(8) 宇宙エレベーター「ターサ」の昔話
アリシアさんの演説から帰ってきました。パーリャはただただうれしかったみたいですが、マエークはちょっと気になることがあったようです。今日は宇宙エレベーター「ターサ」の秘密と、宇宙エレベーター建設秘話に迫ります。
「いやー、思いがけずアリシアさんの名講演、聞けちゃったねえ~。お得でしたっ!」
コンパートメントに戻るやいなや、そんな発言をしてパーリャがいい笑顔を見せた。
「あれって、完全に『宇宙エレベーター講座』だったよな。だいぶ感情入ってたみたいだけど」
彼女、本当に宇宙エレベーターと、この仕事が好きなんだろうな。パーリャの話だと、突然この会社の社長の立場が転がり込んできたように聞いたけど。やっぱり、ちゃんと仕事に生きがいを見つけてる、そんな風に見える。
「この仕事が好きなんだなあ。生き生きしてる」
パーリャはそんな僕の意見に驚いたように怪訝な顔で振り向いた。逆にその剣幕に僕の方がびっくりした。
「ど、どうした?なんか変なこと言ったか?」
するとパーリャはすこし安心した顔に戻って、
「ううん。そうだね、生き生きしてるよね。彼女」
と、ため息交じりに笑った。僕の目にはどちらかというと「苦笑い」に見えたけれど。
お昼に突然始まったアリシアさんの講義も有益だったけど、午後はどうしようか。……といっても、今からではもう午後のプログラムの予約期限は切れている。まあ、焦ることはないか。今日は一日のんびりしていよう。ちょっと調べたいこともあるしね。そういえば、パーリャはどうするつもりなんだろう。
「パーリャ、午後はどうするんだ?僕は何も予約もしてないし、ここでのんびりしてるつもりだけど。」
「あ、そうそう。私は、あれ。『無重力体操I』。昨日アリシアさんに聞いたから、予約しといたんだ。」
「なんだよ、僕に黙って。」
「だって、お兄ちゃん、意識がなかったんだもん」
そういやそうだった。まあそれはしょうがないか。たまには別行動もいいだろう、……っていうか、べったりくっつきすぎなのも引かれるよなあ、普通。
「そうか、まあいいや。行ってきな。やせて来いよ」
「そんなんじゃないよ。興味があっただけ。あ、でもこの状況じゃ、仮にやせたとしてもぜんぜんわかんないね。もちろん太ったとしても、わかんない。私もう3日も体重計ってないや。うわー、急に不安になってきた」
「スラックスのボタンとか留めにくくなってないか?」
「なってないよ。もともとそんなにタイトじゃなかったし」
「じゃあ、まだ許容範囲だってことだな。よかったじゃん」
「せいぜい、運動量の増やし方、習ってくるよ」
そういって、なにやら準備をしていた。教室では体操着みたいなのを借りられるそうだが、いずれにしても着替えやタオルを用意していかなきゃならないようだ。あと、女の子たち特有の化粧道具とかそういうやつも必要だろう。具体的にはちっともわからんけど。
ひとしきりごそごそと準備をして、パーリャは勇ましく出ていった。
さて、久しぶりに一人の時間だ。なにをしようかな。
……そうだ、調べたいことがあったんだ。そう思ってスクリーンにブラウザを表示する。
「『The 1st Space Elevator 調べてみて』」
アシスタントがネットからいろんな情報を引き出してくれる。さっき、アリシアさんが言ってたこの名前が少し気になっていたんだ。これまでの事前レクチャーで少しは聞いていたんだが、そう気にはしていなかったこの宇宙エレベーターのこれまでの経緯を今はちゃんと知りたくなった。
アシスタントが出した資料を、いろんなキーワードで絞り込んで、ところどころ拾い読みしていく。そうか、ちょっとだけ経緯も書いてあるけど、他にあるかな?あと、このMDRって企業も調べたい。
「『宇宙エレベーターの移転の記事はある?』」
「253件該当しました」
「あと『MDRの企業概要と設立経緯が知りたい』」
「1万件以上あります。最新のものから並べますか?」
「いや、『2100年以前のものが見たい』」
「8816件存在します」
