三、過去への入り口
結局普段料理担当の逸子が食材を選び、すゑが荷物持ち、支払いは契約通り美和子となった。
来た道をそのまま帰ればあの不気味な家屋が待っている。しかし特にこれといって邪気は感じられず、まだきちんと札の効力が働いているようだ。
購入した食べ物類の片付けを、逸子や美和子に任せてすゑは章浩の縛られている柱のある部屋へと向かった。
部屋に入ると、暴れた形跡もなく大人しくしていたようだ。あの程度の札で押さえつけられるレベルなのだから、今回も何の問題もなく除霊できるだろう。
問題があるとすれば奏が男の顔を覗き込んでいたことだ。まさか憑かれたか。そんな警戒がすゑの頭をよぎる。
しかしそれも杞憂に終わった。すゑの入室に気付くと、恥ずかしそうに奏は男から離れる。
「……ごほん。素晴らしい札ですね」
「初めて見るみたいな物言いっすね」
「? 初めて見ますけど……」
その返答にすゑは驚いた。
「双雲」といえば、彼女にとっても馴染みのある除霊師。電話口から既に不味そうな雰囲気の霊だったから急いだのもあったが、旧知の仲である双雲の名を持つ人間だった為急いだこともある。
とはいっても、彼女に馴染みのあるのはこの、目の前にいる双雲 奏ではない。
「音忠はなにも教えてないんすか?」
「音忠……? あぁ、じいちゃ――祖父ですか?」
「祖父!?」
すゑは頭を抱えて嘆息した。
彼女の言う音忠――双雲 音忠は、双雲の名を持つ除霊師の中でも特に実力のある人間だ。もちろん彼女が出会ってきた中で、という意味だ。
はてさてすゑといえば、知人である音忠が孫すら持っていたことに酷く驚いていた。それだけではない。孫息子がそこまで育つまで、会っていなかったのだ。
てっきり息子かと思っていたくらいだ。時間の感覚がズレている彼女にとって、孫と息子を間違えるくらいには時間がおかしいのだ。
「……じゃあ音忠は?」
「五年前に引退しましたよ。今は実家で若い人向けにセミナーを開いています。除霊師として双雲の名を使うのは、父と俺だけです」
「うっわ、マジすか……」
時代の流れとは残酷なものだ。特に永遠の時を生きているすゑにとっては更にそう思えた。住んでいるボロアパートの築年数が大変なことになっているのも頷ける。
そろそろ引越しも検討していたくらいだ。逸子はもう既に土地に縛られる怨霊ではない。
そもそも逸子の住んでいた家はとっくの昔に取り壊されている。二人は一度引越しを経験しているのだ。
そしてそんな逸子も引越しを申し出ないのは、彼女も彼女で霊として生活してだいぶ長いからだ。年月の経過は分かっているが、感覚では追いついていないようだ。
(……実家から連絡きてほしくないしな……)
引っ越したところであの寺の人間どもは意地でも彼女の場所を見つけ出して、次の季節には「本日はお日柄もよく。お引越しのご連絡がありませんが、いかがなさっておりますか?」などという皮肉めいた手紙を送ってくるのだ。
すゑの収入から考えれば仕送りなどもいらないのに、一族を救ってくれたお礼だと言って聞かない。
逸子が言うにはそれこそ「一度家に戻ってはっきり言わないと」ということだが、その通りである。
「もしかして、すゑ様は祖父と仕事をしたことがあるんですか……? お若いようですけど……」
「おーや、その様子じゃ何も聞かされてないっすね?」
双雲 音忠とは、数いる除霊師の中でも交友が特に深かった。彼の全盛期であった7,80年代には何度も仕事を共にした。今や大きくなった双雲の流派だが、彼が初めて設立した除霊団体だ。
当時は相当苦労していたのをよく覚えている。相談にも乗ったのだから。
まだ若かった彼を見ながら、よこで楽しそうに茶を飲んだのを忘れない。そのたびに逸子が咎めていたのだ。
「あたしからする話はないっすよ。音忠から直接聞いたらどうすか」
「では、帰ったら聞いてみます」
「無事帰れるといいねぇ」
目の前の取り憑かれた章浩を横目に据えて、すゑはくつくつと笑った。彼女がいる限りこの場にいる人間を誰一人とも犠牲にするつもりはなかったが、あまりにも冗談には聞こえづらい状況だった。
尊敬する祖父の知人と、自分の目で見ても手練だと分かるその所業を前にして興奮気味だった奏は、気を引き締めた。
