(35) 鏡磨きと地球への帰還
アリシアさんの話を聞いて、マエーク君は宇宙エレベーターのカッコよさを改めて認識しました。そしてアリシアさんの夢の正体をもっとしっかり理解できた気がしています。一方、パーリャちゃんはアリシアさんとはもっと楽しい女子トークをしたかったようで、まだ不満が残っています。残り少ない旅の時間、アリシアさんといつまでもお話してたいんですけどね。
今日のお話は天体望遠鏡のお話です。そして今回の長い旅もそろそろ終わりを迎えます。
「結局アリシアさん、独占できなかったよ。んー、今のはお兄ちゃんのせいばかりとも言えないけど。うーん……」
コンパートメントに戻ったとたん、パーリャはぶーたれはじめた。確かに、パーリャのしたかったであろう女子トークらしい話が一つもなかったんで、欲求不満もたまるだろう。僕にとってはなかなかいい話だったし、ちょっと感動したりもしたんだけど、パーリャにはそれほど響かなかったかな?アリシアさんはもう仕事に入ってしまっただろうから、その代わりに僕はもう一つのことをパーリャに提案した。
「パーリャ、もう一度第2食堂に行って天文観測しないか?もうしばらくは見納めだし、僕も午前中第2でギルバートさんに会った時にさっきの話をしてたんで、結局望遠鏡は覗けなかったんだよ。」
パーリャは、顔は不満そうに聞いていたが、開き直るように「ま、いいか。うん、そうしよう!」と言って、すぐに踵を返した。
第2食堂に戻ると、アリシアさんはもういなかった。さっそく仕事に戻ったのだろう。代わりに何人かの人が来ていた。カレンさんもいた。もちろんお付きの人たちも。
「あら、パーリャちゃん、マエークさん、なんだか久しぶりね。星見に来たの?」
「そうなんです。もう見納めですからね」
「みんなおんなじこと考えているんだね。僕たち以外にも何人か列を作ってるよ。」
タンさんに言われて見てみれば、それぞれスクリーンを開いて自分の見たい天体を望遠鏡で追っていた。
月面を見ている人、惑星を見ている人、星雲を見ている人と、それぞれに分かれて群れていた。よく見れば、月面を見ているのはファルシャ先生だ。
「ファルシャ先生がいる。ちょっとご挨拶してこよう」
「あ、あたしも行く」
そう言って、僕たちはファルシャ先生に近づいた。
「先生、こんにちは。月面ですか?」
「ああ、カンパーネンさん。……いや、私もみんなのようにマエークさんと呼ばせてもらいます。パーリャさんも、こんにちは」
「こんにちは、先生」
そう言って僕たちは月面を見ているグループに参加させてもらった。見ると、ファルシャ先生と話している人は、たぶんまだ挨拶をしたことがない人だ。向こうも僕たちを見て、さっそく話しかけてきてくれた。
「こんにちは、ニコラス・カニンガムと言います。直接ご挨拶するのは初めてですね。いや、お兄さんの方とは前にお会いしたかな?」
名前を聞いてピンときた。そう言えば、GEOでヘルスチェックを受けたお医者さんだ。
「ああ、そうですね。GEOではお世話になりました。マエーク・カンパーネンです。こちらは妹のパーリャです。」
「カニンガム先生、ですよね。アリシアさんに伺いました。パーリャです。よろしくお願いいたします。」
パーリャも、すぐにアリシアさんの話を思い出したらしい。意識せずとも自然に挨拶する機会があってよかった。
「僕は、パーリャさんのことはいろいろ聞いていますよ。ここ何日かはみんなの噂の的ですからね。」
カニンガム先生は、ニコニコとやさしそうな笑顔で笑いかける。たぶんカニンガム先生もここ数日のサプライズに加担している側のはずだけど、その割にはあまり後ろめたさがなさそうだ。みんなして悪だくみをしているとは思えない。まあ、いずれにしても手の内はお互いに見せないってことだろうけど。
裏でそんな思惑があったとしても、とりあえず友好的な挨拶を済ませて、僕たちは本格的に月面探査をしていった。ティコクレーター、ケプラークレーターなどの景勝地から、アルキメデス基地、メシエ基地などを覗いていった。メシエ基地は今の月齢では陰に隠れてしまっているのだが、航空標識がちゃんと光っていて場所だけはちゃんと確認できるのだ。
「天体観測は月に始まり月に帰るってね、月面は実際に人が行って歩いているところだけあって、眺めても奥が深いところなんですね」
そう言ってカニンガム先生は月面観望のうんちくを語りだした。
「最近は月面基地間の資源輸送ルートの整備が進んでましてね、月面に道路が少しずつ伸びているのを見るのが楽しくってねえ。月面はやめられません」
「カニンガム先生は天体望遠鏡で見る派なんですか?」
パーリャはそう尋ねた。このツアーに参加しているお客さんたちは例外なく天文ファンなのだが、天文ファンの中にも発見派、データ派、写真派などさまざまな楽しみ方がある。カニンガム先生はどうやら望遠鏡で観測するのが好きらしい。
「そんなこと聞いてくれたら、僕の趣味の話を目いっぱいしちゃいますよ?いや、実は僕は天体望遠鏡の自作派なんですよ。特に反射望遠鏡の鏡を磨くのが大好きで、この間、生涯で20枚目の鏡を磨いて、望遠鏡に仕上げたばかりなんです。ほら、これです」
