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第08話 窮鼠大型犬に抱き上げられる

 そろそろ休憩時間が終わる。二人は立ち上がり研究棟へ戻った。

「あれ、サリサ、部屋に戻らないの?」

「昼からは図書室に隠るんだ。フリスさんにも先に言ってあるから大丈夫」

「本を読みすぎて転ぶんじゃないよ〜」

 ミランの注意に苦笑いを返し、サリサは図書室へ向かった。


 図書室とは呼ばれているが、ほぼ独立した、二階建てかつ地下もある建物になる。過去論文を保管している地下の書庫で、サリサは術制御に関する論文を探しながら読み続けた。参考文献をチェックしながら過去の論文も確認していく。

 読みながら移動し、本棚に肩をぶつけること三回。机の端に腿をぶつけること二回。論文を床にぶちまけたこと三回。三度目に床に落としたときに、司書にいい加減にして下さいと言われ、サリサは項垂れた。

 だめだ。

 研究や、自分の興味のあることで頭がいっぱいになると、こうして行動が全てそぞろになる。集中力があるのはあるが、その分視界が狭くなり、他人から見るとひどく大雑把な人間に見える。

 こういうところも、いとこ達は気に食わなかったのだろうななど、ふっと思ってしまった。子供のときは気が付かなくても、大人になって振り返りそうだなと思うことが最近よくある。


 など考えて本棚のあいだを歩いていたとき、サリサの手からメモが落ち、そのメモに足を滑らせすっころんだ。

「ぎゃ」

 受け身はとったが、あまりのドジっぷりに自分で自分が恥ずかしくなった。誰も見てなくてよかったと思ったとき、目の前ではしごが動いた。


「……っえ!」


 ゆっくりと動きながら、最後には勢いよく床に倒れた。


 書庫内に響き渡る大きな音をたて、本棚の先でそれが横になった。サリサは転んで座りこんでいたが、音で腰が抜けてしまった。

 紙で足を取られなければあれにぶつかっていたのでは。

 いや自分が転んだから、あれが倒れたのかもしれない。多分そうだろうとサリサは自らに言い聞かせ安心しようとしたが、足が立たなかった。


「大丈夫? サリサさん。大きな音がしたけど」

 倒れたはしごの向こうからフリスが現れた。


「だだ、だいじょう。ぶ、です」

 大丈夫と言えてない時点でどうかと思ったが、実際怪我はしていない。間違ってはいないだろう。

「間一髪だったね。気になって見にきてよかった。もうそろそろ定時だよ」

 確かに、午後五時の鐘を聞いてからしばらく経っていた。

「サリサさんは集中すると他が何も見えなくなるから」

「ごご、ごもっともです。ありがとうございます。も、戻ります」

 立ち上がろうかと、本棚に手を置こうとしたとき、すぐ目の前にフリスがしゃがんだ。


 サリサはひっと硬直した。


 近すぎる。


 突然に間近に来られてサリサは動けなくなってしまった。触れてはいなが、サリサが少しでも動いてしまえばすぐに接触してしまう。それを思うと悪寒が走った。


 フリスは気付いていないのか、そうでないのか、固まってしまったサリサの前に腰を下ろしたまま喋り始めた。


「サリサさんさあ。昨日、君の部屋に泥棒が入ったって話、捜査中って聞いたけど、取り下げた方がいいんじゃないかな」


「……え」


 フリスの目が据わっている。剣呑な空気に、何故かと聞く気力が一瞬で失せた。


 彼は同じ所属の留探士で、人見知りの激しいサリサの中でも、比較的話をしやすい人物に分類される。穏やかで、時々ちくりとする物言いをするが、そういう性質なのだろうと思っていた。


 だが今、サリサは彼を前にして今まで感じたことがない、他者に対する嫌悪感よりもっと強い恐怖を抱いた。


「ハロルズ先生の論文が審査中なんだよ。君もこれ以上迷惑をかけないほうがいい」

「……め、いわく」

「そうだよ」

 フリスの張り付いたような笑顔を見たとたん、サリサの背筋に悪寒が走った。猛烈な悪寒がサリサの腹から這い上がってくる。

 怖い。

 サリサは座ったままであとずさったが、背が本棚に当たった。肩甲骨に角があたりサリサは顔をしかめた。

 フリスはまた近づいてきた。背筋がぞわっとする。


 気持ち悪い。


 無理だと思った。昼間に、抱きついてみたらそれで耐性がついて、普通の男女のお付き合いが進められるのではとミランと話したが、いざそれが可能そうな場面になったらただ嫌悪感で吐きそうである。ミランが正しかった。


