月憶う詩
異国に対して憧れを持つ者は古今を問わず一定数存在する。
現代では各国の交通網が整備されて飛行機などを用いての移動も可能になった為、この憧れの感情を旅行として解消する者も多い。異国は何も御伽噺の事では無くなったのだ。
そんな訳で昔と比べ自国以外の情報も数と質が増し、場所によってはタイムラグも無く正確な状況を識る事すら可能。
己の住んでいる所以上に他所の情勢に詳しくもなれるが、されども故国とは違う場所で人生を過ごす者は今以て少ない。
処が違えば人が変わり、人が変われば文化も違う。
文化が違えば政治も異なり、政治が異なれば歴史もまた…と切りが無い。そんな一切合切、何もかもが違う世界で生きていくと言うのは今も昔も覚悟が必要との事だろう。
特に自分の意志では無く、偶然で訪れた者ならば尚更。
阿倍仲麻呂。
将来を嘱望される人材でありながら事故に遭った事で、実に数奇なる運命を辿った貴人について今回は記そうと想う。
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1.
阿倍仲麻呂とは奈良時代に存在した歌人兼役人で在る。
彼は決して格式の高い家柄では無かったが学才に長け、若くして神童と謳われる程に周囲から評価を受けていた。
とは言えど当時、仲麻呂の才覚を発揮する場は日本に存在しない。そもそもの国家としての地盤たる商業や農業、技術や政治に関する知識が余りにも無さ過ぎたからだ。
そんな訳で学問を修めた者が行う事は唯一つ、海外…この場合は中国から情報を持ち帰る事。世に言う遣唐使である。
たかが船で行って帰ってくるだけと考えてはいけない。
当時の渡航は文字通り、命懸けの行為であったからだ。
先ず造船技術が未熟な為、長距離渡航に耐える船が無い。
本来ならば竜骨と呼ばれる部位が船全体の強度を担っているのだが、当時の和船にはそんな物が存在しなかった。
単純な箱型に帆を取り付けた程度の代物では強風や波浪に太刀打ち出来ず転覆なぞは日常茶飯事で、遭難も屡々。
これに加えて安全な航路が一つとて発見出来ておらず、更に季節ごとの風波量の情報が絶対的に不足気味。
真っ当な航海なぞ出来る筈も無い、何とも酷い有様だった。
基本的に遣唐使船は四隻出されるのだが、その理由が一つでも辿り着ける様にする為と言えば脆さの程が知れよう。
遣唐使に選ばれる事は即ち、黄泉の切符を得るも同義。
この役を任ぜられた者の中には海の藻屑は嫌だと上役に懇願し、それでも願いを退けられ泣く泣く乗る者も多い。
しかし中には大願成就の礎と覚悟を決め、悲壮な決意を以て遣唐使と成る者も居る。阿倍仲麻呂も、その一人で在った。
2.
仲麻呂は宗教関係の知識を持ち帰るのが使命だったとされる。当時の日本は各地で小勢力が日夜争い、安定した統治が不可能な状況だった。これを打破すべく、宗教を用いて意思統一を図らんとした為に必要となった訳だ。
かくして717年に遣唐使の一員として選ばれ、天候に恵まれ如何にか無事に唐へと到着。知識の収集を始める事となる。
此処で仲麻呂が持つ才覚の一端が世に開花する。
歴史上でも有数の難関として名高い官僚登用試験、科挙に合格したのである。あろう事か、外様の人間たる彼がだ。
科挙は貴族統治から脱却せんと時の皇帝が行った政策で、文理含めた複数の試験を導入する事で個々人の能力を可視化。
優秀な成績を修めた者は平民とて官吏に取り上げ、劣悪な成績の者は如何な大人物の一族とて決して合格にしない、実力主義の祖とも言える画期的な政策だった。
当然ながら科挙の試験は生易しい物では無く、国の中枢を担う人材を選ぶ為に異常な程難しい。己が身を立てんと地方から来た若者が、幾度挑戦しても合格出来ずに年を重ね、最期は試験地にて骸と化した逸話からも難易度が窺い知れる。
そんな代物に合格、増してや日本人がとなれば如何な大事か理解が出来よう。無論、唐の皇帝が排他的では無く異人に対して開放的だったのも有るが、この偉業が揺るぐ事は無い。
だが。難関を突破した仲麻呂に栄達は訪れなかった。
科挙と言う実力主義を取り入れはしたものの唐の時代は依然として貴族の力が強く、思った程の効果を挙げられずに旧態依然の政治が横行していたのだ。その様な状況下では平民や異人上がりが重用される道理が有る訳も無く。
結局彼が就いた役職は吹いて飛ぶ様な役職で、到底大きな仕事を任せられる立場では無かった。しかし不思議な事に、無名同然の仲麻呂との交友を望む奇特な者達も同時期に現れ始める。詩歌を詠い絵画に耽る彼等を人は芸術家と呼んだ。
権力の保持に固執する貴族達と違い常日頃から異なる感性を求めている彼等にとって、仲麻呂は新しい風そのもの。
容姿も言語もまるで違い、故郷の景色とて大きく違う。
大きく異なる人物は政治の場では異端と爪弾きにされるが、芸術の場では新たな世界を拓く重用すべき存在。
故に、彼は政治よりも芸術の場で名を挙げる事となるのだ。
3.
