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宇宙エレベーター見学ツアー  作者: ぜんしも
21/41

(19) 宇宙で暮らすということ

GEOステーションを発った日の午後。脱出臨界高度に向けて昇っていきます。今日の話は抗重力筋の話から始まりました。農園の話、ゼニス氏の過去と、今日の話題は盛りだくさんです。

「そろそろ腕と首の筋肉にも負荷をかける運動をすべきでしょう」


ランチでサービスしてくれたフェルデンさんに、そうアドバイスされた。


フェルデンさんと話したのは、現在の体調と日課にしている運動の内容だ。僕はとりあえずトレッドミルだけは朝と夜に15分ずつこなしている。パーリャも忘れてしまいがちではあるが何とか習慣化するのに成功して、僕の8割程度はやっていると言えるだろう。それについてはフェルデンさんは褒めてくれたのだが、やはりトレッドミルだけでは少し物足りないのだそうだ。


人間の筋肉の中の分類として抗重力筋というものがある。名前の通り、重力に抵抗して姿勢を保つために働いている筋肉だ。それらの多くは、僕もパーリャもやっているトレッドミルの運動で適度に負荷がかかり、筋力が衰えるのをかなり防いでくれるのだが、首の筋肉はこの運動では負荷がかけられない。首が重力に抵抗して支えてくれるのは頭だ。しかしトレッドミルでは頭ではなく肩にベルトをかけるので、頭を支える首の筋肉は弛緩したままなのだ。そんなわけで、僕たちの首の筋肉はそろそろ1週間ほど働いていない状態が続いていて、ある程度弱ってきていると考えられるようだ。


どんな運動をすればいいのか、とりあえず聞いてきたので午後はそれをやってみることにする。


「あんまりあわててする必要はないですよ。トレッドミルと同じように習慣にして、少しずつ毎日するのが大切ですからね」


と、フェルデンさんはいかにもなアドバイスをしてくれたが、とりあえず、どんな具合の運動なのかは知っておきたい。パーリャは落ち着き払って、


「フェルデンさんだって、まだ1週間なんだから、そうそう筋力は落ちてないはずですよって言ってたじゃん。ゆっくりやればいいのに」


と、鷹揚に構えている。まあ、それはそうなんだけどね。知ったら試してみたくなるのが人情ってもんだろう。とりあえず言われたようにやってみる。


フェルデンさんのおすすめは、タオルを使う運動だ。ハンドタオルを頭にかけて両端を左右の手で持ち、頭と首に負荷をかけるイメージで下向きに引っ張り、首をいろんな方向に曲げ伸ばしする、それだけだ。


やってみるとなるほど、首にも負荷がかかるが、同時に腕の筋力も鍛えることになる。トレッドミルと並行してやっていけば完璧なんじゃないだろうか。同時にもできそうだな。


まだその時間じゃないが、ついでだ。トレッドミルを床に設置して同時にやってみることにする。……腕が振れないと、ちょっと走るのにリズムを取りにくいところがあるが、一緒にできないわけではない。ふん、なるほどね。


結局我々は生まれた時から長年にわたって地球の重力の中で暮らしてきているので、良くも悪くも重力に縛られている。だからこそ、重力下に戻った時のために日常の訓練が必要となるわけだ。今後、無重力や低重力で暮らすことが当たり前になっていったとき、人間の身体はどうなっていくのか、いや、身体だけではなく理性や知性の方も何らかの影響を受けて変化していくのではないだろうか。


GEOステーションの、天井も床もない空間に出会った時、たぶん生き物としての本能的な部分で強烈な不安を感じたことは、今でも忘れがたい印象として残っている。ちなみにほ乳類は無重力下では発生できないということはわかっているらしいので、人間が重力から完全に開放されるときというのはない、とは言えるのだろう。しかし長期にわたって無重力下で過ごす、たとえば生まれた直後から一生無重力下で過ごす、ということは今後あり得ないとは言えない。そんな環境で育った人間はどうなるのだろう。