ふうん?現在は検索範囲を新聞や報道雑誌のニュースに限定しているのだが、さすが多国籍の大企業だけあって、かなりの量の良質な記事が並んでいる。それらをところどころ斜めに読んでいくだけで、宇宙エレベーター移転に至るおおよその経緯がわかり始めた。要約すると次のようなことだ。
現在僕たちが昇っている宇宙エレベーター『ターサ』は、アリシアさんも言っていたように、もともとは『The 1st Space Elevator』と呼ばれていた、文字通り世界で最初に建造された宇宙エレベーターだったようだ。
21世紀の後半ごろ、高靭性繊維としてのCNTに焦点を当てた実用化競争が各国で起こり、世界中のいくつかの勢力がそれぞれに「最初の宇宙エレベーター」をめざして開発競争を展開し始めた時期があったようだ。
CNTは、もともと優れた特性が多く、あらゆる物質の中で最も光の吸収率が大きいとか、摩擦係数が極端に少ないとか、電気伝導率が非常に高いといった、それまで知られていた物質にはない特長が多すぎて、いろんな方面でばらばらに研究されていたそうだ。そのせいで、宇宙エレベーターのテザーとしての利用に着目した研究は、どちらかというと後回しにされてきた経緯があったらしい。しかし、それらの研究が進みだしてある程度成果が出てくるようになると、ようやく「軽くて強い」という性質についても研究されるようになったんだという。
そんなこともあって、宇宙エレベーターを実用化するためのCNTの高靭性繊維としての研究が進み始めた頃には、自勢力での研究開発によって、次代の宇宙開発の覇権を握ろうと、これまで以上に大規模な予算投入が行われるようになっていった。それでもちろん理論や技術の蓄積は順調に行われていったのだが、自勢力の研究開発を促進する傍らで起こったのは、他勢力に対する研究開発の妨害行為だったという。
もちろん最初は水面下だったので、ほとんど人に知られるものではなかったのだが、実験データのハッキング、研究論文の秘匿などはまだかわいい方で、やがて研究者の強引な引き抜きや誘拐のような事件性のある騒動まで起こるようになってしまった。そんな流れで、当時としては各分野で常識となっていた基礎研究データの国際共有も、宇宙エレベーター分野の研究に関してはほとんど行われないようになってしまったらしい。
そのような中で、宇宙エレベーターの具体的な建設を始めるにはどうしても通過しなければならない関門があった。それは「宇宙法」の改正。さらには航空法、宇宙財産法、宇宙資源管理法、衛星運用基準など、宇宙だけでなく、産業や交通、果ては国境に関する部分まで、大規模な国際法の整備がどの勢力にとっても必要だったのだ。
宇宙開発の新時代を迎えるためには、1国で技術開発をするだけではすでに不充分で、国際的なかじ取りが必要だと多くの国々の指導者たちが悟るのに、20年は無駄にしたと主張する記事も見つかった。
そんな状況の打開に、中心的な存在感を示したのがMDRという企業の創始者、ゼニス・ナカイという人物、アリシアさんの曾祖父に当たる人だ。
もともと彼が2051年に立ち上げた企業は、Mental Design for AI and Robotics, Inc.という名で、今ではいろんな方面の事業に手を広げていて、すでにAIやロボティクスだけの企業ではなくなっている。そんなこともあって、その名称に関して「単なる『MDR』という固有名詞で、特に何かの略称を表すものではない」ということに現在ではなっているそうだが、創業時はAIアシスタントにキャラクター付けを行うためのデザインを受注する企業だったようだ。
現在あらゆるところで使われるようになったAIアシスタントには、あまり濃いキャラクター(性格)はつけられていないことが多い。というのも、当たり前の仕事を当たり前にこなすのに、キャラクター付けは非効率や間違いを生む場合が多いからだ。それに対して、教育や介護、看護などの人と密接に接する場面や、劇場、アミューズメントセンターなど娯楽の場面などでは、キャラクター性が非常に重要な役割を果たすことが多い。接客や接待などでも、キャラクター付けは活用されている。そのような市場を開拓し、それを一大産業にまで育て上げたのがゼニス・ナカイ氏だったのだ。