そしてそれを察知するように、すゑが貼り付けていた札がビリと音を上げる。小さくはあるが真ん中が少し破れたのだ。
「おっと、弱めの札だったからな。ハイ貼替え、と……」
上から新しい札を貼って、元の札をサッと取る。
外した札はすぐさま真っ黒となり、灰のようにボロボロと落ちていって畳の上を黒く汚した。
「あ、危なかったですね……」
「ん? まぁね。今の札はちょっとやそっとじゃ外れないやつだから、2,3日は持つっすよ」
「でもそこまで日を伸ばす必要があるんですか? すゑ様ほどの実力者であれば、もっと早く片付けられると思いますが……」
「あのねぇ……」
――何事も段取りが必要なのだ。
事件が起きて人を捕まえるにも、その人物に関して調べ上げて知り尽くさねばならない。傾向を察知して、予測して、どう動くのか。何が動機なのか。
大抵の除霊師がそれを省いているが、すゑは怨霊の元の人間の過去を掘り下げてから除霊に当たる。
今は誰かを呪わざるを得ない、不気味で恐ろしい《何か》に姿を変えているかもしれない。この世に囚われて他人に固執して怒りを恨みを募らせているかもしれない。
だとしても元はすゑや奏と同じ人間だったのだ。
乱暴に祓うだけの除霊はただの暴力だ。
相手もそれなりのことをしてきたのだから、これは正当防衛と言えるかもしれない。そもそも生きている人間に害をなす怨霊なぞ、温情をかけてやる必要などない何ていう人もいるかも知れない。
「長く生きてると分かるよ。誰しも救いがほしい」
「……」
「拒む者もいるけどね。そういう時は荒療治を試すさ。でもまず調べ物をしたい。あたしの除霊での準備みたいなもんすよ」
あたしを呼んだからにはあたしなりの仕事をやらせてもらうよ、と。
すゑを呼んだ時点でこの場は彼女のものだ。それは誰でも分かっていることで、それを承知の上で呼んだのだから誰も彼女の仕事を否定してはならない。
もしそうするようなものならば、この契約は終わり。金はもらわないけど、仕事もしない。
「お手伝いします」
「そ。じゃあ蔵にいこ」
「あそこにですか!? 素人でも分かる邪気のたまり具合ですけど!?」
「あの~」
部屋の入口には逸子が立って――浮いていた。柔和な雰囲気でそこにいる。顔は黒塗りでわからないが、恐らく表情というものがあるのならば微笑んでいるのだろう。
ぽん、と手を叩くと二人に言う。
「早めですけど、お夕飯どうでしょう?」
「この家でですか!?!?!」
「案外ビビリなのかな……」
夕食から暫く。
奏は近所で取ってあった宿に戻っていった。一緒に松原家で寝泊まりすればいいのに、と聞いたが断固として拒否を貫いていた。
蔵の捜索も明日になってから、明るいうちにと強く念を押していた。すゑとしても明るいほうが照明だの何だのを手に持ってウロウロする必要がないため、そのことには同意した。
そして彼女たちの寝泊まりは、この呪われた古い日本家屋である。
家主には予め家具や風呂場の仕様、布団の場所諸々を聞いてある。奏とすゑが喋っていた間に、食材の片付けだけではなく家の案内まで済ませていた頼りになる相棒・逸子のおかげで、これから数日は問題なく過ごせそうである。
「音忠さんのご家族に会えて楽しいのはわかりますけど、あんまりいじめないであげなさいな」
「わーってるよ、ごめんね。逸子さん」
「私じゃなくって彼に謝ってね……」
逸子はハァ、とため息をつく。そんな小さい音がはっきりと聞こえるほど、この屋敷内は恐ろしいほど静かだった。
夜空がすべてを飲み込み、都会の夜のにぎやかな喧騒など縁のない場所。それだけが理由ではないのは、確かにこの不穏なおどろおどろしさが伝えてくれる。
札を付け替えてからは章浩の様子は酷く静かだった。札が効果を成しているのか、はたまた中に入っている何かが一時的に大人しくなっているだけなのか。今の様子からは推測しか出来なかった。
「逸子さんはどう思う? この家とか、諸々」
「そうねぇ……。年代的に、私と同じくらいの人よね」
この家についてからは、不気味な雰囲気とともにどことなく懐かしさを感じていた。生まれた頃の懐かしい日本の雰囲気だ。
