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五、村の過去

悪霊と村の過去編です。

「あなたが? 私を?」

「あぁ、僕ぁ……チヨちゃんが好きなんだ」


 橋 清次郎(はし きよじろう)は、彼女を見つめた。クスクスと微笑む顔ですら可愛らしい、好きだと再認識させる材料だった。

里田チヨは村一番の金持ちの家の一人娘だ。おまけに村一番で可愛い娘だ。彼女が微笑めば冬にも花が咲いちまう、と言っていた村人もいるほどに。

 だが誰も告白をしなかったのは、あまりにも高嶺の花だったからか。それとも、家柄が、有力者という家が周りを縛ったのか。

既に実行に移した彼にとっては、もうどうでもいいことだった。


「……良いわよ。じゃあお友達からでもいいかしら」

「友達? でも僕達……」


 清次郎とチヨは同じ村の学校に通う同級生だ。友達だと言えば烏滸がましいかもしれないが、それでも知人くらいは言っても良いほどだろう。

もとより、村外れに住んでいる清次郎が彼女と同じ土台に建てるはずがないのだから、ある意味では一歩前進なのではないだろうか。


「同じ学校でも知らないことは多いでしょう? お友達になってたくさん知りたいのよ」

「……わかった、じゃあ友達ね……」


 良いように丸め込まれている。……などと、勘ぐる頭は持ち合わせていない。

彼は出来が良い方ではなかった。だからこうして無謀にも彼女に告白を申し込めるのだが、それが吉と出るか凶と出るかは、誰も予測できなかった。




「園田から聞いたよ!? 街へ行ったって。どうして僕は連れて行ってくれないんだい!?」


 チヨと友人になってひと月。

清次郎の元に舞い込んできたニュースは、彼を悲観させるには十分だった。

 チヨは週末に友人らを連れて近場の少し大きめな街へと遊びに行っていた。女友達だけならば清次郎も入り込むスキはないと諦めただろうが、同級生の男子生徒も数名誘ったのだと聞けば驚くだろう。

自分も誘うべきではないのか、と。


 そして何よりも園田 弦一郎(げんいちろう)がまるで自慢して彼を馬鹿にするように言ってきたのだ。「お前誘われていないんだな」「聞いてすらなかったって?」あの得意げで嫌味な顔は腹が立つ。

女生徒に人気が高い男子生徒だったがゆえに、更にその鼻にかけた言い方は清次郎の神経を逆なでした。

あのときの上から見下す弦一郎の顔を今でも忘れない。

 腹を立てた清次郎は、早速チヨのところへ急いだのだ。


「私も連れていきたいのは山々だけれど、お父様があなたを嫌っているのよ」

「どうして……」

「あなた、あの村外れに住んでらっしゃるでしょう?」

「そうだけど……」


 だから何だというのだろう。広いだけのなにもない屋敷だ。備え付けの蔵は清次郎にとって自分だけの空間として使えていたため、そこは良かったがほかは何も良いことはない。

三人家族で住むには大きすぎる家屋だった。

 掃除をするだけで一日が終わるわ、と母親が愚痴っていたのを思い出す。ならばなぜ、しかもあんな村の外れに。家を設けたのか。選んだのは父だと遠い昔に聞いたことがあったが、どうしてだかまでは聞こうとしなかったのだ。

幼いながらに興味がなかったのだろう。虐げられようと、これが普通なのだと思っていたからだ。


()()()()()()。土地があるだけで大きなお家って」

「……」


 笑う彼女は可愛らしい。

だがこの顔は見たことがない。気味の悪い人間を見る目は慣れていたし、よく分かる。だけれど、この視線はなんだろう。

容姿端麗、家は力も金もある。清次郎と違って、何でも持っている彼女が羨ましいなどと思うだなんてどういうことなんだろう。

 清次郎は足りない頭を回しても分かるはずがない。彼女が皮肉めいた言葉を選んでも彼には通じない。

その様子にチヨは更に機嫌を悪くしたが、それすらにも気付かなかった。




「まぁ、大変。朝子さんに水を掛けられたって聞いたわ」

「おかげで熱が出たよ……」


 彼に対するイジメは日々激しさを増して行った。それもそのはずだ。裏でチヨが糸を引いているのだから。早く自分から離れてほしいという気持ちと、他人をいたぶる心地よさ。自分よりもいい家に住んでいるということで生まれた嫉妬のはけ口。

