花御呼
ぽつんと、白い椿が落ちていた。
朝まだ早いうちから家を出て、駅に向かうその途中の道すがら。
それが日常を離れる合図だと、足を止めたその時はまだ気がついていなかった。
繭子はゆっくりと上っていく朝日を浴びながら、車道を走る車が少しずつ増えていく数を感じて足を早める。
ワイヤレスのイヤホンからは、おはようの元気な歌声。
今日もいい事があるって勇気づけてくれるよう、明るいアップテンポな曲を選んである。
なんとはなしに音楽を止めて、繭子はイヤホンを外した。
耳に入ってくる車の音と、かすかな風の動き。
自由に似た気楽さを感じながら、それでも急ぐ足は止めない。
学校へ向かう上りの電車はいつも満員で、混んでいる時間を避けて女性専用車両に乗るなら、早い時間に登校しなければならない。
でも少しずつ暖かくなってきたこの時期、繭子は駅までの道を歩きたくてさらに早起きをした。
坂を登り切れば、そこにはいつもの桜通り。
その手前で、繭子はここまで急がせてきた足をゆっくりとしたリズムに変える。
桜通りの桜はもう散ってしまった。
そろそろ八重桜が咲き始めるこの時期は、なんだか体を動かしたくなる。
若葉と一緒に心も体も目覚め始めるのだろうか。
少しだけ温まった風を頬に受け、駅までの30分ほどの時間を楽しんで、またいつものような毎日を過ごすはずだった。
その朝、その白椿の前で立ち止まるまでは。
その花びらは落ちたばかりなのかどこにもキズがなくて、柔らかでなめらかなシルクを感じさせるように輝いていた。
繭子はその美しさに思わず足を止めてまじまじと見入る。
辺りを見回して探してみたけれど、赤い椿の木はあっても白い椿は見当たらない。
立ち止まっている暇なんかない。
早く歩き出さないと。
でも。
繭子はその白椿に手を伸ばした。
どうしても、あの花を手に取りたかった。
壊してしまわないだろうか。
台無しにしてしまわないだろうか。
そっと花びらに触れる。
そしてゆっくりと、大切に、大切に持ち上げた。
胸の前で両手に取ってじっと見つめる。
それは想像以上に柔らかで、そして早朝の空気にさらされてわずかに冷たかった。
一瞬、何かの香りを感じた気がした。
これが椿の花の薫りなのだろうか、と思った瞬間、目の前をひらりとピンクの花びらが舞った。
小さな、小さな、濃いピンクの花びら。
八重桜?
思わず花びらを目で追いかける。
それは、ひらひら、ひらひら、道の先へと踊るように飛んでいって、そして……。
ぱあ、っと。
目を開けていられないほどの眩しい光が辺りを包んだ。
しばらくして鳥の声に繭子が目を開くと、周囲は緑の木々と花々が咲くどこか知らない場所で、目の前には白い袴を着た男の人が頬を染めながらどこかぎこちない笑顔で繭子を見つめていた。
なんと、頭には大きな獣の耳がついている。
これは夢だろうか、と繭子は呆然と相手を見つめた。というか、相手の耳を。
「あ、あの、おはようございます」
ピクピク、と耳が動く。
「おはよう、ござい……ます?」
今度は忙しそうに、ピクピクピクピク、と大きく。
「そ、その、しょ、招待を受けてくれてありがとうございます……」
「招待、ですか?」
「は、はい、あの、その、その白い椿……」
繭子の手にはあの白い椿がある。
「その、白い椿が、招待状なんです」
「これが、ですか?」
「はい、そ、それでこの子が」
男性は片手を上げる。
その手のまわりをひらひらとピンクの花びらが舞う。
「案内役なんです」
そう言って笑った。
えへへ、となぜか少し赤くなって。
気弱げな、でも大切な友人を紹介できて嬉しいようなそんな様子に、繭子は好感を抱く。
そしてとりあえず笑い返してみた。
すると男は嬉しそうに話し出した。
「きょ、今日は、僕の山では椿が豊作なんです」
「椿が、ですか?」
(豊作?)
