交渉 13
◆
(……ついに来たっすね)
ミューズは心臓の鼓動が早くなるのを必死に抑えていた。
ここが終盤。
ここまでは想定通り。
(後はここから――どうひっくり返すか、だけっすね)
◆
クロードの一言は、その場にいる者達を呆れさせるのには十分だった。
――難癖を付けているだけにしか見えない。
傍から見たらそういう感想を抱くだろう。
しかし次の言葉で彼らはその評価を一変させる。
「あんた達はここで言ったことがそのまま履行されると思っているのか? 俺を舐めすぎだろ? 正式な交渉にするならば正式な書面、映像など準備するべきじゃないのか?」
「……」
至極真っ当な意見。
当たり前のこと過ぎて、呆れから呆気へと人々の様相を変化させていった。
「そうですね。失念していました」
申し訳ない、とウルジス王は答える。
しかし実はそういう状態にしたのは、ウルジス王が意図的に仕掛けたことであることに気が付いていた人はいなかった。
敢えて記録に残さず、結果だけを残す。
下手に安易に出たのもそういうつもりだったからだ。
「では話もほとんどまとまった所ですし、正式に取り交わしを致しましょう。ただ、もし書面でも映像でもどちらにも言えることなのですが、正式な取り交わしについては、お手数ですがアドアニア公用語以外での――」
「――その必要はない」
え、という疑問の声を上げてしまった。
ウルジス王は思わず言葉を止め、クロードの顔を凝視してしまった。
「いやーすまない。こちらに確実な手段があるのに提示しなかったのはこちらの落ち度だ。申し訳ない。――でも」
――その時。
ウルジス王はクロードのその変わらない表情の裏に、してやったりという表情を感じた。
「俺達『正義の破壊者』について調べていたら、それが何かは分かるだろう」
「……まさか」
「そのまさかだ」
クロードの声と同時に銀髪の女性が胸元からあるモノを複数取り出す。
それは――赤い液体が入った小瓶。
「『正義の破壊者』に所属する条件として、赤い液体を飲むことがある。この液体を飲んだ人は犯罪行為、ならびに『正義の破壊者』に不利益になる行動は出来なくなるし、黒い意図を持っている人間はその場で命を落とすという、優れたものだ」
「それを……」
「そう。飲んでもらうだけで証明になる。書面よりも映像よりも何よりも強固な証拠になるんだけどさ」
赤い液体を女性から受け取ると、クロードはウルジス王の目の前にその小瓶を置いて問う。
「さて、どうする、ウルジス王?」
「……っ」
(どうするも――条件も含め何も呑むわけにはいかないに決まっているだろう!)
少なからず、自国の利益のために『正義の破壊者』を利用しようとしているのは間違いないのだ。それが『正義の破壊者』に不利益となると捉えられてしまったら自分の命が無くなってしまう。
だが、このまま膠着状態を続けるわけにもいかない。
何らかの結論を出さなくてはいけない。
でも、こんなことで命を賭ける訳には――
「躊躇しているようだな、ウルジス王」
クロードが悪魔の囁きを続けてくる。
何をどうすればいいのだ――そう返したくなる気持ちをぐっと抑え、ウルジス王は思考を深くする。
だが、クロードはそれを許さなかった。
「ああ、そうか。飲み物の色が赤色だから飲みにくいのか?」
――そんなことは関係ない。
そう怒鳴りたい気持ちも抑えるために下を向いて歯を食いしばる。
「だったら、無色にしてやろうか?」
「え?」
「どうだ? これなら飲みやすいだろ?」
その声と共に顔を上げ、ウルジス王は目を疑った。
目の前にあった液体の色が赤から無色透明に変化していた。
別物にすり替えたような鮮やかさ――いや、実際、その場面を見ていないのですり替えているのかもしれない。
『……おい何が起こったのか誰か説明してくれないか?』
思わずウルジス語で問う。すると大臣の一人が首を横に振りながら信じられないというような表情で答える。
『わ、分かりません! いきなり魔王が手を翳したら色が一瞬で変わって……』
「おいおい。ウルジス王。交渉についてはアドアニア公用語でと言ったはずだぞ?」
そんな奇跡ともいえることを行った黒髪の少年は唐突に「そういえばさ」と話を変える。
「俺達がこの国に入国したのっていつだと思う?」
「いつって、今日では……っ!?」
ウルジス王は気が付いた。
この問いは話を切りかえたわけではない。
話は繋がっているのだ。
その意味を理解した時――ウルジス王は戦慄した。
「まさか……」
「その通り。俺達は今日来たわけではない。三日前にはこの国にいた」
――三日前。
その言葉でウルジス王は絶望の淵に叩き落とされた。
三日という時間はあまりにも多い。
その間、クロード達は何をしていたのか?
