(9) 脱出速度と宇宙葬
今日は初めて第2食堂でディナーを食べることにしました。第1と第2は面積もテーブル数も同じですが、人の密度はやはり第1の方が多いようです。でも、人だけがコミュニケーション相手ではありません。そして翌日はアリシアさんの宇宙エレベーター講座の2回目です。今度は無事講座を終わらせられるでしょうか?
トレッドミルの運動を済ませ、シャワーも済ませて僕とパーリャは3日目の夕食に向かった。今日は第2食堂の方に行ってみたいと考えた。ネイネイさんというスタッフにも会ってみたいし、第2食堂にはまたそこのムードというか、雰囲気もあるだろう。メンバーも違う人に会えそうだし。
そう言ったらパーリャも賛成してくれたので、二人して第2食堂に向かった。
もうすでに微重力環境になっているので、途中すれ違う人たちの半分くらいはマグのスイッチを切ってふわふわと浮かびながら移動していた。ときどき天井や壁にぶつかっている人もいたけれど、さすがに人同士がぶつかるのだけは細心の注意で避けているようだ。そのうち、交通ルールのようなものもできてくるのかもしれない。
階層を降りるのも、だんだん降りるという感覚がなくなって、ただ階層を移動するだけという感覚になりつつある。だって、頭を下にして降りても(昇っても?)まったく違和感がないのだ。もう上も下もほとんど意識できなくなってきている。あえて言うなら、床のある方が下、天井のある方が上という区別だけ。そんな地上の感覚もだんだん乏しくなるのを感じながら、僕たちは第2食堂に到着した。
ぐるり見回してみると、やはり雰囲気が違う。なぜかと思ってよく見ると、壁のスクリーンに緑の風景が映っているのだ。第1食堂のスクリーンはコンパートメントと同じく実際の周囲の風景、つまり宇宙空間だったはずだ。しかしここでは、環境ビデオのような草原とか森林とか、地球の風景を映し出しているようだ。無重力の環境でこういうのを見るのも、悪くない。なんか安心できる。少し癒される気分になって、僕たちは手近なボックス席に着席した。
もうすでに席に座るという感覚はすっかりなくなった。今なら空気椅子、何時間でもできる。体がふらふらするのを防ぎ、安定して食事をするための位置決めとして、椅子に座るという感じだ。まあ会話するときに相手の顔が、あんまり上下にふわふわされても会話しにくいしね。パーリャはむしろそんな感覚が新鮮らしく、コンパートメントではしょっちゅう場所を変えたりさかさまになったりして、上下感覚の喪失を楽しんでいるようだった。まあ、いろんなところに平穏や安定を求めるより、変化や刺激を求めるのが若者ってことなんだろうな。
座席について、いつものようにコーヒーとフルーツジュースを注文した。パーリャは今日はパイナップルジュースにしたようだ。他の座席はいくつか空いているようで、誰も相席を求めてこない。座席の数自体は第1食堂とまったく同じようだが、全体に人の数が少ない。やはり第1食堂の方に集まる傾向があるのかな。
「あんまり人いないね?みんな第1に行ってるのかな?」
「まあ、こういう時もあるんだろう。別にいないならいないでいいし。ゆっくり食べられるよ」
「あ、あの人がネイネイさんだよ。こんばんは、ネイネイさん。うちの兄貴です」
ワゴンで料理を持ってきてくれたのがネイネイさんらしい。僕はちょっと会釈する。
「こんばんは、パーリャさん。先ほどはどうも。きれいなシークエンスでしたよ。お部屋でも寝る前にやってみてくださいね。血行が良くなって、よく眠れますよ。こんばんわ、カンパーネンさん。ネイネイ・リーと申します」
そういってネイネイさんはトレーとドリンクをテーブルにセットしてくれた。
「こんばんは、素敵な体操をなさるようですね。どうやって覚えたんですか?妹は無重力サーカスにでもいたのか、なんて言ってましたけど」
「お兄ちゃん!失礼だって!」
ネイネイさんは上品に笑って、こう言った。
「無重力サーカスっていうのはまだないと思いますよ?私の場合は宇宙太陽光発電所を建設する事務所に勤めていまして、4年間ほどGEOステーション内の保健センターに勤務していたことがあったんです。そこで建設作業員に運動を指導していたりして、こんな一芸を手に入れたんですね」
「はあー、だからそんなにすらっとしてらっしゃるんですね?いいなあー」
「いえ、これは生まれつきで、母が同じような体型ですから」
ネイネイさんはそんなふうに謙遜した。ちなみにパーリャの母親、つまり僕たちの母さんは、ネイネイさんほどスリムではないけれど、十分すらっとした美人だと僕は思っている。遺伝子の質で言うなら、パーリャも捨てたもんではないと思うぞ。
「あ、すいません。コールが入ったようです。今日のメニューは『おろしとんかつ定食』です。日本のコース料理ですよ。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
そう言って、ネイネイさんは厨房に帰っていった。僕たちは食事をすることにした。
「お兄ちゃん、サーカスのことなんか言わないでよ!恥ずかしいじゃない!」
「そうか?別に恥ずかしがることじゃないと思うけど?ま、食べよっか。いただきまーす」
そう言って、僕は「おろしとんかつ」に目を向けた。「おろしとんかつ」ってなんだ?