その産業は本格的AI普及の時流に乗ってたちまち一つの国の基幹産業の規模にまで達し、ナカイ氏は創業から10年余りで、ビリオネアの仲間入りを果たしたのだった。
そうして大企業の総裁となったナカイ氏が次に着手した仕事というのが、宇宙エレベーターの建設だった。ただし、いきなり建設会社を立ち上げたわけでも、研究所を創設したわけでもない。彼がやったことは、実業家として各国の建設担当大臣や産業振興担当大臣などのキーパーソンに、建設補助設備の提供を直接提案することだった。ある記事の表現によると「あなたが自勢力の宇宙エレベーター創設事業の推進者となれるよう、MDRが宇宙エレベーター建設のための重機としての輸送システムを提供します」といった提案を持ちかけた、などと書かれていた。
前提として知っておくべきことは、宇宙エレベーターは最初に建設する時の苦労が一番大きい、ということだ。というのは、宇宙エレベーターを初めて建設するときには、宇宙に質量を持ち上げるためのしくみはロケットしかない状態であるからだ。ところが、実はロケットというのは、地表から物体を宇宙に持ち上げるためのしくみとしては、絶望的なほど非効率なシステムなのである。
現在でこそほとんど見なくなった地表からのロケット打ち上げだが、以前はもっと頻繁に行われて、地表から宇宙に直接質量を持ち上げていた。宇宙エレベーターが建設される前で、それが唯一地球から飛び出す方法だったのだから仕方がない。しかし、ロケットのその仕組みは、様々な点で無駄の多い仕組みなのである。
まず、地球から衛星軌道に上るためには、ロケットだと数分間で秒速数キロメートルという速度に達しなければならない。たとえば秒速7.6kmまで加速してやれば、高度500kmあたりで衛星軌道に乗ることができる。秒速7.6kmと言えば、時速では2万7000km以上というとてつもない速度だ。そのためにロケットは地表で推進剤と酸化剤を合わせて一気に燃焼し、膨大なエネルギーを爆発的に発生させて、巨大な質量を加速し宇宙に昇っていくことになる。
この時、ロケットエンジンの内部は超高圧になる。それがロケット打ち上げでしばしば起こる爆発事故の主な原因となる。逆に、爆発事故を起こさないためにロケットエンジンを丈夫なものにしようと思えば、それはエンジン自身の重さを増す原因となり、さらに大きいエネルギーを発生させなければ飛び立てなくなる。そこで重量の増したエンジンを持ち上げるために推進剤、酸化剤もさらに増量されて全体の重量に加算されることになる。
そうして順調に地表を離れたとしても、エンジンの噴射は数分間は続けなければならない。その数分間に加速するのはロケットに積む貨物だけではなく、ロケット本体も、丈夫で重いエンジンも、そしてそれらを加速するための推進剤や酸化剤そのものも一緒に加速してやらなければならない。言い換えれば、ロケットに積まれる推進剤や酸化剤の大半が、貨物だけではなく、その推進剤自身を持ち上げ加速するために消費されてしまうのである。
だからロケットは、地表から出発した後不要になった第1段のエンジンやタンクを切り離して軽くなり、2段目の燃焼が終わればそれも切り離して捨て、最終的に宇宙に達するのは打ち上げた全体の質量から比べれば、数%程度にしかならない。しかも捨てられた第1段や第2段のロケットは、高圧にさらされた結果疲弊して再利用できず、たとえ再利用が可能だったとしても回収は困難で、結局使い捨てられるのが普通である。
最初に作られる宇宙エレベーターは、ロケットというそんな非効率的な装置を使って、テザー(初期の最も細いものの束でも40t程度の重さになる)やカウンターウェイト(配置する距離にもよるが、やはり大きい重量であることが望ましい)を宇宙に持ち上げなければならないわけで、経済性のことを考えればとんでもないコストを必要とする計画にならざるを得ないのだ。
