(5) 無重力酔い
今日は、初めて食堂でほかの乗客と食事をします。そろそろ重力が弱くなってきていて、いろいろ勝手が違うようですが、乗客はみんな、一通りは事前に学び訓練も済ませています。あとは実地で慣れるだけの状態ですので、そうトラブルは起きません。でもトラブルって思わぬところに潜んでいて、突然やってきたりするんですよね。
今は2日目の昼食時間だ。今日は、初めて食堂で食事をすることにした。聞くとここが第1食堂で、もうひとつ下の階に第2食堂があって、同じような広さらしい。さっき行われたプログラムのおひとり様のグループは、そこを起点として車内を見学したようだ。
どこに座ろうかと周囲を見渡したちょうどその時、見知った顔の紳士が声をかけてきた。
「あ、マエーク君とパーリャさん、お食事ですか?」
「ああ、ボシュマールさん。はい、僕たちはここでの食事は初めてなんです」
「よかったら、ご一緒していただけませんか?座席も少ないようだし」
本当だ。いつの間にかおおよその座席がうまっている。もともと狭い部屋で、ボックス席も3席しかないようだし、あまり選択の余地はない。今空いている唯一の4人掛けボックス席に手をかけて、ボシュマールさんはちょうど座ろうとしていたところだったようだ。
「ええ、こちらこそよろしければ同席させてください。もう席が空いていないようです。」
「どうぞどうぞ。我々も今来たところなんです。『おーい』」
最後の「おーい」は、フロアのアシスタントAIに人数が増えたことを知らせる呼びかけだ。テーブルの小さなディスプレイは僕とパーリャがつくだろう座席を少し明るく照らし、オーダーを通したことを知らせてくれる。
「ありがとうございます、失礼します」
「こんにちは。ボシュマール様、奥様」
パーリャは、こんなときは結構完璧にお嬢様を演じることができる。さすがに宇宙機の中なのでドレスは着ていない。ショートパンツ姿だけれど、立ち居振る舞いは完璧に育ちのいいお嬢様のそれだ。仕方なく、僕もパーリャのエスコートをして椅子にかけさせてから自席についた。
「まだ多少重力が残っていますから、座席に座れますけど、そろそろこうして席に着くのも難しくなっていますね」
僕がそう言うと、ボシュマール氏は深くうなづいて、
「ほんとだよ。僕ももうマナーを気にするのがつらくなってきてるんですよ。少しくずれてもどうか許してください。」
ボシュマールさんは、たぶん40代後半か50代前半くらいかな?奥さんの方は40代くらいなんだろうけれど、若々しくてきれいな人だ。でも、ふたりとも気取った感じでもなくて話しやすい。
「そうですよね。僕らもあんまりマナーを気にしないようにします。お互い気楽に食事をしたいですからね。パーリャも、そういうわけだから、地を出してもいいよ」
そう言うと、パーリャは
「いやですわ、お兄様。って返そうと思ってたんですけど、はい、もうやめます。普通でいいよね、お兄ちゃん」
そう言ってニッコリ笑った。ボシュマール夫人も同じように微笑んで、
「そうよね。これからまだ先は長いんだから、最後まで気取った態度が持つ気がしないわ」
みんなで笑いあった。
「君らはワインでも頼むかい?僕らはコーヒーなんだけど。」
「私は20歳なんで、お酒はまだ……」
旅行中なので、在住地の法律は届かないのだろうけれど、パーリャは特にお酒が好きなわけでもないので、基本的には飲まない。今はそれを年齢のせいにしていられるというだけ。
「僕も苦手なんで、コーヒーにします。パーリャもそれでいいか?」
「うん」
僕はどちらかというと、体質の方が受け付けない。飲んで飲めないことはないのだけれど、あまり進んで飲みたいとは思わない。場の雰囲気で飲まざるを得ないときだけ、少々口にすることがあるくらいだ。
「そうか、飲まないで済むならそれに越したことはない。じゃあ『コーヒーを4人分』」
ボシュマールさんが注文をアシスタントに告げて間もなく、コーヒーとともに食事が運ばれてきた。若い男のスタッフが自走式のワゴンでトレーにセットされたランチを4人分、テーブルにセットしてくれた。この人は初めて見る人だな。