「お兄ちゃん、『おろしとんかつ』ってなんだろう。知ってる?」
「よく知らないけど、カツレツみたいだな。揚げ物の香ばしいにおいがしてる。上になにか乗ってるけど。ピクルスの一種かな?」
「お話し中、失礼します」
その時、テーブルのアシスタントAIが会話に割り込んできた。
本来アシスタントAIは人間の会話に割り込んでくることはない。だが非常時だったり、あるいは割り込むことでより利用者の利益になることが見込まれる場合には、割り込みをする機能を持ったAIもあるのだ。ここのAIは結構高度なことをするようで、ここは割り込みが必要と判断したらしい。
「おろしとんかつは、ポークカツレツにラディッシュの一種を細かく砕いて作ったソースを載せた、日本では一般的な料理です。宇宙エレベーターの建設初期に好んで食された、いわば宇宙エレベーターの名物料理です。」
アシスタントはそんなことを言ってくる。料理の説明はわかったけど、名物料理ってのはどうしてなんだ?こういうとき、パーリャは直球で聞いてくる。
「なんでこれが名物なの?静止軌道にラディッシュ農園があったとか?まさか豚さんを飼ってたりはしないよね?」
「確かに上空の『The 1st STAR』では農園があって、ラディッシュも作っておりますが、これは宇宙エレベーター『ターサ』の前身である『最初の宇宙エレベーター』が建設されたときからの伝統料理です。建設に携わった関係者たちがなにかにつけ好んで口にしたと伝わっております。その理由については、あまり大きな声では言えないのですが……」
そう言って、アシスタントは声を潜めた。
「エレベーターのお仕事は『上げて(揚げて)』『降ろす(下ろす)』ことですので」
笑うべきなのか、笑えないのか、微妙な空気が一瞬ただよった。どう反応したものか正解がわからない。しかし、悩む間もなくパーリャは素直に反応した。
「なるほどー!そういうことか!でも、これは誰にも秘密なんだね?わかってるよ。私たちだけの秘密にしよう!教えてくれてありがとう!」
「そう言っていただけると助かります。お食事をお楽しみください。失礼いたしました」
僕はけっこう「あっけにとられた」感じで、しばらく声を出せないでいた。パーリャは「おもしろいね、こいつは」と料理について言っているのか、アシスタントについて言っているのか区別しがたい口調でうなづいている。今のはジョークなんだよな?ちょっと自信はないが、僕はそう思うことにして気を取り直し、料理を楽しむことにした。
ちょっと酸味のある野菜をミキサーにかけたようなソースが上に載って、一口大のカツレツが、例のへこんだトレイに配置されている。僕はそのうちの一つをフォークで持ち上げて口に入れる。ソースは冷たいけど、カツレツの中は熱い。でもやけどするほどでもない。他にお味噌汁や小さな飾りがいっぱいついた色とりどりの野菜や魚がそれぞれにまとまって配置されている。オードブルみたいだ。あと、こっちが本当のピクルスだな。それとライス。それで『定食』ということらしい。ちなみにお味噌汁は、やっぱりジュレだった。
「うん、なかなかうまい。やっぱり中身はカツレツだ。ポークカツレツだね。でも上に載ったソースの酸味がカツレツの油をうまく中和してくれて、いい感じだね。うん、うまいよ」
「お兄ちゃん、グルメレポーターになれそうだね。……うん、おいしいけど、普通の料理だね。あんまり無重力っぽくない」
