(18) 脱出臨界高度
ステーションホテルの滞在は2夜目。明日にはまたテザーをひたすら昇る旅に発ちます。でもクライマーは上下をさかさまにして、感覚的には下る旅になるようです。さらに、兄妹は脱出臨界高度という言葉について疑問を持ち、調べます。納得いくまで理解できるでしょうか。
ボシュマールさんたちとのディナーを終えて部屋に戻ると、パーリャはもう戻っていた。同時になにやら食べ物のにおいがするのに気が付いた。
「ただいま。……ん?なに食べてるんだ?」
「んー?はーほにいひゃん、ほはえりー……ひゅーははん、はへへるー……」
「何言ってるかわからんが、中華まん食べてるんだな。ほんとにジャンクフード買ってきたのか。ま、いいけど」
その匂いが部屋中にこもってたのか。いや、きっと中華まんの前になにか別のもの食べてたな。ひとつ空になった容器がテーブルに吸着されている。
「『換気、脱臭よろしく』」
アシスタントにそう告げて、僕はテーブルの上の容器をながめながらパーリャの反対側に座った。もちろん座ったと言ってもその辺に浮かんでいるだけなのだが。
「あー、これは焼きそばだな。んー、僕もこれにすりゃよかったかなー」
パーリャは口の中のものを飲み物で流し込んで、
「お兄ちゃん、何食べてきたの?」
と聞いてきた。
「ボシュマールさんたちとちゃんとディナーを食べたよ。今日はラムステーキだったな」
「あ、私より高級なもの食べたな?まあいいけど」
「で、お前はあの後どうしてたんだ?ずっとここにいたわけじゃないだろ?」
「うん、……えーと、……ひ・み・つ!……と言いたいところだけど、お兄ちゃんにはむしろ言っといたほうがいいよね。どうせ相談するんだし。あのね、実はセルゲイさんを捕まえて、いろいろ聞いていたんだ」
僕はちょっと驚いた。ここでセルゲイさんの名前を聞くとは思っていなかった。
「セルゲイさんになに聞いてたんだ?」
「うーん、まあ、アリシアさんのプレゼンのことでいろいろ考えなきゃならないことがあるんだけど、どこから考え始めればいいか、よくわかんなくて。それでとりあえずセルゲイさんの知ってることを聞いてみようと思ってね」
パーリャが何を言っているかよくわからなかった。アリシアさんへのプレゼンとセルゲイさんがどこでつながっているんだ?僕はパーリャに先を促した。
「ほら、さっき、セルゲイさんを落ち込ませちゃったでしょ。あの時にセルゲイさんが言ってた言葉がちょっと気になったんだよね。『アリシアさんが、いずれここに子供たちを連れてきたいって言ってた』って」
そういえば、そんなことを言ってた気もする。アリシアさんは子供たちをここに連れてきたいのに、セルゲイさんがこんな怖い顔をしてたら子供たちが逃げてしまう、ってんでセルゲイさんが落ち込んで、って流れだったかな。
「だから、たぶんセルゲイさんたちもアリシアさんがやりたいことを断片的には聞いているんだろうな、って思ったんだ。アリシアさんは、スタッフにはまだ言ってないから秘密に、とか言ってたけど、でもそれは私たちのように、ちゃんとしたプレゼンをしたことはないって意味で、まったく知らないわけでもないような気がしたんだよね。だから、もっとアリシアさんが目指しているところの、ニュアンスみたいなものを知りたくて……」
なるほど、プレゼンで聞いた話はちゃんと整理された文脈として表現されたものなので、要素や構造はつかみやすいけれど、その反面、情緒的な部分やニュアンスは削り落とされていることも多い。その部分を補完したかったってことか。パーリャもなかなか考えている。
「私たちがアリシアさんから聞いたのは、要約すれば『ここを学校生徒の研修や宇宙体験の拠点にしたい。それで全世界から、大勢の子供たちがたとえば修学旅行に来るような場所にしたい』ってことだよね。それ以外にいろんなことも言ってたけど、要はそういうことだよね」
まあ、アリシアさんがプレゼンしていたのは、要するにそういうことだ。ただ、それは単なる未来の想像図とか目標であって、具体的にどんなアクションを行うかはなにも語られていない。というか、むしろ語ることを避けたんだろう。パーリャがこれから考えるプランに対して、制限になるようなことはなるべく語りたくなかったんだろうと想像する。
「でも、それじゃ具体的に何をやるのか、ここをどう変えていくのかはさっぱりわからなかったんだよね。それで、アリシアさんが具体的にやろうとしていることを知りたくって、セルゲイさんに『このツアーの後、ここではどんな仕事をしていくんですか』って聞いてみたわけ」
セルゲイさんは、まだアリシアさんが(たぶん勝手に)パーリャの採用を決めたことについては知らなかったようで、パーリャもそのことは黙っていたらしい。だから、あくまで世間話程度の話としていくつかの話を聞かせてくれたらしい。そのセルゲイさんいわく、