 今すぐ離れてほしい。


「……ぃ」


 だが、その拒絶の声が今は出なかった。


 体が震えてきて、目の前も暗くなってきた。


 同じ研究室の先輩なのに。先輩でさえこのていたらく。こんなことでは、結婚などできない……。

 両親の顔がちらついた。彼らに報いることもできないのか。


 ふがいない。


「……サリサさん、立てる?」


 フリスはサリサの肩に手を置いた。


「ひっ」

 脂汗を流しているサリサの顔をフリスは覗き込んだ。動かないサリサに対し、彼はサリサの両肩に手を置く。


 フリスはすぐにサリサから手を離した。誰かの足音が聞こえる。フリスは立ち上がり、サリサから離れてその場を去った。


 足音が近づいてくる。


 誰かは分からないが恐怖で動けなかった。誰も来ないでほしい。人が怖い。逃げようと身を捩ったときに、膝の上の論文の束がばさばさと滑っていった。


「誰かおられるのか」


 アーサーの声だ。


 止まっていた呼吸が、微かに音を立てて再開された。

 それと同時に力が抜けていく。まもなくアーサーが本棚の向こうから姿を現した。

 彼は座り込んでいるサリサに気付き、足早にやってきてサリサの前にしゃがみ込んだ。


「どうした」

 サリサが真っ青で、今にも倒れそうな様子を見て、険しい顔をする。

「どうした。何があった」

 アーサーはサリサの額に手を置いた。彼の手が異様にあたたかいように思えたのだが、もしかしてそれは自分の額が冷えているからではとサリサは思い至る。

「冷や汗をかいているじゃないか。気分が悪いのか?」

 アーサーはそこではっとして手を離した。

「私があなたに触れているのが、もしや」

「え、いや」

 サリサは思ったことをそのまま口に出した。

「アーサー様が来て下さったら安心して、ほっとしたら力が抜けました。よかった、他のひとだったら、怖かったから……」

 アーサーは、サリサの言葉を聞き、目を見開いたあとでちらと視線を短い時間だけ泳がせたが、再度しっかりとサリサの目を見た。

「立てるだろうか」

「多分」

 膝から落ちていた論文をまとめて抱え、アーサーの手を借りサリサは立ち上がったが、膝が笑っていた。


「失礼する」


「は?」


 サリサは彼に抱き上げられた。

「わ!」

 この体勢を連日経験することになるとは。アーサーの体温が染み入るほどにありがたい。ありがたいがしかし、昨日と違ってまだ理性が残っている分、とてつもなく恥ずかしかった。誰かに見られたら羞恥で死にそう、と思って周りを見ると誰もいなかった。

 少しだけほっとして肩の力を抜いた。

「少し我慢してくれ」

「大丈夫です。誰もいないみたいなので」

 アーサーは一度足をとめ、サリサの顔を見たのち、また足を進めた。

「そこが気になっているのか?」

「はい、今は」

 正しくはそうではない。身の置き所がないとでも言うのか。どこに視線を置けばいいのか分からない。間近でアーサーの顔を見続けるのはなんだか不躾な気がする。しかし顔を逸らせるのも失礼な気がした。

 ただ嫌悪感はない。自分の思考が失礼か否かだけになっていることが今更意外である。


 かすかにひなたと、麦のような香りがした。ごく最近に同じ香りを嗅いだ気もする。何の匂いなのだろうとサリサは鼻を動かした。


 彼は傍の安楽椅子までやってきた。そこに座らされ、アーサーはサリサの前に跪いた。

「え」

「え、とは?」

「いやその。そんなところにしゃがまないで、どうぞお隣に」

「貴女は私が隣に腰掛けても大丈夫なのか?」

「平気です。今も全然嫌じゃなかったですし。前にいられる方が落ち着かないです」

 アーサーは困ったような笑みを浮かべた。緩い笑顔に驚いていたとき、彼は静かにサリサの隣に腰掛けた。触れないように気をつけて。


「どうしてあんなところで座り込んでいたんだ」

「……えっとですね、まず転んで」

「考え事をしていて?」

「はい、まあそうです」

 呆れられたかと思ったが、単なる事実確認だったのか、アーサーは実に真面目にサリサの様子を観察している。

「その直後にはしごが倒れて、びっくりして腰を抜かしてしまって」

 アーサーは眉をひそめた。

「はしごとは、あれか」

 アーサーは先ほどまでサリサが座り込んでいた場所の、すぐ間近に倒れているはしごを指さした。

「はい」

 彼ははしごに視線を固定したままでサリサへ質問を続けた。

「それで驚いて立てなくなっていたのか」

「まあそれもあったんですけど、その後でフリスさんが来てくれて」

「なに」

 アーサーの顔は険しい。

「シシロア留探士がここに?」

「はい」


 アーサーは南を指さした。

「ここの書庫の入り口は一つしかない。私は誰にも会わなかったが」

「書庫には別の入り口もあるんです。夜間に出入りができるように。そこから出られたのかもしれません。入るのは鍵が必要なのですが、出るのは鍵がなくても出られるので」

 サリサは北を指さした。

「なるほど」

 そのように言う割に、アーサーは何かひっかかったような顔をしていた。

「彼は座り込んでいる貴女を助けもしなかったのか」

「……あ、まあ、そう言われれば」

 ただ、触れられたくなかったので、手は貸されなくてむしろよかった。それに彼は少しおかしかった。

「何かあったんだな」

 サリサが目を泳がせたので察せられたようだ。

「官舎に誰かが侵入した件について、捜査を取り下げるように申請したほうがいいと助言されました」

「……助言?」

「はい。ハロルズ教授がお忙しい時期なので、迷惑をかけないほうがいいと」

「分かっているとは思うが、それとこれとは話が別だ。取り下げようがしまいが、ハロルズ教授の審査とは何も関わることはない」

「ですよねえ」

 サリサもそんな気がしていたのだ。何故フリスはあんなことを言ったのだろう。

「私がさっき、適当なことを言ってしまったからかもしれません。とっておいたはずのおやつがなくなっていた気がしたんですけど、よく考えたら自分で食べてました」

 アーサーは変なものを飲まされたような渋い顔をした。

「事件について、内容を外部に話すのは感心しない」

「はい。迂闊でした」

「彼とはその話をしただけか」

「はい」

 肩を掴まれたがすぐに離されたので、嫌な気分にはなったが、それは言っても意味がない気がした。ただサリサは、ふうと深呼吸だけをする。


 アーサーも聞きたいことがなくなったようで、黙って前を向いていた。


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