「そんな毎日毎日無重力料理じゃなくてもいいよ。おいしければいいんだって」
「ま、そうだね。名物料理らしいし、おいしいよ……もぐもぐ」
そんな感じで、その後は特に驚くこともなく終わった。いや、それが普通で当たり前なんだけどね。なんか普通じゃないことばっかり起こっていたので、そっちが当たり前なんだと思いかけていたところだ。危ないところで引き返せたようで、ちょっと安心する。
食後も特に誰とも会わなかったし、特に何事もなく終わった。部屋に帰ってからも、寝る前にまたパーリャがビデオメールを撮って両親に送っていたけど、それもいつものこと。
もう重力はほとんど感じられなくなったので、すでにベッドの意味もほとんどないけれど、まあ人間も動物の一種で、何かにくるまれていると本能的に安心するらしい。ということで毛布にくるまれてベッドにくくり付けられて、安心して眠った。
* * *
眠っている間にもクライマーは昇り続け、そして夜半にはヴァンアレン帯の限界高度を超えて、地磁気の影響のより少ない惑星空間に進入した。とは言っても、夜側の空間、つまり地球を挟んで太陽の反対側の領域は、太陽風の影響でヴァンアレン帯が大きく引き伸ばされている部分である。結局これまでとあまり状況の変化はない。この後地球が自転して宇宙エレベーターごと太陽の側に戻っていくと、それにつれてヴァンアレン帯は厚みを減らしていく。その時こそ本当にヴァンアレン帯から脱出できたということになる。また夜になるとヴァンアレン帯の中に戻るんだけどね。
そして翌朝、ツアー4日目の朝が来た。朝と言っても時計の上での朝であるだけで、日が昇るわけでもなければ、明るくなるわけでもない。夜中の2時ごろにはもう太陽は見えているし、部屋の明かりは目覚まし代わりに7時ごろになったら徐々に明るくなるよう設定してあるので、自然に目が覚める。旅行の緊張感もあって、すぐにパッチリ目が覚めるのだ。
パーリャも家にいるときは、休みの日などは朝の9時ごろまではベッドでごろごろ惰眠をむさぼる口なのだが、ここでは7時前からきっちり起きていて、なにやらごそごそとしているようだ。せっかく宇宙に来ているのだから、眠って過ごすのももったいないよな。
今日の朝食はコーンフレークとベーコンサラダ。コーンフレークは冷たいジュレのミルクに入れてある。ふうん?こんなのも面白くて食べやすいな。ミルクがジュレ状だといつまでもサクサク感が失われないのがいい。ベーコンサラダはいつものサラダのように、細かく刻んでコールスローっぽくなっているものをフォークで食べる。ベーコンの肉汁のドレッシングがかけてあって、結構こってりしているが、うまい。
そんな朝食を済ませ、トレッドミルとシャワーも済ませ、今日のプログラムに出かけることにする。今日のプログラムは、こないだ駄目になった「宇宙エレベーター講座」の第2回目だ。前と同じ部屋、3-3-2に二人で向かう。前の時のことは忘れよう。
部屋につくと1回目の時と同じく、後ろにギルバートさんが座っている。今日も見学するようだ。そういえば彼も1回目の見学は結局できなかったんだよなあ。悪いことしたなあ。僕はもう一度謝罪の意味も込めて、挨拶をした。
「おはようございます。今日こそ、よろしくお願いします」
すると、ギルバートさんは
「おはようございます」
と一言だけあいさつして、そのまま黙ってしまった。
あれ?今日は不愛想?昨日のお昼はけっこう親しげに会話してくれたんだけど、朝は機嫌が悪い?
