別離 08
校門に近い場所から、彼の名前を呼ぶ声。
視線を向ける。
「ああ、起きたのか、マリー」
クロードは無機質な声で彼女の名前を呼ぶ。
マリーは紅髪を揺らして、ふらふらと立ち上がる。
見ての通り、彼女は大した怪我もない様子。あれだけ上空から、意識がない状態で投げ出されたのにも関わらず。
それは当然、クロードがそうなるように仕向けたこと。
傷がないのも。
そして――今、目覚めたのも。
「ああっと! 少女が今、魔王の脅威にさらされています!」
校門の外から大声が聞こえた。ジャスティスが崩壊したことにより、妨害電波の発信が止まってテレビ局の中継が復活したらしい。
「すっかり忘れていた」
本当に頭から抜けていたことだった。
しかし、クロードのこれからには必要な要素であった。
(……まあ、後付けだけどな)
誰かに見せる、ということは元々の考えであり、それはできるならば多くの人々に見せたかった。学校の人だけでも良かったのだが、テレビ局がいるならばうってつけである。
(……もっとも、これからのことを放送してくれるとは限らないんだけどな)
何せ、ジャスティスを三機も用い、さらに人質を使ったのにも関わらず、圧倒的な敗北を見せたのだから、そんなものは情報規制される可能性が大いにあった。
(ほう……この国のジャーナリズムは死んでいなかったらしいな)
クロードが確認する所では、どうやら撮影と実況を続けているようだ。それでも、さすがに校庭の中に入ってくることはしないようで、
「危ないです! 何をしているのでしょうか!」
「そこの少女! 逃げなさい!」
リポーターが叫ぶ。すると校舎の方からも声が上がり始める。
「マリー何やってんだ!」
「早く逃げろ!」
「立ってないで走れ!」
逃げろの大合唱。恐らく、マリーを知らない人まで口にしているであろう。
構図は簡単。
マリーは、魔王の前に立ち尽くしている。
故に、逃げろ。
殺されるぞ。
正しい。
その認識は、至極正しい。
当の本人のクロードも、そう思っていた。
逃げろ、と。
俺の力が暴走してしまう、などということではない。クロードはきちんと能力を制御しているし、把握している。
逃げてくれれば、傷付けずに済む。
傷付くのは、自分だけで済む。
精神的に。
だから、お願いだ。
ここから逃げてくれ。
無表情を必死に作りながら、クロードはマリーを見つめる。
――だが。
「みんな何を言っているのよ!」
校庭の真ん中で、マリーが声を張り上げる。
「何で私がクロードから逃げなくちゃならないのよ! クロードは私を助けてくれたんでしょ? でなきゃ、軍に拉致された私がこうして無事な訳ないじゃない!」
マリーはゆっくりと校舎――クロードがいる方向へと足を進める。
「やめろマリー!」
クロードのクラスの一人が叫ぶ。因みにその人物は先日にクロードをカラオケに誘った内の一人であり、クロードは彼を友人だと思っていた。
そんな彼が、こんなことを言う。
「あいつはジャスティスを三機もぶっ壊したんだぞ! しかも人もいっぱい殺している!」
「三人だけどな」
クロードは指を四本立てる。敢えて一本増やすことで、次に誰か殺すのではないか、それは自分ではないのかと、恐怖感を煽り立てる。
先程の彼は、それだけでヒッと声を潜ませた。
「……本当なの、クロード?」
対して、マリーは落ち着いた様子でそうクロードに問い掛ける。その表情から、何の感情も読み取れなかった。
「まあ、そういうことになるな」
「そういうこと?」
「俺はジャスティスを三機破壊したからな。故に、三人殺した」
(……何を言っているんだ、俺は)
クロードは頭を振りたい衝動に駆られた。
(マリーに対して……言い訳してどうする)
「……どういうこと?」
マリーは足を止めずに訊ねる。距離はもう一〇メートルもない。ゆっくりとはいえ、かなりの距離があったはずなのに、いつの間にかそこまで詰められていた。
「どうもしないさ。ただ、ジャスティスに恨みがあるから、ジャスティスを破壊したってだけの話だ。……ああ」
付け加えるように、クロードははっきりと言う。
「別にお前のためにやったわけじゃないから。そこらへん、私のためにやってくれた、なんて勘違いするなよ」
「うん。判っている」
そう答えるマリーの表情は――微笑み。
「判っているよ、クロード」
「……お前は判っていないな」
おい、とクロードは背後に呼び掛ける。
「俺が、マリーが人質に取られた時に言ったこと、誰か言ってやれよ」
「……。……。……」
誰一人として口を開かない。脅しを掛けたからであろう。下手なことを言ったら殺すぞ、と捕えられたかもしれない。
しかし、それでいい。
クロードが言ったことは、クロードに非常にまずいことであること。これを伝えられればそれでよい。
だが、マリーは短く息を吐いて、やれやれと肩を竦める。
「どうせ、女は時価だ。だから、あの女が殺されようが殺されまいが関係ない、とか言ったんでしょ?」
「……お前、起きていたのか?」
「あ、当たっているんだ」
手を合わせて喜ぶマリー。どうして喜ぶのが、クロードには全く分からなかった。明らかにけなしているのに。
「拉致されてからさっきまでずっと意識はなかったよ。でも、クロードが言うことは大体判る」
「判る訳ないだろ?」
「判っているよ」
マリーとの距離が一層詰まる。
既に三メートルもない。
故に、表情が良く判る。
だからクロードには判った。
