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歴史人物浅評  作者: 張任
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選ぶ手を控え

無能。決して良い意味では使われない、嘲りと詰りの言葉。

人々が生き縁を結ぶ事で紡ぐ歴史上には英雄・好漢以外に、其の様な言葉で表現される人物が多々登場する。

反対の存在…時代を創る『有能』が居る以上は、彼等の能を証明する為に無能な者も必然的に存在する事になるからだ。

時代の趨勢を見極められないが故に慣習に縛られる老臣、功名を欲して無謀な戦を考え無しに仕掛ける武将、金と権力に眼が眩んで国を滅ぼす病巣に化した奸物。

英雄の活躍に華を添える為の、謂わば噛ませ犬の如き役割を担う『無能』な人々。しかし。彼等は実際の所、英雄の添え物程度の価値しか無いのだろうか。そんな筈は無い。

彼等には彼等なりの意義と矜持が確かに存在する。そう。


今川 氏真。


先代より受け継いだ領地を喪い、天下に最も近いと謳われた勢力を滅ぼした『無能』と嘲笑われた、彼の人生の様に。


_____________________


「身咎を殺ぐ」


今川氏真は戦国時代に於いての駿河、現代での静岡県に勢力を持った大名・今川家の当主で在り、同時に先祖代々から培われた同家の勢力を滅ぼした愚物と世に謳われた、現代でも無能の意味で悪名高い人物として識られている。

彼の評価に関しては古来より散々な物ばかりで、国を滅ぼす者の例えとして名が挙がったり、和歌や鞠と言った遊興に耽り政を蔑ろにした暗君と断じられるなど、氏真の人物評には一切の擁護を伴わない純然たる批判ばかりが多い。

大名としての自国を滅ぼした以上、此の様に辛辣な言葉を受けても致し方無い部分は有る。増して、彼の父親は天下統一に最も近いとされた今川義元。先代の偉大な遺産を扱い切れずにいたとなれば、低評価の嵐も止むを得まい。


…だが。如何に結果が最悪な物と言えど、其れを以て総てを暗君と断ずるのは些か乱暴に過ぎるのでは無いだろうか。


当時の状況や常識を評価に考慮すると、件の氏真にも擁護すべき点が幾らか見受けられる。先ず挙げられるのは彼が実質的な当主となった時期、つまり桶狭間での敗戦後について。

混乱する領内を纏め切れず、処断や追放を次々と行った事が評を下げる要因と成っているのだが、そもそも彼は家督を譲られてから未だ二年と日も浅く経験が足りなかった為、国を率いていたのは先代・義元だったのが実状。

とすればだ。指導者並びに有力家臣の喪失、しかも誰もが予想だにしない時期にとなれば準備が出来ている筈も無く、結果、領内が未曾有の大混乱に陥るのは必然と言える。

ならば国力が落ちた事を機に下剋上を狙う者、国主に自身を守護する余力が無いと判断して離反する者も出よう。


其の様な時期に重大な責任を負い、且つ頼るべき人材も世を去ったのならば、如何程の人間が災禍を逃れられるのか?


当時の今川家が中枢の殆どを喪った事を鑑みれば、氏真は寧ろ善く努力したとさえ言える。なにせ即座に滅んでも不思議では無い損害を被ってしまったのだから。

確かに残った数少ない家臣を処断で減らしたのは悪手かも知れない。しかし未だ訪れていない不確定な未来を案じて、眼前に拡がる現在の混乱を差し置くのは愚劣の極み。

ならばと領内安定に主家の威厳維持が為、已む無く行った苦渋の決断と考える事が出来る。例え此の行為が致命的な傷を与えようとも、先ずは生き永らえなければとしたならば。


「天へと跳ねよ」


今日で噂される氏真の人物像には『蹴鞠』と言う要素が良く出てくる。読んで字の如く、鞠を蹴る遊興の事がだ。

彼は此の競技に於いて才能を発揮し名手と謳われた反面、肝心の政治を怠り遊戯に感けた悪例として世に挙げられる。

確かに国家存亡の危機だと言うに当主が球遊びに精を出したとあっては、傍目には無能の証左と成り得るだろう。

しかし実際の所は如何なのだろうか。氏真は本当に政を棚に上げて、自堕落的に快楽を貪ろうとする人物だったのか。

蹴鞠は戦国時代、と言うより日本では古来から行われており、民衆、武士、神職など様々な人々に親しまれた。

そして。其の中には公家…日本の政治を統括する者も居た。


氏真は此処に目を付けたのでは無いだろうか。


先の桶狭間での戦いで喪った莫大な国力を、中央との関係を構築して政治力を増す事で幾らかでも補おうと。

大義名分を用いた策略で、相手より優位に立ち回るべく。

鍵たる存在との関係の為に蹴鞠に精を出したのでは無いか。

父・義元が幕府の権威を得るべく上洛した事を考えれば、中央との交渉を円滑に進めんと礼儀作法を重視していても不思議では無い。氏真が此の方針を推し進め、外交戦で他家に対抗しようと考えたならば彼の行動にも納得は行く。