だいたい大正から昭和初期近辺だろうか。死んでしまったことと、幽霊として生活をして長い時間を過ごしたせいで生まれた時期が曖昧だが、恐らくそのあたりだったはずだ。
「多分ね」
「変な掟とか風習とか、あったんじゃないかしら」
「今もありそうだけど。それも検討してみるかぁ」
また険しい表情に戻っていくすゑを見て逸子はハッとした。時計を見やればもうすぐ日付が変わりそうだった。
翌日も仕事があるのに遅くまで起きていられない。
逸子もすゑのことを言えないが、死なない体というのはなかなかどうして不便なもので。こうして時間の感覚もあやふやになれば、寝るということも忘れがちだ。
死なないということで慢心してしまい、徹夜三昧というのもよくあることだ。
そういう時は逸子がまるで母親のように諭すしかない。そうでもしないとこの少女の皮を被った老婆は寝ようとしないのだから。
「ほら、もう十二時になるわよ。明日も頑張らなくちゃいけないんですから、寝ましょう。彼のことなら私が見ていてあげますから、今日は瞑想しないできちんと寝て頂戴ね」
超能力で布団の上に連行して、金縛りで布団に縛り付ける。
不死とはいえ肉体を有するすゑと違って、逸子は霊体だ。この時ばかりは自分を棚に上げて寝かしつけて良いのだ。
「……平八さんには寂しい思いさせちゃうな」
「あの人も分かってくれます。さ、おやすみなさい」
「……どうやって瘴気を取り除いたんですか」
翌朝。
宿から戻ってきていた奏は、既に蔵の捜索を開始していた二人を見て驚愕していた。
聞かれた二人はお互いに顔を見合わせて、何を言っているんだという様子だ。彼女達にとってこの程度のこと当然だということだ。
昨晩はあれだけこの蔵を包んでいた邪気が、ほぼない状態まで激減しているのだ。たった一日でここまで取り除けるなど、奏は聞いたこともない。今までは。
やはり彼女は祖父が尊敬するだけあって、相当な実力者なのだと実感した。
「取っ払ってはないっすよ。一時的に緩めただけ。強くなって戻ることもあるから、あんまりいい方法じゃないけどね」
「……なるほど」
「はい、これ読んで」
「これは?」
手渡されたのはボロボロの冊子。時代を感じる、紐でくくられたものだ。
恐らくこの悪霊の原因となる人間が綴ったものだろう。よくこの時代まで無事で残っていたものだ。
蔵の中は特に湿気を帯びているわけでもなく、陽の光もまともに当たらないため、それが功を奏したのだろう。いい保管場所となっていたのだ。
しかもこの松原家以外にもこの家を借りた人間がいるというのに、なぜだか蔵は手つかずだ。数十年も前の本がこうして残っているのが良い証拠だろう。
「日記みたいよ」
「うわっ!」
ヌッと真横から現れたのは、逸子である。幽霊の専売特許であるように、彼女は突然現れることが多いようだ。
まだ出会って二日の奏にとっては、彼女が良い霊で除霊対象ではないという認識があるだけでも十分だろう。手の早い人間によっては、驚きざまに除霊を始めるものもいる。ある意味優秀といえば優秀だが……。
しかしこの、除霊師の中でもトップを行く女には、そうはいかないのだ。彼にはとっとと慣れてもらって、スムーズな除霊を行いたいのだ。
「早く慣れてよ……。逸子さんはあんたより頼りになんだから」
「…………申し訳ありません」
元悪霊よりも下に見られているとは、腑に落ちないが謝るしかない。もしかすると、祖父もこんな経験をしてきたのかと思えばなんとか耐えられた。
むしろこんな突飛なことは何十年も前の時代にとっては、もっと認められないことだ。
きっと音忠は、奏以上に苦労したに違いない。
若かりし頃の祖父の葛藤を思い出しながら、なんとか自分もこの状況を普通に思えるよう頭を心を安定させる。
奏は気を取り直して受け取った冊子を開く。パラパラとホコリが舞って少々咳き込んでしまった。ホコリというよりは劣化の影響で紙がボロボロになっていたのだろう。めくるたびに手にはボロボロになった紙がこびりつき、蔵の床に舞い落ちている。
見た目は綺麗でも中はそこそこ劣化し始めているようで、ようやっと読める程度だ。
冒頭の一文に目を通すと、逸子の言う通りこれが日記だとすぐにわかる。
