(39) その後(エピローグ)
エピローグは本編から何年か経った後日談です。今回はパーリャちゃんの視点で進めていきます。
「お兄ちゃん、アリシアさんは?」
控室でしばらく退屈な時間が続いている。お兄ちゃんも基本的には親戚や来賓に挨拶をしている時間なのだが、少し客足がにぶると、まめにこちらの様子を見に来てくれる。そうして何回目かに戻ってきたお兄ちゃんに、アリシアさんとチビたちの様子を尋ねてみた。
「もうこっちに来ると思うけどな。まだギルバート君のところでなにやら世話を焼いてるのかもしれないけど」
チビたちはギル兄ちゃんが大好きだから、ずっとあっちの控室に入り浸っているのかもしれない。それをいいことにアリシアさんも、花婿の姉よろしくギルの世話を焼こうとして結果的に邪魔をしているという構図が、容易に想像できて可笑しくなる。花婿の準備を整えるのならフェルデンさんに任せた方がよっぽど確実なのにね。
かくいう私は真っ白のドレスを着せられて身動きが取れない状況だ。もう15分は座ったままで身じろぎすら難しい。これならやっぱりGEOまで昇って世界初のGEO結婚式に挑戦するんだったと今さらながら後悔していた。さすがに親戚のお年寄りの皆さん全員にGEOまで昇らせるわけにもいかず、仕方なくせめてアースポートでの挙式でいわば妥協したのだが、ここまで重力が花嫁に無慈悲だとは想像していなかった。無重力だったらドレスが重かろうがヴェールが長かろうが、大して苦にもならずあちこち動き回れただろうに。そもそもこんなひらひらなドレスじゃなくて、十分きれいな無重力仕様のウェディングドレスを新しくデザインできたはずだ。
「うーん、無重力ドレスもちょっと興味あったんだけどな」
そうつぶやくと、直前に部屋に入ってきたアリシアさんにこの声が届いたようだった。
「だってパーリャさんは、今日この後クライマーで無重力の世界に行っちゃうんですよね?そこでいくらでもドレスが着られると思いますよ」
あいかわらず地獄耳のアリシアさんが、小マエークを抱えて近づいてきた。足元には小アリシアがちょろちょろと小走りでついてきている。
「あー、アリシアさん、待ってましたよ!小アリシアちゃん、もっと早く来てほしかったのにー!」
小アリシアは可愛い笑顔でお母さんの後ろに隠れながら照れている。小マエークの方は機嫌がいいんだか悪いんだかよくわからない無表情で、お母さんのイヤリングに触りたくて手を伸ばしているが、届かなくてじれているようだ。
「小マエークちゃんって今何か月でしたっけ?なんか無表情なところがお兄ちゃんそっくりなんですけど?」
私も小マエークが生まれた時にはお祝いに京都まで駆け付けたけど、それ以降は全然会うこともなく今日を迎えてしまった。人の子供はあっという間に大きくなるというけど、私にとっては逆にまだ歩き出していないというのが不思議でならない。その後、私の方が結婚準備だ引っ越し準備だと忙しかったからなのだろうか。
「まだ7か月ですよー。可愛い笑顔はもったいないのでパパとママにしか見せないようにしてるんです。ねー?」
そう言ってアリシアさんは小マエークに語りかけている。そんな表情を見るとアリシアさんもすっかり2児のお母さんだ。お兄ちゃんの幸せ者め。そのお兄ちゃんは小アリシアをどっこいしょっと抱っこして、娘の頬ずりを受けながら話しかけている。お兄ちゃんもすっかりお父さんだ。
小アリシアが、かわいい片言でお父さんに問いかけた。
「パーリャおねえちゃん、およめさん?」
「ああ、そうだよ。ギルにいちゃんとけっこんするんだよ。さっきギルにいちゃん、すごくきんちょうしてただろ?これからけっこんしきなんだ。みんなでおいわいしようねー」
「フェルにいちゃんは?いっしょにけっこんする?」
「フェルにいちゃんは、まだだ。およめさんさがしてこないとねー」
「そっか、かわいそうね」
小アリシアはわかってるんだかわかってないんだか、お父さんと微妙な会話を続けている。ちょっと横やりを入れちゃおう。
「小アリシアちゃん、フェルにいちゃんのおよめさんになってあげてよ。毎日おいしいお菓子作ってくれるよ?」