 清次郎はそんなことつゆ知らず。健気に看病しに来た彼女を見て喜ぶだけだ。あぁ、哀れな。


「こっそりおやつを持ってきたの。元気になったら食べてね」


 チヨは菓子を取り出すと、清次郎の枕元に置いた。

飴と鞭の使い方が上手い女だ。今回持ってきたのはイジメとは何ら関係なく、単純に家にあった菓子だ。たいして有名な銘柄でもなかったし、買おうと思えば清次郎も買える品物だ。

だがそれを隠して持ってきた。この男にはその程度で特別を味わわせてやればいいのだ、というチヨの思いだ。


「ありがとう……チヨちゃんは優しいんだな」

「うふふ、嬉しいわ。朝子さんには私からきつく言っておくわね」


 ニコリと笑うチヨ。笑顔の可愛さに清次郎の熱が少し上がる。

 両親は彼女と喋るのをやめなさいというが、ここまで優しくしてくれるのにどうしてそんなことを言うのだろうといつも疑問に思っていた。

だがそれは、両親の忠告は正しいものだ。親は今まで培った経験によって、彼女の笑顔の仮面の奥に潜んでいる不気味で恐ろしい顔を本能的に察知していたのだろう。

 それに何より。前々から橋一家には里田家から執拗な嫌がらせを受けていた。家族ぐるみでこの家を土地を家族を憎んでいた。自分よりも遥かに劣る人間のくせに、ただただ土地が得られただけでだだっ広い家を手にしやがって。そんな気持ちで。


(次やる時は殺しなさいって、ちゃんと言っておくから)


 ――チヨのその内心を、清次郎が知ることはないはずだった。





 べしゃり、と床に捨てられたのは小綺麗な紙袋に包まれたもの。中には手ぬぐいが入っていた。

清次郎は少し嫌な顔をしながらそれを拾う。


「はい、今回はお土産よ」

「……君の家では他人にものを渡す時は、床に落とす風習があるのかい?」


 今回が初めてではない。最初の頃は本当に手が滑ったのだと思っていたが、あまりにも頻度が高く、そしてその顔が嘲笑っているように見えて。


「御免なさい、手が滑ってしまって」

「それで、これは?」

「なんだったかしら? 金次(使用人)が選んでいたから」

「……そう、か」


 ここ最近の清次郎は、流石に色恋に浮かれただけの青年ではなかった。明らかに様子のおかしいチヨを疑っていたのだ。

今の土産の渡し方だってそうだし、また街に連れて行ってくれなかった。まるで故意にのけものにしているようだった。

 ――あの子と関わるのはやめなさい。

いつだった聞いた親の忠告を思い出しては首を振った。チヨちゃんに限って、と彼女を必死に信じる心。この女流石に怪しいんじゃないか、と疑問に思い始める心。

彼の中で天使と悪魔が葛藤していた。


 だが彼の中の「悪魔」が真実に変わったのは、この後であった。

そしてそれが全ての始まりだったのだ。




「チヨ! なんだよあれ!」


 突然家に押し入ったのはもちろん清次郎だ。チヨは驚きもせず、代わりに使用人が清次郎を制止しようと動く。

チヨは優雅に紅茶を飲みながら、叫ぶ清次郎を見ていた。まさに滑稽。そう思いながら。

 だがそれと同時に、今まで楽しく扱ってきた()()()()()がなくなってしまうと考えると少し寂しいのだ。次は何で時間を潰そうか、などとぼんやり考え始める。


「ちょっと、勝手に入って来ないでください!」

「誰だよ! あの男! 腕を組んでいたの、見たぞ!」

「……おウメさん、出ていってくださる?」

「ですが、お嬢様……」


 心底不安そうにウメは聞く。過ぎる心配は主人を怒らせると知っているが、今回ばかりは口を出したかった。

 チヨを慕う男は多かったが、誰もが彼女のこと――友人知人、その他人間関係について知っていたからここまですることはなかった。

だがこの男は何も知らない。手のひらの上で遊ばされるがまま、踊っていた。そして真実を知った今、怒り狂って家までやってきたのだ。リスクなぞ顧みずに。


「大丈夫、何かあったら叫ぶわ」

「はい……」


 言われたウメはそのまま去っていった。

 チヨは清次郎に向き直ると、いつもの笑顔でニコリと笑って彼に問うた。

この時ばかりは清次郎もこの笑顔を「うつくしい」だの「綺麗」だの思わなかった。彼女の本性を知ったから。


「……それで?」

「それで、じゃない! 何故園田と腕を組んでいた!」


 今まで散々園田――園田 弦一郎(げんいちろう)から、彼女と遊びに行ったという自慢話を聞いていた。だがそれは、男女の仲などではなく純粋に同級生、もしくは友人だからだと思っていた。

