⑤
『出来の悪い存在だった。僕は。なにもかもが中途半端で、道を選ぶこともできず、道を与えられるのをずっと待っていた。そこには未知はなかった。初めて未知にあったのは…』
――すっと手を差し出された。歌ってみろよ。そんな言葉を投げかけられて。実際うまくもなかったしただ誰も歌う人間がいなかっただけかもしれない。けれど僕が初めて人前で歌った歌をそれをそいつはすごい喜んでくれた。僕の好きな歌を調べてわざわざギターでその曲を練習して演奏してくれる。どこに行くもギターケースを手放さず。ただいつも着ている趣味の悪い赤いシャツだけはちょっと許せなかったけど。でも僕にとってはそいつはいつだって手を引いてくれた。つまんない日常が楽しくなったんだ。初めて――
「…各務?」
懐かしい夢でも見てたような酩酊。目を覚ますと壁際に僕は倒れていた。腕時計に目をやって時間を確認すると気を失ったのは十分ぐらいだったらしい。ちくちくした雑草が鼻に当たってかゆかった。僕は立ち上がってズボンに付いた土を払った。ここはどこだ…と考え始めて壁を目指してここにきたことを思い出す。そしてここであった黒尽くめの男。マスレ?ハザキレイナ。そういう言葉がずっと頭にこびり付いていた。だけども関係ない。僕は自転車をこいで家に帰った。この世界の王佐藤友彦。その言葉の意味をずっと考えていた。
今日も真っ青に空は晴れていた。あれから七月が過ぎ、また六月が来て二ヶ月も経っていた。僕はその間もちょくちょくあのナイフで日崎美沙を公開処刑した。その間も僕は千紗と下らない話をしたり、でもハザキレイナの家には行かなかった。マスレのことがどう関わっているのかを訊くのは怖かった。何かひどいことに巻き込まれそうな気がするのだ。あれからよく僕に微笑んできてくれるハザキレイナから何度も目を逸らした。
土曜日なので学校も半日で終わり、太陽はまだまだ高い位置にある。ホームルームが終わったばかりの教室で珍しく千紗は窓からグラウンドを見て物思いにふけっていた。
「千紗」
「なに、友彦」
千紗は振り向いて小首をかしげる。そうゆう仕草がとても似合う女の子だ。
「そこからなに見て楽しいんだよ」
グラウンドは別に部活をやってるわけでもなかったし遠くの景色だって壁に遮られて見えなかった。
「う~、なんにも見てないよ。ただいつもハザキレイナがここから見てる景色にどんな意味があるのかなって」
「千紗、ハザキレイナのこと嫌いじゃないのか?」
「なんで?」
「だってこの前気持ち悪いって言ってただろ」
千紗は上を見て記憶を探っている。
「・・・ん、そうだね。よく思いだしたね友彦。えらいよ」
千紗は僕の頭を撫でようとした。
「よけなくたっていいじゃん」
ぶうと千紗はふくれる。
「恥ずかしいだろ」
僕は赤くなりながら反論する。
「なんで?付き合って結構たつのに全然それらしいことさせてくれない。」
「手を繋ぐだろ」
「足りないよ」
千紗はじぃっと目を見てくる。怒ってるなぁ。
「だったらなにがしたいんだよ」
「そ、それはいろいろあるけど・・・」
千紗は顔を赤くして指をグニャグニャさせる。かわいい仕草なのだけどやはりあの指の気持ち悪さだけは消えない。普通の細くてきれいな指なのにどうしても僕には気持ち悪い。それにしてもこんな事いわれたら涼だったらもうかちんかちんにして喜ぶんだろうなぁ。
「それよりハザキレイナがどうかしたの?」
「なんか、あの人は知ってる気がする」
ちんぷんかんぷんだった。が千紗は話をはぐらかすつもりで言ったわけではないらしく目は大まじめだ。
「なにを」
「わからないけど、多分この世界でとても重要な秘密」
はぁなるほど。僕は納得いった。ハザキレイナはいろいろとこの町から浮いているし、たしかに歌を知っているハザキレイナならこの世界のなにかを知っているかも知れない。あのときあった門番のマスレもハザキレイナを特別視していた。
千紗と一緒に窓から町を眺めて、白い建物が目に付いた。美術館だ。そうだ思い出した。いつかあそこに連れていってやりたかったのだ。
「美術館いこうよ」
軽い気持ちと裏腹に千紗は重い顔をした。
「美術館…」
うつむく千紗。
「どうしたんだよ」
「美術館って…」
千紗は口の中をもごもごさせて言いにくそうにしていた。
「なんで?絵を描くのをやめても絵を見るのぐらい良いだろう」
「だって…だって怖いよ。あそこは日崎美沙の・・・」
日崎美沙。最低の犯罪者。
「大丈夫だよ。別に今も日崎美沙が住んでる訳じゃないし」
「たしかにそうだよ…でも友彦は忘れちゃってるもん」
千紗はじっと僕の目を見た。忘れている?一体何を?僕が?