――○月✕日。おとうさんがないている。おかあさんもくるしそうだ。「さとだ」っていうえらい人が、くるしめているらしい――
「どういうことですか?」
「「さとだ」……この村の権力者かな? もしかしたら、ご両親が脅されていたのかもね」
「これはどうかしら?」
逸子が持っていた別の冊子を見せる。最初の一冊よりは比較的新しめで、もっと年齢が高くなってから書いたものだろう。
幼少期からまめに日記をつけているとは、滅多に出来ることではない。
もしかすると筆者にとっては日記をつけることで日々のストレスを発散していたのかもしれないのだ。
書かれていた内容はこうであった。
――△月○日。今日彼女と遊んだ。母は里田に近付くなと言うが、僕は彼女を愛してしまった。――
「また「里田」ですね……」
「脅しに警告。この名前の家が何かしら関与したのは明らかっすね」
ぱっと見れば恋をしている男の日記だった。だが書かれている内容からところどころ不穏を感じる雰囲気なのだ。そして出てくるのは「さとだ」「里田」。付随する言葉は大抵ネガティブで、「会うな」「付き合うな」などと言った警告ばかりだ。
しかもそれはこの男に向けて、親から放たれている。子供を案じてのことだとすれば、この「里田」という家は相当厄介なものなのだろう。
そうはいえど書かれている内容が内容だ。
新しいものに至っては何度も女は汚い生き物だと書き記されていて、女に対する憎悪や嫌悪が詳細にまで書かれている。しかし特定の誰かという記述はどこにも見当たらなかった。
「「女は汚い」とのことがありますし、しきりに言っていた「綺麗に」という言葉と結びつく。でも変化がありすぎじゃないすかね。間に何かあったんだろう」
奏の言葉に、逸子もすゑもあたりを見渡した。幼少期からこまめに日記をつけていたこのもともとの家主。だがパッと見た感じでは、ここの蔵には全ての日記があるようではないらしい。
空白の期間が存在するようだ。
「大変、ちょうどその期間の日記がないわ……」
「付けていないか自分で処分をしたんですか。よっぽどの事があったんじゃ……」
「人を恨んで殺し続けるのに十分なほどの理由か……。もう少し探してみよう。なにかヒントがあるかもしれない」
三人は手分けして蔵を再度捜索し始めた。
日も高く昇り、時計は昼を指していたが蔵の中は涼しい。霊体である逸子がいるせいであたりがひんやりとしているのだ。
その恩恵にあやかっていることを奏は気付いていない。
そして始めは怨霊の経歴を調べるにあたって文句を言っていた奏だったが、こうして日記を読んだり書物を探したりして掘り返していくうちに、どんどん夢中になった。
こんな手法取ったことがなかったから余計だ。尊敬する祖父が信頼し、最も優秀だと思っている「延来院すゑ」。その除霊方法を目の前で見て、感化されて虜になっていくのは時間の問題とも言えよう。
――双雲は独自で作り出した除霊専門業者と言ってもいい。すゑのように寺生まれではないが、独学で力をつけて除霊師の中でもトップの実力にこぎつけた。
奏の祖父である音忠に言わせてみれば、すゑとの出会いがなければそうはなれなかったという。
しかし孫である奏にはすゑに関することはまだ何も伝えていないのだ。
奏がすゑと出会ってから、もしくは自身が初めて出会ったときと同じ年齢になったら、伝えようと思っていた。
若い人間は年寄りの昔話を嫌うかもしれない。それは最近も昔も変わらないことだ。年寄りは敬遠されがち、音忠もそれを分かって敢えて伝えないでいた。
奏は昔からいい子だったから、そんなことはないかもしれないが、それでも数十年も前の――なんと言ってもたいして大きな活躍もしていないルーキーだった頃の話なんぞ退屈かもしれない。
もちろん、偉大な祖父を敬愛している奏にとってはどうでもいい悩みなのだ。もう一緒に働けることなんてないが、それでも話を聞けるだけで奏にとっては良いことであった。
どちらにせよ「延来院すゑ」という存在は、いずれどこかのタイミングで語らねばならない大事な存在。少なくとも「双雲 音忠」ひいては「双雲家」にとって大事なことなのだった。
「おふたりとも!」
蔵の奥から、奏が声を上げる。手に持っていたのは小さな紙切れ――写真だった。