同じ友人という枠でも、自分はまだその土台に上がれないのだと苛立ちはしたものの、仕方がないと思っていた。

 弦一郎はスポーツ万能で頭もいい。村一番、いやここら一帯で一番美しいとされるチヨと並んで歩いても何ら問題ない容姿さえある。

チヨの家は、厳しい家柄でそういったのを特に重視する両親だとよく知っていた。だからこういった待遇なのだと思い込んでいた。

 ――実際は違った。


「当然よ、彼は私の許嫁だもの」

「は……?」

「あっはは、しょうがないからもう言うけれど。あなた本当に莫迦ね。お友達だなんて、恋人になれるだなんて嘘っぱちよ。だって小さい頃から弦一郎さんがいるもの」


 まるで悪女のように高笑いをする彼女は、もう美しくなどなかった。

清次郎の顔は、心は絶望に染まっていく。

今まで彼女としてきた会話も、お土産も、何もかも全部。嘘だった、まやかしだった。だが、でも、どうして。


「なんで……」

「気に入らないのよ」

「え……」


 チヨは今までに見たことのない顔をした。蛇のような恐ろしい表情だった。

そこには憎悪嫌悪、恨み辛み、あられもない感情が込められている。本来であれば清次郎がする顔だろう。裏切られて騙されて。だが今この場でその悪に染まった顔をしたのは、誰でもないチヨだったのだ。

 清次郎には身に覚えのないことだった。裕福で容姿端麗、そんな彼女が自分のどこに気に入らない要素を見出したのかまったくもって分からなかった。


「金もないくせに家より大きな家に住んで、大した学もないのにへらへらのうのうと生きて。私がどれだけ苦労してあの家にいるか知らないくせに、私のことを好きだなんて阿呆みたいに笑う――寒気がするわ」

「そ、そんなので、騙したのか……」


 なんと滑稽でくだらない理由であろうか。たかだか嫉妬程度で一人の男の人生が落ちていった。恋という調味料で浮ついた彼を操るのはさぞ楽だったことだろう。

真実を告げられた今、彼の記憶は絶望へと塗り替わっていく。

 貰った土産も、彼女と喋った瞬間も、看病に来てくれたあの日だって最初から仕組まれていたことなのだと。

思い出したくもない汚らわしい忌々しい記憶が、彼の心に反発するようにフラッシュバックする。首を振って否定しても、それに喜んでいた自分を忘れられない。浮かれていた感情が隅々まで思い出せる。

今から言えるならば、告白をした自分を止めてやりたいくらいだった。


「フン、そんなの――ね。女の嘘も分からないような莫迦に言われる筋合いはないわ。帰って畑の大根とでもよろしくやってたらいかがかしら」

「…………汚らわしい、女……」


 本性を表したチヨは美しくも何でもない。

目の前に映るのは嫉妬に狂った汚い女だけだ。こんな女を好きだっただなんて、自分がどうかしているとまで思い始めた。

 そんな心を見抜いたのか、チヨは使用人を探して叫ぶ。彼を追い出してくれと声を上げている。


「気味の悪い……。おウメさん! 金次! 彼を連れてって!」






「ねーえ、弦一郎さん。私最近付きまとわれてるの。追っ払ってくれない?」


 男の腕の中にすっぽりと収まって猫なで声を出しているのは、当然ながら里田 チヨであった。そしてその男は、彼の許嫁である園田 弦一郎である。

彼女達は両親が決めた婚約相手といえど、仲は順調。それはもちろんお互いに頭が良かったことと、顔立ちも整っていたことだった。

 親から英才教育を受けてきた彼女達は、幼いながらもプライドはそのへんの大人なぞよりも高く、自分に見合う人間ならばこの程度ではないと納得しなかった。

 だから彼女達の出会いは運命的で、かつ理想的だった。容姿も良し、頭もいい。例え好いていなくとも条件を満たしている。好きかどうかなんて、追々なんとかすればいいのだ。


 はてさて、そんな利害関係でもある彼女達は、「良いアベック」でもある。だから相方が傷ついたり迷惑を掛けられたりしているのであれば、家名に傷がつくことも憂慮して最大限の協力を惜しまない。

 弦一郎からしても元々ストーカーのようにつきまとっていた、あの陰湿な男にはうんざりしていた。だから話題にあげられた瞬間顔を歪める。

「またか」と。


「もしかして、村外れの清次郎か?」

「そうよ」

「あいつ……。まだ懲りてねぇのか。わかった。俺らでなんとか懲らしめとく。二度と俺の女に近付けないように思い知らせてやるよ」

「うふふ、頼りになる男の人って素敵」


 チヨは嬉しそうに笑う。弦一郎はこの女を汚く狡い女だと知っているが、それでも可愛らしいと思う。決められたものとは言え将来を誓った仲だ。愛おしく思わずどうしろというのだろう。