たとえば僕たちが今さんざん苦労している筋力の衰えを防ぐということにしても、それは重力下に戻るという前提があるからこその努力なのだ。もし、もう永遠に重力下には戻らないことが決まっているのだとしたら、こんな運動をする必要はないのかもしれない。その時、人間の身体は、たとえば形態はどのようになっていくのだろうか。


迷ったクジラが海岸に打ち上げられて死んでしまったというようなニュースをたまに目にすることがある。クジラはもともとは陸生動物であり今でも肺で呼吸しているが、気道や呼吸のための筋肉は完全に海中での呼吸に適応しているため、陸に打ち上げられて強い重力下に置かれると、正しく呼吸できなくなるらしい。人間でも、気道の周辺の筋肉が麻痺したり麻酔で動かなくしたりすると、やはり呼吸困難になることがあるという。無重力下で適応した人間は、やがてクジラのような体形になっていくのだろうか。そして重力下に置くと、呼吸困難で死んでしまうようになってしまうのかもしれない。


まあ、何万年も先の話だろうけれど。……そんなことを考えながら、結構長い時間トレッドミルで走り続けていたが、パーリャの苦情で我に返った。


「お兄ちゃん、うるさい!集中できないよ」


プレゼンについて考えていたのだろう、パーリャがついに怒り出して出て行ってしまった。


「ちょっと誰かと話ししてくる。食事までには帰るから」


黙って走っていただけなんだが、そんなにうるさかったか?まあ、パーリャも考えがうまくまとまらなかったのだろうか。少し別の刺激がほしいんだろう。好きなようにさせることにする。


そうすると、このコンパートメントのスクリーンは空きになったので、僕の調べ物に使えるってわけだな。軽くシャワーで汗を流して、早速、残りの調べ物を片付けることにした。


調べたいのは、アリシアさんの曽祖父、ゼニス・ナカイ氏の遺志についてだ。彼が生前どんなことに興味を持ち、どんなことを考え、そして行動したのか。僕たちは彼の具体的にとった行動と、それによってもたらされた最終的な結果については調べることができたが、彼がどのような考えに基づいてその行動をとったか、さらにはその結果のさらに先に何を見ていたのかについては、謎のままだ。そして僕は、そちらの方に重要なものが含まれているのではないかと直感しているのだ。


まずは直球かもしれないが、彼についての記事をつぶさに見てみるしかないか。


「『ゼニス・ナカイ氏についての記事を集めてきて』」


「2944件抽出しました」


「『その中から、彼の出生に関わる記事を抜き出してみて』」


「13件該当しました」


「『要約できる?』」


「ゼニス・ナカイ氏は2030年6月12日、日本の滋賀県大津市で長男として生まれています。後に妹2人が生まれているようですが、詳細は不明です。それ以上の情報はどの記事にもありません」


「『最終学歴はわかる?』」


「出生地に近い近江琵琶湖大学文学部英語学科を卒業しています。これが最終学歴になります」


「『卒業論文のテーマは?』」


「『英語を母国語とする日本語学習者に対してヒントメッセージを生成し提供するナレッジベースの構築』となっています。」


「ふーん……」


少し、考えてみる。彼の作った企業MDRとの関連が少しは見えてきそうなテーマではあるが、深く関連というほどでもないように思える。どうしたものか、このまま彼の人生を追っていくべきか、それとも逆にMDRから遡っていくのがいいか。しばらく考えていると、アシスタントからの提案があった。


「ゼニス・ナカイ氏の評伝が出版されています。ワタル・アビコ著『ゼニス・ナカイ ~AIと宇宙エレベーターに捧げた生涯~』テムズ社、2112年出版。こちらはポトマック・ストアで購入可能です」


そうか、内容を読める記事でないと検索対象にはならないので、書籍は検索対象にはなっていなかった。僕の求める内容なら、彼の伝記があれば一通りは知ることができるはずだ。僕は書籍の説明文と価格を一応確認して、すぐに購入した。