小アリシアは照れくさそうな笑顔でお父さんの腕の中で体をくねくねさせている。まんざらでもないのかと思ったら、こんなことを言い出した。
「フェル兄ちゃんがもうちょっと小ちゃかったらよかったのにねー」
「フェル兄ちゃん、おっきいからだめ?」
「わたしがおっきくなったら、フェル兄ちゃんおじいちゃんだもん」
ああー、だめだったか。まあしょうがないね。フェル兄ちゃんは自分でお嫁さん探さなきゃね。この後の新婚旅行が普通の観光地に行くんだったら、現地の縁結びの縁起物かなんかを買ってきてお土産にするところだけど、GEOステーションにそんなものあるわけない。……いや、これを機に開発するのはどうだ?滞在中にGEOのスタッフと相談して商品開発できるんじゃないだろうか。うーん、ちょっとギルと相談してみよう。
そんなことを考えていた時、突然セルゲイさんが控室に飛び込んできた。こんなにスーツ姿が似合わない人も珍しいな、などと思ったことは隠しておこう。そのセルゲイさんがあわてた顔でこう言った。
「こちらにギルバートは来てませんか?」
「いや、ギルバート君は彼の控室にいるはずだけど……」
「それが……、行方不明なんです。トイレに行くって出ていったまま、もう30分も戻ってこないんですよ。もちろんトイレにも受付にも見当たりません。そろそろ式も始まるってのに……」
ええ~っ!ギルが行方不明って……、この可愛い花嫁をほっといてどこに行ってるの?……いや、それがわからないから「行方不明」なんだろうけど……!
私は焦ってすぐに立ち上がろうとしたが、ドレスが重くて簡単に立ち上がれなかった。それで周りに助けを求めて見回してみたところが、どうやらみんなの反応がなんだかおかしい。
「ああ~、やっぱり……」
「うん、そう思ってた」
「まあ、時間の問題だったよね」
お兄ちゃんやアリシアさんだけじゃなくて、うちのパパやママ、セルゲイさんにネイネイさんも同じようにうなづいて納得している。
ええ~!なにそれ?……わたし?私が原因?ギルが逃げ出したのって私のせい?
「この際、とりあえず結婚式はフェルデンでやりましょうか?」
「お客さん、みんな揃っちゃってるしね。料理も無駄にできないし」
「同じ顔だからいいよね。フェルデンでやろう。おい、フェルデン連れて来い。急いで着替えさせよう!」
そう言って、みんなてきぱきと動き出した。こうなると普段から一緒に仕事をしてる仲間同士、連携が見事だ。たちまちすべての準備が整っていく。フェルデンさんも何も言わずにおとなしく着替えさせられてお化粧までされている。もう誰もギルを探そうともしていない。それでいいわけ?
こうなったら私自身が探しに行かなきゃ、誰も助けてくれない。動きづらいドレスを引きずりながら、ドアの外に行こうとするが、周囲の人たちは花嫁までいなくなったら式ができなくなる、と放してくれそうにない。
「もういいから、とりあえず式だけは済ませちゃいましょう?式が終わったらゆっくり探せばいいからね。ちょっとここお化粧崩れちゃった。誰か直して?……いいから、座って、おとなしくして、ね」
なにそれ~。おかしいよ?おかしいよねえ?ギル、ギルバート!……どこに行ってるの?帰ってきてよ、ねえ!ギルバート!
* * *
「………………」
ふと周りを見回すと、見慣れた風景だった。ここは大学の寮の一室。私と、同室のイライザの部屋。私は毛布が体に巻き付いた状態で上半身だけベッドから落ちそうになっていた。
「なにこれ、……夢オチってわけ?……あー、もうびっくりした!」
一気に脱力した。一生の大ピンチ、って思ってたらそうじゃなかったってのもあるけれど、それ以上に私がなんでこんな夢見るかなあ。ギルと付き合ってるのは確かだけど、でもいつの間にか結婚することになってて、お兄ちゃんはすでにアリシアさんと結婚してて、二人も子供作ってたりして……、小アリシアちゃん、可愛かったなあ。小マエークはなんか無表情で不気味だったけど。
あー、なんだか自分の精神構造が信じられなかった。なにか自覚がないままにストレスをため込んだりしていた?来週が卒業研究の発表会で、最後の仕上げにプレゼン資料とばかりにらめっこしていて、相当精神的にキテるってことですか?