そう言って、せっかく月面基地が映し出されているスクリーンに自作の望遠鏡の写真を映し出すのだった。たぶんいろんな人に見せて回っているんだろう。慣れた手つきで流れるようにすばやく写真をスクリーンにコピーしていた。
「うわー、すごい。大っきな反射望遠鏡ですね。これ自作なんですか?」
スクリーンに映し出されたのは、自作だという反射望遠鏡の全体像だった。結構でかくて、全体の高さは3メートルに近いだろう。望遠鏡本体がいわゆる筒型ではなく、6角形のフレームだけで支えられているタイプだ。それにしても、横に立っているカニンガム先生の顔がどや顔でいかにも誇らしげだ。
「そうなんです。赤道儀はメーカー製ですけど、望遠鏡本体は接眼部を除いて主鏡も斜鏡も自分で磨いたものです。だいたい4か月くらいかかって磨いたものですね。40cmF8のニュートン式反射望遠鏡です」
「はあ~。反射望遠鏡の鏡って自分で磨けるんですねぇ~。知りませんでした」
「まあ、この頃自分で磨く人はだいぶ少ないですけどね。特に40cmなんて大物は、機械磨きならともかく手磨きでは、技術も体力も必要になりますから、僕の人生でもあと2回も磨ければいい方じゃないでしょうか?」
カニンガム先生は鼻高々に語っている。パーリャみたいに素直に感心してくれる人はなかなかいないんじゃないかと想像できる。でも、僕も素直に感心しているのは確かだ。この際だからいろいろ聞いてみたい。
「反射望遠鏡って、鏡面は放物面ですよねえ?どうやって磨くんですか?」
そう聞くと、カニンガム先生は待ってましたとばかりに語りだしたのだ。
先生の話では、反射望遠鏡の鏡でも屈折望遠鏡のレンズでも基本的な磨き方は同じで、同じ大きさの円形にカットしたガラス板を2枚用意して、1枚には水に溶いた研磨剤を載せもう1枚のガラスをさらにその上に載せて、特定の磨き方で磨いていくんだそうな。そうすると、だんだん下のガラスが凸に、上のガラスが凹に削れていくんだという。もちろんすぐにというわけではなくて、しゃこしゃこと繰り返し磨いていくうちにやがてそうなっていく、といった進み方なんだそうだ。
「そうやって磨いては減り具合を検査し、また磨いて、というのを繰り返して精密な放物面を出していくんですよ。磨きの技術もそうなんですが、検査の技術も重要で、光を当てて反射像を観察することで、どれだけ面の精度が出ているかがわかるんです。そうやって、磨いては検査し修正する、というのを繰り返していきます。」
そのような精密な磨きと検査を繰り返して1~2か月もすると、だいたい直径に見合った精度の表面が作れるという。もちろん先生は産業医としての仕事があるので、休日が中心の作業になるのは当然だ。今はかなり熟練したので完成まで含めても3~4か月で作れるけれど、始めた頃は10cm程度の小さな鏡でも半年以上かかったそうだ。今なら10㎝程度なら、数日くらいで作れる自信があるという。
そこまで磨いてもその時点では、まだすりガラス状の面できちんと反射像ができないので、その後に仕上げ磨きがある。基準面がそれ以上変化しないように下に置いてあったガラスの表面にアスファルトを塗り、その面で主鏡の仕上げ磨きをするようになる。そうして仕上げが済んだらそのガラス面は、まさにつるつるの放物面を持った凹面鏡になっている。それが最終的な検査に合格すれば、あとは工場に持って行って表面にアルミを蒸着してもらう。そうしたら立派な凹面鏡の出来上がりというわけだ。
「はあ~。反射望遠鏡って、そうやって作るんですね。初めて知りました」
「屈折望遠鏡だと、下の方の凸面のガラスがレンズとして使用できるガラス板になるんですね」
「まあそういうことです。ですが、屈折望遠鏡の場合は反射鏡よりはレンズ径が小さい場合が多いですので、精度を出すのはより困難です。そして磨く面は最低でも両面。色消しレンズを作ろうと思うなら、凸レンズと凹レンズを組み合わせる2枚、または凸凹凸の3枚構成のレンズにもなりますので、磨く面は4面とか6面になります。さらに、反射鏡の場合はガラスの中を光は通過しませんので、極端に言えば気泡やひずみさえ入っていなければどんなガラスでも構わないんですが、レンズの場合はガラスの中を光が通過しますので、色のついていない上質なガラスでないといけません。そうするとガラス自体が硬質で研磨しにくかったりするので、反射に比べて屈折は何倍もの手間と時間がかかります。僕も、レンズを磨いたのはこれまででたったの2枚だけです。あんまり面倒なのでその後2度とやっていません」
はあ、なるほど。だから一般に天体望遠鏡は、同じ口径でも屈折望遠鏡の方が反射望遠鏡より値段が高いんだ。
そんなこんなで、今回はカニンガム先生の自作望遠鏡講座ということになった。他にも他の方式の望遠鏡の話だとか、赤道儀と経緯台の話だとか、接眼レンズの話だとかいろいろな話が聞けた。面白い知識満載の講義だったが、天体望遠鏡を自作するということ自体に関しては、あまりやってみたいとは思わなかった。工作とか手作りが好きな人は面白いかも、と思うのが精いっぱいだったなあ。僕がそんなだったので、パーリャはなおさらだっただろう。途中でカレンさんのところに行って別の話をしていたようだった。でも、これでカニンガム先生とも知り合いになれたので、まあよかった。そう言えばファルシャ先生とはほとんど話をしなかったなあ。よかったんだろうか?