「ボシュマール様、カンパーネン様、お待たせいたしました。本日のランチは、トマトベースのパスタとグリーンアスパラのソテー、南国風フルーツチャウダーになります」
僕らの目の前にセットされたのは、大きめの四角いトレーで、その中にさらにいくつかのトレーが組み合わされているものだ。そしてテーブルの中央にはバスケットに入ったパンとスプレッドがある。ドリンクはさすがに吸出し式のカップに入っているようだ。ただ、トレーもカップも、テーブルに吸着するようになっているらしい。ものによって磁石のことも、減圧式のこともあるようだ。
「ごゆっくりお召し上がりください。」
そういって、スタッフはワゴンを連れて戻っていった。
「出た出た、これが無重力仕様の食事だよね」
パーリャは嬉しそうに全体を眺めている。事前のレクチャーでも、一度これに似たメニューを食べているので、食べ方がわからないわけではない。が、レクチャーでは1G下でしか食べられなかったので、無重力メニューを実際に無重力に近い環境で体験するのはこの食事が初めてなのだ。
「うん、まあとにかく食べてみよう。いただきます」
年長であるボシュマールさんが率先してカトラリーを手にしたので、我々も手を付けることにした。
中央にあるスパゲティは、すでに一口大に分けられて、トレーのへこみ部分に盛られている。無重力料理の大体は、このように一口大に分けてトレーに並べられているのが基本らしい。
普通の重力があれば、カトラリーで食べ物の一部をすくい取ると、それ以外の部分は重力にひかれて皿の上に取り残される。それによって適量だけを口に入れることが可能になる。しかし無重力下ではくっついているものを引き離す力である重力が働かない。結果として物体をくっつける力に抗えないのだ。重力に代わって存在を主張し始める、物体をくっつけようとするその力とは、液体の表面張力だ。
われわれは、普段は当然1Gの重力の下で食事を行っていて、すべての動作はその環境に最適化された動作になっている。その状態から突然無重力下という環境に放り込まれてうまく食事をするためには、我々が幼いころから培ってきた、重力下での物体のふるまいシミュレーターをいったんオフにし、重力の影響を排除したシミュレーターに切り替えなければならないのだ。もちろんそもそもそんなシミュレーターなんて持っていないし、これからこの新しい環境下で育てて行くしかない。それは一朝一夕で行えるものではない。
そんなわけで、重力を排除したシミュレーターの装備を待つことなく、無重力下の環境でうまく物体をコントロールするひとつの方法論として、液体の表面張力のシミュレーションを不要にする戦略がとられるようになった。それが、「なんでも一口大に小分けをしてから配膳する」という作戦である。
くっついているものを引き離す必要がはじめから不要な状態にしておけば、引き離す苦労をしなくていいね、ということだ。
ということで、トレイの上のスパゲッティは、すべて一口大に分けられてトレーのへこみに収まっている。僕は、たしかどこかでこんな光景を見たことがある。そう、あれだ。「たこ焼き」。以前オーサカで食べた地元の食べ物だ。あれを調理する器具の形にそっくりなトレーにスパゲッティが収まっているのだ。その時には確かオーサカに古くから伝わる伝統的な食べ物だと聞いていたのだが、こんなところで似たようなものを見かけるとは思わなかった。味は全く違うのだが。
そう思っているとパーリャが口に出した。
「これ、あれだよね。『たこ焼き』!」
そんなことを言い出して、ネットから探し出したたこ焼き調理器の写真までボシュマールさんに見せて盛り上がった。
「このフルーツチャウダーは、細かく分かれてないんだな」
「うん、でもこれはちゃんときれいにすくえるよ、ほら」
そう言ってパーリャがスプーンを持ち上げる。確かに一口分、きれいにスプーンに載せられている。
「ああ、これはジュレになってるのね。お味もおいしいこと。ねえ、食べてごらんなさいな」
夫人がそういうので、一口食べてみた。コンソメで薄く味付けされたフルーツのジュレだ。昨日のフレッシュジュースの残りかな?