そんなことを考えつつなかなか起き上がれなかったら、イライザが声をかけてきた。
「パーリャ、あんたもうとっくに出てなきゃいけない時間じゃないの?彼氏を迎えに行くんでしょ?まだ頭寝てる?いいかげん起きなさいよ。彼氏待たせちゃってがっかりされてもいいわけ?」
「ああ、了解了解、起きるよ。今何時……、あー確かにちょっと急がないとね。ごめん、洗面所貸して!」
「空いてるよー」
そう、今日はこれから空港にギルバートを迎えに行く予定にしていた。そのために卒業研究も急いで終わらせたんだった。それで寝過ごして迎えに間に合わなかったら、何のための努力だったのか。私は急いで身支度を整えていった。
私の通う汎太平洋芸術工科大学の寮はシンガポールの郊外にあって、今回ギルバートは同じシンガポールの別の大学で開かれる学会で発表する予定になっている。それでせっかくだから会おうということになって私が迎えに行くことになったのだった。
私はと言えば、来週の卒研発表会が済めば、もう卒業することになるので、シンガポールでの滞在ももうわずかだ。4年間暮らしたこの街だけど、もうひとつ思い出が増えるのは大歓迎だ。
季節は6月。だがここは赤道直下の熱帯なので、季節感も何もありはしない。だけどどうせ卒業したらその後は111°のターサ島沖アースポートが職場になるんだから、赤道直下という条件はほぼ変わらない。このままの生活感でずっと過ごせるのはありがたいと思うことにしよう。故郷のスウェーデンとは全く違う気候だけど、そろそろこの熱帯雨林気候の方が私にとっての普通になりつつある。
それはともかくバスと電車を乗り継いで、やっと空港に着いた。入国ゲートに向かい、到着便の確認をする。ギルの乗る便はどれだっけ?便名とか忘れちゃったよ。とにかく定刻どおりなら、10時25分に到着する予定……ってことだけは憶えてる。えーと……。
あった。もう到着している。予定通りって書いてあるから、今着いたところだろう。だとすれば、まだすぐには出てこないだろう。早くても30分程度、普通は1時間くらいはかかるはずだ。到着ゲートの近くのベンチを確保して座って待つことにする。あー、とりあえずは間に合ったようだ。飛行機が早く着いたりしていなくてよかった。
起きてすぐ焦ってここまできたから、なんだかお腹が空いた。今は10時半を過ぎたところで、食事をするにはちょっと中途半端な時刻だがどうしよう。今からその辺で食べたとしたら、ギルが早めに出てきたときに出迎えられないかもしれない。しょうがない、もうしばらく我慢して、ギルが出てきたら一緒に何か食べよう。
そろそろ出てきてもおかしくない時刻だが、まだギルは現れない。他の到着便のお客さんは次々に出てくるんだけど、ギルの便からはまだなんだろうか。なんだか、さっきの夢が思い出されて不安になる。私のせい、ってことはない、……よね?
不安な気持ちを抱えながら、散々待って自問自答を繰り返して泣きたくなる。私っていつの間にこんな乙女になっちゃってたんだろう?いいから早く出てきてよ、お願いだから!
その不安がピークに達しようとしていた時、ようやく待ち人が現れた。
「あ、ギル!ギル!」
懐かしくて待ちわびた顔がようやく現れたので、思わず大きな声で叫んでしまった。
ギルの顔がほころんだ。
「おう、出迎えご苦労!」
「なに、その偉そうな言い方は!『お待たせして申し訳ございません』くらいのことは言ってほしいな?起きてすぐ出てきて朝ごはん食べられなかったんで、お腹空いちゃったよ。なんか奢らせてあげるから、その辺でなんか食べよう!」
「朝ごはん食べられなかったのは、自業自得だと思うぞ」
ギルは相変わらず冷静で、そんな当たり前のことを言ってのける。だけどそれで終わらず、こうも言ってくれた。
「まあいいや。俺も結構お腹空いてるし。何が食べたい?」
ギルはなんだかんだでいつも結構優しい。さっきまでの不安が嘘のように霧散していった。
適当なレストランを見つけて、朝昼兼用のブランチを食べる。時刻はもう11時を過ぎている。ギルは普通に昼食ということになるが、早めの時間帯なのでそう苦労せずに席が見つかった。ようやく落ち着いて正面に座ったギルの顔を見ていると、さっきの夢のことが思い出されてなんだか顔が熱くなってきた。将来この人と結婚したりすることって、あるんだろうか。
もう2ヶ月もすると私は大学を卒業し、ターサ島ゲートタウンに移り住み、SEMで仕事を始めることになる。お兄ちゃんは今の所はバリアントの本社で事業部を作って、パパと一緒に事業の立ち上げに取り掛かっているようだ。その過程で割と頻繁にターサに出向いてアリシアさんやスタッフの人たちとじっくりことを進めていると聞いている。あの話はちゃんと進んでるのだろうか。