* * *
そしてその日の夕食時。X-DAYの覚悟をしながら他の人たちにとっての予定外の行動をとらないようにと結構気を遣って、いつも通りの時刻にいつもどおりの第2食堂に出かけた。……が、食堂はいつもどおりがらんとしていた。
「今日のディナーは最終日ですから豪華ですよ。なんと、普通のディナーです。とろみのついてない普通のコンソメスープに、焼きたてロールパン。牛フィレ肉のシチューに野菜の付け合わせ。デザートはグレープフルーツのソルベです。ナイフフォークでお召し上がりください。」
そう言ってアリシアさんがセットしてくれたのは、まさに普通のディナーコースだった。もう機内の引力は0.15Gに戻っている。月面よりわずかに引力が弱い程度で、もうスープがスプーンにまとわりつくこともなく、ほとんど普通に食することができる。そういうわけで、ドリンクも普通のグラスやカップに入って出されている。こんなところからも地球に近づいてきていることが実感される。
「あっ、もうスープが普通になってる。引力が戻ってきているんですね。どうも体が重くなったと思ってました。あーあ、元の木阿弥ですねー……」
「元の木阿弥なんて人聞きが悪いですよ。でも、もう地球圏に戻ってきているんですね。明日の今頃はホテルでディナーパーティですよ。」
そういうなり、アリシアさんはいつものように僕の横の座席に座った。もう誰も来ないことが確定しているかのようだ。まあ実際誰も来ないんだけれど。そしてパーリャがこんな提案をした。
「アリシアさん、アリシアさんも一緒にディナー、召し上がりませんか?まだ済ませてませんよねえ?」
アリシアさんは急に言われたのでびっくりしたようだ。
「ええ、まだなんです。でも、さすがに仕事をほったらかして、っていうのはちょっと……」
「今日も厨房はセルゲイさんがいらっしゃるんですよね?誰かお客さんが来たらセルゲイさんがサービスしてくれますよ。もう最後なんですから一緒にディナーしましょうよ?」
そう言って、パーリャはアシスタントに声をかけた。
「『セルゲイさん、ちょっとテーブルまで来てくれませんか?』」
止める間もなく、そんなことを言い出した。
「あ、あの、パーリャさんてば……」
そしてセルゲイさんがすぐに飛んできた。月面並みの重力だから、弾むように走ってくるのがなんだかおもしろい。
パーリャはそのまま口八丁でセルゲイさんの許可を取り付けると同時に、アリシアさんのためにディナーを持ってきてくれるよう頼んだのだった。
「最後だから特別ですよ」
セルゲイさんはニカッと笑ってアリシアさんの席にディナーをセットしてくれる。なんだかんだ言って、セルゲイさんもアリシアさんには優しい。でもアリシアさんとパーリャの組み合わせにあんまり甘い顔をしていたら、パーリャが就職した後が困ったことになりはしないかとこっちが心配になるんだけどなあ。
「さ、私ずいぶんアリシアさんとお話してない気がしてて、寂しかったんです。旅の終わりにゆっくりお話しましょ」
「はい、なんだかお客様気分で私も嬉しいです。ご一緒させてくださってありがとうございます」
ま、しょうがないか。この際だから僕も今回は聞き役に徹して、食後のコーヒーが終わったらふたりを残してさっさとコンパートメントに退散した。パーリャはアリシアさんとみっちり話したいだろうから、僕がいてはなにかと邪魔だろう。好きなだけアリシアさんを独占すればいいよ。
そんなわけで、クライマーで宿泊する最後の夜も、何事もなく更けていった。結局X-DAYってのは何だったんだ?やっぱりこっちの考えすぎだったようだ。10時ごろにはパーリャもすっかり会話を堪能したようで、顔を上気させながらコンパートメントに戻ってきた。
「あー、すっきりした!こんなにじっくり話したのは久しぶりだよ。お兄ちゃん遠慮してくれてありがとね。アリシアさんをたっぷり堪能させていただきました」
「それはよかったけど、お前今までずっとアリシアさんを独占してたのか?アリシアさん、仕事とか大丈夫だったのか?」
「んー、8時過ぎに一回席を外して、スタッフミーティングに出ていったよ。『すぐ戻りますね』って言って、そのとおりすぐ戻ってきて、それで今日の仕事は終わりなんだって言ってた。だから今の今までたっぷりとお話しできました!」
「そうか、よかったな。アリシアさんも喜んでただろ?」
「うん。頭撫でてもらったよ。やっぱり頭撫でたかったってのもあったみたいだね。満足してたよ。」
うーん、大人同士でなにやってんだか、とも思ったけど、まあ誰に迷惑かけてるわけでもないし、別にいいのかな。満足したのなら、それはそれでよかったんだろう。
「そっか。お疲れさん。シャワー浴びてきな」
「あ、お兄ちゃん、えっとね……」
パーリャがなにか言いたそうにする。
「ん、なに?」
「えっとね、さっきここの前でセルゲイさんと会って言われたんだけど……」
「ん?」
「アリシアさんと仲良くお話してくださってありがとうございました、だって」
「んー?セルゲイさんが?」
「うん」
確かにここのところ、僕もパーリャも、なんだかアリシアさんとばかり話している。それはその通りだが、セルゲイさんに感謝されるというのはどういう意味なんだ?