「は、はい。それで、一緒にお茶をしながら、椿を見てくれる人を探していて、それで」
「それで、招待状を?」
「は、はい。あの、迷惑、でしたでしょうか……」
大きな体に似合わず、男はしゅん、と体をすくめる。へにょり、と耳が萎れた。
ダメかダメでないかで言えば、間違いなくダメだ。
なぜなら彼女は登校途中だったはずだから。
でも。
風が吹いて、たくさんの鳥のいろんな声がする。
目の前の彼の、萎れたまま動かないふわふわの耳があまりにも可愛くて、大きな体で背中を丸める知らない年上の男性が愛しく感じられて。
「迷惑じゃないですよ。ご招待、ありがとうございます。椿を見せてもらっても構いませんか?」
男が顔を上げてぱあっと笑顔になった。
繭子も一緒に笑顔になる。
きっとこれは夢なのだ。
だから学校のことなんて気にしなくていいし、ゆっくりお花見をしてお茶しても問題ない。
「ここへ、こっちです、どうぞ!」
男の嬉しそうな様子に、繭子も嬉しくなってふふふ、と笑いながら後をついていく。
そしてその袴のお尻に見事な尻尾があるのを見つけ、思わず飛びつきたくなった自分を懸命に抑えるのだった。
少し歩くと、そこは気持ちの良い風が吹き、お日様が柔らかい日差しを投げかける、いかにも居心地の良さそうな小さな広場があって、その真ん中に白い猫足のイスとテーブルがある。
「ここ、ここ。さあどうぞ」
周囲は椿の森になっていた。
紅椿に黒椿。白椿にピンクに絞。
それらが一斉に満開となって木々を覆い隠さんばかりだ。
ただ花開き、咲いているのではない。
それは大いに喜んでいた。
エネルギーに満ち溢れていた。
大地から吸い上げられた命の力が花の形に結晶して咲き誇っている。
むせ返るような、濃い椿の薫り。
繭子は呆然と立ち止まり、花の力に圧倒された。
口をぱっかりと大きく開けて、ただただ見入ってしまう。花に取り込まれそうだった。
そんな繭子を見て、男は小さく笑う。
「すごいですよね。たまにあるんです、何年かに一度。大地からもらう力が大きくその種で結実する事が。その種だけに特別に贔屓される時が。これを、誰かと一緒に見たくて。」
そして男は白いテーブルにお茶を置いた。
どこから出してきたのかとか、もう気にすまい。
こうしてここにいる状況を考えれば、何もかもが今更だ。
繭子が花に気を取られながら席に着くと、男も向かいのイスに座った。
手に持っていた白椿を繭子はテーブルの上に置く。なんだか手放し難い気がして、もし持ち帰っていいなら貰って帰ろうと心に決める。
「どうぞ。椿の香りがすごいので、紅茶の香りはあまり感じないかもしれませんが」
言われて、繭子はそっとカップを持つ。男も両手でカップを持った。
男のくせに可愛いな、となんだか繭子は負けたような気になるが、男の頭の上で動く耳がそれ以上に可愛いので全て許す。まさに可愛いは正義。
世界の真理を見たような気分で繭子は紅茶をひと口飲んだ。そして驚きに目を見開く。
「美味しい」
「本当ですか! あの、あの、もし良かったらクッキーもあるんです!」
男はそう言ってやはりどこからかクッキーの乗ったお皿を出す。
これまた美味しい。
「これもすごく美味しいです」
「初めてです、ここへ来た誰かに食べてもらったの……」
彼は照れたように、耳に触れながら嬉しそうに呟いた。
満開の椿の木を背に、頬を染める大柄ケモ耳男子。
(誰が認めなくともわたしが認める)
クッキーをパクパク頬張りながら繭子は思う。そして気づいた。
さっきの言い方は、もしかして。
「もしかしてこれ、手作りですか?」
「はい。気に入ってもらえたみたいで嬉しいです」
「すっごく気に入りました、美味しいです!」
「ありがとうございます」
ふふふ、と笑う彼の後ろで大きなふさふさの尻尾が揺れる。
(可愛い)
もう帰りたくない。夢なら覚めないでほしい。というかここに住みたい。
椿の香りに幸せを感じつつ、クッキーをもうひと口。
すると繭子の顔のそばをひらひらと舞うものがあった。桃色の花びら。
あの案内役の花びらだ、そう思ったとき、桃色の花びらがふわりと小さな妖精に姿を変えた。
繭子が驚いて見つめる先で、妖精は空中で胸を逸らす。