「ありがとう。ひとまずこれを読むことにするよ。提案してくれて助かった」


「お役に立てて光栄です」


アシスタントはそう言って、スクリーンに今購入したばかりのゼニス・ナカイ氏の伝記を表示してくれた。僕は、早速目次から読んでいった。


パラパラと斜めに読んでいく中で、気になった部分を拾い読みしていく。たとえば彼の子供時代は、そう目立つ子供ではなかったらしい。学校の成績は国語と英語が平均以上だが、それ以外は見事に平均。成績の良かった国語と英語にしてもずば抜けて、というようなものではなく、他の成績よりも少し優れていたという程度で、特に頭がいいというような評判は立ったことがなかったという。


クラスでは目立たない、というか孤高だったとも書かれている。嫌われているというわけでもなかったが、特に決まった友達も作らず、適度に付き合ってもそれ以上の関係にはならず、一人でいることも多かった。そして昔のクラスメートたちが一様に言うのは、とにかく本を読むのが好きだったという印象だけが強かったということだ。当時のゼニス氏を知る人たちにとって、彼に用があるなら図書館を探せ、というような認識だったらしい。


だが、そうやって彼はさまざまな書物をむさぼり読むことで、例えば彼の業績である人工知能や宇宙エレベーターについての知識を得ていったのだ、という見解については伝記の著者は否定的だ。というのも、彼の子供時代、つまり2040年代の頃にはすでにさまざまなメディアでAIについても宇宙エレベーターについても、なかば常識的なものとして取り扱われており、当時の子供にとってはかなり一般的な知識だったと思われるからだ。


例えばAIに関しては、現在ほど洗練されたものではないにしろAIアシスタントのごく初期のものが普及しつつあった時期であり、ゼニス氏も生まれた時から家庭内のさまざまな機器で使い慣れていたはずだ。


あるいは宇宙エレベーターに関しては、もちろんまだ最初の宇宙エレベーターは構築されていなかったし、実現のための要素技術もそろっていない時期ではあった。しかし、概念としてはすっかり浸透していて、実現の期待が盛り上がっていた頃でもある。


なにより彼の出身国である日本は、宇宙エレベーターに関しては当時から研究に関しても啓発に関しても世界で最も進んでいた国の一つであり、宇宙エレベーターに関しては世界をけん引していた立場であった。さらに当時の日本の子供たちはさまざまなメディアのコンテンツで、宇宙エレベーターが当たり前に小道具として使われる作品を数多く目にしていた。ゼニス氏も、そんな子供たちの一人であったわけで、これらの知識に関しては、他の多くの子供たちと同様にかなり頻繁にそして普通に接していたと思われるからである。


だから、彼が子供のころから慣れ親しんできたAIアシスタントや宇宙エレベーターが、いつごろどんな形で彼にとって特別な存在になっていったか、という点は作者も疑問に思い多方面から調査を重ねたようだ。しかし結局は解決しきれなかった部分だと認識しているらしい。


たとえば、ゼニス氏がさまざまなところに残した文章の中で、最初に宇宙エレベーターに言及しているのは、彼が中学2年生の時に書いた作文である。これは夏休みの宿題として学校に提出した作文で、当時はクラス代表の優秀作として学内で表彰されたというものである。「宇宙エレベーターのある未来」というタイトルで、中身は現在からみてもかなり正確に理解された宇宙エレベーターの原理やメリットなどがつづられていて、その後に宇宙エレベーターにかける期待と展望が述べられたものであったという。


「中学生が書いたとは思えない論理的かつ根拠資料が正しく示された、学術論文のような作文であった」


と、この作者は評している。


そのように、宇宙エレベーターへの造詣や思い入れは少年時代から深かったことが、さまざまな記録からうかがえる一方、AIや人工人格についての記述は、少年期の記録からはほとんど出てこないようであった。


この作者が入手できたさまざまな資料のうち、少年時代に当たる資料からは何一つAIに関する記述は見当たらず、最初にAIに関する記述が見つかるのは大学時代の卒業研究の資料からだという。大学時代にどんなことがあったのかはわからないが、卒業論文のテーマを考える中で、突然ナレッジjベースのサポートによる語学学習というような概念が現れ、それでAIアシスタントのことを知るようになったとしか思えない、というようなことがこの伝記には書かれている。