「ほら、さっきまでX-DAYがいつだ、とか言って恐々としてたでしょ?あれって、どうやらサプライズってんじゃなかったみたい」
「セルゲイさんが、そう言ってたのか?」
「うん、セルゲイさんが種明かししてくれたんだけど、もともとこの作戦を考えたのは乗客のみんなだったみたいだよ。始まりは、ネイネイさんがバイカーク夫人とボシュマール夫人に相談されたのがきっかけだったんだって」
パーリャの話では、バイカーク夫人とボシュマール夫人がネイネイさんに相談を持ち掛けたことから今回の作戦が始まったのだそうだ。二人の夫人の相談とは、アリシアさんが見るからに無理をしているように見えるので、なんとか休ませてあげられないか、という話だったらしい。それはネイネイさんたちも感じていたことで、相談を受ける以前からスタッフたちはとにかくアリシアさんが休めるように、ローテーションを変えてみたり役割を分捕ってみたりといろいろ画策したらしい。ところがアリシアさんは、時間が空くとなにかしら仕事を見つけ出してそれに熱中して取り組んだりして、何をどう変えてもちっとも意味がなかったということだったのだ。
「まあ、アリシアさんらしいと言えばそうなんだろうな。それでどうしたんだ?」
「そんな風にスタッフたちも思っていたところだったから、ボシュマールさんたちの申し入れは、スタッフにとっても渡りに船ってことでね、それでスタッフと乗客の共犯関係が成立したってことだったみたいだね」
なるほど、確かに利害が一致していれば、そんな関係になるのも無理はない。だがそれが今回の話とはどうかかわっているんだ?
「それでね、ボシュマールさんたちとネイネイさんやセルゲイさんが結託することになって、アリシアさんを休ませる作戦を考えることになったんだって。アリシアさんはそんな風に、休めって言っても素直に言うことを聞かない人だから、とにかく行動を縛るしかないと思ったらしいんだ。それで考えたのが、これまでの作戦だったってことらしいよ」
「それって、つまり……?」
「私たちがアリシアさんとお話したがっていたのを利用して、アリシアさんをとにかく仕事から解放してリラックスさせるように仕向けたってことなんだって」
そのために、アリシアさんの職場である第2食堂には誰も行かないようにして、逆に僕たちだけは毎日出向いていくわけだから、結果として食事の時間だけでもアリシアさんがリラックスして過ごせるようにした、ということだったわけだ。
「なるほど、それを僕たちに内緒でやったもんだから、僕たちが勝手にいろいろ勘違いしたってことだったんだな。でもそんなことなら、僕たちにも話してくれればもっとアリシアさんがリラックスできるようにしてあげられたかもしれないのになあ」
僕がそう言うと、パーリャは渋い顔をして反論した。
「うーん、でもお兄ちゃんだって私だって、そんな隠し事は苦手でしょ?私は伝えなくて正解だったと思うよ。初めからアリシアさんを接待しようとしてたら、なんかどこかで不自然になっちゃったような気がするなあ」
「まあ、そうかもしれないな。……なるほど。僕たちも含めて一本取られたってわけか。ま、アリシアさんがリラックスできたんなら、十分元は取れたということだけどな」
「うん、そうだよね。……でもスタッフのみんなも、お客さんたちも、みんな優しいね」
「アリシアさんの人徳……だと思うなあ」
結局、僕たちを除く乗客たち全員と食堂のスタッフたちは、第1食堂に他の全員を集めてアリシアさんの負担を減らす作戦に出たという事だったようだ。それを僕たち兄妹には秘密にすることにして、ごく自然にアリシアさんがストレスなくリラックスできる環境をまる2日間にわたって用意して、アリシアさんに休息してもらうことに成功したということらしい。みんなの善意から出た陰謀だったから、少しは癪な気もするけれど、だからと言って怒る気にもなれない。僕たちもなんだかんだで面白い2日間を過ごさせてもらったしね。
こうして、特にサプライズが発生することもなくクライマーで過ごす最後の夜は更けていった。明日はもう地球に降りていくだけだ。明日は明日で地上の敵が待っているけど、とりあえず今日はゆっくり休もう。クライマーでの最後の夜、ずいぶん大きくなってきた地球の姿を目に焼き付けながら僕たちはまどろみを深めていった。
* * *
そして本当のツアー最終日の朝、食事を終えた頃にまたコンパートメントをノックする音が聞こえた。
「おはようございます。アリシアです」
「はーい、どうぞー!」
今日はパーリャが元気に答えた。僕はちょうど荷造りを終えたところだった。
「おはようございます。朝から失礼します。あ、降車の準備をされていたんですね。お忙しいところにすいません。えっと、あの……」
アリシアさんが遠慮気に部屋に入ってくる。
「おはようございます。どうしました?」
「はい、あの……。ミティーホフからご報告があったと思うのですが……、例のサプライズのこと……」
「ああ、パーリャが聞きました。アリシアさんに休息してもらいたかったってことだったんですってね」
「はい、なんだか私、みなさんに疲れた顔を見せてしまっていたみたいで、バイカーク夫人をはじめ乗客の皆さんに気を遣わせてしまったようです。ほんとに情けないです。結果的にご迷惑をかけてしまって、申し訳ありませんでした」