 チヨが体を預けるので、弦一郎もそれに応えて抱きしめてやる。町で買っていた香水の匂いがふわりと鼻をくすぐった。

この甘い香りに騙される男が多数いるように、この女は狐のように人を化かす。弦一郎も利用されていることを知っているが、それでも応えたくなってしまうのは、やはり彼女の魅力なのだろう。

 だが弦一郎が周りの騙された男と違うのは、彼女に少しでも愛されているという部分だった。





「おぉーい! 早くしてくれ!」

「くそ、これだけ炎がでかくちゃ、止められるもんも止められねぇ」


 深夜。

それだというのに、村の端は明るく光る。

 ごうごうと火が立ち、黒い夜空を赤く染めている。この時代には消防車なるものはあれども、こんな田舎には到底買える金もなく。

村人がえっちらおっちらとバケツに汲んだ水を掛けようにも、炎は大きく燃え上がり収拾がつかなくなっていた。

村に唯一ある手押しポンプを持ってきた頃にはもう遅く、その程度の水を掛けたところで家がどうにかなるような燃え方ではなかった。


「中には誰かいるのか!?」

「この時間じゃあ、親子が寝とるはずだ」

「逃げ出してるといいが……」


 村人達がなすすべもないまま立ち尽くし、燃え終わるのを待っている。村外れであったことを誰もが心のなかで良かったと思った。

これが村の中心地ならば、きっと他の家にも燃え移って大惨事を招いていただろう。


 朝方にまで及んだ火災は、火がようやく小さくなってきた頃に鎮火作業が再開された。母屋は全焼。瓦礫の山と化した家屋から家主やその家族を見つけるのは至難の業だった。

 そして唯一、蔵だけが残った。母屋から離れていた場所にあったため、さほど被害にはならなかったのだろう。すすを少しかぶっていたようだが、母屋に比べれば随分と健在だ。


 なぜか、その蔵は内部が荒らされていた。まるで盗っ人が入ったかのように荒れていたのだが、そんなことに興味のない村民達は、橋家の人間の管理がずさんなのだと勝手に結論付けた。