ちょっと不思議な気もしたけれど、すぐにアリシアさんが現れたので僕は前を向いた。その間にも今日はあと二人ほど、受講生が入ってきた。一人はキュウさんで、入ってきたときにちょっと会釈をした。もうひとりはまだ知り合いになっていなかった人だが、キュウさんとは会話を交わしているようなので、知り合いになっているのだろう。ということで、今日の受講生は4人、プラスギルバートさんだ。
アリシアさんは、今日もニコニコ顔で講義を始めてくれた。
「おはようございます。今日この時間は『宇宙エレベーター講座』の第2回目、今日のテーマは宇宙エレベーターの原理についてです。本日初めての方もいらっしゃるようですので、もう一度、全6回の概要を最初にお知らせしておきますね」
そう言って、全6回の概要をさらっと紹介してくれた。僕らは以前にも聞いた話だけど、キュウさんたちは初めてだろうからね。
そして、今日の本題、宇宙エレベーターのしくみについても解説を始めてくれた。
話の内容は、僕らが昨日部屋で話した内容とほぼ同じものだった。もちろん言い回しも違えば、順番も違うし、なによりアリシアさんが情熱的に語ってくれるものだから、パーリャも昨日以上に熱心に聞いている。一通りの説明があって、アリシアさんはこんな質問をしてきた。
「では問題です。カウンターウェイトの高さまで行ったとして、そこでクライマーから降りたら、降りた人はどうなるでしょう?はいっ、パーリャちゃん!」
なんとパーリャは、質問に間髪入れず、元気な声でハイっと返事をして手を挙げたのだ。アリシアさんもすかさずパーリャを指名する。なんだか小学校の授業みたいだ。そしてパーリャは答えた。
「地球の外側に向かって落っこちます!」
「はい、正解です。どうしてか説明できますか、パーリャちゃん?」
アリシアさんも、なんだか小学校の先生になっているつもりらしく、お客様に向かって「ちゃん」づけしていることに気づいていない。
「えーと、カウンターウェイトの高度になると、地球からの引力よりも、外側に向かう遠心力の方が大きくなるからです!」
「はい、そのとおりです。パーリャちゃ……パーリャさん、えっとカンパーネンさん……?やっぱりパーリャさん。……よくできました」
「えへへへ」
アリシアさん、ようやく気付いたようで、焦って直そうとしたみたいだけど噛みまくってる。もういいよ、小学校スタイルでやってくれてもちっとも構わない。キュウさんたちは苦笑いしているし、ギルバートさんはタブレットに何やらしきりにガシガシメモしているけど。
「ああ、えーと。……ちなみにカウンターウェイトから落っこちた人は、地球とは反対側に飛ばされてしまい戻ってくることはできません。この高さだと、先ほどパーリャさんが答えてくれたように、遠心力が地球の重力より強くて、地球からどんどん離れていくしかないんです。これを『地球の脱出速度を超えた』と表現することができます」
アリシアさんはスクリーンの図を切り替えて、別の図で説明し始めた。
「一般に天体の周囲をまわる物体が、どのように移動していくかにはいくつかのパターンがあります。ひとつはこれまでに説明してきた、衛星軌道に乗る、というパターンです。天体の近くに物体が存在していて、それが適切な距離を適切な速度で進んでいた場合、天体の引力に引き付けられて、天体をひとつの焦点とした楕円軌道で天体の周囲をまわり始めます。太陽系の各惑星は、太陽を一つの焦点とする楕円軌道で太陽の周りをまわっていますし、月や人工衛星は同じように地球の周りをまわっています。」
「ああ、知ってる!えーと、なんだっけ、なんとかの法則、ですよね?えーと、オームじゃなくて、パーキンソンじゃなくて、えーと……」
パーリャが悩みだした。なんでパーキンソンが出てくるんだ?しょうがないからフォローしてやろうかと思った時、後ろのキュウさんから声が出た。
「ケプラーの法則……ですよね?」
そういって、キュウさんはアリシアさんを見る。アリシアさんはおどろいたようにキュウさんの顔を見つめていたが、パーリャがわめきだした。
「そう、それ!ケプラー!ケプラーの第一法則だ!キュウさん、ありがとう!」
アリシアさんは、一瞬とまどっていたが、すぐに気を取り直して答えた。
「はい、そのとおり。ケプラーの第一法則ですね。みなさんよくご存じでした。」
アリシアさんはほっとしたような顔になって、また説明を続ける。パーリャは得意げな顔を僕の方に向けた。僕だって知ってたよ。
