異世界より来たる
一度戦場へと赴けば、其処に常識が挟まる余裕なぞ無い。
剥き出しの野性と狂気、絶え間無く響く悲鳴と怒号の中では道徳は意味を喪い、秩序ですらも風前の灯火が如く。
げに異常な状況下では常日頃の出来事が起きよう筈も無く。
古今東西、戦地では奇跡や悪夢の様な事象が起きる物だ。
兵力優勢にも関わらず包囲殲滅の憂き目に遭ったローマ軍、峻険なる山々に囲まれた天空の城を策を以って突破した毛利家、降伏を認めずに幾万もの兵を生埋にした中国の将など。
斯様に戦争には摩訶不思議な事が起こる物だ。今回紹介する人物もまた、そんな尋常ならざる異常性を纏う者の一人。
ジャック・チャーチル。
武器や戦術などが進化を続けていく戦争に於いて、時代に逆行し奮闘した『戦士』について今回は記そうと想う。
_____________________
「Should he ne'er come back again 」
ジャック・チャーチルは20世紀頃、欧州はイギリスの地で『或る意味』名を馳せた軍人の一人で在る。
世での彼の通称は誰が呼んだか闘争を意味する『fighting』や、狂気を意味する『mad』と強烈な代物ばかり。
無論こんな渾名が罷り通る程度に彼の思想・来歴は凄まじく、事実は小説より奇なりを地で行く人生を送っている。
時は1906年、当時未だ英国領だった香港で産まれた育った彼は、幼少期より慣れ親しんだアーチェリーでの腕前やパクパイプに依る演奏技術が見込まれて映画(今で謂うアラジン的な作品)に出演する等、既に此の時から結構な有名人。
そんな華やかなりし時を過ごしたジャックが軍に入ったのは20歳の頃、士官学校を卒業して東南アジア方面…現代でのミャンマーへと配属された時の事で在る。
見も知らぬ異国へと配属され、環境の変化にさしもの彼も戸惑う…事も無く。特に問題も起こさずに仕事に励み、30歳の時に除隊する。理由は『面白くなかった』からだとか。
因みにジャック、此の任期中に4000kmも離れた地まで無線技術習得の為だけに何回か往復している。それも列車等では無く、オートバイ…場合に依っては自転車を用いたとか。
無線の勉強が余程に楽しかったのか、それとも地元での任務が余りに詰まらなかったのか。真実は今以て定かでは無い。
さて、そんなこんなで軍を脱した彼は暫くの間を楽器と弓術に費やしていく。其の甲斐も有って腕前は更に磨かれ、再度の映画出演にパクパイプ競技会での準優勝、果てはアーチェリー世界大会の代表にまで選ばれる程の大躍進。
正しく此の世の春を謳歌するジャックだったが、しかし時代は彼を再度戦場へと赴かせる。奇しくも世界大会の出場が決まった1939年の、第二次世界大戦の勃発を機として。
「Death and exile braving 」
ところで。再度戦場へと赴いたとは記したが、此れは強制と言う訳では無い。彼自身が望んで復帰したので在る。
復隊理由は『面白そう』だったから。要は誰も経験した事が無い超々大規模戦闘に心躍らせての行動だったのだ。
いやはや何と言うべきか、実に彼らしい狂気的な話だが、得てして此の様な人物は戦場にて真っ先に戦死する物。此れには流石のジャックと言えど運命には逆らえない…事も無く、寧ろ益々と自身の狂気を高めていく事に成る。
先ず手始めとして、訓練時に大剣を担いで従軍している。
理由は『士官たる者は剣を持たずして戦地に立つべからず』との信念から。認識が近世に生きる兵士の其れで無く、中世辺りの勇猛たる騎士に近いのが既に恐ろしい。
また実際に敵軍と戦闘した際、携帯していた長弓で相手の士官を射殺。爆薬と銃器塗れの世界大戦に於いて唯一(当然だが)弓矢での戦果を挙げた。とは言え当時の銃は未だ改善する点が多く、運用にはある程度の熟練が必要だった為、慣れている弓術を敢えて選んだ…と考える事も可能ではあるが、まあ…多分…気分の問題だろう、此の人の場合は。
既に今の時点で唯一無二の個性を確立しているのだが、戦闘狂の彼は立ち停まる事をせずに更に世を驀進していく。
1941年、破壊工作等を行う特殊部隊へと所属を志願。
危険過ぎる任務を望んだのは勿論、面白そうだったから。
もはや刺激を求める余りに中毒染みた行動をするジャックだったが、彼は此処でも戦果を挙げ功績を積み重ねた。
同時に奇天烈な人格もまた周囲に識られ始める。特に先程の戦果、楽器を大音量で鳴らしながらの奇襲は殊更に。
とは言え悪い意味で、でも無い。事実、彼は奇襲に依る戦果で勲章を貰っている。要は尋常ならざる勇猛さを褒め称えられたのだ。此の軍人にして、此の国家有りとの事か。
とまぁ、上記の通り幾度かの戦闘で勲功を挙げたジャックだったのだが…総てが上手く行く筈も無く(寧ろ上手く行ったのが奇妙なのだが)1944年、極少数での戦闘を余儀無くされた彼の部隊は奮戦するも攻撃に依り壊滅。