「本当は、もっとお客様を載せて、どんどんここに来てもらって、いつもホテルが満員になるくらいサービスしたいところなんですが、まだそこまで予約はとってません。なんせ人手が足りないもんでね」
そんな表現で、これからもそれほど頻繁には動かさない、ということを教えてくれたようだ。
もともと宇宙エレベーターのテザーは、それほどぶら下げる質量に余裕があるわけではない。クライマーを走らせてテザーに最大の負荷がかかるポイントと言えば、これはつまりクライマーとテザーの重さの全てが集中する静止衛星軌道というポイントのことだ。そこの強度を実際にかかる荷重の何倍程度まで耐えられるよう設計するか、これを設計上の安全係数とか安全率などと呼んでいる。で、ターサにおけるこの数字は、カタログの表記によると3.0だと聞いている。つまり運用の全ての局面においてテザーにかかる荷重は、テザーが耐えることのできる最大荷重の3分の1以下になるように、運用されているということだ。ちなみに観光用に使う前の、建設用重機として運用していた当時は、安全係数は2.0だったということも聞いている。
だから、その範囲であれば、実はクライマーの数も、結構増やせるらしい。具体的には、たとえば1台のクライマーが重力の少ない場所にまで上がってしまえば、そのクライマーがテザーにかける負担は重力が少なくなった分少なくなったわけだから、もう一台クライマーをテザーに取り付けて運用しても、安全係数の範囲で運用することが可能である。実際に初期の宇宙エレベーター建設時には、同時に4台程度のクライマーをテザーに取り付けて運用していったらしいし、現在の4基の宇宙エレベーターでも、複数のクライマーを同時に昇らせるのが通常の運用になっているという。
つまり、クライマーの運用の効率で考えるなら、もっと行き来を増やしてそこにお客様を満載すれば、十分に採算が取れるビジネスモデルも作れるはず、ということだ。だが、セルゲイさんの話によると、人手が足りないという事情で、そんな運用は今のところは不可能だということらしい。
貨物なら無人のクライマーに載せて運ぶことができても、旅客は、たとえサービスパペットなどの力を借りたとしても、一定の人の手は必ず必要だ。特にここは一般の旅客がこれまで来たことがないはずの宇宙空間で、ここにある設備やツアーの内容がどれだけ安全に気を遣っていても、慣れない旅客のなんらかの間違いによって不快な目に遭ったり、場合によっては危険な目に遭う可能性は、一般の旅行よりははるかに大きい。そのため、やはり最終的には人の目と手を使って旅客をお世話するという過程をなくすことができないのだ。
そのための人手が現時点では、十分に手配できないということなのだろう。で、現在のスタッフのように熟練した人手は、そう簡単に増やすことはできない。どんなにAIアシスタントが優秀になっても、特に通常とは異なる例外的な事態において、人手に勝る働き手にはなかなかなれないのだ。
だから今回のように3週間もかけて一番上のカウンターウェイトまでのぼるようなツアーは、少なくとも当分の間はせいぜい年に1回から2回程度しかできない。それ以外は、地球が美しく見える部分を昇って下って3時間程度で体験できる日帰りツアーを中心に、時々GEOステーションまで昇って降りてくる十日間程度のツアーを開催する、というような運用を今後はしていくつもりらしい。すでにホームページ上では予約の募集が始まっていて、予約者も順調に集まっているということだった。
ここまでの話だったら、現在の資源ですでに実現できていることだし、むしろ現在の資源はこれらに対して過剰とも言えるだろう。年に数日しか使わないGEOステーションと付随する施設は、あまり効率的に運用されているとは言えない。むしろ維持のために不要な資源を必要とするだけだろう。だから、ここまでの話にさらに付け加える部分が必要となる。アリシアさんが今後求めるべきものは、この巨大な施設を効率的で効果的に運用するためのアイディアだ。
「で、年に1・2回カウンターウェイトまで昇るツアーをやって、月に1回くらいGEOステーションまで昇って、あとは毎日3時間の日帰りツアーを実施する、っていうのがこのターサの運用のすべてなのか?」
僕は少し、イラついてパーリャに確かめる。それだけで、この巨大な施設を管理運用できるような資金を稼げるとは到底思えない。地上のアースポートがたとえ大都市近郊にあって、集客が簡単なものであったとしてもだ。
「もちろん、そんなことはないよ。そもそも今お兄ちゃんが言ったスケジュールの中にはアリシアさんが言ってたことは、少しも含まれていないしね。本題はここからだよ。ただ、ここから先の話は、セルゲイさんにもあまりイメージがないみたいでさ」
こんな話を聞いた後で、パーリャは次の質問をしたそうだ。
「『どうしたら私、SEMに就職できますかねえ?』ってね」