そのようなロケットを使用した際の建設に比べて、もし宇宙エレベーターが利用できるなら、爆発的な燃焼も使い捨ても不要である。電車で荷物を運ぶように、ただ荷物を載せてモーターの力、すなわち電力を使って昇っていき、宇宙に運んで帰ってくればいいだけだ。昇った宇宙機も、特に消費する部品もなく整備すれば何回でも再利用できるものであるし、使用するエネルギーは地上、または宇宙空間での太陽光による発電の電気を利用すればよい。何より帰りの際には地球の引力に引かれて降りてくるのだから、回生エネルギーを回収して、充電しながら帰ってくることさえ可能である。宇宙エレベーターとは、ロケットの非効率さがうそのように、地表と宇宙を効率的に往復できるシステムなのだ。
もし、1基でもすでに完成した宇宙エレベーターがあれば、2番目以降の宇宙エレベーターは、資材を宇宙空間に持ち上げるという一番重要で、しかし負担の多いその作業を、すでに建設された宇宙エレベーターに任せることができる。打ち上げにロケットも使わず、ただ衛星軌道上に準備された資材を使って、粛々と組み上げていけばいいのである。それは言い換えれば、最初に宇宙エレベーターを作った者が、その後に続く者の運命を握ることができるということでもある。
しかしこれまでにも続いていた、各勢力同士の妨害活動のこともそれぞれの頭の中には明確に残っている。完成した宇宙エレベーターに対してその稼働を妨害しようとする者がいたとしたらどうだろう。宇宙エレベーターの妨害は、実は非常に簡単である。10万キロの間のどこでもいい。テザーを1か所、ぷつんと切ってやればいい。10万キロという宇宙規模に広大な空間のすべての場所に対して警戒するのは不可能であるし、ぷつんとテザーを切った後で、「デブリでも衝突したんじゃないの」としらを切ってやることも簡単だ。
各勢力とも最初の建設者になりたいのはやまやまだ。そうなれば、その後の宇宙開発のすべてを握ることができる。しかしどこかの勢力がそうなったとしたら、困るのはその他全員だ。どんな手を使ってでも、自身以外の誰かに先んじられることがないように工作するしかない。全員がそんな疑心暗鬼に囚われている状況で、最初の建設者に進んでなりたがる者がどこにいるだろう。お互いにけん制するだけで、何の行動もとることのできない膠着状態になることは目に見えていたのだ。もし誰かが建設中の宇宙エレベーターに対して建設を妨害する決定的な行動を取ったら、一瞬で全員がふりだしに戻ってしまうのである。
そのような状況でナカイ氏は各国のキーパーソンを直接訪ねて約束した。私の企業がその役目を負いましょう。最初の宇宙エレベーターを自費で準備し、貴勢力のより本格的で実用的な宇宙エレベーター建設のための重機として使っていただきましょう。貴勢力の建設が終わった時には、最初の宇宙エレベーターは凍結保存し、博物館の展示物として残すことだけは許してください。展示用の宇宙エレベーターとしての保存だけは許していただきますが、産業としての利権はすべて貴勢力にお譲りしましょう、と。
それを、当時宇宙エレベーター建設と、そして他勢力の妨害競争を繰り広げていた4つの勢力にほぼ同時に進言したのだ。さまざまな記事では、2076年のことと推測されている。
それをきっかけに、宇宙エレベーター建設は急速に前進を始めた。それまでの停滞を取り戻すように、4勢力が中心になって、国際法の整備、建設地の調整、建設計画のすり合わせ、不要な人工衛星の回収とデブリの除去、地球周回軌道の利用原則の創出とその実施の徹底、宇宙太陽光発電所の建設計画と役割分担、それに伴う資源消費型発電所の撤廃計画の策定と実施、……と様々な方面に動き出した。
その時MDRは、真っ先に宇宙エレベーター建設の国際的な許諾を取り付け、東太平洋上、ガラパゴス諸島以西の一定の領域の非戦非領土化に関する条約を締結させたのだ。もちろんもともと公海上の、何の資源も発見されていない領域であり、誰ひとり反対する勢力はない。条約は、各勢力の代表と国際機関の代表がその海域に直接おもむき、海上でセレモニーと共に条約締結の手続きが行われた。
そのおぜん立てをしたのもMDRとナカイ氏で、その時に使用したエクアドル籍の船の名を取ってプラニトゥード条約と呼ばれるようになった。この船も現在は宇宙エレベーター博物館の海上展示施設として係留されている。そして具体的な初めての宇宙エレベーター建設がそこから始まったのである。