「ねえ、最近は例のプラン、ちゃんと進んでるのかなあ」
「例のプラン?お前が考えたやつか?ああ、いろいろ加わったり変わったりしてるぞ?マエークさんから聞いてないか?」
最近、ギルは私のことを「お前」って呼ぶ。お客さんだったときは「パーリャさん」だったのに、よろこぶべきなのか、そうじゃないのか……。
それはともかく、お兄ちゃんは自分の仕事のことはほとんど話さない。どちらかというと、大学の勉強に集中させたいと思ってるって気持ちがすけて見えてくるんだよね。だからこっちからもわざわざ聞かないようにしてるんだけど。
「ぜんぜん聞いてない。そもそもあんまり会ったり話したりしてないしね」
「ふうん?アリシアからもなにか連絡があってもいいと思うけど……?それもなし?そっか、じゃあ、まあ当たり障りのないところで言うと……」
そんな前置きで話し始めてくれたのは、まずはファルシャ先生のデータサーバの設置がいよいよ始まったこと。委員会の名前が決まったこと。企業の研究所だけでなく、大学の研究室の誘致も行うこと。研究項目の優先順位が公表されたこと。そして研究施設の再構築と増築のための予算が組まれたこと、などだ。
「そうかー、でも聞く限りじゃそう大きく変化があったわけでもなさそうだね。変化っていうより進んだってことだよね。オッケーオッケー」
「予算のことは聞かなくていいのか?」
「え、なにが?」
ギルは私の反応が薄いのを気にしたらしい。予算聞いてどうするんだろう?
「だって、これっていわばお前のための予算だぜ?ほら、予算計画書持ってきてるけど、見たくないか?この9月になったら、お前がこの予算の執行責任者になるはずだからな?」
それって、つまり私がその予算枠の中で、何を買うとか何にどれだけ使うかを自由に決められるってこと?
「え、そんなこと言われたら、なんか気になってくるんだけど、……見ていいの?」
「だから、お前が責任者だってのに、見なくてどうするよ?こっちが聞きたいよ」
「ああー、そういうもの?んじゃ、見せて」
まだこっちは学生なんだから、予算とか言われてもピンとこない。執行責任者ってなにする人?とりあえず言われるままに予算計画書を受け取って見てみる。
「うーん……。なんかすごい金額が書いてることしかよくわかんないんだけど、どういう風に見ればいいの?」
「んー、そうだよなあ。まだ学生だもんなあ。表の見方がわからんか。じゃあ、説明するけど……」
そう言ってギルは、予算計画書の意味から項目のひとつひとつ、そして予算の使い方からざっとした申請の仕方まで、ひととおりのことを懇切丁寧に教えてくれた。軽く1時間くらいかかったんではないだろうか。親切にも程がある。
「あー、なるほど。これがものすごくでかい金額で、こんなプロジェクトを私が担当しようとしてるってこともよくわかりました。はー、なんかSEMって企業も意外とすごい企業だね。私こんなところに就職しようとしてたんだ……」
一昨年の夏休み明け、ゼミの先生に就職先が決まったことを報告すると、喜んでくれるどころかなんか異様に驚かれてその上疑われたんだけど、それってやっぱり正常な反応だったようだ。世間的にはバリアントの方がよっぽど有名企業なんだけど、知る人ぞ知る、って存在なのかな。
「ところで、ギル、今日の予定とかってないわけ?今日はこれからどうするつもり?」
「ああ、忘れてた。今日のうちにとりあえず会場だけは確認しときたいけど、シンガポール・インスティテュート・オブ・スペース・サイエンス・アンド・テクノロジーって、結構街中だよな?ホテルがパシフィック・セントラルなんで、最終的にはそこに行ければ今日はそれだけの予定だ。場所はわかるか?」
「シンガポール・インスティテュート……、ああ『シサット』か、それとパシフィック・セントラルね。うん、わかるよ。どっちも市街からそう遠くないし、お互いに近い。確か地下鉄で2つか3つくらいだったかな?トランスポーターだったら2ドルくらいで行けたと思うよ」
「そっか、じゃあ出るか。行くついでに街をフラフラしてれば、あっという間に一日終わりそうだな」
そう言って、ギルはトランクを連れて歩き出した。
空港に隣接した駅から地下鉄に乗って市街に向かう。ここから目的地までは20分ほどだろう。始発駅なので、並んで座れる座席が取れた。またしばらくはお話ができそうだ。久しぶりにギルと話せて正直嬉しい。
「そういや、4月ごろにカレンさんが来てたなあ」