観光?
いや、違う。
それ以外でも十分に時間はあった。
ジャスティスの隠してある場所が分かるほどに。
ならばもっと他の場所に行けただろう。
そう、例えば――
「ウルジス国は――浄水施設も綺麗だったな」
確定した。
彼が何を言いたいのか。
――何を脅しつけているのか。
赤い液体。
『正義の破壊者』へ属する為に必要なモノ。
この液体を口にしたものは『正義の破壊者』に対して不利な行動を取ることが出来ない。
それに加えて、もう一つ、大きな効果がある。
あの液体を飲んだ者は――犯罪行為が行えなくなる。
噂レベルでしかない話だと思われているが、しかし、確かな実証があることをウルジス側は掴んでいた。
それでも、掴めていない情報がある。
どこまでの行為が『犯罪行為』として認識されるのか。
――そんな命を賭けたチキンレースを行う人はいない。
誰かにやらせる行為すら、その『犯罪行為』に繋がる可能性があるのだ。
そんな原理の分からない、謎に満ちた液体を――
「まさか……この国の水資源にその液体を混ぜたのか!?」
「察しがいいな、ウルジス王」
クロードは否定しなかった。
つまりは正しいということだった。
頭の中で『赤い液体』という思い込みがあったからこそ、無意識に安堵していた部分であったし、考えていなかった。
だが、無色透明に出来るとなれば話は別だ。
「この液体に味はない。無味無臭無色透明。水と同じだな」
「そんなものを混ぜたなんて……」
悪魔だ――と言い掛けて止めた。
悪魔ではない。
魔王だ。
クロード・ディエルは魔王なのだ。
「さあどうする?」
クロードは再度問うてくる。
この質問の意図は単純なモノではない。
脅されているのだ。
このような液体を既に不特定多数の国民に行き渡っている。
つまりはこういうことだ。
言われた通りにしないならばこの事実を公表し、混乱させることも出来るぞ――と。
「……ちょ、ちょっと待ってください」
流石にウルジス王は躊躇した。
これ以上は自分一人で決められることではない。
「やはりまずは一度、この状況について大臣などと相談してから答えさせて――」
「駄目だ」
クロードから否定の言葉がすぐに飛んできた。
「ウルジス王、あんた一人で判断しろ。まさか俺には一人で判断させようとしたのに自分は出来ない――なんて言わないよな?」
「……っ」
思い当たる。
ウルジス王は先にクロードに判断させようとした。
横にいる有名な銀髪の女性ではなく。
(っ、まさかっ!? これも狙い通りなのか!?)
ウルジス王は身が凍る思いをした。
この展開について、ウルジス王は全く予想していなかった。しかし、クロードはそうなるようにしている節があったのだ。
だからこそ――アリエッタ、というウルジス国にも顔が知られている有名人物を傍らに置いていたのだ。
そうではないと、彼女がここにいて何も意見しないという行動に整合性が取れない。
全てが――最初から計算づくされていたのだ。
(どこまで私は甘かったのだ……っ!?)
ウルジス王は後悔した。
クロードはこの交渉にあたり、幾つものカードを持ってきていた。
反面、こちらは何も準備はしていない。結果は後手に回り、対応にあたふたしてしまっている。
完全に準備の差だ。
ここまで実感させられてようやく分かった。
クロードが、何を悩む必要があるんだ? と言わんばかりの呆れの表情を浮かべているのも理解できる。
何故思いのままに出来るものだと思っていたのか?
――既に交渉は終わっているのに。
「……分かりました」
ウルジス王は今度こそ腹を括った。
勝てない。
ウルジス国として、目の前のクロードに勝てない。
同盟すら駄目だ。
彼が求めているのはその先だ。
ならばもう、そこに従うしかない。
打算も何もない。
滅ぼされないために――
「ウルジス国は――『正義の破壊者』の下に付きます」
ウルジス王は目の前の無色の液体を飲み干した。
そして、絶句している周囲に向かって、再度告げる。
「繰り返します。ウルジス国は『正義の破壊者』の配下となります」
そのように告げても――ウルジス王は倒れなかった。
つまりそれは、心の底からクロードに対して屈服した証でもあり、ウルジス国として――『正義の破壊者』に全面降伏した証でもあった。
「――交渉成立、だな」
クロードが頷いてウルジス王の前まで歩を進め、右手を差し出す。
「これより、ウルジス国は『正義の破壊者』の配下に入った。故に――全国民が『正義の破壊者』に属することとなる」
「承知した」
ウルジス王は差し出された手を握り返した。
――こうして。
ウルジス国――世界二大国の一つを従えた『正義の破壊者』は、その歴史に名を刻んだ。
そしてこのことにより。
名実共にルード国の最大の敵となった。