「忘れているってなにを」
「日崎美沙が本当にしたこと」
日崎美沙に殺された人間は数百人にわたった。
それだけで充分だろう。
僕がそういうと千紗はふるふると首を横に振った。
「そう思うのなら、あたしはなにもいわないよ。友彦がそう思うんだったら」
千紗の返事はどうにも歯切れが悪い。
「なんだよ、日崎美沙がやった事っていうのは大量無差別殺人だろ」
僕はムキになって千紗に食って掛かった。まるで僕自身がバカにされているような、そんな気がした。
「…日崎美沙が本当にやったことは」
千紗はそのあとの言葉を言わなかった。それに言ったとしても僕は聞き取れなかっただろう。
「きゃっ」
あまりにも強い風が吹いて千紗は足から崩れそうになる。壁があるせいで強い風なんてここでは滅多にこなかった。がさっきの風はグラウンドがあっという間に土が舞う。
「なんだぁ、久々に強い風が吹いたな」
自分でいってえらく間の抜けた言葉だと思う。
「そうだね」
千紗は乱れた髪を両手で押さえて整える。
「なぁ、美術館に行こう」
僕はもう一度誘った。千紗を美術館にどうしてもつれていきたかった。きっとあれだけの絵に囲まれれば千紗は喜んでくれるだろう。
「うん」
千紗は伸ばした手で僕の手を握った。指から感じる嫌悪と恐怖を顔に出さないようにするのが精一杯だ。
一度家に帰って自転車を取りに行くとそのまま千紗を迎えに行った。僕は制服のままだったのに千紗はなにを張り切っているのか一番お気に入りの真っ白のワンピースに麦わら帽子というどっかのマンガでしか見られないようなある意味定番の夏スタイル。短い髪が揺れるさまに僕は思わず見とれてしまったのだ。
「友彦、ぽーっとしちゃ駄目だよ?日射病?」
「いや、違うけど」
僕は口が裂けても本当のことは言わない。似合わないことを口にしてどうする?
僕がせかすと千紗も急いで自転車に乗る。銀色のカゴが無い自転車。麦わら帽子が飛んでしまわないか心配だったのでいつもよりずっとゆっくりなペースで僕は自転車をこいだ。畑の脇に作られた舗装されてない道を行く。ほっぺたを撫でる風が今日は妙に気持ちよかった。蝉の声があちらこちらから聞こえてくる。
「ねぇ、珍しいね、美術館だなんて」
「いや、僕は結構よくいくんだ」
「友彦、そんなに絵が好きな訳じゃないでしょ」
「なにいってんだよ、僕だって芸術をたしなみたいんだ」
「岡本太郎みたいに?」
「爆発だーってか?」
僕はくすくす笑いながらハッとした。
「でもほんっと久しぶりだよ。美術館行くの」
「たまにはいいもんだよ。二日にいっぺんは僕は行ってるけど」
道の先に橋が見えてきた。もうすぐだ。
「よし、千紗もうそろそろ着くぞ」
「うん」
僕は思いっきり自転車をこぐ。
「あ、あ、あ、友彦早いよー」
後ろで千紗があわてて帽子を押さえた。。
「大丈夫だって」
僕は笑いながらペースを落とさなかった。
「ひゃぁう」
また大きな風が吹いた。
「ああ・・・」
千紗があまりにも気の抜けた声を出すので振り向くと麦わら帽子が風に吹かれて飛んでいっている。
「友彦が急ぐからだよぉ」
千紗は泣きそうな顔をして僕を怒った。千紗を下ろすと僕も慌てて自転車をUターンさせて帽子を追いかける。
帽子はヒラヒラと届きそうなところを飛んでいた。だから油断した。僕は片手を伸ばしてなんとか帽子を掴もうとする。
「友彦、危ない」
千紗の声が聞こえた、と思ったときはもう畑に盛大にぶっこけた。大きな、嫌な金属音がしてぐるりと回ってしまった。
「いってぇ・・・」
ずどん、と背中に大きな衝撃が走った。身体中に泥が付いてしまった。帽子は僕のすぐ目と鼻の先に転がっている。とりあえず僕はそれを拾って自転車を立てた。そして車輪を点検する。うん、大丈夫だ。
「友彦ぉ、大丈夫・・・」
千紗が慌てて近寄ってくる。
「無理して追っかけなくてもよかったのに・・・」