「こういうあったかいジュレってのもあるんですね?ゼラチンじゃないのかな?」
「コーンスターチみたいなものかもしれないね。おいしいよ、うん」
「うん、おいしい!昨日のジュースの余りものだね、きっと」
なんてパーリャは歯に衣着せないのか。せめて「同じ材料を使ってる」とか、言いようがあるだろうに。でもまあボシュマール夫妻も、特にツッコまずスルーしてくれたので、僕も聞き流すことにした。それ以上はパーリャもはみ出したりせず、おいしいを連発するだけで食事は楽しく進んだ。
「今朝起きた時に見たら、地球が見事に丸かったねえ、見たかい?」
「そう!すごいですよねっ!気象衛星からの写真だって、あんなにおっきくって鮮やかじゃないですよねえ?ほんと『地球は丸かった!』ですよね!ガガーリン!!」
「『青かった』だぞ、ガガーリンは!」
二人にはちゃんと受けた。パーリャは、てへっと舌を出して一緒に笑いに加わった。でもまあ、確かに地球の丸さとその存在感が、今は一番伝わってくる時間だ。部屋に戻ったら、もう一度しっかり目と記憶に焼き付けておこう。あの風景を見た感動は、きっと後から写真を見ても蘇らない。
「そういえば今気づきましたけど、ここの壁にもスクリーンが設けてあるんですね」
今使っているボックス席の入り口から見て外側の方には2人席が壁沿いにいくつか並んでいるが、その壁は全面スクリーンになっていて、外の風景を映し出している。さすがにこの角度からは地球は見えないけれど、月は見える。もちろん他の星座もきれいに見えていて、宇宙空間の臨場感を演出している。
「そうだね。君は昨日のディナーには来てないんだね?」
「はい、昨日は疲れてたんで部屋で済ませました。なにかありましたか?」
「いや、今はじめて気づいた、って聞いたからね。昨夜はこのスクリーンで上空から見える地球の映像を映していたよ。なかなか見事な風景だったんで、食事をするのをしばらく忘れて見とれていたりしたんだ」
「この人ったら映像に気を取られて、ラム煮込みをスープに落としちゃってるんですよ。おもしろかった!」
「重力が大きすぎたんだよ。今くらいなら落ちなかっただろうに」
そう言って照れ隠しするボシュマールさんを、奥さんが目を細めて見ている。普段の仲の良さがにじみでてくるような表情だ。ボシュマールさんは、ごまかすように話題をすり替える。
「それにしても、うん、こんな形なら食べやすくてうまいな。このトレーはこのツアーのオリジナルなのかな?」
「そういえば、今日の午後に『無重力料理入門』ってオプショナルプログラムがありますね。」
「あれは『料理入門』だろう?無重力での調理法を習うんじゃないのか?」
「盛り付け方とか食べ方はまた別ですかね?」
「わたしたち、それに申し込んでるのよ」
「あー、そんなのもあったんですね?私たちは『宇宙エレベーター講座』に申し込んじゃいました。」
パーリャは気づいてなかったらしい。たぶん、社長の名前を見ただけで即決したんだろう。
「ああ、ぼくらもそれにしようか迷ったんだけどね。とりあえず食べものの魅力には勝てなかった」
「そうですか、じゃあどんな内容だったか、あとで教えてくださいよ。帰りにも同じプログラムがありますから、受けるかどうかの参考にします」
「うん、そうだね。でも『宇宙エレベーター講座』は、何をやるかは明確だな。ま、わかりやすいかどうかだけ、確認してほしいな」
「じゃあ、パーリャがちゃんと説明できるようになっていたらわかりやすかったってことですね」
「え、なんで私!?」
などと、いろいろおしゃべりをしながら、楽しいひと時を過ごすことができた。食後のコーヒーまで吸い口から飲まなければならないのは少々不満だったが、それ以外は満足できる食事だった。無重力下ではたこ焼きが最強だということもわかったし、アリシアさんが見当たらなかったのはちょっと残念だったけどね。そんなことを考えながら、僕たちは部屋にもどって食休みを取ることにした。次のスケジュールは、14時からのオプショナルプログラムだ。
* * *
「さて、そろそろ行きますか。えっと、部屋どこだっけ?……お兄ちゃん?」
「え?ああ、えっと……、『3-3-2』だな。……よし、行くか」
めずらしくパーリャから先に声をかけられて、次のプログラム『宇宙エレベーター講座I』の開始時刻であることに気づいた。……実はさっきの昼食後から、なんだか胸がむかむかしている。食あたり、ってほどではなさそうだけど。スパゲッティおいしかったしなあ。そう思いながら、シートから立ち上がった。