「はあ!?無茶苦茶直球でそんなこと聞いたのか?」
「え?駄目だったかなあ?セルゲイさんもびっくりしてたみたいだけど」
まあ、パーリャだから、という理由で受け入れてもらえそうな気はするが。そもそもすでに終わってしまった話なのだから、いまさらどうしようもない。
「で、セルゲイさん、なんて答えてた?」
「いや、それが……、『パーリャさんだったら、きっとそのままで就職できますよ。社長はパーリャさんのこと、すっかり気に入られているみたいですから』……って言ってた。まあその評価はうれしいんだけど、そこには新しい情報が一つもなかったんだよね」
「だもんで、もうちょっと具体的に『私、SEMでどんな貢献ができるかをアリシアさんにプレゼンしなくちゃいけないんです。アリシアさんのやりたいことをサポートするプランを考えたいんですけど、アリシアさんがなにをやりたいのか、もひとつよくわからなくて……』って聞いたんだよ。そしたら……」
うわー、ますます直球だ、と思ったが、これも「パーリャだから」でいいんだろう。それでセルゲイさんはどんなアドバイスをくれたのか、僕は先を促した。
「そしたらね。アリシアさんは『博物館を宇宙科学を学習する拠点にしたい』ってよく言ってるんだって。でも、どうもアリシアさんのイメージには小学生か中学生くらいの子供の教育しかイメージがないみたいで、話が全部子供対象になっちゃうんだって言ってた」
「ああー、確かにね。午前中に聞いたプレゼンでもそんな感じだったなあ。ちゃんと年齢を明確に指定してたわけじゃないけど、はしゃぎまわって事故が起こったら困るとか、気分の悪い子が連鎖したら困るとか、子供中心に言ってたな。なるほど」
「それで、安全基準とか日程をなるべく短くとか条件を付けるもんだから、かなり厳しいプランになっちゃうんだろう、ってセルゲイさんは考えてるみたい。子供対象だとお金もあんまり取れないよねえ?」
「ふんふん……」
なるほど、パーリャもだんだんアリシアさんのアイディアの問題点を考え始めているようだな。ここから先は、あんまり余計なことを言わない方がよさそうだ。パーリャ自身が考えるべきことだもんな。僕はあいづちを打って、聞き役に徹することにする。
「私もそう思ったんで、子供向けはちょっと置いといて、どっちかというと先生とか、教育を考える役目の人とか、大人向けの科学教育を先にやり始めるのがいいんじゃないかなーって言ったんだよね。そしたらセルゲイさんも、なるほど、確かにそうですな。あっはっはー!って笑いだすんで、びっくりしたよ」
なるほどね、とりあえずその線まではパーリャも思いついたってわけだ。
「ま、そんな感じでセルゲイさんには意見を聞いたんで、こんな感じからプレゼンの内容を考えてみようかなーって思ってる」
「ふうん?なにかアイディア出せそうか?」
「うーん、まだよくわからないけど、とりあえず足掛かりは発見できたかな。もうちょっといろいろ考えてみたいってとこだね。まだ時間はあるんだし、もう少し考えてみるよ。なにかアイディアがあったら教えてね」
そう言って、パーリャはシャワーを浴びに行った。
これからの行動は、得たい結果をできるだけ明確にイメージし、そしてその結果に至るまでの道筋を精密に設定し、通過しなければならないポイントを正確に定めていけば、あとはそれを順次たどっていくための道筋を知るだけでいい。今回パーリャがやらなければならないことは、その結果に至る道筋の設定だ。どの道を通るかを提案して定めれば、具体的にどうやって通るかはみんなで考えればいい。もちろん道の選択にも、道の歩き方にもそれぞれ制約はある。僕がパーリャにしてやれることは、その制約についてアドバイスしてやることだろう。ついでに道を歩く際に使える道具についても、少しは意見が出せそうだ。
そんなことを考えながら、僕はパーリャがこれから少し時間をかけて醸成するであろう、パーリャの内からアイディアが出てくることを待つことにした。そしてその間に、僕は別のことについても調べておかなければならない。
明日は再びクライマーに乗り込んで最上端、高度10万400キロのカウンターウェイトを目指すことになる。出発は朝9時だ。早朝というほどでもないが、朝食を済ませた後、荷物を持ってクライマーに乗り込まなければならないのだから、あまりのんびりもしていられない。僕たちは早めに休むことにした。
* * *
そして翌朝の8時30分ごろ、僕たちはおなじみのコンパートメントに乗り込んだ。これからさらに地球を離れ、カウンターウェイトを目指す。慣れたコンパートメントだとはいえ、多少の緊張感で今は出発を待っているところだ。
パーリャがコンパートメントに到着するなりオンにした、車内音声チャンネルの0番では、まださほど動きはないようだ。沈黙している時間が長い。まだ乗客が集まりきってもいないだろう。持ち込んだ荷物をコンパートメント内に固定しつつ、これからのことを考えてみる。