これは僕の感想だが、ゼニス氏は卒業研究のテーマに沿ってさまざまな論文や資料を当たっていく中で、AIやアシスタントのことを知り、関心を持つようになっていったのではないか。事実として、彼は大学卒業後速やかにMDR社の立ち上げに取り組んでいった、という経緯がある。だから、一般的にはずっと前から頭の中に事業の青写真があって、卒業と同時にその事業化に取り組んだのだと考えられがちなのだが実際には卒業後、準備期間もほとんどなしにMDRの設立から事業展開を行っていったのではないだろうか。


そのことが何を意味するのかは、正直まだ分析しきれていないが、いずれにしてももう少しこの伝記も含め資料を精査し、詳しく分析してみなければならないというのが現状の結論だ。


そんなことを考えているうちにいつの間にか時間がたっていたようで、パーリャが帰ってきた。


「ねえねえお兄ちゃん、そろそろディナーに行こう?カレンさんたちにお兄ちゃんも呼んできて、一緒に食べようって誘われちゃった」


「あ、もうそんな時間……って、ちょっと早いな。まあ、いいか。ああ、ちょっと待ってくれ」


時刻はまだ6時前だが、早すぎるというほどでもない。僕は準備をして、すぐに食堂に向かおうとした。


「あ、第2食堂だから。席を作って待っててくれるって」


「席を作って?」


「あ、うん。食堂って一番大きいボックス席でも4人掛けでしょ?カレンさん達と私たちであわせて5人だから、どうしようって言ってたらフェルデンさんが、第2食堂に6人席を用意しましょうかって、言ってくれたの。それで第2食堂で食べることにしたんだ」


そういうことらしい。


「そうか。面倒をかけてしまったんだな。お礼を言っとかなきゃな。さあ、行こう」


そう言って、僕らは第2食堂に向かった。


第2食堂ではスクリーンの前に、6人席がちゃんと用意してあって、すでにカレンさん、タンさん、ガスパールさんは席について、僕たちを待っていてくれた。


「すいません。お待たせしました」


僕があいさつすると、ガスパールさんが


「いや、こちらこそ無理やり誘ってしまって申し訳ありませんでした。どうぞどうぞ」


そう言って、僕らに席を勧めてくれた。なんだか怪しげなにおいがしているのは、今日のディナーのメニューだろうか?そう思って席に着くと同時に、ネイネイさんが5セット分のトレーをセットしてくれた。


「パーリャさんとカンパーネンさんは、まだお飲み物をうかがっていませんでしたね。今日はエスニック料理でスパイシーですから、チャイかラッシーをお勧めしています。どうされますか?」


そうか、どうりで香辛料の香りがものすごいわけだ。宇宙機の中でこんなにおいが充満して大丈夫なのかと思うくらいなのだが、誰も気にしていないようだ。


「僕はラッシーをください。パーリャはどうする?ラッシーはヨーグルトドリンクで、チャイはスパイスミルクティーだ」


「知ってるよ、それくらい。私もラッシーにします。これって、カレーですよね?」


「かしこまりました。はい、カレーの5種盛りですね。こちらから、コルマカレー、マサラカレー、サグマトンカレー、インドカレー、カシミールカレーとなっています。この順で、だんだん辛くなります。それぞれ辛さだけでなく味も風味も違いますので、お楽しみいただけると思いますよ。ナンとライスはお代わりできますので、お申し付けください」


うーん、これは結構冒険だ。においもだけれど、ここまで本格的だとお残ししないで食べられるかどうか……。まあトライしてみよう。みんなそれぞれに決意をこめて、カレーに挑戦した。


「うん、おいしかった!」


「あー、辛かったけど、完食できた!」


「ラッシーがうまい!」


そんな感想で、みんな食事を終えた。


その食事の中で、僕たちは昨日のGEOステーションでの農園見学について、カレンさんたちの成果を聞いた。最初に切り出したのはタンさんだった。


「いや、あそこの環境は、そりゃもううらやましかったね。環境を自由に変えられるし、しかもコントロール可能で、あれだけの大規模な装置が設置し放題。おまけに唯一の上司がアリシアさんだってんだから、もう最高だよね!」