 深夜、里田家――


「チヨ……」

「なに……ヒッ!?」


 名前を呼ばれて振り向けば、チヨの自室の入り口にはすすだらけで肌もただれ、肉がむき出しになってドロドロになった清次郎が立っていた。

燃えたせいで衣服と体がこびりつき、ポタポタと血液なのかまた別の体液なのかわからない何かが滴っている。

 体は酷く軋んで痛かった。火傷も痛いなんてものじゃない。体を動かすのですら嫌だった。だがこの里田家に来たのは執念、怨恨。

この眼前の憎く醜い汚らわしい女を殺してやるという、絶対なる意思。

 ずるり、と音がしそうなほどの歩みで近づく。気圧されてしまっているチヨは逃げることは叶わない。

もうその醜悪な容姿を見た瞬間、彼女は腰が抜けてしまったのだ。


「やめて、来ないで! 誰かいないの!?」


 必死に使用人を呼ぶ。いつもなら「はい、ここに!」とすぐさま駆けつけてくるウメも金次も走ってこない。おかしい。どうして、とチヨの頭を疑問が渦巻く。

 清次郎は泣き叫ぶチヨを見てニタニタと笑った。

元々気持ちが悪い男だと思っていたが、それは嘲笑できる程度だった。今は洒落にならない。目がすわっていて、彼が何をしでかすか分からないのだ。

 初めて馬鹿にしていた彼に恐怖を抱き始めたのだ。ここまでされるまで、自分のした酷い仕打ちに気付かなかったのだ。


「ウメも金次も殺してきた。君のお父さんは隠蔽作業で走り回ってるよ」


 屋敷には誰もいない。いたところで転がっている使用人の死体だけだと知って、チヨは更に絶望する。

弦一郎は何をやっているのか。もしや父に捕まったか。きっとチヨが頼んだことをなんとなく察するだろう。だから弦一郎に報告をさせているのかもしれない。

 理由は何にせよ今ここに来てチヨを助けてくれる人間はいないということだ。チヨの顔からどんどん余裕の色が無くなっていく。


「なに……」

「僕を騙して、さぞ楽しかったろうね。殺すことまで考えていたほど気味悪がったかい?」

「そ、そうよ」


 諦めかけた彼女はいつも通りの強気に出始めた。いい感じに誘導して時間を引き伸ばし、父や弦一郎が帰るのを待とうとした。

時間稼ぎさえ出来れば、あとは誰かが助けてくれる。このゲス野郎を牢屋なり何なりに送り込んで、二度とチヨと陽の光を拝めぬように出来るのだ。

 だがそんな考えは甘い。


「――僕の親を殺すほど」


 清次郎の中に募った怒りは深く計り知れない。聡明な彼女が時間を稼ごうとすることなんて、彼ですら分かることだ。

彼女が逃げおおせるなんて、そんなことあってはならない。

 清次郎自身だけならともかく、関係ない両親すら殺したこの汚い女を絶対に自分の手でひねり殺してやりたい。そう思っていた。

だから雄弁な彼女にこれ以上会話を続けさせたくはない。


「当たり前じゃない! あなたみたいな欠落品を生み出して……」

「僕は人間として失敗してるだろうね」

「そう言ってるじゃない……」


 自分が欠落した人間だというのは、チヨや弦一郎から痛いほど教えてもらった。

だがそんな清次郎をここまで大切に育ててくれた両親に、何の罪があるというのだろう。死ぬのならば自分だけで良かったのに。どうして巻き込んで殺したのだ。

 考えれば考えるほど、頭に心に、募っていくのは怒りのみだ。目の前のこの女が憎い。

焼けただれた手を強く握った。それは決意の表れだった。


「でも親は違う。僕を、こんな僕でも愛して大事にしてくれた。それを、それを……!!」

「だから……何なのよ……!」

「汚らわしい女め……!」

「いやぁああ!?」


 清次郎の両腕は、チヨの細く白い首へと伸びた。金のある両親のもとでぬくぬくと育った、お嬢様のチヨが派手に抵抗など出来るはずもなく。

か弱い抵抗のすえ、チヨは動かなくなった。

 この汚い女はもしかしたら、自分を騙しているかも知れない。疑心暗鬼に陥っていた清次郎は、部屋を見渡す。ガラス細工のインテリアを見つけるとそれを手に持ち、彼女の頭部を必死に殴った。

顔面の判別がつかなくなるほど、ずっとずっとずっと殴り続けた。

 ピクリとも動かぬ肉塊を見下ろして、手に持っていた鈍器を離す。ゴトリと重々しく床が鳴り、血液と肉片がべっとりと付着したそれは床を転がった。


 窓から外を見れば、村外れの自宅はまだまだ赤く燃えている。

思い出の家はもうない。帰る場所も待つ人もいなくなった。

 チヨが死んだというのに憎しみが消えなかった。どうすれば自分は救われるのか。

そう思ったときだった。


 バタバタと走ってくる音がする。若い声が聞こえる――弦一郎だ。恐らく二人組だろう。弦一郎とその舎弟といったところだろう。

どちらにせよ、清次郎からすれば実家に引火した殺人犯だ。だったらやることは決まっている。

 清次郎は、床に転がる凶器を再び見た。まだチヨの血液は乾いておらず、テカテカと光っている。

それを再び手に取ると、入り口の資格に身を潜めた。そして待った。


 清次郎がそこで待機しているとは夢にも思わない弦一郎は、まんまとやられてしまった。まず入ってきた弦一郎が鈍器で頭を殴られ、倒れていく弦一郎を呆然見ていた連れの男も逃げる時間もないまま殴られた。

 この短い時間で、チヨの部屋には三体の死体が転がることとなった。


 清次郎は弦一郎を殺しても気持ちが晴れなかった。どうして、などと思う前に自分が彼らのような化け物になってしまったことを恐ろしく思った。血に(まみ)れた自分を見て震えが止まらなかった。

だが不思議と「なんてことをしてしまったのだ」という気持ちはわかなかった。それは当然だが、清次郎の中で彼らには然るべき罰を下したという気持ちが強く根付いていたからだ。


 家も鎮火した頃。

村の外れにある森で自殺している清次郎が発見された。首を吊って死んでいた。

村の医師が言うには、首など吊らずともこの酷い火傷からは持って数日の命だったという。

 蔵にあった日記によって、村人は彼らに何があったかを知ることになった。

娘とその許嫁を失った里田家は、隠しきれなくなった事実と居場所を失ったことより、追われるように村を後にした。

 森に吊るされていた清次郎の遺体はきちんと埋葬されたものの、蔵と母屋は恐ろしくて誰も触れようとすらしなかった。


 古き良き日本家屋に目をつけた金の亡者が建て直すまでは。

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