自らの出自から芸能畑の興味を惹き、結果として詩家の道を歩み始めた阿倍仲麻呂。その交友関係は多岐に渡り、中国史上最高と謳われ詩仙と呼ばれた人物や絵画方面での祖と称される人物とも縁を深め親友同然の仲だったとか。
仲麻呂の存在が彼等にとって大事になるに連れ、彼自身も芸術家達との交流を経て詩人としての才能が開花していく。
彼等との日々は仲麻呂にとっても至楽の日々だったらしく、遣唐使の期間が過ぎて日本へと帰る際に友情の念が断ち切り難く、たった一人で異国たる唐の地に留まりもした。
斯様な経緯も有り唐にて自らの才覚を磨き続けた彼だったが、流石に年月が経つと故郷に残る家族と風景が恋しくなってしまう。船に乗りて幾有余年、そろ四十に到達する頃。
自らの体が以前ほど無理が効かなくなったのを機に、仲麻呂は日本への帰国を決意する。齢にして五十四の時だった。
今を逃せば体力的に船旅は不可能となるであろう。
日に日に衰える体躯からそう推察した彼は、今生の別れと唐で得た友人に挨拶周りをしていく。彼等は皆、仲麻呂との別れを惜しんで口々に在住の延長をと願う。
それに対し彼は心情を告げる一つの詩を詠んだとされる。
『天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも』
(天を仰ぎ観、遠くを眺めると月が浮かんでいる
あの月は故郷の三笠山より出し月と同じなのだろう)
現地の風景をありありと詠みながらも、今は遥か遠き記憶の風景を語り自らの郷愁を告げる詩。それを聞いた友人一同は決意は固いと悟り、涙ながらに別れを告げた。
仲麻呂を登用した皇帝も帰国させるのを渋ったが、さりとて望郷の念を縛るのも忍びない。結局は説得の末、根負けして帰国の許可を出した。此処に彼の唐生活は終わりを迎える。
別れの日。港には彼の姿を最後に一目見ようと多くの人間が集まり、中には友情の詩を送る者まで居たと言う。
一介の異人に対しては正しく破格の対応。如何に仲麻呂が唐の芸術家に愛され、そして惜しまれていたかが如実に判る。
彼は異郷の友人一人一人と丁寧に交わした後、名残惜しい気持ちを振り切り大海原へと旅立っていく。水平線へと消え行く影を、見送る人は何時迄も眺め続けた。
最早帰らぬで在ろう、異邦の友人が姿を焼き付けんとして。
___日本へと向かう仲麻呂の船が嵐に遭遇し転覆、海の藻屑と化した報が届くのはそれから間も無くの事だった。
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阿倍仲麻呂は中国・唐にて官職を得、自らの出自と才覚を以て同国で出世を果たしたのだが、仮に日本へと帰国した場合は大きな役職に就く事は無かったろうと推測されている。
遣唐使が派遣された目的は国家統治のノウハウを得る事が第一。仲麻呂が派遣された頃は未だ国内統治が進んでおらず、火急に情報が必要になった訳だが時代が進むに連れて状況は大きく変わっていった。統治そのものが完了し始めたのだ。
三十年と言う長い月日は日本国内に於いて独自の政策を産み出すには十分な時間であり、なにも唐の政治をそのまま流用する必要が無くなってしまったのである。
それ故に仲麻呂が戻ったとしても重用されたとは到底思えぬし、家柄の格も高い方では無い事から日本では大成しなかったであろうと考えられた訳だ。
そう考えると或る意味、彼の人生は幸福だとも取れる。
自らの能力を十全に発揮出来る場所と仲間が居たのだから。
如何な才覚とて、それを認める存在が無ければ持ち腐れ。
先進も革新も多数の後押しが有って初めて効果を持つ。
独り善がりに過ぎない物は、今生では儚き代物なのだ。
とは言え、死んでは元も子も無いとの意見も有るだろう。
実際死んだら其処で人生は終わり。何も為せずに居るよりは、生きて機会を得る方がずっと良いと考えるのも当然だ。
ただし、それはあくまでも死んだ場合に限っての話。
阿倍仲麻呂の場合は嵐に遭い転覆するも、現代でのベトナム地域に命からがら漂着して唐の首都へと戻る奇跡を果たす。
これには己が許可を出さなければと気に病んだ皇帝も、友人を喪った哀しみで塞ぎ込む詩聖も飛び上がる程に喜んだ。
また漂着してから現地人との間で帰還の為に様々な事を努め実際に首都へと戻って来た実績から、唐が支配していたベトナム地域全体の統括者と言う大役を任ぜられてもいる。
この大役を六年もの長き間に渡り仲麻呂は立派に務め、異人で在りながら軍権をも備える官位を得る大業を成した。
軍とは基本的に外国勢力との武力衝突に用いられる。だのに外国人そのものとも言える存在に軍権を渡した事実は、如何に彼が信用と実績を積み重ねたかの証拠と言えよう。
運悪く故郷への帰還こそ成就はしなかったものの、それに匹敵する輝かしい名誉を阿倍仲麻呂は得たのだった。
同時代に日本で活躍し一緒に遣唐使として向かった、並び立つ者無き天才と謳われた吉備真備は後にこう語る。
古今東西に数多の人材が溢れども、大国をも唸らす才気に満ちた逸材は自分と阿倍仲麻呂の両人のみだろう、と。