現在は静止衛星軌道にいるが、これからはこれまで以上に長い旅になる。そして長いわりに刺激の少ない旅でもある。もちろんいくつかのポイントで特徴的な場所はあるのだが、だからと言ってそこになにかモニュメントがあるわけでもなく、ただ数字としてその場所に達する、というだけの場所ばかりだ。たとえるなら、太平洋を横断する船旅の途中で、日付変更線を横切るときのようなものだろう。日付が変わったとか言われても、実際にその場所に何かがあるわけでも、何かが変わるわけでもない、そんな場所だ。
逆に言えば、これから先はその長さを体験する旅でもある。自身の創造力や思考力が試される場、かもしれないのだ。僕にとってもパーリャにとっても、今抱えている課題のための十分な時間が用意されているということだと考え、真摯に取り組んでいこうと思う。
そんなことを考えながらシートに座っていると、そろそろ出発の準備が始まってきたようだ。オペレーションの声がだんだん高くなっている。時刻はあと数分で9時になろうとしている。
「声がし始めたね。そろそろ出発かな」
「そうだな。パーリャ、ちゃんと身体をシートに結んどけよ。加速すると天井に落ちるからな」
「わかってるよ、大丈夫」
これから先は、クライマーの方向から行けば下に下がっていくことになる。もちろん地球からの距離はまだまだ離れていく一方なのだが、重力のかかる方向はこれまでとは逆になる。地球の引力より地球から離れる方向への遠心力が勝った状態だ。ただし、クライマーが加速するときは地球側に加速度の力がかかることになる。GEOステーションに到着する時と同じ感じだ。あの時も減速すると天井方向に引かれた。今回は加速で天井方向に力がかかることになる。
「みなさま、お待たせいたしました。現在、出発の準備を整えておりまして、お客様全員の入室をお待ちしているところです。全員の入室が確認でき次第、出発のシークエンスに入ります。コンパートメントのシートにお座りになり、身体を固定してくださいますようお願いいたします」
そんなアナウンスが始まり、スクリーンにベルト着用のサインが点滅し始めた。車内放送でアリシアさんのこの声を聴くのは、なんだか久しぶりな気がする。オペレーションのギルバートさんの声も、心なしか弾んでいるように聞こえる。
「ギルバートさん、絶好調だね。この声聞いていると安心できるよ」
ふうん?パーリャはすっかりギルバートさんに信頼を置くようになった。ま、いずれ同僚になるんだし、それはいいことに違いない。いや、ほんとに同僚になれるといいんだけど。
「お客様全員の乗車、入室を確認いたしました。エアロックを閉じ、ボーディングブリッジの切り離しを行います」
いよいよオペレーションもあわただしくなってきた。
ボーディングブリッジが切り離される音が軽く響き、少し機体の揺れを感じた。オペレーションで小さく「マーキュリー」という言葉が聞こえた。そうか、またマーキュリーとドッキングするんだ。考える間もなく、クライマーが小さく加速し、僕たちにとって下方向、地球からは遠ざかる方向にゆっくり動き始めた。同時にアリシアさんのアナウンスが入る。
「これから、増速ドライブユニット『マーキュリー』とのドッキングを行います。」
そのアナウンスとほぼ同時に、マーキュリーが今回は下から近づいてきてスクリーン全体をおおっていった。そしてスクリーンが真っ黒になったと思った次の瞬間、カメラが切り替えられ通常の風景、今はまだターミナルの様子を映す風景に戻った。
「準備が整いましたので、これから発車いたします。『上へまいります』」
「上へ」と聞いたので準備した気持ちとは裏腹に、下に下がっていく加速度を感じた。こんな状況でどっちを上と考えるかは悩ましいところだ。アリシアさんたちも、このアナウンス原稿を考えたとき、悩んだのではないだろうか。そして彼らは、身体感覚ではなく、「地面が下、空が上」という人間の根源的な認識、つまり理性の方を優先したということなのだろう。まあ、ともかくクライマーは動き出した。感覚的には下へ、しかし理性的には上へ。
「お待たせいたしました。この列車は宇宙エレベーター『ターサ1号』です。ただいま本機は9時0分、定刻どおりGEOステーション『The 1st STAR』を離れ、上空10万400キロの、本宇宙エレベーターの最高点、カウンターウェイトまで、平均時速を約500キロに増速して向かいます」
なんと、GEOステーションより上は平均時速500キロで進むという。地球の引力が小さくなって逆に遠心力が強くなり、結果として重力的には「下り」になったのでこの速度を出すことが可能になったのだろう。GEOステーションまでの3万6000キロに4日間かかったのに対して、7割増しの距離であるカウンターウェイトまでの6万4000キロには5日とちょっとしかかからず、8月26日の夕方には到着する予定らしい。やはり速度というのは重要だ。