アリシアさんは、まだそんなことを言っている。みんなの気持ちがまだ伝わっていないようだ。
「アリシアさん、それはみんなには言わない方がいいですよ。みんながっかりしますから」
アリシアさんはとっさに意味が呑み込めないようで、きょとんとしている。
「アリシアさんを休ませてあげたつもりなのに、そのアリシアさんが情けなくって申し訳ない思いになってるなんてみんなが知ったら、自分たちの行動に意味がなかったなんて思うんじゃないですかね?」
「え、……そうでしょうか……?」
アリシアさんは首をかしげているが、パーリャは僕の意図をくみ取ってくれたようだ
。
「そうですよ、アリシアさん。みんなのおかげで十分リラックスできましたー!今日も皆さんと一緒に頑張りますよーっ!……って感じに元気になっててくれないと」
アリシアさんがほほ笑んだのは、そのパーリャの言い回しに慰められたからかもしれない。
「そうですね。みなさんの思いに感謝したら、ちゃんと態度で示さなきゃいけませんよね。はい、そうします。アドバイスありがとうございました。マエークさん、パーリャさん」
アリシアさんにいい笑顔が戻ってきた。見ているこっちまで嬉しくなる。やっぱりうれしい気持ちって伝染するんだ。
「9時30分になりましたら、マーキュリーとの分離シークエンスのアナウンスを始めます。その時に皆さんには感謝の気持ちを伝えますね」
そう言ってさっぱりした顔で、アリシアさんは仕事に戻って行った。
そして間もなく、コンパートメントのスクリーンにアリシアさんが映し出され、そのアナウンスが始まった。
「乗客のみなさま、おはようございます。おくつろぎの所失礼いたします。チーフパーサーのアリシア・ナカイです」
そうしてこれから始まるマーキュリーとの分離シークエンスの説明に入る。説明と言っても、一旦停止してマーキュリーを切り離して、身軽になってまた地球に向けて発車するってことだけだ。すでに重力も0.5Gを超えているので、多少の加速度があっても上下が変わるほどではない。一応突発的な事故に備えてシートについてベルトを締めておくように言われるけれど、作業が順調にすすめばほとんど振動もなくあっという間に終わることだろう。アリシアさんはそんな注意点を台本通りにアナウンスしていった後、最後にほほえみを深めてこう言った。
「この数日、私が第2食堂でろくにお仕事もせずパーリャさんやマエークさんとおしゃべり三昧で過ごさせていただいていたのは、バイカーク夫人やボシュマール夫人をはじめとした乗客の皆さんの陰謀だったと聞きました」
おいおい、この口調はケンカでも売ろうとしているのか?なんだか心配になってくる。
「私自身、フロアスタッフとして皆さんのお世話をするのも初めてでしたし、もちろんこのツアー自体も世界初ということで、運営についても緊張の連続でした。さらには、関係省庁への定時連絡やメディア向けのデイリーレポートなどもあって、頭の中でパニックを起こしていたというのは皆さんが看破された通りだったんです。私自身が情けないことに、そんな自分の内情を乗客の皆さんには隠していたつもりでしたが、結果的に隠しきれていなかったということに気づかされました」
関係省庁への連絡というのはわかる気がするが、メディアへのレポートという仕事もあったのか。そう言えば世界初のツアーだというのにメディアからの注目の気配がほとんど見られないことに今気づいた。ツアー自体の存在は公にアナウンスされて参加者も募集されていたのだから、メディアから注目されないはずはない。むしろ世界中のメディアが注視していて、さまざまな取材攻勢があっても当たり前の所だ。ツアー中も外部との連絡は当たり前にできるのだから、我々乗客にだってそんな取材の一端が届いても全く不思議ではない。それらをSEMがすべて引き受けてくれていた、ということなのだろうか。
「でも、隠していたはずのそんな私の悲鳴に気づいていただきまして、この数日は本当にリラックスして過ごさせていただきました。おかげさまですっかりのんびり過ごすことができましたし、数日前までは『もう二度とフロアスタッフにはなるまい』と心に誓っていたことがうそのように、今は『次のツアーもフロアスタッフでがんばろう!』って気持ちになっています。みなさまに心配されてお世話になって、気持ちに張りを取り戻すことができました。本当にありがとうございました!」
アリシアさんはさわやかな笑顔でぺこりとお辞儀をした。よかった、ケンカを売ろうとしたわけじゃなかったんだ。少し胸をなでおろした。だがそのアリシアさんが再び顔を上げたとき、その笑顔のさわやかさに少し違う成分が混じっていたことに僕は気づかなかった。
「その感謝のしるし、というわけではありませんが、みなさまには臨時で特別な体験プログラムをご用意させていただきました。本日の昼食時、これはこのツアーにおけるクライマー内での最後の食事となりますが、完全セルフサービスにさせていただこうと思います」
そう言ってアリシアさんは一拍おき、またさらに言葉を続けた。
「私たちフロアスタッフは、本日の昼食はみなさまにサービスいたしません。逆に、皆様の中からフロアスタッフにサービスしていただく方をご用意ください。私たちは乗客として昼食のサービスを受ける体験をさせていただき、乗客のみなさまにはクライマーのフロアスタッフの体験をしていただくという、一石二鳥のプログラムです」