関係ないけど、重力が少なくなってくると立ち上がったり姿勢を変えたりするのに、ほとんど抵抗がない。今朝がたはまだ慣れていなかったからか、動くたびに体が手足に振り回されている気がしてたけど、今は慣れてスムーズに次の動作につなげることができるようになった。そうなると、ほんとに動くのに抵抗がなくなって、これまでだと椅子から立ち上がる時に「どっこいしょ」と、軽く気合を入れなければならなかったのがまったく不要になった。いや、口に出して「どっこいしょ」なんて言ってたわけではないけどね、うん。
磁力靴ーマグをオンにして、隣の客車のさらに1階層下までオートステップに乗る。マグでの歩行にも少しずつ慣れていっていると思う。このマグは、足を抜き差しするタイミングに合わせて磁力を調整するようで、結果的にちゃんと歩けるようになっているのが面白い。「結果的」ということばを使うのは、筋肉の使い方などに関しては、重力下とはまったく感覚が違うのだが、姿勢だけ見れば自然に歩けているというところである。まあ、結果よければすべてよし、だ。
現在位置、つまりヴァンアレン帯の内帯と外帯の間、高度7000kmあたりでの重力は0.2Gくらいになっている。0.2Gという数字だけ見るとかなり重力が少なくなっているようにも思えるが、この重力は月面よりももう少し多いくらいなのだ。つまり月面で作業をしている人たち程度には歩いたり走ったりできるはず、と思っていた。だがそこに罠があった。
僕たちがネットやテレビでよく見る、月面での作業風景の映像では、作業をする人たちはものすごく重たい月面服を着用しているのだ。たぶん、1Gの重力下ではほとんど身動きができないくらいの重さがあるはずだ。それがおもりになっているからこそ、普通に、むしろ身軽に飛び跳ねるように歩行ができているということだったのだろう。
一方、僕たちは同じような低重力でも、普段の1G下とそう変わらない格好でいる。というわけで、足に体重がかかっているという感覚がほとんどない。結果、マグなしでは歩行が難しいということなんだろう。ムーンウォークならどうなんだろう、なんて思ったりもしたが、すいません。もともとできませんでした。
そうした感じでたどり着いた講義室は、第2食堂のさらに下にあった。このあたりは一人で参加した人たちのコンパートメントだったはずだが、ミーティング用の部屋も設けてあるらしい。
すでに部屋のドアは解放されているが、まだアリシアさんは来ていなかった。ただ部屋の後ろの席には、ひとり先客がいた。
「こんにちは」
「こんにちは」
あまり気やすい人ではないのか、挨拶をしただけだ。まあ人見知りする人もいるよね。
それほど広くない部屋だが、8人くらいは楽に座れそうだ。パーリャがさっさと前の列のど真ん中に座りに行く。仕方がないので、僕もその隣に座った。もっとも、すでに座るという感覚はなくなっていて、椅子の上に漂っていると言った方がしっくりくる。かといって飛び回れるほど自由でもないのだけれど。まあなんと言うか、自分が洗剤の泡になったような気分とでも言えばいいのか。
そんなことを考えているうちにそろそろ時間だ。どうやら参加者は僕たちと後ろの一人だけのようだ。まあツアー参加者全体が14人なんだから、3人もいればオプショナルプログラムとしては成立するだろう。他の人たちが興味を持ったのは『無重力料理』だか、『無重力マナー』なんだか……。
すぐにアリシアさんが入ってきて中を確認すると、ドアを閉めた。参加者はこれだけのようだ。アリシアさんは席に座っている僕たちを見ると、ニコッと笑って軽く会釈をしてくれた。そして前に設けられた教卓につく。
「お時間になりましたのでそろそろ始めますね。その前に、後ろに座っているのはクルーのギルバートです。この時間、この講座の見学をすることになっておりますので、同席をお許しください。」
アリシアさんがそう言うと、後ろの男の人がぺこりと頭を下げた。あ、よく見ればさっき昼食をサービスしてくれた人だ。そうか、彼もいずれ講師をするんで一緒に勉強するわけだな。そういえばクルーの制服を着ていた。気づかなかったのはうかつだった。結局、今回の受講者は僕たちだけということになる。パーリャ、おとなしくしてられるかなあ。