千紗は今度は僕のことで泣きそうになる。忙しい女の子だ。その頭にポン、と麦わら帽子をのせた。
「はい、お嬢様」
なんとか千紗の気をよくしようとらしくもないことをいってみる。
「友彦、腕見せて」
夏なので僕は半袖のカッターシャツなのだった。
「よかった、ケガしてない」
あれだけすごい衝撃がしたのにケガがないのは不幸中の幸いというヤツかな。とか僕が思っていると千紗は麦わら帽子の両側の縁を抑えてペコリと頭を下げた。
「友彦、ありがと」
「それはどうも」
ということをやってやっとで僕らは美術館の前に立つことができるのだった。
美術館の前に立ってその建物を二人で改めて眺めてみる。真っ白で窓がたくさん付いたその建物はやはりそういうモノには見えなかった。どちらかといえば学校にそっくりな見た目なのだけどそれも正確じゃない。
だけど、明らかに他の建物とは違う空気をしていた。
「ここ・・・美術館なんだよね」
千紗が確認するように呟く。それももっともだ。看板らしきものは出ていないし、中に誰もいやしない。
「そうだよ、多分」
「多分ってそうじゃなかったら不法侵入だよ」
千紗が慌てたのに僕は笑った。
「大丈夫だって」
僕は千紗の手を引いて中央玄関を通る。中にはいるとすぐにリノリウムの廊下が広がる。その廊下の両脇にたくさんのドアが付いている。
ここに二人で来たのは初めてだった。千紗は中に入っても廊下の壁には絵も掛かっていないのでキョロキョロしている。
「すごくきれいに掃除されてる…」
「そうだね、それより」
僕はいいながら手近にあったドアを開いた。
「ほら」
中にはいつものように窓から見える景色が考えられるだけの方法で描かれた絵が並べてある。
千紗は小走りにそれを持ち上げた。そして上げたり下げたり傾けたりしながら色んな角度で眺めている。絵ってそういう見方するものだったかな、と思わずこっちが不安になってしまう。
「あ、っていうか触っていいの?」
僕がそういうとハッとしたように千紗は絵を手放した。
「う・・・これ秘密ね」
とバツが悪そうな顔をする。
「はいはい」
「それにしてもすごい絵の数だよ」
「でも書いてあるモノはみんな一緒だろ」
僕は自分が連れてきたクセに妙に冷めた返事をした。
「そうだけど、全然違う。絵のスタイルだけじゃなくて、色遣いとかそういうものも違うよ。なんか全然違う。多分それぞれの絵でみんな一番描きたかったモノは違うと思うよ」
千紗は絵を描いていたこともあったのでもっともらしいことを言う。
「なるほどね、例えば?」
「えっと、これは木が描きたくて・・・あっちはたぶん草・・・?」
と僕が訊いてしまうと言葉に詰まってしまうのが面白いのだけれども。
「なるほど、知ったかですね」
「違うよ・・・」
といいながら声がしぼんでいってしまうのが何よりも真実を語っているのだ。
「友彦のバカ」
千紗はまた怒る。今日はけっこう怒らせた気がする。
「でもこの場所は本当に不思議だよ」
「うん、なんでこんなところにたくさんの絵を並べようとしてるんだろうね・・・」
僕の言葉に千紗も肯いた。
「ねぇねぇ、他の部屋はどんな絵があるの?」
「いや、全部似たようなモノだよ」
僕はあの青い天国からの脱出は最後に千紗に見せて驚かせてやろうとかそういうちっちゃな事を考えていた。
「え~、絶対ウソだよ。だってこんなに絵があるのに。」
そういいながら千紗は部屋を出て隣のドアを開けた。
ぽかんと口を開けたままたたずんでいる。
「な、いっただろ」
なぜか僕は得意気にいった。
千紗は無言でさらにその隣のドアを開ける。それも似たような光景。その隣もその隣も、そのまた隣も、全部窓から見た風景しか描いてはなかった。
「なに、本当に窓から見えるモノしか描いてないよ」
「だからそういったよ」
廊下の端まで部屋を確認した千紗ははぁはぁと肩で息をしている。
「だって、こんなに部屋があって絵があるのに・・・」