「楕円軌道と言っても、その楕円が円に近くなることもあって、地球や太陽系の各惑星の軌道は比較的円軌道に近いものが多いですね。一方で典型的な楕円軌道を描くのがすい星として知られる無数の天体ですね。どちらも太陽を焦点とする楕円軌道を描いているという点では同じと言っていいでしょう。楕円軌道を取ることによって、その天体からは逃れられない。捕らえられた状態ということができます」
「しかし見た目には、楕円軌道を描かない場合もあります。そのひとつは、物体が天体に衝突してしまう場合です。これは楕円軌道を描く場合の特殊なケースと考えることができます。楕円軌道のうち、最も天体に近づく場所のことを、例えば太陽の場合だと近日点などと呼ぶのですが、その位置が太陽の半径よりも太陽に近い場合、物体は太陽の表面に衝突することになります。」
アリシアさんはスクリーンに補助線を書き込んだ。楕円軌道の太陽に近い部分が太陽自身の中に潜り込むほど近くなっている。そのままの軌道を走れば、太陽の表面に落ちてしまうだろう。
「これらは、いわば天体の重力から離れられるほどの速度と方向を持っていなかったケースと言うことができます。そしてもうひとつのケースは、天体の周囲を回るには、速度が大きすぎた場合です。」
今度は、別の補助線を加えてまた説明を始める。
「天体から離れる方向に速度を持っていても、それが一定の速度以下であれば、天体の重力にとらえられて天体をまわる軌道に引き付けられていったり、天体に衝突したりします。しかしその速度が一定以上のものである場合、天体の重力を振り切って遠くに飛び出していくことができます。この場合は一般に、放物線または双曲線を描くことが知られています。放物線も双曲線もいったん天体に近づいても、そこを離れていけば、もう二度と天体に近づくことはありません。」
アリシアさんはそう言って、太陽の図に放物線を描き加えた。
「天体の重力を振り切って、天体の衛星とならずにどんどん離れていくために最低限必要な速度のことを、その天体のその高度における脱出速度と言っています。たとえば地球の表面における地球の脱出速度は、秒速11.2キロと計算されています。この脱出速度は、地球との距離によって変わります。距離が離れれば届く引力は小さくなりますので、脱出速度も小さくてすみます。」
「宇宙エレベーターに関連付けてお話ししますと、この『ターサ』のカウンターウェイトは地表から10万400キロのところにありますが、この距離ですと地球からの脱出速度は毎秒約2.74キロと計算できます。そしてこの距離での周回速度、つまりカウンターウェイトが一日かけて地球を一周する速度は、毎秒7.79キロになります。つまりカウンターウェイトのところまで昇れば、それだけでその高度での地球からの脱出速度を十分に超えているということです。」
「ということで、先ほど申しましたように、カウンターウェイトから飛び降りた人は、その時点で地球の脱出速度を超えてしまっていますから、もう二度と地球に帰ってくることはありません。飛び出す瞬間の方向によって、太陽に衝突するコースに乗るか、逆に木星付近への長い旅に出るか……、うまくいけば人工惑星となって永遠に太陽を回り続けるコースに乗れるかもしれません。」
「ちょっと恐ろしいこと言わないで!」
パーリャは、いやな想像をしてしまったようで、恐ろし気にアリシアさんを見ている。アリシアさんははっと我に返ったようにパーリャを見つめ、フォローしなおした。
「あああ、……そう、人が飛び降りるんじゃなくて、なにか物体を投げることにしましょう。カウンターウェイトからそう、ボールをポイっと投げるんです。そうしたらタイミングによって、太陽に向かったり、木星に向かったり、人工惑星になって……」
「うん、それなら恐ろしくない。だけど、これからカウンターウェイトまで昇っていくんだよね?落ちたら、大変だ。あ、逆になにか落としてみたいな 木星とか太陽まで届けたい、なにか……」
パーリャがそう言うと、アリシアさんはふと目を伏せた。パーリャもそれに気づいて声を潜めたようだ。その後すぐ顔を上げたのだが、なにやら寂しげな表情になったのに僕は気づいた。そして思わず声をかけてしまった。
「アリシアさん?」
アリシアさんは僕の声に、一度驚いた後、微笑みを取り戻した。
「ああ、えーと。すいません。ちょっと別のことを思い出しまして……」
そう言って、少しためらった後、自分の今の表情を説明した。
「もうちょっと後でみなさんにお話しするつもりだったんですけれど、今回の旅には、もう何人かのお客様が同乗されているんです」
そんな話は聞いていない。10組14人以外に乗っている人がいるということなんだろうか。この列車のどこに?