タンさんは興奮気味に農園での体験をまくしたてた。農園の作物や役割じゃなくて労働環境に感動してたのか。まあある意味タンさんらしいというか……。それに対してカレンさんは疑問を呈する。


「まあ、唯一の上司がアリシアさんってのは確かにいい環境なんだけど、環境を自由に変えられるってどういう意味なの?」


「無重力から高重力まで自由に変えられるってことですか?ほら、遠心分離機みたいな高重力環境も、作ろうと思えば作れますし……」


ここでいう環境、パーリャは重力のことだと思ったようだ。なるほど、重力をゼロにすれば比重に差があって混ざりにくい薬品も、まんべんなく混ぜることができるようになって、薬品研究には都合がいいって話は聞いたことがある。


「いや、僕らの研究は菌とか高分子とか遺伝子だとかを使った非常に小さな世界の研究なので、重力の有無は実はあんまり関係ないんだ。もちろん全然関係ないとも言い切れないんだけど、ここでキュウが言ってるのは、真空の環境が好きに使えるってことだろう。なあ?」


ガスパールさんがそうフォローする。真空の環境?


「まあ、そういうことだね。地上で実験するときに結構気を遣うのは、無菌操作なんだよね。実験に使うあらゆる器具を、実験の事前と事後の2回にわたって、薬品洗浄から煮沸消毒、紫外線殺菌までひととおりやらないと、いろんなノイズが入ってしまうからね。もちろんクリーンルーム作るのは前提だけど。その点あそこの環境なら、ステーション自体クリーンルームみたいなもんだし、実験器具だって薬品洗浄して後は真空中にさらしとけば済んじゃうし、そのまま真空中で保管しといてもいいくらいだ。楽なもんだよね」


「こいつ無菌操作が下手で、何回もノイズだらけのデータ取って実験やり直しの常連なんですよ」


「まあ、そういうことなんだけどね……」


ガスパールさんの指摘を、タンさんは素直に認めた。やっぱり上司がどうこうってのが本音なんじゃないかな。でも、宇宙だってあんまり真空じゃないって聞いたことがある。僕は疑問を口に出してみた。


「いや、宇宙空間だっていろんなチリとか陽子とかがいっぱいあると思うんですけど」


「確かに宇宙空間にもいろんな物質はあるけど、微粒子の密度で言えば地上のクリーンルームなんかよりはるかに少ないんだからね。ほんとだよ?実験室の中では、人類は未だに宇宙空間より密度の低い真空ってのは作れないでいるんだ。」


そうなんだ。天体の誕生とか星間物質の話題が出ると、宇宙は思っているほど空っぽではないって言いぐさの方をよく聞くけど、でもやっぱり宇宙は空っぽってイメージの方が正しいのかもしれない。こういうのはやっぱりちゃんと数字を聞いて理解しないと正確なところはつかめないな。


「実験環境もだけど、私は実験じゃなくて安定的な農産物の生産環境が確保できるってところがすごくうらやましかった。温度も天候も全部コントロールできるし、なにより病害虫がいないってのが、もう最高ね」


なるほど、カレンさんらしい観点だ。常日頃そう言ったものに悩まされているんだろう。


「だから、もっと品種を選べば、作物の生産量も上げられるはずなんですよね。テーラーさん、意外と作物についてはあんまり詳しくないみたいだから、私もいろいろと言いたくなっちゃったわ」


「テーラーさんはバイオプラントの専門家だって話だからね。バイオプラントの研究テーマは、いまだに酸素や窒素の還元のことばかりで、食料の生産に関する研究には、まだ誰もほとんど手をつけていないって話だったじゃないか」


「逆に言えば、the 1st STARの農園が、バイオプラントによる食物生産の最前線ってことだからね。今、テーラーさんに協力しておけば宇宙での食糧生産のパイオニアになれること間違いなしだね。本気で転職考えようかな」