「でも一個一個描こうとしていたモノが違うなら退屈はしないだろ」
「そうだけどさ・・・」
たしかに初めてきたときは僕も同じ絵の羅列のコレクションに呆然としてしまったが千紗が行っていたように一枚一枚たしかになにかが違うのだ。だから僕的には飽きることはなかった。千紗もそうだったらしく絵を一枚一枚眺めて一人でへぇとかすごいなぁとかいっている。まぁ僕は絵の価値もわからない人間なのでなにがすごいのかはわからない。だけどこういう風に千紗と二人で絵を眺めるのも別に悪くない。
でも一枚一枚しげしげと眺める千紗を待つのは少し暇だった。勝手だとは思うけど。僕はもう我慢できなくなって千紗の肩に手をおいた。
「ひゃぅっ」
自分の世界に入りきっていた千紗は間の抜けた悲鳴を上げた。
「急に、なに」
「いや、千紗にすごく見せたい絵があるんだ」
千紗は目を丸くした。
「だってどこの絵も同じようなモノなんじゃないの。」
「それは見てからのお楽しみだよ」
千紗を部屋から連れ出した。そして廊下を突き当たりまで歩く。白いペンキに塗られた鉄の扉を開く。そうすれば非常階段だ。エレベーターはなぜか使う気がしなかった。中にはいると廊下よりもいっそうひんやりとしている。
隣にいる千紗を見ると顔を一人で真っ赤にしている。
「なんだ、具合悪い?」
「ううん…そうじゃなくて…」
「どうしたの」
「だって…誰もいないし…」
「それだったらここに入ってきた時点でそうだったよ」
「でも、ほら…たぶんここまで入ってくる人なんていないと思いながら…それに二人きりで…」
なんていいながら千紗は顔を見てるこっちが恥ずかしくなるぐらい真っ赤にして目を閉じて僕の胸に寄りかかってくる。いまさら気付いたのだけれど、いい絵があるとかいいながらここでキスするとでも思ったのだろう。自覚するとこっちまでドキドキしてきてしまった。
目を閉じた千紗はあんまりかわいくてそれはもうしてしまいたかったのだけれど、僕にはそれはやっちゃいけないような気がした。いや、性不全とかそういうモノじゃなくて、ここで千紗にそういうことをしても偽物のような気がする。
だから知っていながら僕は気付かないふりをした。
「具合悪いなら帰るか」
千紗にそこまでさせといてこんなにひどい言葉はないと思う。
千紗は慌てて僕の胸から顔を離すとふるふると首を振った。
「ううんっ大丈夫」
ごめんなさい。口の中で僕はそう謝った。いつかは僕はしっかりと千紗を愛していると言えるようにならなきゃいけない。でも今は好きだとしか言えないのだ。
「それより早くその絵を見に行こうよ」
居心地の悪さをごまかすように千紗の方から積極的に階段を上り始める。僕もそのあとにつづく。
「一番上の階だよ」
「うん」
そして四階まであがるとまた非常扉を開いて中に入った。
「でその絵はどこにあるのかな」
廊下が目の前に広がっている。
「四百三号室」
僕はいいながら廊下を歩いて四百三号室まで千紗を案内した。
千紗はしげしげとその部屋のドアをまず眺めた。
「他の部屋と一緒じゃないの?」
「まぁ、入ってみてよ」
千紗は僕にいわれてドアを開けた。
部屋の中は変わっていなかった。しわ一つ無いシーツに包まれたベッドと半開きになった窓で揺れるカーテン。そこに立てかけられた絵。青い天国からの脱出。
だけど千紗はそれに気づかずまずベッドがあることに驚いていた。
「ここって、管理人さんの部屋じゃ・・・」
「たぶん違うだろ。全然使っている様子がないから。テレビもない部屋で生活している人が今どきいるわけがないと思うし」
「そ、そうだね。それでその見せたい絵っていうのは?」
「その窓際にあるやつだよ」
千紗は窓際に近寄っていった。とてとてと音がしそうな歩き方だ。
いつものように青い天国の脱出はそこにある。灰色のビルと真っ青な青空。雲一つ無い…
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「どうしたっ!千紗」