2092年、建設開始から11年かけて「最初の宇宙エレベーター」が完成。それに前後して他の勢力の宇宙エレベーター建設が4か所でほぼ同時に始まった。「最初の宇宙エレベーター」は、あらかじめ計画された手順で、文字通り重機として4基のエレベーター建設用の資材やロボットと人員、軌道上で稼働するCNTプラントから移送用ロケット、推進剤、酸化剤、材料炭素、水にいたるまで、必要なものをなんでも輸送した。そして2100年、4基のリニアモーター式宇宙エレベーターが各地の赤道上に完成するに至ると、「最初の宇宙エレベーター」は老朽化を理由として直ちに使用凍結、1年かけてさらに西の海上、現在のターサ島沖に移転され、最初の約束通り歴史的遺物として保存され、アースポートは博物館に改装されて今に至る、というわけだ。
宇宙エレベーターにとって、理論や設計はともかく、大きな意味でこれを現実のものとした大恩人であるところのゼニス・ナカイ氏は、「最初の宇宙エレベーター」の完成直後にMDRの経営陣から引退し、その後は気ままに世界各地を転々としていたらしい。そして4基の宇宙エレベーターが完成したのを見届けて満足したかのようにその翌年、滞在先の中東で亡くなったと記されていた。たぶんそれはアリシアさんが生まれる前のことだろう。アリシアさんと曾祖父は、直接顔を合わすことはなかったはずである。
そのアリシアさんが、なぜ曾祖父の最後に残した事業とこの宇宙エレベーターを引き継ぐに至ったのか。今、彼女はこの宇宙エレベーターを使って観光事業に乗り出したばかりだ。でも、スタッフの様子を見ても、彼女の献身的な働きぶりを見ても、並々ならぬ情熱や意思がそこにはあるに違いない。その根元には何があるのか、知りたいという欲求が僕の中で頭をもたげてきた。
もう少し、今度はSEMの設立経緯を調べなければ、と思ってはっとした。それはアリシアさんのプライバシーにかかわることではないのか。いや、単にある企業の設立の経緯に興味があるだけ、と思う一方、アリシアさんがどんな思いで今の仕事をしているのか。なにか力になれることがあるのではないか、という妙に個人的な思いがそこに存在するのではないか、などとも考えてしまう自分に気が付いた。
自分の思いがなんとも整理できない、と悩みかけたとき、パーリャがけたたましく帰ってきた。
「お兄ちゃん、いるー?帰ってきたよー!」
僕は、まあ急ぐことはないか、と資料を一時フォルダにしまって、ブラウザを消した。
「あ、あわててなんか消した!なんか変なもの見てたっ?」
「変なものってなんだよ。ちょっと調べ物をしてたんだよ、ほら!」
僕は、いったん閉じたフォルダをもう一度開いてパーリャに見せる。そこには膨大な資料のタイトルだけが並べられている。
「んー、なんか妙な怪文書?……って、あー、最初の宇宙エレベーターって話?そういやアリシアさんがそんなこと言ってたね。お兄ちゃん、それ調べてたの?なんかわかった?」
「ん、まあこの『ターサ』って宇宙エレベーターは、もともとあった『最初の宇宙エレベーター』を移転してここに設置しなおして、改修したものらしい。海上に作られてる宇宙エレベーターって、海上のアースポートとGEOステーションを結んでるけど、地面に固定されているわけではないんだって。人工衛星を避けたり、テザーのテンションを調整するために、結構自由に動かせるんだってさ。自由って言っても、赤道に沿った範囲の話だけどな」
「あーそうかー、テザーって地面に杭打って結んでるわけじゃないんだね。だからある程度動かせるってわけか」
「もちろん、海上のアースポートを動かすためにはGEOステーションとも同期を取って、慎重に動かさなきゃならないわけだし、他の人工衛星や衛星軌道ステーションの通過スケジュールとの調整なんかもあったりするから、けっこう大ごとらしいんだけどね。それを20年位前にこいつはやったらしいんだ」
「はあー、そう聞くとすごいねえ。だけどどうして動かさなきゃならなかったんだろう?」