特に重力の少ない場所に来ると、速度を変えることで極端な話、上下も変わってしまう。速度を増そうとして加速するとその加速度が加わるし、逆に減速するとその逆方向に加速度がかかって、そのたびに上下が入れ替わることになる。安定して同じ加速度でずっと加速し続けられればそれが一番いいんだが、そんなわけにはいかないので、極力最初に決めた速度はそのまま継続する方針にならざるを得ないのだ。結局、最初に決めた速度が行程のすべてのスケジュールを決めてしまうことになる。
「途中、脱出臨界高度の4万7000キロ地点の通過は、明日の早朝、午前6時頃を予定しております。脱出臨界高度につきましては、『旅のしおり』内の『脱出臨界高度』または『CATE』の項目をご覧ください。」
そういえば脱出臨界高度について、僕の知識はあいまいだ。あとでちょっと調べてみよう。
「このまま午前はプログラムをお休みとさせていただき、昼食後にオプショナルプログラムを再開いたします。午後のプログラムの申し込み締め切りは午前10時となっておりますので、まだお申し込みでない方はお急ぎくださいますよう、お願いいたします。以上、ご案内はチーフパーサーのアリシア・ナカイでした。なお、以後もオペレーションメッセージをお聞きになられたい場合は、車内音声チャンネルの0番をご利用ください。ありがとうございました。」
そうしてアリシアさんのアナウンスは終了し、僕たちはまた地球を離れる旅に向かったのだった。
「午後のプログラムって他になにがあるんだっけ?ねえ?」
パーリャはまた僕に頼ろうとする。アシスタントに言えよ。僕はパーリャに代わってアシスタントに告げた。
「『オプショナルプログラムの表、出して』」
スクリーンに、今日以降のプログラムリストが表示された。
「んー、どうしようかなー。お兄ちゃん、なにか気になるの、ある?」
「そうだな、『宇宙エレベーター講座』は明日からだなあ。じゃあ、あとは『無重力料理』くらいか?『宇宙生物学』ってのもあるけど、これはビデオ講座だしなあ……」
スタッフが直接講義するのではなく、あらかじめ録画してあるコンテンツを観るやつだ。
「無重力料理は帰りにするよ。もうIIIまで進んでるしね。じゃあ今日はフリーでいいかな?私もいろいろ考えなきゃならないこともあるし」
「そうだな、僕もまだ少し調べたいことがあるし」
「えー、私も部屋のスクリーン使いたいんだけど、ほら、プレゼン作らなきゃならないし」
「そうだよな。まあスクリーンは譲るよ。PCでも調べられるし。プレゼンしっかり作りな」
「うん、ありがとね。そうするよ」
そんなわけで、今日は一日のんびり、というか気ままに過ごすことになった。パーリャはいよいよプレゼンづくりに取り組むようだから、あんまりのんびりもしていられないだろう。これからどんな風に取り組むつもりなのか、少し見といてやろうと思っていたら、とたんに質問から来た。
「ねえ、お兄ちゃん。さっきアリシアさんが言ってた、なんだっけ『臨界……高度』?だっけ?あれってなんだろう?お兄ちゃん、わかる?」
そういえば僕も調べたかったところだ。だがなんでも僕に聞けば解答が得られるというのは、特にこれからのパーリャにとっては良くない環境だろう。とりあえず自分で調べて、ある程度解答候補が集まってから僕に相談するというような形にしていかないと。
僕はそう思って、「自分で調べてみな。その環境は揃ってるだろ?『脱出臨界高度』だ」と答える。パーリャも、なんとなく僕の意図を察したようで、「あ、そうだね」と言って、スクリーンで調べようとする。
「『脱出臨界高度』ってなに?」
尋ね方が僕に対するそれとまるで同じだけど、大丈夫、そのへんは今の優秀なAIアシスタントがカバーしてくれるだろう。僕も経緯を見守る。
「『脱出臨界高度』という言葉より『地球脱出臨界高度』として使われている文献の方が多いようです。『脱出臨界高度』という言葉で6件、『地球脱出臨界高度』という言葉で18件の資料がありました」
そう言って文献のリストをスクリーンに出し、またその中の中心的な説明を読み上げてくれる。
「『地球の赤道に設置された、地表と静止衛星軌道を直接結ぶ宇宙エレベーターにおいて、クライマーの軌道周回速度が地球の脱出速度を上回る限界の高度をそう呼ぶ。地上約46,700kmに当たる。The Critical Altitude for Terrestrial Escape :CATEと略されることもある』というのが各文献に共通した大まかな説明です」
宇宙エレベーターならではの言葉ってことだな。だから資料の件数が少ないということなんだろう。しかしこれでパーリャは理解できるのかな?