結局の所は同盟相手からの突然の侵攻も重なり、1569年、此の様な努力も空しく今川家は本拠地の開城を以て戦国大名としての寿命を終える。しかし氏真自身は文化人としての地位を保ち続けて明治まで御家を継続させた事を考慮すれば、彼の行為を一概に悪手と断定は出来ないと私は想う。


「我世にかはて 世の姿なりて」


大名としての地位を喪い、放浪の当主と化した氏真。此の時の彼は居場所を転々としており、最終的には自身の元配下たる松平元康…後の徳川家に腰を落ち着ける。

今川から離反し独立したばかりか、父親を討った織田と同盟を結んだ徳川の許へと転がり込むのは氏真にとって心底複雑な物で在っただろうが、少なくとも表面上は苦悩の様子を見せる事も無く、桶狭間での戦や離反も『乱世の習い』と断じて不問とし、信長始め周囲を驚かせたと言う。


さて、以上の経緯で庇護を受ける事に相成った氏真。

旧臣や領民の反感を買わぬ為に相応の待遇を受けはしたが、やはり影響力の高さから自由に行動する事は出来ぬまま。

そんな窮屈な状況だったからなのか、以降の彼は戦国大名としての覇道から教養人としての我道を邁進していく。


旧知の公家達と共に古典の勉強に勤しみ、和歌の創作に励む毎日。以前と比べると慎ましい人生で禄も生活に困らない程度だったらしいが、不思議な事に碌な給料を払える身分では無かったにも関わらず、氏真には『今川衆』と呼ばれる遺臣達が付き従い続けていた。大恩有る主家に忠節を尽くしたのだろうが、家が滅んでも主と想われる程には能力・人格を家臣には認められていたのかも知れない。

氏真もそんな彼等の忠誠に報いるべく、他家に向けて推薦状や推挙を行って今川遺臣の再就職に向けて努めている。

旧領復帰が最早叶わぬ夢と成った後も彼と家臣との関係は急激に悪化なぞせず、寧ろ良好な関係を保てていた様だ。


良好と言えば、もう一つ永く続く縁が氏真には有った。

隆盛から御家滅亡、流浪の日々を共に過ごした嫁との縁だ。


戦国時代と言えば政略結婚が常の話、件の氏真夫婦も同盟強化の為の婚姻だったのだが、当時としては珍しく彼等二人は非常に仲睦まじい夫婦だったと言う。

また幾度も苦境に立たされ、御家滅亡の憂き目に遭っても氏真が行動出来たのは伴侶の内助の功に依る所も大きい。

妻の実家からの軍事的・経済的援助が有ればこそ今川は混乱を脱却出来たのだし、流浪の身となった氏真を初めに保護したのも彼女の家だった。(その後、事情により離れたが)

氏真の蜘蛛の糸を辿るが如き人生は、妻の助力無くして語る事は出来まい。そして其れは逆、臨終の時もまた然り。


1613年に永年付き添った妻が死去。此の時から氏真からは覇気が消え、2年後の1615年に後を追う様に他界。77歳と言う高齢での、娘息子に看取られた最期だったと言う。


_____________________


最初にも記したが今川氏真は無能の烙印を当時から押され、現代でも其の評が覆る事無く歴史上に悪名を刻んでいる。

そして其れは残念ながら否定する事は出来ないと私は想う。

重臣に先代を悉く喪い、領内は乱れ叛意を持つ物が噴出する最悪な時期に当主を任せられたのは余りにも不憫だし、其処を鑑みて彼の行動を判断したとしてもだ。

やはり本人の代で名門と謳われた家を滅ぼしてしまった以上、無能の誹りを受けるのは致し方無い部分が有る。

ただしそれは戦国大名として氏真を評価するならば、しかも後に続く歴史を識る我々が判断するならばの話だ。


形骸化した幕府に頼るべく蹴鞠等に精を出し、弱体著しい自家に追い討ちを掛けるかの如き処断を次々と行う。

それは全国の情勢を須らく理解し、各国の思惑を識る自分達、謂わば神々の眼を持つ者ならば滑稽にも観えよう。

しかし当時の近隣情勢すら不確かな情報網の中、宿臣の心中すら最早推し量れぬ不安な支配状況で、明日すらも定かでは無い乱世に於いて、必ず正解を導き出す事なぞ出来ようか?


世に無能とされる人には幾つかの種類が有る。

先に記した北畠具房の様に行動を起こさないが故の無能。

己が勝手に行動する事によって情勢が悪化する型の無能。

そして。件の氏真の様な自分以外から多大な影響を受けた、如何ともし難い情勢に振り回されたが故の無能。

人の生涯とは言葉一つで皆括れる程に単純明快とは言えない。成功が多種多様に渡る様に、失敗もまた数多く多彩に存在する。そして歴史上に語られる物とて結果論に過ぎず。


歴史と言う大河には年号や事績だけでは説明出来ない、複雑怪奇に絡まる人情や当時の者にしか理解し得ない状況が有る。其れこそ世間から無能と嘲られようが、例え無様に生き永らえようとも己が血を後世に遺した今川氏真の生の如く。

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