とりあえず納得して前を向くと、アリシアさんとパーリャが、目配せをしている。ふうん、結構仲良くなったんだな。その態度で二人がどんな仲なのか、だいたいわかる。あと、アリシアさんが僕を見る目はそれほど奇異なものではない。ちゃんと微笑んで目線を合わせてくれる。うん、オッケーオッケー、引かれてない。これが一番大事だよな。
そう考えてパーリャを見ると、「ふふん」とドヤ顔をしてくる。あんまり変な紹介のしかたはしていないってことなんだろうな。まあいいか。よくやった。よくやった。
「こんにちは。お食事はいかがでしたか?」
アリシアさんは親し気に、僕とパーリャに話しかける。
「おいしかった!それに重力なくても食べやすかった!せっかく体重減ったのに、元に戻ったらもっと増えてそう!」
「そうですか?お口にあったようで何よりですけど、明日からの『無重力体操』のプログラムを受けた方がいいかもしれませんね」
「あ、そういうのがあるんだ?うーん、どうしよう?」
「お兄様はランチはいかがでした?」
「あ、おいしかったです。それにこいつが言ったように食べやすくて、せっかく身構えてたのに、ひょうしぬけでした」
「あ、申し訳ありません」
アリシアさんたら、真剣に謝ろうとしている。いや、そうじゃなくて……
「いや、だからすごく食べやすくて、食事を思いっきり楽しめたってことですよ。ありがとうございました」
「あ、はい。そうですか。またディナーもお楽しみいただけるといいですね。それとお二人とも、低重力状態には慣れましたか?体調はいかがです?気分が悪くなったり、頭痛などもございませんか?」
「ええ、ぜんぜん大丈夫ですよ!お兄ちゃんもだよね?」
「んー……」
僕は少し言いよどんだ。さっきから胸のむかつきがだんだん増している。
「ちょっとこのあたりが、なんかムカついてますが、まあ大したことはないです」
「そうですか、少し無重力酔いの症状が出ているのかもしれませんね。無理なさらないでくださいね。お薬お持ちしましょうか?」
「いや、まあ、平気です。ありがとう」
「もう少し気分が悪くなったり、ちょっとでもおかしいと思ったら、すぐに言ってくださいね。旅が楽しめなくなるのが一番よくないですからね。……ちょっとおしゃべりしすぎましたね。そろそろ講義に入りましょうか」
アリシアさんはそう言うと、リモコンを取り出してディスプレイの操作をした。スクリーンが反応して、映像が映し出された。この映像に説明を入れていくようだ。しかし……
「本日の『宇宙エレベーター講座』第1回は、宇宙エレベーターとは何か、というテーマでお話しします。以後、このシリーズは全6回分ありまして、第2回が宇宙エレベーターの原理、第3回が建設方法、第4回はクライマーのしくみと形式、第5回が宇宙エレベーターと産業、そして第6回最終回は、宇宙エレベーターの未来について、とこういうプログラムでお話ししたいと思います。」
「どれも興味深いお話ですが、それぞれ独立して聞いていただいても理解しやすいように構成されていますので、好きな順番で聞いていただいて構いません。ツアーの間にすべての講座を2回繰り返すことにしていますので。では、今日のお話、宇宙エレベーターとはなにか、についてお話しさせていただきます。ご質問やわからない部分などありましたら、いつでもけっこうですので、どうぞご遠慮なくお尋ねくださいね。……ってあんまり難しい質問は、後で調べてからお答えするかもしれませんけど…、あいや、なるべく答えさせていただきます、はいっ。」
そんな感じで、映像を見ながらの講義が始まった。だが……、それくらいが限界だった。
「す、すいません。やっぱり……、ちょっと、無理……」
急に胸のむかつきが吐き気になってきた。僕はなりふりかまわず立ち上がった。
「お兄ちゃん!」
パーリャがあわてて背中に手を当てて支えてくれる。
「ギルバート!」
アリシアさんは後席のスタッフに声をかけている。ああ、なんだか辛い。みっともないところを見せてしまった……。なんか涙が出てきたよ……。申し訳ないことをしたなあ……、すいません、アリシアさん。……パーリャ、うまくフォローして…………
そんなこんなで僕はギルバートさんに連れられて手近なトイレで、……すいません、戻してしまいました。お昼のスパゲッティ、おいしかったのになあ。なんか急に頭がぐるぐる回っている……いきなり、来た……