アリシアさんの笑顔に含まれていた成分にようやく気が付いた。こうしてみると、貼り付けられたさわやかさの後ろに、わずかだが悪い笑顔の成分が隠れていることがわかる。
「もちろん、トレーのセットの仕方や温め方、諸注意からお客様へのお勧めの仕方まで現スタッフが、新人スタッフに向かう要領で丁寧に指導させていただきます。最後のランチはフロアスタッフになったつもりで、みんなでサービスしあってみんなでいただきましょう!」
これがアリシアさんの意趣返しらしい。そういえば僕たちは毎食毎食サービスされるばかりで、食事のトレーがどう保存されていてどう温められているのか、詳しくは見ていない。それを今回は体験させてくれるんだと考えれば、これも立派な宇宙エレベーター見学ツアーのプログラムと言えるだろう。
「あ、そうそう。私も今日はみなさんとご一緒させていただきます。その時のサービス担当にはマエークさん、あなたを指名させていただきますので、よろしくお願いしますね。パーリャさんはマエークさんのサポートをお願いします」
画面の中のアリシアさんが急に指をさして僕自身に語りかけてきたので、一瞬驚いた。なんだかクライマー中で笑いがどよめいたような気がした。はいはい、わかりました。幻に終わったサプライズだったが、いろいろいじられることについてはその時すでに覚悟は済んでいる。
「了解しました、アリシア社長!おまかせください!」
パーリャもすっかりその気になっている。そんなことを言っているうちに、クライマーは高度を下げて約2000キロ、マーキュリーとの別れの場所に停止した。そしてすぐさま分離シークエンス。なにごともなくクライマーは身軽になって、ふたたび地球に向かって降り始めた。
もうこのあたりまで来ると上下の感覚はすっかり戻っている。ただし身体の方はずんずん重くなって、動くのをおっくうに感じてきている状態だ。きょうはトレッドミルはやりたくないし、もう不要だろう。ただ歩き回るだけでも、十分筋肉に負担がかかっているのがわかる。
そして昼食。アリシアさんの宣言通り、乗客のみんなは厨房でセルゲイさんの指導を受けながら、各々昼食のトレーとドリンクを自前で用意しセットしている。やらされている感はなく、結構楽しそうだ。
今日はもう第2食堂にも適度に人が流れてきている。そして僕も、アリシアさん直々に指名されているんだ。セルゲイさんの指導を受けてくることにする。その前に、アリシアさんに早速指導された。
「マエークさん、まずはお客様を座席にご案内してください。本来はそれから今日のメニューの軽い説明をしてドリンクのお勧めをするんですが、今日は省略でかまいません。私は暖かいジャスミンティーをお願いしますね」
「じゃ、パーリャ。アリシアさんをお席にご案内して一緒に座ってアリシアさんのご機嫌をうかがっておいてください。僕はランチを用意してきます」
フロアスタッフ体験ということで、思わず敬語を使ってしまったが、パーリャもそのノリで、「はい、わかりました」と返事してくれた。その言葉に安心して、僕は厨房に向かった。厨房は結構混雑していたが、僕が行く頃にはもうセルゲイさんも座席について、サービスを受ける側に回っていたようだ。ちなみにセルゲイさんへのサービスは、ボシュマールさんが担当しているようだ。ボシュマールさんも楽しそうにセルゲイさんにサービスしている。そばで夫人がにこやかに見守っているのがなんともほほえましい。
そして、サービスされているセルゲイさんの代わりに、乗客がかわるがわるトレーの温め方を伝言ゲームのように後からくる乗客に伝える形になっているようだ。うん、誰かがいつまでも説明役を引き受けなければならないのではなく、みんなの負担が均等になってなかなか合理的だ。ただし何度も情報を伝えていく過程で、情報がどんどん劣化していくのは避けられないだろう。幸いなことに僕の順番になった頃でも、セルゲイさんのオリジナルな情報からそれほど世代を経てはいないようで、料理の説明も確かだし、スムーズにトレーとドリンクを3人分用意できた。今日のメニューは温めるものばかりだったから、さほど凝った工程もなく、簡単だったのも都合がよかったようだ。
僕は3人分のメニューをワゴンに載せて、アリシアさんの座席に向かった。料理の用意よりも、フロアを移動するのが億劫だ。重力の効きが激しく感じられる。地上についた時が思いやられるなあ。
「お待たせしました。本日のランチは、えーと『ナガサキサラウドン』です。揚げた小麦の麺に海鮮と野菜のあんをかけた、アジアンテイストの麺です。デザートは小麦粉を練って揚げたお菓子、『マーホア』です。ジャスミンティーでお召し上がりください」
「すごい、ちゃんと言えましたね。はい、ありがとうございました。マエークさんもかけてください。一緒にいただきましょう」
「はい、とりあえずこんなもんでいかがですか?」
「おお〜、お兄ちゃん、立派なもんだ。ちゃんとフロアスタッフに見えるよ」
パーリャは素直に褒めてくれる。そして、アリシアさんは真面目な顔で答えてくれた。
「本当ですね。マエークさん、なんだか初めから慣れていらっしゃいますねえ。学生時代ウェイターのバイトでもされてましたか?」