彼女は全て、判っている。
口だけではなく、本当に判っている。
クロードのことを。
「俺が言ったことが、嘘だと思っているだろ、お前? それは自分に都合のいい解釈だな。誰が見ても、明らかにそう解釈するのはおかしいだろ?」
「うん。そうだね」
ピタリ、と。
眼と鼻の先で、マリーは足を止める。
だが、笑顔は止めない。
「ならどうして、さっきから言葉を選んでいるの?」
「……選んでいる?」
「馬鹿だの、アホだの、頭がおかしいだの、もっと私の行動に対しての厳しい言葉があるでしょ? なのに、クロードはそれを言わない」
「……たまたまだ。言っただろ? 女は時価だとか」
「私には直接言っていない」
「じゃあ言ってやろう」
半分意地になってクロードは言う。
「女は時価だ。だからお前に現を抜かしていたこともあったが、そんなのはただの発情期に過ぎない。過ぎ去ってしまえば、自分自身に愚かだと言えるよ」
「良かった。一時期でも好きになってくれたことがあったんだ」
「だから――」
「でもね」
マリーは首を振る。
「クロードにとってはそうでも、私は違う。発情期でも、一時期のことでもない。ずっと、ずっと前から、今に至るまで……私はね」
にっこりと、今まで見た中でも最上級の笑顔をマリーは見せてくる。
「クロードのことが――大好きなんだよ」
この笑顔。
これに、何度癒されたことか。
だから、好きだ。
好きすぎる。
大好きだ。
そう、答えたかった。
言いたかった。
嬉しかった。
手をあげて走り回りたかった。
両思いだった。
自分だけじゃなかった。
想いが爆発しそうだった。
――しかし。
クロードはそれでも、踏ん張らねばならない。
マリーなら地獄の果てまで付いてきてくれそうだ。
(それは……駄目だ)
クロードが地獄に落ちるのはいい。そもそも落ちない自信がある。
だが、マリーが傍にいた場合じゃ、彼女が足枷となる。
クロード一人なら行ける場合でも、彼女がいた場合にはできないことがある。
故に連れて行けない。
そして、彼女の想いに応えられないのは、簡単なこと。
今回の場合は、それが答え。
人質に取られたら、どんな目に遭わせられるか分からない。
それでは駄目。
彼女が、クロードの弱点であってはならない。
それは連れていなくても――むしろ、連れていない場合の方が、その点に注意しなくてはいけない。
故に、応えられない。
だから彼は、告白されたのと同時に――
―― 元に戻る最後の選択肢を捨てた。
「馬鹿じゃねえのか、お前」
冷たく。
底冷えがするほど冷たく、クロードは言い放つ。
「好きだとか嫌いだとか、そう言ったら助かるとでも思っているのか?」
「え……?」
「幼馴染だから、知り合いだから、友達だから、好きだと言ったから、俺に殺されないと思っていたのか?」
「ちょっと待って……クロード、何を言っているの?」
「これ以上俺に付きまとうな。迷惑だ」
そう言って。
クロードは手に持っていた銃を――マリーの左胸に向けた。
「盾にもなりゃしない、愚図な肉塊はここで朽ち果てろ」
「………………そう」
そこでマリーは、信じられない表情をした。
マリーが、信じられないという表情をしたのではない。
クロードが彼女の表情を信じられなかった。
一瞬焦った様な反応をした彼女は、今は驚くほど穏やかな表情に変化させている。
「……お前さ、この期に及んで、まだ俺が本気じゃないとか思っていないか?」
「判っているよ。何ならさ」
くすりと、彼女は笑う。
この状況で、笑ってみせる。
「私、泣き喚いた方がいいかしら?」
「……」
完璧だ。
完璧に、クロードの考えていることを理解している。
その上で――命を差し出している。
「……私としてはね」
マリーは誰にも聞こえないように小声で語る。
「このまま進んで欲しくない。クロードが、孤独になってほしくない。だから、ここで思い留めてほしい。そう思っている。だけど……クロードはもう決めたんだよね? だから、私にこうするんだね? ならば、私は止めない」
「……勘違いしているんじゃねえぞ、マリー」
クロードは折れない。
ここで折れれば、マリーが危ない。
耐えろ、耐えろ、と心の中で拳を固める。
「そう言っても実は助かるんでしょ? みたいなことを言っているんじゃねえぞ。そうすれば優しい優しいクロード君は助けてくれるってか? そんな幻想、さっさと捨てちまえ」
カチリ、と檄鉄を上げる。
「優しいクロード君は、てめえの中にしかいないんだよ」
止めろ。
逃げろ。
悲鳴に近い叫び声が校庭に響く。
ソプラノ、アルト、テノール、バス。
混在した叫び声という名の大合唱が始まる。
悲鳴の渦が向けられているその中心には二人。
黒髪の魔王、クロード。
紅髪の少女、マリー。
「……笑わないんだね」
少女はぽつりと言う。
「笑う必要などない。おかしくないんだからな」
「そっか……じゃあ、最後に一言だけ言わせて」
マリーは唇をきゅっと結ぶ。
考えに考えたのだろう。
何を口にするか。
故に、こう口にしたのだろう。
言いたいことはいっぱいあっただろうに。
恨み事も、あっただろうに。
彼女は最後に――最後まで。
恋に狂う馬鹿な女を演じたのだった。
「――信じているよ」
パン。
乾いた音が響く。
先刻も聞こえた、その音。
その音は、場を一瞬で静寂に変えた。
その音は、周囲の人々の表情を凍らせた。
その音は、人々から眼を逸らさせた。
その音は――マリーの左胸を貫いた。