「ん?カレンさんどうしたの?」
「ああ、もともとはGEOの研究施設を1枠契約するつもりだったんだけど、希望金額が2桁違うってんであきらめた、って話はしただろう?」
「うん、聞いた。さすがにカレンさんとこの経営規模じゃ、あの費用負担は厳しいだろうなあ。気の毒だけど」
「それが、マエークさんの計らいで事情が変わったんだよ」
「え、どうなったの?」
「ほら、さっきの予算計画書、これだ。ここに『実験農場』って費目があるだろう?これ全部、カレンさんの農場関係の予算だ。結果的にGEOの農場の生産実験場が実質カレンさんとこの種苗農場で埋められることになったんだよ。そこでテーラーさんとか他の研究員も加えて実験農場を作るらしい」
「じゃあ、カレンさん、自分の所で費用持たなくて良くなるんだ」
「もちろん、その代わり知的所有権も制限付きになるけどな。まあそれでも発明者の扱いにはなるんだから、カレンさんの所の規模で言えば、十分商売にはなるってマエークさんは言ってた」
「へえ、お兄ちゃん、そういうコーディネートもしてるんだ。それがあれか、例の……。あ、そうだ。名前が決まったって聞いてたのに、その名前聞くの忘れてたよ。なんだっけ?あの委員会の名前……」
「ああ、『the Committee of Wisdom of Space Life for Mankind』だ。縮めて『CWS』だな」
「『CWS』?……はー、まあまあ、かな?」
「あからさまにがっかりしてるな?」
「んー、まあ微妙だけど、しゃあないね。うん、呼び慣れれば慣れるでしょ。了解了解。あ、それでそのCWSだけど、それの調整でカレンさんが実験農場の主になれたってことだね?」
「主[ぬし]って、なんか違う感じだけど、まあそういうことだ」
「なるほどー、お兄ちゃんもいい仕事してるねえ」
「まあね。あの人のああいう機転が利くところはすごいよなあ」
ギルがめずらしく人をほめている。そんなこともあるんだなあ。しかもその相手がお兄ちゃんだから、なんだかとてもうれしくなる。お兄ちゃんもすっかり今の仕事になじんでるみたいだし。私も早くなじまなくちゃね。
「そういえばひと月くらい前の話だけど、お父さんの方のカンパーネンさんが来てたんだよ。もちろんマエークさんも一緒にね」
「へえ、結構まめに動いてるんだねえ。組織作りはうまくいってるのかな?」
「まあ、それはそれなりに進んでるようなんだけど、その時に聞いた話が結構すごくてさ……」
「んー?どういう話?」
「お前のお父さんが言ってた話なんだけど、現在の宇宙エレベーターの状況は世界に微妙な均衡を作り出してて、全体として安全保障のしくみとして機能してるって話だったんだよ。……何言ってるかわかるか?」
わかるか、って言われてもわからないとしか答えられない。私は黙って首を振った。
「まあ、そうだよな。俺にも実はよくわかってないんだが、お前のお父さんが言ったことだから、詳しくはお父さんに聞いてみるんだな。とにかく、そこで言ってたのは、こういうことだ」
ギルの話によると、現在世界中には合計5基の宇宙エレベーターがあって、そのうち1基は第1世代のターサ。他の4基は第2世代。そしてもう1基は建設中、という状況だ。それぞれの宇宙エレベーターは世界でも屈指の経済力や国力、そして軍事力を持つ4つの勢力が1基ずつ保持していて、最後に残ったもうひとつの勢力も、間もなく宇宙エレベーターを手に入れようとしている。そして、その宇宙エレベーターによって静止衛星軌道上に無数の宇宙太陽光発電パネルが並べられ、人類社会に不可欠なエネルギーを提供し続けている。つまり、世界はまるごとすっかり宇宙エレベーターに依存しているという構造になっているわけだ。
一方で、宇宙エレベーターは構造的にはとてももろいもので、長大なテザーの1か所でも破損してちぎれてしまうと、その宇宙エレベーターは使い物にならなくなり、もう一度建設するには莫大な費用が必要となる。世界的にエネルギーを供給し続けている重大な施設が、実はかなりもろくて壊れやすい施設によって支えられている、この現状は、いわば世界中の人たち全員が薄氷の上に乗っている状況と見ることもできるのだそうだ。
もし薄氷の上にいる誰かが、他の誰かを貶めようとして氷を割るようなことがあったとしたら、それはたちまち人類全体にひろがって、全員が冷たい水の中に落ちてしまうだろう。