「そうだな……」


そう言って、タンさんとガスパールさんは考え込んでしまった。割と本気で考えているように見えた。なんだか就職希望の人が多いなあ。


「私も、そういう意味ではちょっと考えさせられたわね。ウチの農場からも協力させてもらいたいとは思うんだけど、これまでに培った地上でのノウハウのうち、どれが有効でどれが使えないのかさっぱり分からないわね。どうやって協力していけばいいのかさえ、手探り状態だわね」


人間が、地球を離れて宇宙で暮らすようになる、今はその前夜なのだろう。宇宙エレベーターが出来上がって、一足飛びに宇宙で生活できるようになるわけではなく、空気のこと、食料のこと、水のこと、宇宙線のこと、重力のこと、ロケットのこと、エネルギーのこと、……いろんなものを整えていってようやく人類の宇宙時代が始まるんだという実感が押し寄せてくる。まだまだ「地球人」が「宇宙人」になるのには時間がかかりそうだ。そういう意味ではまだまだ先の話だと気が遠くなるけれど、一方で僕たちが止まってしまえば、どんなに時を重ねたって実現するわけがない。言い古された言葉かもしれないけれど、未来を信じて歩くしかない、そんな実感が押し寄せてくる話だった。


夕食を終え、部屋に戻ってPCをチェックすると、また父さんからメッセージが来ていた。「メッセージ読んだら返事くらいしろ」という内容だ。そういえばいろいろ調べろとは言われたけど、ろくに返事もしていなかったな。パーリャは毎晩なにか送っていたみたいだけれど。


「そうだ、パーリャ。SEMに就職する件ってパパたちには報告したのか?」


「うにゃ?何にも言ってないよ?まだ決まったわけでもないし」


「ほとんど決まってるんじゃないのか。決まってないにしても、何を考えてるかくらいは言っといた方がいいんじゃないか?」


「別に言わなくてもいいよ。もともと好きなところに行けばいい、って言われてるんだし、変なこと言って決まる前に反対されても嫌だしね。お兄ちゃんも告げ口とかしないでね。決まったら私から言っとくから」


「ふうん。まあいいけどな」


そういやパーリャの住んでいるところでは成人年齢は21歳だから、パーリャはまだぎりぎり未成年だ。だから就職も勝手には決められないはずだ。親権者の同意とかそういう手続きが必要だと思うんだが、どうだったか。たとえ成人でも、保証人のサインとか必要だったりするよな。結局、親の承認なしには就職もできないわけだから、ちゃんと同意を得といたほうがいいと思うけど、まあ困るのはパーリャだ。望み通りほっといてやろう。


で、父さんの方には


「生命維持設備の規模から算出できるGEOステーションの最大滞在人数は250人程度。現状は50人規模で利用する設備がある。最大人数で利用するには、パペットなど設備の充実が不可欠。内部での食糧生産は始まったばかりで、地上からの補給が必須。食料自給率は10%未満。クライマーペイロードの半分を貨物の運送に充当することが恒常的に必要。」


などと報告しておいた。これくらいの情報があれば、あとは手持ちの情報と併せて観光資源としての価値を計算することが可能だろう。これで父さんがどんな計算をして、どんな結果を出すのかはどうでもいい。こっちはこっちの都合と思惑があるからな。


そんな感じで7日目も終わった。明日は「宇宙エレベーター講座」の第4回目だ。また面白い話が聞けるといいな。そう思いながら、アシスタントに照明を落とすように告げた。


ツアー7日目の夜 現在地点:高度4万3200km 重力は地球と反対方向に0.01G 微重力状態

マエーク君はゼニス・ナカイ氏の伝記を手に入れました。少しずつ読んで、ゼニス氏の本当の意図を理解しようとしています。パーリャちゃんのプレゼンのアイディアは、まだまだまとまりません。


重力がほとんど感じられなくなって、マエーク君もパーリャちゃんも、だんだん地球人とは違う発想になりつつあります。だからといって宇宙人にもなり切れていません。重力という最大の環境要因が、よくも悪くも今の人間のメンタリティを作っているんですね。


次回はアリシアさんの講義を聞きます。クライマーの役割の話です。

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