「いえ、学生時代のバイトと言えばほとんどが家庭教師か翻訳チェックばっかりで、接客の仕事はやったことありません」
皿うどんをザクザクつぶしながら、アリシアさんは心底驚いたように聞き返してくる。
「私が初めてサービスの練習をしたときは、トレーを置く時に音をさせちゃだめだとか、料理の説明を一度で覚えてられなかったとか、持ってきたカトラリーの数が足りなかったりだとか、指導するところ満載だったんですけどねえ。これって才能の差ですか?」
そう言ってがっかりしている。そんながっかりさせるつもりはなかったんだけどなあ。
「お兄ちゃんって無駄に器用なんですよねー。休みの日なんかはいつも自分のペースで過ごすもんだから、食事も家族と一緒に取らなくて全部自分で用意から片づけまでやっちゃうし、部屋の掃除なんかも絶対他人を部屋に入れなくて、どの部屋よりもきれいにしてますよ。ついでに他の部屋まで掃除してくれればいいのに……」
パーリャもランチをもぐもぐ食べながら、アリシアさん相手に好き勝手なことを言い始めた。
「パーリャは、3回は言われないと自分では絶対やらないもんな」
「そういえば、私もすっかり弟たちのお世話になりっぱなしです。もって生まれた性格なんでしょうか。マエークさんがうらやましいです……」
アリシアさんはアリシアさんで勝手に落ち込んでいるが、それは自分の性質をよく見ていないということだ。僕はフォローする。
「アリシアさんは自分のことより他人のことを優先する人なんですよ。乗客のお世話なら誰よりも熱心にするじゃないですか。自分のことには頓着していなかったり多少不器用なところがあるとしても、他人のためなら最終的にはちゃんと努力してなんでもマスターしてるでしょう?アリシアさんは僕なんかよりはるかに立派ですよ。自信を持ってください」
アリシアさんは目を見開いて僕の言葉を聞いていた。しまった、ちょっとホメ過ぎたか?と思ったが、すぐに少し赤面した普通の表情に戻った。パーリャが僕を避けるように小声でアリシアさんにささやいている。
「ちょっとキュンときちゃいました?」
聞こえてるぞ。そう心の中でツッコみながら、僕は照れ隠しに皿うどんにぱくついた。
「パーリャさん、やめてくださいよ、もう……」
アリシアさんも同じような気持ちだったのだろう。カトラリーの動きが速くなった。パーリャはなんだかニコニコしながら僕たちを眺めている。こんな穏やかでうれしい食事も当分はお預けになるんだと思ったら、旅の終わりが少し寂しいものに感じられてきた。
複雑な思いとは無関係に、クライマーはどんどんと地球に近づいていった。眼下の地球がどんどんと大きくなっていく。それ以上に存在感を増してくるのが重力の存在だ。まだまだ宇宙空間だと思っているうちに、食事が終わってトレーを各自で片づけていく頃には、食堂のスクリーンに映る星の数がだんだん減っていっているのに気が付いた。空が明るくなっているんだろう。
部屋に戻りスクリーンを眺めているうちに、視野の下半分がほぼ地球で占められるようになった。その頃にはもう星はほとんど見えなくなって、なつかしい群青の空のグラデーションがスクリーンを覆うようになった。
続いてシートを起こし、着席してベルトをするようアリシアさんの声だけのアナウンスが入る。チャンネル0番のギルバートさんの声は、こころなしか旅の最後の緊張感を含んでいるように聞こえる。そういえばさっきからクライマーが風を切る音だろう。かすかなノイズが部屋の中に響いているのが聞こえている。空気の密度がだんだん増してきているようだ。
空が水色になり、遠くに雲海が見え始める。クライマーの直下は鮮やかな晴天だ。船の航跡、空港を発着する飛行機も見える。だんだん腕も上げにくくなって、首にも負担がかかるようになってきた。スクリーンを見ると、重力はもう0.99G。地上とほぼ変わらない。地球に戻ってきたということをいやでも感じざるを得ない。
「戻ってきたなあ……」
「もうちょっと宇宙にいてもよかったかな」
パーリャは本当に宇宙の暮らしが気に入ったようだ。今後SEMに入ってもうまくやっていけるだろう。そのうちアリシアさんの姿がスクリーンに現れ、最後のアナウンスが始まった。
「お疲れさまでした。間もなく当機は速度を緩め、高度0、ターサ島沖アースポートに到着いたします。ベルト着用のサインが消えるまで今しばらく着席されたままでお待ちください。アースポートに到着後、順次ご案内をいたしますので、しばらくの間はコンパートメントからお出にならないようお願いいたします」
「アースポートに到着後は、あらかじめお渡ししております手順に従って健康診断を受診していただきます。また今夕18時には併設ホテルの宴会会場にて、フェアウェルパーティの予定がございます。お荷物をクロークにお預けのうえ、ぜひご参加ください」
「到着後は、21日ぶりの地表となります。重力が1Gに回復しており、多くの方にとって数日の間は立って歩くのにもご不便を感じられることと思います。決してご無理をなさらず、ゆっくりと行動していただくようお願いいたします。必要な方にはコンパートメントまで一人用のトランスポーターをご用意いたします。トランスポーターには立ち乗り用と車いすの2種類ございますので、お部屋のスクリーンにてお申し込みください。くれぐれもゆっくりと行動され、ご無理をなさらないよう、ご遠慮なくトランスポーターやスタッフを利用してくださいますよう、お願いいたします。……いよいよ地表が近づいてきました。クライマーが完全に停止し、ベルト着用のサインが消えるまで座席から離れないようにお願いいたします」
