当するのか分からず、取り敢えず引き戸に指かかけて横に動かしてみる。扉は難なく新たな客人を招き入れる等にスッと横に開いた。
いくら田舎だからとて玄関のカギを開けっぱなしにして居るのは不用心極まりない。
「先生、字沼先生。入りますよ!?ちゃんと声掛けましたからね!」
返事のない室内の奥まで声量を張り一言断りを入れると俺は室内を歩き書斎を探した。
「せんせー、いますかー??」階段を眺め声を掛けてみて耳を澄ましても人の気配を全く感じない。
息を吐いて改めて廊下を歩く。
するとLDKを見つけ入ってみる。するとリビングルームにある大きなソファから突き出た足と魘されているような声が聞こえその声の主を覗く。
案の定、今度俺が担当することになった作家、字沼 仁その人だ。
この先生は待ちながらも居睡りをして尚且つ悪夢まで見ているのかと様子を見る。
オフィスで軽く挨拶したときには気付かなったが、目の下に酷いクマを貼り付け、不健康なレベルで顔色も以前よりうんと悪い。冷や汗を浮かべ、ウンウンと魘されながらぼそぼそと寝言を言っている。
「まただ」と繰り返し、あぁ…うぅ…と小さく唸っているのでそろそろ危ないなと判断し、先生の肩を揺さぶり声を掛けた。
「先生!!先生!!何時まで待たせるんですか?!いい加減起きてください!」
それでも先生は悪夢から醒めてくれず、苛立ち、仰向けになっている彼の鳩尾に思いっきり拳を入れた。
いい加減に起きてほしいのは建前で、本音は延々と人を待たせアポの日時だというのに居睡りまでして声掛けても全く起きないことへの完全なる八つ当たりだ。
流石に物理的ダメージを食らえば流石に先生も覚醒し鳩尾の激痛に身悶えながら身体を起こす。
ゴホゴホを何回か咳き込み、少し涙を溜めながら、上目使いで見上げてきた。
「一体ゴホッ、何があったんだい?いてて…」
鳩尾を擦り目の前にかなり不機嫌な青年が立っている事に気づく。
「あれ…?君は確か僕の新しい担当の…」
「今日ご挨拶に伺います。って事前に伝えたはずですが?なんで呑気に居睡りなんてしてんですか」
あからさまに苛立った気持ちを隠さず言葉に乗せる。
すると先生は少しフリーズすると、ハッとなりリビングにかかってある振り子時計を見て情けない位の感嘆の声を漏らしまたソファへ身体を預けた。
「いやぁ、ごめんね。眠っちゃって」
先生の顔を見ると以前オフィスで顔を見た時よりも更に目の下のクマや顔色が悪化していると思って少し部屋を見渡す。まるで生活感のない殺風景の部屋にテーブルやゴミ箱にはミネラルウォーターのペットボトルと何らかの錠剤を飲み散らかした跡。
「何だってこんな不摂生な所に居るんです?」
なんとも言えない怪訝な面持ちで字沼を見やる。まともな生活を送っていない事は誰がどう見ても明らかだ。家族は部屋の様子から居ないのは感じる。気持ちが悪いほど人の気配がないのだ。
まるで見た目は新しいのに雰囲気はまるで廃墟そのものと言っても過言ではない。凍り付いている。
その中でよくもまあこの不健康な作家は生活できるものだ。
「わからないんだ」
ポツリと字沼は呟く。
「なにがですか?」
「いま、私は生きているのか、今ここにいる事が夢の中なんじゃないか。ってね」
「胡蝶の夢。ですか」
それに字沼は、ははっと苦笑した。
肆
夢に追われ、目が覚めては夢の海に引きずり込まれる。
自分はいまどこにいる?ペンを握っている今の自分は本当に覚醒の世界なのか?