それからは、もう記憶もあいまいだ。ばたばたとギルバートさんに連れられて医務室に行き、軽く診断され薬を飲んで、くらくらしたままコンパートメントに戻されてベッドに組みなおしたシートに寝かされた。そして薬が効いたのか、そのまま意識は落ちていった……
* * *
変な話だが、無重力用に作られたトイレは吸引式なので、実はこういうときにも始末が非常に簡単であることに気づいてしまった。液体でも固体でも、落下速度が極端に遅いので、吸引のスイッチを入れておけば勝手に吸い取ってくれる。いや、便利なもんだった。ついでににおいも吸い取れるしね。……ただ、吸い取られたものがその後、どんなふうに処理されているのかは、よく知らない。水分を分離して、固形物は分解されて再利用……なんてことは知りたくもないし、考えたくもないので、意識の外に外しておくことにする。
こんなことをぼんやりと考えたのは、無重力酔いが少しマシになってきた夜のことだった。結局講座はそのまま中断してしまったらしい。受講者が僕とパーリャしかいなかったしね。
パーリャは僕が寝ている間も、医務室から薬をもらってきてくれて、水やらサプリやらも一緒にもらってきてくれた。そのあとアリシアさんが様子を見に来てくれたらしいが、僕はすっかり寝てしまっていたらしい。パーリャがアリシアさんにさんざん謝っていて、アリシアさんがそれを一所懸命否定していたやり取りを、薄い意識の中でぼんやり聞いていた気がする。ああ、僕からも謝っておかないとなあ、などと思いながら夜まで起き上がれないでいた。
「お兄ちゃん、どお?」
パーリャがのぞき込んでくるのが見えた。こういう時に家族がそばにいてくれるのは心強い。
「ああ、だいぶよくなった、みたい。ごめんな、迷惑かけちまって」
「いいよ。アリシアさんにもギルバートさんにも謝っといたからね。気にしないでって言ってくれたよ。昨日も今日もお兄ちゃん以外に気分悪くなった人が一人ずついたんだって。3人に一人はなんらかの症状が出るって言ってたよ。私はぜんぜん平気だけどね。そういう人もいるんだって。晩御飯は食べられる?私はここに持ってきてもらって一人で食べたけど」
そう言ってパーリャは今日の夕食の解説をひとしきり始めた。ブラウンソースのポットシチューだったそうだ。いわく、発酵バターの香りがものすごく豊潤で、お肉も柔らかくて最高!とのこと。うーん、とても引かれるんだけれど、残念ながら今の体調では十分楽しめないような気がする。そういえば、部屋にほのかに香りが残っている。
「いや、まだ食べられる気はしないなあ。ホットミルクかなんかあるといいんだけど……ここじゃ無理かな?」
「そんなことないよ、『ホットミルクお願い!』」
「かしこまりました」
部屋のアシスタントが返事をした。
「へえ、あるんだ。至れり尽くせりだなあ」
「そりゃ、観光用の宇宙機だからね。地上のホテルの環境にできるだけ近づけて、部分的にはそれを超えるサービスを提供したいと思った、ってアリシアさん言ってたよ」
「あの人はすごい人だね」
「そうだよ、すごい人なんだから」
まるで自分が褒められたように、パーリャはうれしそうな顔をする。そしてやがて届けられたホットミルクには、カードが添えられていた。
『ご気分はいかがですか、お大事にしてください ツアースタッフ アリシア・ナカイ』
この「アリシア・ナカイ」というところだけは自筆のサインだ。
「こんなの、無重力酔いのみんなに届けてるのかな?」
「そりゃそうだよ。お兄ちゃんだけ特別扱いのはずないじゃん。当たり前でしょ」
「そうだよな。大したもんだ」
「大したもんだね」
吸い口から飲むホットミルクは、ちょっとぬるめで、やさしい、なつかしい味だった。
ツアー2日目が終わる 現在地点:高度7015km ヴァンアレン帯内帯を抜けて、まもなく外帯にさしかかる 重力は0.22G
すいません。アリシアさんの講義を聞きそびれてしまいました。アリシアさんにはまた別の機会にいろいろ教えてもらうことにしますね。
あとマエーク君が苦しんだ無重力酔いですが、ISSなどで起きる実際の宇宙酔いは、1日で回復どころか、1カ月くらい症状が続くこともあるような、大変な病気のようです。ま、ここではこの時代、素敵なお薬が開発されてるってことにしといてください。パーリャちゃんは、全然平気のようですね。そういう人も割といるようですよ。
次回は宇宙エレベーターが、なんでこんなに長いのか、って話です。マエーク君の独壇場です。2話連続でアップします。