僕は目を疑った。青い天国からの脱出から文字が浮かび上がってくる。真っ赤な細かい文字でびっしりとそれは書き付けてあった。それは、アルファベットだった。血で塗られたように赤いアルファベット。AILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAILAIL……
頭がぐらりとしてよろめきそうになる。
苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ、苦しめ、苦しめ、苦しめ、苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめく留クルクルくるクルクルクルクルクルクルクルクルクル狂・・・
いやな記憶がフラッシュバックする。だけどそれは激しい光に包まれて実際なにがあったかは思い出せない。僕はとりあえず千紗を
「ぎゃぁぁぁぁぁ!!」
自分でも思わぬ声が口をつく。千紗の指が、十本床に落ちていた。それは上から止めどなく血を注がれ真っ赤に染まっている。切断面がやたらとはっきりしていて骨まで見えた。かがみ込んだ千紗は両手で顔を覆うもののそこには指が無いので全ては隠れない。その目は僕を見ながら泣いていた。
でもどうすることも…
そのときやっとで壁が真っ赤に染まっているのに気付いた。そして部屋を見渡すとさっきまでしゃがみ込んでいた千紗が自分の血にまみれた手の平でベタベタと壁中を赤く塗りたくっている。千紗が壁を塗るそのさまは『壊れた』、その言葉がしっくりと当てはまった。お気に入りのワンピースが血に染まろうが関係なしに部屋中をベタベタとあっという間にその血で染めていく。
僕は吐きそうになって口を押さえる。
けれど無駄だった。どうしても我慢できずにその場に吐き散らし。饐えた汚物の匂いと血の鉄さびの匂いが混じり合って部屋はどうしようもないほどに。
壁をはいずりながらベタベタと血を塗っていた千紗がこっちを見てニヤリと笑った。気持ちが悪い。怖い怖い。アレは本当に千紗なのか?
「どう、赤い壁ていうのも悪くないでしょう。この前はペンキでやって苦労したんだけどこうやって最初から指を切ってしまえば早かったんだよね。そうすればただ手を壁に塗りたくるだけで、ほらこんなに簡単に壁が赤色になっていく。この前もこうすればよかったなぁ。ああそれは無理だった。だってこの前はあたしには指が無かったものね。無様にちぎられた指を認めることができなかったあたしを友彦はどう思ったの?頭がいってしまったと思ったんだよね?どうせ。真実を告げないその口でそうだねっていつまでも言い続けてあたしをだましてだましてだましてだまして…」
そこから先は僕はとても聞くことができなかった。両手で耳をふさぎ目を閉じてこの時間が過ぎるのを待った。ずっとこの時間が過ぎるのを。
僕が気が付くと部屋の中には千紗が倒れていた。太陽はもう傾いて空はあかね色になっている。子供のように身を丸めている千紗には指が五本ずつ、きちんとあった。アレは一体なんだったんだ・・・?白昼夢なのだろうか。だけどそれだったら千紗も倒れている理由はわからない。
「千紗、千紗」
千紗の肩を揺らして僕は起こす。
「んんっんっ」
千紗はぐっすり眠っていたように甘い声を上げて目を下げた。
「と、友彦!?あたし、ひょっとして寝ちゃった?」
千紗は慌てて立ち上がった。
「千紗、なんにも覚えていないのか…?」
「あたしは…たしかこの部屋に入って…わからない」
「絵を見たことは?」
「あの絵…」
千紗はなにがなんだかわからないという様子だった。僕はそれ以上聞くのはやめた。きっと夢だったのだ。
そう思って最後にあの青い天国の脱出を見て僕は縮み上がった。そこにはまだあのAILという文字がびっしりと浮かび上がったままだった。