思考は泥に埋まり、気絶するように眠り、短くも連鎖する悪夢に飛び起きる。
同じ匂いを感じたことがある。
だからなのか、普段の自分ではありえないようなお節介を焼いてしまう。
知っているのだ。この温もりのない世界を。
時間を割り振りして調整して、足繫く字沼邸に訪れては文句を言いつつ部屋を片付け、心身が疲れ切った彼を心療内科へ連れて行き診察と処方箋の受け取りをさせた。傍につくが決して彼が横からとやかくは言う事をしない。心身の違和感、特に心の病は本人が言うに限る。分かっていることも、分かっていないことも。そして、処方薬を飲ませ、少しの時間でも夢を視ずに熟睡させ、彼が眠りから覚めるまで見守るようにした。社長にその旨を報告すると、字沼氏に対しての配慮や彼に割く時間の調整、他の担当作家に対しての時間の割り振り方を検討した。その結果、担当者である太郎田の手腕ならばなんとかなるから困ったことがあればその都度、報告し対処することとなった。
他人なら何だって出来る。それは“自分”ではないからだ。
彼は知っているのだ。悪夢が心を蝕むことを。それが、当人のみでは対処出来ないことを。
太郎田もかつてそういう事を経験し、悪夢に心を蝕まれ廃人になりかけた。双子の兄の事故死。肉親の心の崩壊。己だけ生き残ってしまった罪悪感。廃人になった両親から受けていたネグレクト。
夢を視る事を恐れた。睡眠をとることを拒否していた。
だが、彼はどうだ。
太郎田と比べ、まだ心は壊れ切っていない。
まだ間に合うはずだ。そう思った時には既に行動に移していた。
柄にもなく人助けをしている自分に違和感を感じるところも確かにある。
それもチラリと社長と言ってみると「お前がそうしたいのなら、それでいいんだ」と優しく笑った。
社長の言葉には不思議と安心感を感じる。まるでかつて子供だった頃にそうあってほしかったと切望して泣いていた父親そのもののようだ。温かく見守り、信頼関係で以って時には叱り、我が子の成長を喜んでくれる父親の姿を、何時しか社長に重ねていた。そんな胸を針で刺される痛みをずっと内面の奥に仕舞う。叶うはずも無い、なんて烏滸がましい願い。
胸を押さえ眉をぎゅっと寄せる。今はそんなくだらない感傷は必要ない。仕事とは何の関係もない。
太郎田の苦しみ。字沼の苦しみ。等しく思ってはならない、比べてはならない。大事なのは己ではなく相手なのだ。
胡蝶の夢、有名な話だ。夢の中で男は美しい蝶になっていた。だが目覚めるといつもの自分だ。
あまりにも夢の中で蝶になっている時が幸せで、次第に男は分からなくなっていた。
己が胡蝶の夢を視ているのか、はたまた、人間である己こそが胡蝶が見ている夢なのか…。
夢と現の境目が曖昧になり、今いる自分は一体どちらの自分なのだろう?と区別が出来なくなる。
これは珍しい事例ではない。だが一定の基準を満たさなければそうはならない。
字沼の何が胡蝶の夢を引き起こしているのだろうか?
字沼が抱えている心の闇を、一体何人の人が知っているのだろう?なぜ彼をここまでになるまで放っておいたのだろう?自分が無理やりにでも専門家に見せなかったら今頃彼はどうなって居ただろう?
家族は?親類縁者たちは?
そんなことを彼が就寝している間、PCを叩きつつぐるぐるぐるぐると巡っては、今必要な思考を阻害していることに苛立ちが募る。せめて自分が見守っている間だけでも彼を苛む悪夢から目を閉じていてほしい。
ふとPCから指が離れる。深く息を吐いて寝室の天井をぼんやりと眺める。
らしくない…そう思い手の甲で視界を覆う。以前の自分は他人の心境なんて気にも留めなかった。興味関心すら沸かなく、淡々と接していた筈で、ソレは死ぬまで変わらないと思っていたのに。
「俺らしくないな…」
再度小さく呟いた。
続きます。。