同じようなことが、現実にも起こりうる。もしどこかの勢力が他の勢力を貶めようとして宇宙エレベーターに攻撃を仕掛けたとする。当然宇宙エレベーターは簡単に破壊され、宇宙エレベーターを失った勢力は、重要なエネルギー源をいつ失ってもおかしくない状況になる。そこで被害に遭った勢力は、当然報復に乗り出すだろう。宇宙エレベーターが破壊されても、すぐに宇宙太陽光発電所が使えなくなるわけではない。整備や補修、交換などができなくなるだけなので、何年もかけて徐々に発電量が減っていくといった状況になるはずである。その残された期間を使って、攻撃をした勢力になんとしても報いようとすることは、これまでの人類史を見ても明らかである。
しかし、宇宙エレベーターの防衛はとても難しい。全体すべてが壊れやすいテザーで構成されていて、しかも10万キロの空間に広がっていて守り抜くことが至難である。つまり報復は高い確率で成功するだろう。そして両者は多少の時間差はあれど、結局は同じ運命をたどることになる。
そんなことがわかっていて相手を攻撃する勢力があるだろうか。みんな、それぞれにかばいきれない弱点をさらしている状況で、相手に対して暴力的な行いを続けることはできないのである。これらを総合すると、つまり宇宙エレベーターの脆弱性が、結果的に各勢力間の安全保障条約と同様の機能を提供している、という結論になるわけだ。
「パーリャのお父さんが言ってたのは、そんな仕組みになったのは、ゼニス・ナカイ氏が世界に同時に複数の宇宙エレベーターを建設したからこそ生じた結果であって、実はゼニス氏はそこまで読んで、計画を推進したんじゃないかって、ゼニス氏はとんでもなく偉大な人だって、言ってたんだよ」
最終的には、未だに実現していない核兵器の全廃計画も、この宇宙エレベーターによる安全保障が存在することが世界中の人に認識されれば、実現可能になるんじゃないかって、パパは考えている……らしい。なんか空恐ろしい話になってきた。
「本当は、マエークさんとお父さんとアリシアと俺達兄弟が、食事の席で話した雑談の中での話だったから、どこまで本気か、根拠があって言ってるのかは定かじゃなかった。ひょっとしたら冗談のつもりでの話だったのかもしれない。けど、あれ以来俺の中ではこの話が消えていない。俺には政治的なことはよくわからないけど、わかる人がこの話を聞けば、ジョークとして断じてくれるのか、それとも実際に有効な話として受け止めてくれるのか……。なんだかずっと気になってる」
宇宙エレベーターで安全保障、なんていきなり言われても、何を言ってるんだかわからない。私はもうそれ以上答えられないでいるうちに、目的の駅についた。先にホテルにチェックインして荷物を置いて、身軽になってからシサットにいく作戦だ。シサットもたぶんホテルからそう遠くないから、トランスポーターかコミューターですぐ行けるはずだ。
ホテルにチェックインしてちょっとベッドに座る。外でドリンクを買ってきたので、少しのどを潤すことにした。さっきまで、深刻なんだか冗談なんだかわからない話をしていて、ちょっと気持ちが下がっている。もう少しテンションを上げたい。
「ねえ、他になにか変わったことはない?こないだ会った時から半年は経過してるんだから、もうちょっとなにかあってもいいと思うんだけど。あ、そうだ。セルゲイさんとこの息子さん、もう結婚したんだよね?」
「ああ、ミティーホフさんこないだ休暇取ってロシアに帰ってたな。戻ってきてみんなに結婚式の写真とか見せてたらしいけど、よく見てないや」
「もー、薄情だねえ。同僚の家族の晴れ姿くらい見てほめて、一緒に喜んであげなよ。まったくもう」
ギルはそう言うところは全く冷たい。自分の家族以外には本当に興味がないらしい。まあ自分の家族には十分以上に興味があるんだから、それでいいんだけど。
「ああ、そうそう。そう言えば、つい先週からリーさんが……」
「え、……リーさん?どうしたの?」
「どうしたと思う?」
ギルは珍しくクイズを出してきた。先週から……?リーさん、ってネイネイさんだよね?何だろう?私は考えてみたが、思い当たるところがない。ギルはにこにこしながら答えを待っているから、悪いことでないのは確かだろうけど……。
「んー、サバティカル休暇に入った?」
「違う」
「じゃあ、髪型変えてイメチェンした?」
「違うよ」
「えっと、整形してアリシアさんより美人になった?」
「お前、それいろいろ失礼だぞ?」
「あー、……そうだよね。……んー、わからない。教えて?」
「いい加減教えないと、どんな発言が飛び出すかわからんからな。あーと、正解は……『産休に入った』だ!」
???……えーと、産休……?ってことは、子供?……赤ちゃんが生まれるの?え、え?すごい!