「まあ、話せば長くなるけど、老朽化で利用しなくなったんで博物館で動態保存するために、次に建設される新しい宇宙エレベーターと場所を交代したってことみたいだよ。つまり、後進に道を譲った、ってことだ」
「ふうん、これって結構古い宇宙エレベーターなんだねー。今でも十分働けてるのに」
「十分働けるように、きちんと改修再生したのが、アリシアさんたちのやったことなんだよ。わかってなかったのか?」
「ああ、なるほど、そこにつながるわけね。ああ、わかったわかった。つながった!」
やっぱりよくわかってなかったらしいパーリャには、このくらいの説明でいいだろう。僕は話題を変えることにする。
「それで、無重力体操って、どんなだった?ちゃんとやせたか?」
「ああ、そう!あのねあのね、私ぜんぜん太ってなかったよ?」
「んー?なんで体重計れたんだ?それってなんかごまかされてないか?」
「違うよ!あのねえ……」
パーリャの話では、まず予定されていた教室の前でレオタードみたいな体操服を借りて、更衣室で着替えてから教室に入ったんだそうな。でそのあとコーチが、いくつかのグループに分けたらしい。コーチは男性と女性の二人いたらしいんだけど、男性のコーチは、やっぱりあのセルゲイさんだった。女性の方のコーチは初めて見る人で、アリシアさんよりは年上に見えたけど、若くてすらっとした人だったらしい。
で、無重力体操にもいくつか種類があって、もちろんダイエット目的というか、筋力が落ちるのを防ぐというか、筋肉をガンガン使ってカロリーを盛大に消費させたい人向けの「ガンガンコース」と、無重力の環境を利用して普段使わない関節を鍛えたり、身体の姿勢を正しく保てるように矯正して、姿勢から体調と内臓の働きを安定させる「しなやかコース」が選べたんだそうだ。
「ほんとは、カロリー消費を目指していきたかったんだけど、いやまあ、なんというか、いろいろなものに押されまして……『しなやかコース』を受けてきました。女性は全員そっちだったよ。だって『ガンガン』コースのコーチって、セルゲイさんだったし……」
「うん、そんな気がしてた。で、体重増えてなかったってのは?」
「で、コース分けした後、コーチがなんか機械を持ってきたんだよね。一瞬『ぶらさがり健康器』かと思っちゃったけど、『慣性体重計』なんだって。無重力とか低重力とか、1Gじゃないところでも体重が計れる機械なんだってさ。で、それで計ったら、出発前とぜんぜん変わってなかったの。ヴイっ!」
Vサインを出して、パーリャは喜びを表現する。慣性体重計って、そういうもんがあるんだな。体重じゃなくて、質量を計るってわけか。ふーん?
「それで、あとはこんなのやってたの。いい、見てて?」
パーリャはコンパートメントの中央あたりの床に立って、すう、と呼吸を整えた。マグをオフにして腕をゆっくり挙げて、一瞬静止したと思うと、ぴょんと空中に飛び上がり、きれいに半回転した。そのまま天井に足から降りて、今度は腕を逆方向に回転し、身体をうまくひねって元の床にゆっくりと舞い降りた。そのままタイミングよくマグのスイッチをいれて、床に直立した。なんだかよくわからないが、まさにしなやかできれいな、ちょっとしたアクロバットのようなアクションだった。僕は思わず「おお~!」と拍手した。
「今日できるようになったのはここまでなんだけど、ちょっとかっこいいでしょ?」
「おお、なんかすごいな」
「ここまでやらなくても、単にジャンプして天井に腕で着地して、今度は腕で天井を押して、また床に降りるってだけでも、繰り返せばけっこう手足の運動にはなるってさ。お兄ちゃんもやってみたら?」
「ふーん、そういうのなんて言うんだろ、曲芸?1Gじゃできないよな?」
「フローリッキングとか言ってたね。そりゃ1Gじゃできないよ。でもコーチのネイネイさん、もっとすごいのを色々見せてくれたよ。ひねりが入ったりね。無重力サーカスにでもいたのかなあ?」
「ネイネイさん?」
「いつも第2食堂でフロアスタッフやってるんだって。だから見たことなかったんだね」
「ふうん?スタッフの人ってみんな芸達者だなあ。セルゲイさんの方はどんなことやってたんだろう?」