「……お兄ちゃん、これわかる?」
案の定、パーリャにはさっぱりわからないらしい。僕だってちょっと怪しい。そもそもこれにどんな意味があるんだか、ちっとも説明してくれてない。僕は、自分自身の興味が勝ってしまって、思わず調査の主導権を握ってしまった。
「『地球脱出臨界高度』の利用方法は?」
「『宇宙エレベーターが利用できる前提で、地球と月以外の太陽系内天体に移動する際、クライマーで地球脱出臨界高度以上に昇っておけば、適切な高度と射出のタイミングを正しく図ることによって目的の天体に最小のエネルギー消費で達することができることになります。たとえば火星に到達するためには宇宙エレベーターで高度約5万7000キロまで上昇し、そこで質量を射出すれば火星軌道に至るホーマン遷移軌道に乗ることが可能です』。以上文献1からの引用でした」
なるほど、そういうことか。僕は、自分が理解したことを確認する作業を兼ねて、パーリャに説明することにした。
「まず、地球脱出臨界高度、もう面倒だから単に脱出臨界高度、って言っちゃうけどそれは、その高度での軌道周回速度と、同じくその高度での地球の脱出速度が一致するポイントってことだな。それはわかるか?」
「うん、脱出速度は……ボールを投げたらもう地球に戻ってこなくなる速度、だよねえ?」
パーリャはあいまいに答えた。昨日、アリシアさんの前では結構わかっている様子だったのに、今日はダメなのか?僕は、アシスタントに振ることにした。
「『脱出速度ってなんだっけ?天体からの脱出速度』」
もちろんアシスタントは面倒がらずにきちんと教えてくれる。
「『天体の近傍にある物体に対して、その天体から無限遠の距離にある等質量の物体が持つ位置エネルギーと等価な運動エネルギーを与えることのできる速度』と、フィロソフィア学術用語辞典にはあります」
「はいぃ?」
これはちょっと難解だ。パーリャがますますわからない表情になる。もう少し、砕けた説明はないか。
「『もう少し、一般向けの説明はないか?』」
「『ある天体においてその天体の持つ重力を振り切って、天体を周回することなくどんどん離れていくために最低限必要な速度のことを、その天体のその高度における脱出速度と呼ぶ』と、ハイスクール天文学講座には載っていました」
「これでどうだ?最初の説明は僕でもよくわからなかったけど、これなら少しはわかるんじゃないか?」
「んー、なんか聞いたことがあるような気がしてきた。そうか、衛星にならずに放物線か双曲線かで飛び出していくための速度だったよね。うん、思い出した」
僕はちょっと文献リストを見て、なにか例がないかを探してみる。
「こんなのはどうだ。『たとえば地球の表面における地球の脱出速度は、秒速11.2キロと計算されています。地表を飛び出したい宇宙船が、地球の引力を逃れて二度と地球に戻って来たくない場合、これだけの速度を出せば、地球の引力を振り切って、地球からどんどん離れることができるようになります。逆にこの速度以下だと、どんなに離れたとしても、引力は無限遠まで届きますので、やがて地球の引力に引かれて地球に落ちていくことになってしまうということです。』だってさ。だけど地球からは脱出できたとしても、地球よりも太陽の方が引力は圧倒的に大きいから、そっちの方につかまっちゃうと思うけどね。」
「そういや、そんなことも言ってたよね。……あ、それで脱出速度って、地球との距離で変わるんだよね。距離が離れれば届く引力は小さくなるので、脱出速度も小さくなるって感じで」
「そう、だからクライマーで昇っていけば、その高度での地球脱出速度はどんどん小さくなる。で、それと同時に、昇れば昇るほどクライマーの軌道周回速度も上がっていく。具体的には、……どこかに書いてあったな。『静止衛星軌道での地球脱出速度と、クライマーの軌道周回速度は?』」
「静止衛星軌道は高度約3万5800km、この高度での地球脱出速度は毎秒約4.3km、同じ高度でのクライマーの軌道周回速度は毎秒約3.1kmとなります。計算式は理化学便覧2128年度版を参照しました」
アシスタントが言った数字は、同時にスクリーンに表示されている。アシスタントが文字でも参照できるべきだと判断したのだろう。
「ってことで、GEOステーションの高度ではまだ脱出速度の方が毎秒1.2キロほど大きいけど、でも逆に言えばロケットか何かでそれだけの分加速してやれば、GEOからでも地球脱出速度が出せるってことでもある。だから必ずしも脱出臨界高度にこだわらなきゃならないわけでもないだろうな」
「それで、その脱出速度と軌道周回速度が一致する高度が、その脱出臨界高度、というわけね。んまあ、そこまではわかった、気がする。……で、だからそれが何なの?……って気持ちがあるなあ、まだ」
まあ、そうだろう。僕にもその気持ちがある。だから、もう一つ文献リストから例を持ってきてスクリーンに表示する。これは天文学に関する解説番組のようだ。スクリーンに大学の先生が現れてインタビューを受けているところだ。パーリャには「こんなインタビュー番組があったから、ちょっと見てみようか」と言って、ビデオコンテンツを再生する。