「本当!?いつ?いつが予定日?」
私の余りの食いつきに、ギルが少々引いているがかまわない。早く教えなさいってば。
「ああ、確か昨日が予定日だったはず。だけど今の時点で、まだ生まれたって連絡は入ってないから、遅れてるのかもしれないな」
「自然分娩なんだ」
「ああ、そうらしいな。リーさんらしいや」
近年のお産は、完全無痛のとまったく自然にやるのと、二分化しているって聞いたことがある。リーさんは自然派なんだね。
「そうだね。あー、楽しみだなあ。連絡入ったらすぐ教えてね!ね?」
「ああ。まかせとけ」
「そうか、まあいろいろあるよね。ギルは、なにかあった?」
「俺のことはしょっちゅう話してるだろ?そう都合よくないよ。お前はどうなんだ?何か変わったことあったか?」
別にないけど、と言おうとして今朝のことを思い出した。
「あ、そうだ。今朝、変な夢を見た。それで寝過ごして朝ごはん食べられなかったんだよ」
「夢見が悪かったのか?」
「いやー、それがね、そう悪い夢でも……、いや、やっぱりかなり悪い夢だったかな?」
「どっちだよ?」
「うん、最終的には悪い夢だった。だってギルが行方不明になるんだもん」
「え、俺が出てた?どんな夢だ?」
「最初はよかったんだよねー。なんか結婚式でさー、私がウェディングドレス着て控室に座ってるの」
そう言って、出だしから最後目が覚めるところまでを一気に話した。ギルも最終的にはかなり脱力してた。
「許せないのは、私があんな夢見ちゃったってことだよね。たぶん卒研のストレスとかが溜まりまくりだったんだと思う。まあ夢だからよかったよ。夢だしねー」
ギルは脱力からなかなか抜け出せないでいる。
「そんなわけで、ごく最近の出来事でしたっ!ギルはなにかないの?」
「最初のあたりはよかったんだけどなあー。あ、そういえばそれで思い出した。まあ、ないこともない、かな?」
本当のことを言うと、ギルがこの話をさらっと流してしまったのは私的には少し不満だった。私がギルと結婚する夢を見た、って時点でギルにはなにか思うところはなかったんだろうか?……まあ逆にそこをツッコまれても正直困るんだけどねー。私は、納得がいかないままに「ないこともない」話をせがんだ。
「え、なになに?ギルの話?」
「いや、俺じゃない話」
「え、誰?」
「いや、実はあの二人の話だけどね」
「うんうん?」
あの二人と言えば、……あの二人だろう。あの二人しか考えられない。
「あの二人、ついに……」
「えー?」
まだまだスケジュールを消化していないことも忘れて、私たちはそのまま小一時間、話題の二人についていろんな話を語り合った。自分であれ他人のことであれ、未来のことを考えるときはわくわくする。これからも、仲間たちと未来の話をいっぱいして、大いに盛り上がっていきたいと思った。
* こんどこそ、おしまい *
「宇宙エレベーター見学ツアー」は、このお話で「完」となります。最後までお読みいただいてありがとうございました。今後、少し時間をかけて図版などの補足ができればいいと思っています。読後の感想などありましたら、ぜひお知らせください。
次回作については、まだ全くの白紙です。その気になったら、また考えていきたいと思います。
ではまた、いつかどこかでお目にかかれることを楽しみにしています。