件のマッド・ジャックも爆発の衝撃で気を喪い、捕虜の憂き目に遭ってしまう。遂に彼の伝説は終わりの時を迎えた…
筈も当然ながら無く。敵軍の獄中と言う特殊な状況は彼の心を燃え上がらせ、行動は更に苛烈さを増していくので在る。
「Will ye no come back again?」
さて、友軍が土壇場で臆病風(本人比)に吹かれ、僅か五十数名で迫撃砲に依る爆撃嵐の中を進軍、遂に敵陣地に辿り着くも生き残った数名で戦える道理も無く、戦友が一人また一人と倒れ孤軍と化し、最終的に鎮魂歌を奏でるかの如く敵中で音楽を奏でながら奮戦し続けたジャックは、爆発の衝撃で気を喪った結果として捕虜にされた訳なのだが。
満身是胆を体現している彼が大人しく捕虜生活を送る道理が有る訳も無く、収容所でも我道を貫き通していく。
始めに囚われの身だと言うのにバグパイプを演奏するばかりか、看守役の敵兵に曲の感想を何度もしつこく要求した。
功績を挙げた事で隊長の地位に居たジャックは軍事機密を識っている可能性が高く、其の情報を得るまでは粗略に扱う訳にも行かず渋々と敵は話を聞き続ける羽目に陥る。
軈て相手が辟易し、絡まれては御免だと監視が緩くなると、ジャックは兼ねてからの計画を実行。前々から目を付けていた廃棄用水路から逃走経路たる海に向かって脱走した。
ところで海に向かって逃げたとは記したが、どの様な方法で大海を渡るつもりだったのかは不明のままで在る。友軍の助けが有るのか、船を奪うつもりだったのか。単身、海に飛び込んで泳いで逃げる可能性も大いに有り得るのが怖い。
因みに此の逃走劇は目的地まであと少しの所で再度捕縛され、相手が本当に危ない人物と認識した事で警備が一層強化される結果に終わってしまう。が、たかが一回の失敗程度で諦める漢で無い事はもう皆さん御理解頂けた頃だろう。
マッド・ジャック、翌年に二度目の収容所脱走を実行。
敵方が内部分裂した間隙を突き、取り敢えず友軍が居そうな所まで走り続けた。具体的に言うと150〜200kmくらい。
一週間程掛けてアメリカ軍に保護された彼は、多少体力が回復した後に開口一番『戦場は何処だ』と質問したとか。
いやはや…此処まで一貫されると流石としか言葉が浮かばない物だ。此の後、彼は希望通りに激戦地へと送られるのだが、移動の最中に戦争が終結。夢の一時(個人差)が終わりを迎えたジャックは独り言ちたと言う。
『アメ公が余計なことをしなきゃ、未だ戦争が出来たのに』
_____________________
ジャック・チャーチルは才気溢れる優秀な人物で在る。
演奏に弓術や演技に加え、絶大なる勇気と或る意味で確かな指揮能力を持ち、脱走の計画立案など武力一辺倒では無い、士官としての能力の高さも垣間見えるからだ。
そして。彼は其の優秀さと同じ程度に狂気的な人間だと言う事も分かるだろう。銃器での遠距離戦が主な近代戦で大剣と長弓を武装にと携帯している時点で既に凄まじい。
他にも敵地のど真ん中で演奏を続ける意味不明な度胸、捕虜連行時の方法が1世紀程も前の物、超長距離移動を苦ともしない異常な体力、何よりも闘わないと呼吸が出来ないのかと思える程に旺盛な戦闘意欲が挙げられる。
全く以って規格外、常識の物差しが当てにならない人物。
まるで中世から転移したかの様なジャック…では在るが。
歴史上の戦場の時代推移を鑑みると、寧ろ彼の精神こそが正常なのではないのかと、そう考える事も出来る。
戦争とは言葉で言っても、実態を単純に突き詰めると同族殺し。生物として存在する以上は単なる禁忌に過ぎない。
とは言え自然界で在れば摂理として少なからず行われる其の行動を、人間はなまじ知性が働くが故に葛藤してしまう。
しかし戦争とは外交、国と国との対話手段の一つに過ぎず、此の大事には個人の感情は濁流に流される小石同然。
人の持つ道理も博愛も銃弾一つで吹き飛ぶ世界に於いて、其れでもなお生きる事を望むのならば泥を被るしか無い。
常識的な思考や行動も、総て反した異常な世界では非常識。
狂鬼の坩堝の中に紛れた一般人は一般では無く、既に異常な存在に過ぎない。大勢が変貌すれば少数も同様と言う訳だ。
ならばジャックの思考や行動も異常とは言い難く。
戦地に於いては正常な、一般の感性なのかも知れない。
そう考えてみると彼の旺盛な戦闘意欲も興奮を求めてでは無く、私達が日常生活に戻る様な物だとも取れる。
ジャック・チャーチルと言う人物を上記の様に考えると、彼は現世に存在しながらも同時に存在しないとも言える、謂わば異世界の住人と考えても強ち間違いとは言い切れないと…ふと、そう想うのだ。