「それでもし、クライマーがどんどん昇っていって『地球脱出臨界高度』に達すると、具体的に何が起こるんでしょう?」
「ぶっちゃけ、何も起こりません。仮にそのクライマーに人が乗っていたとしても、気づいたらとっくにその高度を超えていた、ということになるでしょう」
「何かが起こるのは、その高度からたとえばボールを投げたりした時です。脱出臨界高度より低い位置にいるときは、そこからクライマーの外に向かってボールを投げたとしても、そのボールは地球の脱出速度を超えることはできません。脱出速度が越えられないということは、地球の引力に引かれて地球の影響下からは離れられず、地球の衛星になるか、地球に落っこちるかです」
説明と同時に画面には、説明を補助するCGアニメーションが表示された。
「それに対して、脱出臨界高度に達した時に同じことをすると、今度は事情が変わります」
画面の中の先生がそう言うと、説明を補足するように絵が動いていく。
「脱出臨界高度に達した時、同じようにこのクライマーからボールを投げますと、そのボールはピッチャーの手を離れた時点で、地球の脱出速度を出していることになります。つまり地球の引力の影響を離れて外に飛び出す速度を持っていることになります。この場合、外というのは地球の影響下を離れた、太陽系の惑星空間、ということになります。つまりそのボールは地球の衛星になる可能性はなくなって、代わりに太陽の周囲を回る天体、つまり人工惑星になるということになります」
「言い換えれば、地球の引力を振り切って太陽系の他の惑星にアプローチできる速度を、このクライマーから投げたボールは持っているということで、ということはこの高度より上にあるクライマーから投げるボールは、他の惑星の人工衛星になることも可能だということなんです。ただ投げるだけなんですよ。こんな簡単なことはありませんよね。でも、それだけで地球の引力を離れて惑星空間へと進んでいくことができるわけなんです」
「この高度に意味があるのは次のことです。一般にロケットを使って脱出速度まで加速するというのはそれなりに燃料を使いますが、その量は加速するロケットの質量に比例して増大します。燃料自体も加速しなければならない質量に加わりますので、脱出速度までロケットを加速してやるというのは、膨大な燃料を必要とする作業なのです。ところが、宇宙エレベーターのクライマーで必要な高度まで昇ると、それらの燃料を一切使わず、どんなに大きな質量だとしてもただ、クライマーに載せて運べる質量でありさえすれば、それ以外の燃料を一切使わずに脱出速度を出すことができるのです。燃料まで一緒に加速するなどという馬鹿なことをしないで済むわけです」
この先生、だんだんノッてきたようで、インタビュアーに唾を飛ばしながらどんどんテンションを上げていく。話が火星探査のことになってきたのでこれくらいでやめておく。もともと火星基地建設計画の話をする番組だったようだ。
「ま、そういうわけだ。この高度を超えると地球の脱出速度を超えた速度を出せるし、そこからさらに昇れば、もっと離れた場所、火星とか小惑星とか木星にも接近することができる速度が出せるってことだな」
「はー、なるほどねー。じゃあもっと昇れば土星にも海王星にも行けるってことかな?」
まあ、そう思うのも無理はないが、ものには限度というものがある。
「ところがそう、簡単なものでもないらしい。どういう計算なのかは僕にもわからないんだけれど、どうもこのターサで行けるのは、火星か小惑星くらいらしい。最先端のカウンターウェイトまで昇っても、そこから木星まで行くのには、ロケットによる加速が必要と書いてあった」
出発前のレクチャーでもらった説明資料に、そんなことが書いてあったのを僕は憶えていた。その時はそれほど気にしていなかったのだが、なるほどひとつひとつ理解していくと、話がつながってきたような気がする。
「たとえそうだとしても、ただ昇るだけでそれだけの速度が得られるってのは大したもんだよ。その速度をロケットで出そうとしたらものすごい量の酸化剤と推進剤が必要なのが、太陽光発電の電力でクライマーを動かすだけで、簡単に得られちゃうっていうんだからね。宇宙エレベーターってのは、単に貨物を静止衛星軌道にまで運ぶだけじゃなく、地球以外の惑星に行くための手助けだってしてくれるってわけだ。ほら、前に話したこと憶えてるか?えーと、カウンターウェイトの重さの話」
僕はパーリャの記憶を促してみる。あの時の話をぜひ思い出してほしい。
「え、え?なに?カウンターウェイトの重さって……?あー、えーと、ちょっと待って、思い出すから……」
僕はしばらく待ってみる。そう、前に僕がパーリャに宇宙エレベーターの原理を話してやった時に、いずれ話すってことにした話があった。いや、いずれアリシアさんに聞くって話だったか?あれ?自分でもあいまいな記憶になっていて、つい話をそっちに向けてしまったが、そういえばアリシアさんの講義でいずれ出てくるだろうから、その時に聞こうって話だったっけ?