「あるじ様の作るものはね、なんでも美味しいのよ」
「あるじ様?」
「あるじ様!」
くるくると飛び回る妖精に、男は苦笑する。
「その子は、この山の八重桜の若い精なんです。このあたり一帯は僕の守る山なので、ここの子たちは僕のことをそう呼ぶんです」
なるほど、とうなずいて、繭子は大切な事に気がついた。
「そういえば、あなたの名前は何ていうんですか? あ、わたしは繭子です。園丘繭子」
「両儀、といいます」
「両儀さん、ですね。今日は素敵なご招待と、美味しいお茶とお菓子をありがとうございます。すごく綺麗な椿ですね」
「ありがとうございます。僕は山を守っているだけで特に何もしていないのですが、こうして綺麗に咲いてくれると本当に嬉しくて」
その笑顔に、繭子は彼の純粋さを感じながらもうひと口、紅茶を飲んだ。
「そろそろ、帰らないとダメですよね……」
両儀がそう言った。
会話らしい会話もあまりなく、ただ一緒にお茶を飲み、椿を楽しむだけのひと時。
けれど繭子は間違いなくその時間に満足していたし、多分これが『幸福』という時間なのだろうと確信していた。
だからそう言われて少々残念だったのだ。
残念だと思ったから、声を上げた。
「「あの」」
それが両儀の言葉と重なって、思わず口を閉じる。
「す、すみません、あの、ま、繭子さんからどうぞ」
「いえ、どうぞ両儀さんから」
「い、いえ、そんな、僕なんかより、ど、どうぞ……」
またどもり始めた両儀に繭子は微笑む。
(自分が優先だって全然いいのに)
「先に両儀さんの話が聞きたいです。だから、どうぞ」
両儀はしばらくもじもじしていたが、うつむいたまま真っ赤になって言う。
「あ、あの、もし良ければ、その、また、椿が豊作になったら、お誘いしても、いいですか……」
繭子はふふふ、っと笑った。
「次の豊作はいつですか?」
「え?」
「椿の次の豊作は、いつでしょうか」
きっとこの人にとってそれはほんの短い間。でも繭子にとってはそうではないだろう。
そして多分、チャンスはきっと一度だけ。今だけなのだと繭子の中で何かが教えてくれている。
「え、ええと、多分、10年か20年くらい……?」
「その間、全然会えないんですか?」
「え、ええと、あの……」
「次、豊作になる花はなんですか?」
「た、多分、この山ではないんですが、他の山でつつじが豊作になります」
「それは一緒に見れないんですか?」
「み、見れます! 大丈夫です!」
「豊作でなくても、何か花が咲いたら、一緒に見れますか?」
「は、はい!」
繭子は指を1本1本、数えるように立てながらわざとらしく顔をしかめた。
「でも、冬には花があまり咲かないですよね。牡丹と、山茶花と……他に何かありましたっけ」
「ふ、冬には、水仙とか、蝋梅とか、ほ、他にもいろいろ咲きます!」
「花が咲いても、咲かなくても、一緒にこうやってお茶を飲んだりできますか?」
「は、はい! もちろんです!」
「じゃあ、月に1回。1ヶ月に1回は、必ず呼んでくれますか?」
「はい!」
頭の上の耳がピクピク忙しい。ふさふさの尻尾がぶんぶん揺れている。
(いつかあれ、触りたいなあ)
クスクス笑う八重桜の精の相手をしながら、繭子はそんなことを思ったのだった。
目を閉じて、そしてゆっくりと開けるとそこは学校で、教室の自分の机に座っていた。
時間は10時少し前。
周囲からすれば繭子は突然その場に現れたように見えるだろうに、誰も騒いだりしない。
全て問題ないようになっているから、という両儀の言葉は本当だったようだ。
顔のそばでひらひらと八重桜の花びらが舞って消えた。
机の上には白い椿。
触れるとやはり、淡く光って消えた。
けれど寂しいとは感じない。椿は彼女の胸の中に仕舞われたのだから。その証拠に目を閉じれば、暗い中に白椿の姿が輝いて見えた。
目を開き、いつもの教室の風景を見ながら繭子は両儀との会話を思い出す。
次はいつ会えるだろう。
つつじが咲いたら。
彼はそう言っていた。
彼の山ではつつじはいつ咲くのだろうか。
窓から入る風に椿の匂いを思い出しながら頬杖をつく。
窓の外の世界はキラキラと輝いていた。