やがてスクリーンに映る風景が、出発の時と寸分変わらないスカイブルーの空とエメラルドグリーンの海になり、そしてそのまま音もなくクライマーは駅舎の中に吸い込まれていった。航空標識が設置してあるタワーに進入し、そして最終的に多くの階層に分かれるプラットフォームへと進んでいき、そこでゆっくりと停止した。同時にアリシアさんの、正真正銘最後のアナウンスが入った。
「ただいま、14時0分、予定通り高度0キロ、地表のターサ沖アースポートに到着いたしました。これからボーディングブリッジの接続と気圧の調整をいたしますのでしばらくお待ちください。ベルト着用のサインは消えましたが、降車のご案内は順次行っていきますので、それまでコンパートメント内で降車の準備と、重力への順化を行ってください。ゆっくりと徐々に身体に体重をかけて、身体を重力に慣らしていってください。少しでも不安を感じられましたら、スクリーンでトランスポーターの使用をお申し込みください。決してご無理をなされないよう、お願いいたします。準備が整い次第、コンパートメントごとに降車のご案内を差し上げていきます」
「そろそろ降車の準備が整ったようです。これから順次、各コンパートメントごとに降車のご案内を差し上げていきます。どなたさまも、お気をつけて降車していただきますよう重ねてお願いいたします。SEMの宇宙エレベーター見学ツアーにご参加いただき、ありがとうございました。またいつか、再び宇宙への旅をご一緒できる日を楽しみにしております。ツアーのご利用、ありがとうございました。チーフパーサーのアリシア・ナカイでした。ありがとうございました……」
最後は、アリシアさんらしい感情の込められた、素敵なアナウンスだった。そしてその余韻が残るうちに、ドアがノックされた。
「ミティーホフです。カンパーネンさんはご用意いかがでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
そう言ったとたん、ドアが解錠されセルゲイさんが顔を覗かせた。
「パーリャ、いけるか?」
僕は正直身体が重い。だが身動きできないというわけでもない。パーリャも見る限りそう無理はしていないように見える。
「うん、大丈夫だね。トレッドミルやっといてよかったね」
「よし、じゃあ降りるか。いくぞ!」
そう言って、僕はトランクを持ってドアに向かった。ああ、身体も重いけれど、何よりトランクが異様に重い。出発の時とそう変わっていないはずだが、ものすごく荷物が増えたように感じてしまう。だが、気をつけて運動をしてきたおかげか、どうにか動ける範囲に収まっている。僕はセルゲイさんの待つドアに向かって進んだ。パーリャはドアの前で少し振り返ってこう言った。
「『長い間、ありがとうね。あなたのおかげでいい旅ができて、気持ちよく過ごせたよ。また来るから、その時はよろしくね!』」
すると、答えが返ってきた。
「ご利用ありがとうございました。またのご乗車をお待ちしています。パーリャ様、マエーク様」
僕たちは重い身体と重い荷物をどうにか引きずって、なんとか無事にアースポートに降り立つことができたのだった。21日ぶりの地球だった。
旅を終えて地表のアースポートに到着した。 現在地点:高度0キロ 重力は1G 慣れ親しんだ地表の環境に戻った
長い長い3週間の旅を終えて、ようやく地表に戻ってきました。身体は重く、荷物はもっと重く感じていますが、3週間程度ですのでそれほどでもありません。ふたりはまだまだ若いので、おそらく数日程度で元の状態に戻れるはずです。でもお年を召された他の方たちは、トランスポーターを使って無理をしないようにしています。でもみんな、立ち乗り型……いわゆるセグウェイを希望されて、車いすを希望された方はいらっしゃいませんでした。
パーリャちゃんは、旅の間のくつろぎの空間だったコンパートメントに別れを告げるのも忘れていません。部屋のアシスタントAIも、今回の旅での学習内容はデータサーバーに保存されていて、次回同じ利用者があった時にはその時の記録を参照して、より効果的なサービスが提供されるようになっています。もちろんSEM内のAIでしか共有されませんけどね。
旅は終わりましたが、兄妹にとってはまだ両親との対決があります。それにアリシアさんとの話し合いもね。ということで、次回は両親との再会です。このお話ももうちょっとだけ続きます。
おまけ:カンパーネン兄妹が感じた、地球の重力の大きさを手軽に体験する方法があります。お風呂にお湯をたっぷり張って、首までつかります。十分温まったら、そのままの姿勢を保ったままお風呂の栓を抜いてお湯を抜いていきます。お湯が減っていくにしたがって、身体の各部の重さが次第に実感できます。お湯がなくなったら湯船の上に立ち上がってください。自分の身体がいかに重いのか、地球の重力の大きさを実感できることでしょう。お試しください。