「んー?えーと、カウンターウェイトを重くするとテザーは短くて済むんだけれど、カウンターウェイトにするだけの大量の質量を地球から持ち上げるのは大変なので、……テザーを長くしてカウンターウェイトはそれほど重くしないで済んだ。って話だったっけ?……あ、そうか。テザーを長くするのはそれ以外にも理由があるって話だったよね。思い出した思い出した。あーそういうことね。なるほどー」
アリシアさんの話を聞くまでもなくパーリャは納得したようだが、本当に納得したのかあえて聞いてみる。
「そういうことって、どういうこと?説明できるか?」
「できるよ。だって、これがテザーを長く伸ばすもう一つの理由ってことでしょ?クライマーを遠くまで昇らせれば、それだけ軌道周回速度を早くすることができて、それでより遠くまで行けるってことだもんね。テザーをもっと伸ばせば木星でも土星でもいけるってことだよね?」
「そういうこと。よくわかったな」
パーリャも本当に納得できたようで、うれしそうにうんうんうなずいている。
「なるほどねー。宇宙エレベーターってよくできてるねー。燃料じゃなくて、太陽光発電でロケットを噴射する以上のことをやっちゃうんだもんね。って、それだけの電力を使ってるってことか。……あれ、そう?電力でここまで昇ることでロケットにそれだけの速度が与えられてるってこと?そういうこと?」
納得したばかりなのに、また混乱してきたようだ。パーリャは、ロケットが推進剤を酸化させてその燃焼のエネルギーで加速するのではなく、その代わりに電力でロケットにエネルギーを与えていると誤解している。いや、誤解しているわけではないか。その証拠に、その理解では納得がいっていないようで、さっきからしきりに首をひねっている。
その通り、火星や木星まで物体を運ぶエネルギーが、太陽光発電の電力から得られているわけではないことを、パーリャはうすうす感じているようだ。だからといって、じゃあどこからそのエネルギーを得ているか、ということに対する解答は、まだ持っていないらしい。
ちょうどいい、これをアリシアさんに話を聞くまでの宿題にすればいいのでは?
「パーリャも気づいたように、電力でロケットを加速しているわけじゃないよな。クライマーから放出する質量を、脱出速度を超えるまで加速してくれているのはいったい誰だ?言い換えれば、放出する質量が脱出速度を得たことで、何かのエネルギーが奪われているはずだ。エネルギーを奪われているのは誰だ?」
「え?え?誰?誰がエネルギーを失ってるんだろう?」
「まあ、それはまたアリシアさんが説明してくれるまでの宿題にしとこう。テザーの長さについての謎は自力で解いたんだからな」
そういうとパーリャは不満そうにふくれっ面になる。
「えー、私はそもそもアリシアさんへのプレゼンを考えなきゃならないのに、そんな宿題いらないよ。お兄ちゃんが調べてよ」
「そうやっていつまでも僕にたよるな。アリシアさんだって自力でやらないと納得してくれないぞ」
「アリシアさんが宿題出したんじゃないじゃん。お兄ちゃんが宿題にしたんじゃない、もー!」
そういえばそうだ。まあ、宿題というよりはまた今度、ってことだ。
「ま、いいか。そろそろランチの時間だ。ランチは一緒に食べるだろ。食堂に行こうか」
「あ、結局午前中は何にもできなかったよ。ま、いいか。まだまだ時間はあるしね。オッケー、ランチに行こー!」
そんな風に自分を納得させて、パーリャは僕より先にコンパートメントを出ていった。
ツアー7日目のお昼 現在地点:高度3万8000km 重力は地球と反対方向に0.003G まだまだほぼ無重力状態
脱出臨界高度についての理解を深めたふたり。太陽系の惑星への旅に、宇宙エレベーターを使うために必要な重要概念だったんですね。宇宙エレベーターにはそんな可能性もあったということを、二人は学びました。でも、パーリャちゃんにはまた宿題が出てしまいました。がんばって解決していけるでしょうか。
次回は久しぶりのアリシアさんの講義があります。クライマーのお話です。クライマーにもいろんなタイプがあって、宇宙エレベーターの持つ役割がよくわかるお話になるはずです。