「1号車の先端部にカプセルが収められていまして、カウンターウェイトに到着したらそこでそのカプセルを宇宙空間に放出する予定です。そのカプセルに乗っているのが……」
ひと呼吸間をおいて、アリシアさんは続けた。
「11人の方々の遺骨や遺灰なんです」
……聞いたことがある。最近は宇宙葬もかなり普通の葬儀の形として定着してきたと。ただ、これまではロケットで打ち上げられるようなものしか聞いたことがなかったが、宇宙エレベーターでそんなサービスをしてくれれば、費用もずいぶん安くできるだろう。それをこの会社でも始めたということなんだろうか。でも、そこまで悲しげな顔をするのは……
「いえ、私の直接の知り合いということではありません。……その、宇宙エレベーター建設や、太陽光発電所の建設に関わった人たちの遺骨を今回特に集めて、葬らせていただこうと思いまして……」
アリシアさんはすぐにわかる作り笑いのまま、説明を続けた。
「宇宙エレベーターや地球の未来に貢献した立派な人たちですし、宇宙が大好きな人たちばかりですから、きっとうれしいと思うんですよね。家族の方々も皆さん、喜んでくださいました。今回の遺骨のカプセルは、太陽に向かう軌道を取ることになるはずです」
ということは、つまり太陽に衝突して我々を照らす光の一部になるということか?それともその前に溶けてしまうのか……。太陽に向かったカプセルが最終的にどうなるのか、僕の知識でははっきりシミュレートできない。でもまあ、どうなろうと大差はないだろう。自分が死んだ後でそうして欲しいと願う人の気持ちには、どうしてもなれなかった。
「……と、いうようなことを思い出しちゃったわけです。ああ、もうこんなこと講座とは関係なくて、話が脱線してしまいましたね。申し訳ありませんでした。」
アリシアさんは気を取り直すと、最後にちょっと残った内容を大急ぎで説明し始めた。でも、その説明は、悪いけどあんまり頭に残らなかった。
そんなこんなで、アリシアさんの講義もおしまいまで進んだ。
「途中脱線してすみませんでした。でもきちんとみなさん理解できましたよね?いいお勉強の時間になっていればうれしいです。次の講座はこのシリーズの第三回目。宇宙エレベーターの建設方法についてです。これは明日の、やはり同じ時間、同じ教室、ここですね。ここで行われる予定です。よろしければ、また予約を入れてくださいね。それではこれで今日の講座を終わりにします。お疲れさまでした」
その言葉と同時にパーリャがアリシアさんに声をかけた。
「アリシアさん、ごめんなさい。私余計なことばっかりいうもんで……」
「そんなことないですよ。私がちゃんと普通に受け止めてればよかったんです。よく弟に言われるんですよね。姉さんは感情が表に出すぎる。ポーカーフェイスを身に着けろって」
「でも、そうやって本音で話してくれる方が、私は好きです。アリシアさん」
僕も今回ばかりは、パーリャに賛成だ。
「そうですよ。ネットで動画を見てるんじゃないんですから、お互いの反応が連鎖するのが教室で話す意義ってもんですよね。この緊張感と充実感はすごく価値のあるものですよ。」
僕じゃない、キュウさんがいつもの大げさな手ぶりを加えてそう言った。しかたなく、僕はうんうんと肯定だけしてみる。
「ありがとうございます。でも、もうちょっと感情をコントロールできるようになりたいです。私、こんなになりは大きいのに、まだ子供なんですね」
てへぺろっと舌を出して、アリシアさんの講義はおしまいになった。キュウさんもその連れの人も退出して、僕もパーリャを引き連れて、コンパートメントに戻った。ちらっと後ろを振り返ると、ギルバートさんとアリシアさんがなにやら話していたが、すぐにオートステップに乗ったので、話を聞くことはできなかった。
ツアー4日目の午前 現在地点:高度2万5200km 地表からGEOまでの3分の2を超えたところ 重力は0.02G
3日目のディナーはおろしとんかつでした。おろしとんかつは、宇宙エレベーターの名物料理としてごく一部に知られています。そのことを知った二人も、これで立派な「宇宙エレベーターマニア」です。ちなみに今日は、ほとんどのテーブルで同じジョークが流れていたりします。ジョークを差し込むチャンスがあるとAIが判断したら、流すことになっていたんですね。それからジュレのお味噌汁ですが、二人はそう頻繁にお味噌汁を食べているわけではありませんので、全く違和感なく食べています。普通のお味噌汁に慣れた人だと、ちょっと引くかもしれませんが。
後半の宇宙葬の話ですが、直接の知り合いではない、というのは半分は本当ですが半分はアリシアの嘘です。今回の遺骨の中にはアリシアの曾祖父、ゼニス・ナカイのものも入っています。アリシアはどうしてもそうしたかったんです。会ったこともない曾祖父ですが、アリシアは十分に影響を受けて、尊敬しています。