「さあ、別の部屋でやってたみたいだから私は見なかったけど。男の人ばっかりだったよ。なんとなくそんな風にグループ分けされちゃったんだね。終わったときはみんなでぜえぜえ言ってたもん。お兄ちゃんも今度チャンスがあったら、参加してみたら?」
「ツアーの最後あたりで、見るからにデブってきたら参加するよ」
「ほお、お兄ちゃんがセルゲイさんにしごかれてカロリーを搾り取られている未来が見える……」
「変な未来、見るな!」
そんなこんなで、お互いの午後の成果を披露しあった。僕の方の成果は、まだちょっと内緒にしておこう。もうちょっと調べてみる必要もあるしな。
その後、パーリャは「あー、いい汗かいた!」と言ってシャワールームに入っていった。ここのシャワーは、天井の上と下に小さな穴がいっぱい空いていて、上から適度な温度のお湯が出てきて、下の穴から吸い込まれていくという仕組みになっている。水と一緒に温風も流れてくるので、皮膚は一瞬水でおおわれるけれど、すぐに下に流れていき、まるで重力があるかのようにどんどん下に流れていく。
無重力を体験した宇宙飛行士なんかの話だと「水で顔を洗うときには気を付けないと顔に水が張り付いて取れなくなり、窒息することもある」というような話もよく聞くのだが、ここではそんな風にして、水が張り付くのを防いでいる。水が顔に張り付いたら、ちょっと上を向けば、すぐに温風が来て水を流していってくれる。そして、シャワーを浴び終わったら、最後にお湯だけ止めて温風だけ流せば、乾燥までやってくれるというわけだ。
そんな中でボディシャンプーとかシャンプーを使って体を洗うこともできる。もちろんこれらのシャンプーは宇宙空間専用のものなのだが、洗い方とか泡立ちはほとんど変わらず、地球にいるときと同じように体をきれいにすることができる。これらのシャンプーが特別なのは、体を洗ったその後のことなのだ。シャンプーを流した水は、シャワールームの床に空いた穴から吸い込まれていくのだが、それら使用後の水はすべて回収され、そこに含まれている不純物などを取り除かれて、再びトイレやシャワーの水として使用するようになっている。
つまり、宇宙空間専用のシャンプーとは、無重力専用ということではなくて再生して再利用しやすいという効果を持っているシャンプーということなのだ。だからこれらの製品は、シャワー施設の普及とともにいろんなところで使われていて、衛星ステーションはもちろん、水が比較的豊富な月面基地でも利用が広がっているという。最近は地球上でも、環境汚染を防ぐために使われることが増えているようだが、まだ値段が高いのと、商品の数が限られているので十分普及するまでには至っていない。
いずれにしてもそんな感じで僕らは毎日、地球上にいるときと同じように暮らすことができている、というわけだ。
僕たちはそのあと、夕食の時刻までちょっとしたティータイムを楽しんだ。ついでに、明日以降のオプションプログラムの表をじっくり眺めて検討し、「大気圏外天体観測体験」、「無重力実験室」、そして「宇宙エレベーター講座II・III」に予約を入れておいた。もちろん、トレッドミルの日課もこなしたし。そろそろ夕食に行くことにしようか。
ツアー3日目 現在地点:高度1万8200km 地表からGEOまでの中間地点を通過した 重力は0.06G
パーリャはやせたかどうかはともかく、とりあえず無重力ワザを憶えてきたようです。マエークはひとりで調べもの。いろんなことがわかったようですが、宇宙エレベーターのことが知りたくて調べ始めたのに、最後には、興味の矛先はアリシアさんに移っちゃってたんではないかな?まだまだ秘密がありそうですね。
宇宙エレベーター建設のお話は完全なフィクションですが、僕は個人的にはこんなふうにでもしなければ、宇宙エレベーターって建設できないんじゃないかと思っています。世界的な大富豪がポンとお金を出して、いろいろと難しいことを解決しながら推進してくれるのが一番早いように思うんですけどね。これを見ている方々の中に、大富豪の方がいらっしゃいましたら、ぜひお願いしますね。