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歴史人物浅評  作者: 張任
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稲穂が如く

人間が一人で出来る事は高が知れている。

如何に凄まじい能力を持とうが、個人の力で全てを動かせる程に世界は狭く無い。故に、人は誰かと協力をしていく。

重い荷物を動かす際、複数人で負荷を分散する様に。

困難な物事を成す際、得手から役割を分担する様に。

一つ一つの力が小さくとも数が増えていけば、其の力は山をも崩し、河をも塞き止める巨大な武器へと成長するだろう。

とは言うものの、他人同士が一体と成るのは難しい。

体格、趣味、思考。凡ゆる物が異なる者同士なのだから、其れもまた当然の事。人の数が増えれば難易度は更に増す。

人々を纏め上げるのは並大抵の事では無く、時に暴力的な手段を用いる事も珍しくも何とも無い。だが、しかし。歴史上には極めて平穏な方法で此れを成した者も居る。


張魯。


後漢末期。国の信頼は地に堕ち、野心に目覚めた群雄が跋扈した争乱の時代。血で血を洗う世界に於いて、場違いな程に平和な日々を送る国を創り上げた宗教家。

今回は稀有な能力を持つ彼についての話をしようと想う。


「伝統を継ぐ者」


張魯は三国時代、劉備の国として識られる蜀の地にて独立した国家を築いた人物で在る。拠点とした場所は漢中。劉備を初めとした劉姓の祖、劉邦が覇王を志した始まりの地だ。

漢帝国の復興を御旗にしていた蜀が、何故みすみすと戦略的にも名目的にも重要な地を赤の他人に支配されていたのか?

事の発端は帝国の崩壊を決定付けた民衆に依る一大蜂起、世に言う黄巾の乱が起きた動乱の時代にまで遡る。

堕落した政治を続けた事で領民にまで見放され、あまつさえ事態を沈静化する為の力すら碌に持たない漢の現状を識った諸侯は、或る者は自己防衛の為、また或る者は野望の成就の為に各々が独自で統治を始めていく。


黄巾の乱で功を立てた将、劉焉もまた其の内の一人だった。


最早この国に主人たる資格は無い。先の大乱時に於ける醜態から漢に見切りを付けた彼は、自らの手で独立した国家を創立せんと画策する。此の際に拠点として選ばれたのが、峻険なる山々に囲まれて防備に優れた蜀の地であった。

さて。劉焉が目星を付けた当時の蜀には、既に二つの勢力が存在していた。土着の信仰を基にしていた『鬼道』…所謂シャーマンと呼ばれた者達と、弁論等を通して人々に生きる際の道を教える『道教』の者達で在る。

今回の主役、張魯が所属していたのは後者の道教、しかも教団を率いる指導者としての非常に重要な立場に居た。

と言っても、此の時の彼は指導者と成ってから間も無い頃。

漸くと内部の混乱を処理し切れた所で勢力の拡張を図る暇も無く、蜀の地は過半数を鬼道集団が支配していた。


このままでは相手方の勢いに押し潰されてしまう。存続の危機を覚えた張魯は一計を案じ、独立の為に進出を目論んでいた劉焉へと接近する。目的は異なれど敵が同じならば協力関係を構築出来る筈だと、そう踏んだのだ。


果たして此の目論見は成功し、道教勢力は政府軍たる劉焉の助力を得た。彼我の勢力差は天と地ほども離れていた為、張魯達は配下と言う形に甘んじたが贅沢は言ってられない。

画して大勢力と化した彼等は、其の圧倒的な力で蜀内部の鬼道集団を一掃。独立の為の足掛かりを手に入れたのである。


「狢が忠義騙り」


目下の敵を撃滅し、勢力の安泰を漸く手に入れた張魯。

さて此処から彼の建国物語が始まる…事は無かった。

何故ならば鬼道集団よりも強大な勢力、劉焉率いる政府軍が頭上に立ち塞がっていたからだ。協力して事に当たっていた事で良好な関係では有ったものの、いざ独立をせんとすれば全力で潰しに掛かるのは火を見るよりも明らか。

何時か来るであろう飛躍の時が為、張魯は牙を隠して雌伏の日々を送る。一部下として粉骨砕身して信頼を勝ち取る内、次第に劉焉の警戒心は解けていき疑念は軈て霧散していく。


そして忠臣を演じ続けて数年。遂に彼の許へ好機が訪れた。

劉焉か張魯に対して漢中への侵攻命令を下したので在る。


与えられた兵力は十二分、預けられた軍への権限も申し分無し。一介の将として張魯が高く認められていた事を意味する此の結果は、劉焉の疑念が完全に失せた事も示していた。

後日。期待通りに目標は張魯によって攻め落とされ、漢中は劉焉の領地と化す。と同時に此の時、或る事件が起きる。

教団内での対抗勢力を張魯が殺害して、遺された兵力を吸収。権力と軍勢を一本化し、一個の強力な軍団としたのだ。

ともすれば叛乱の下準備と看做され兼ねない行為…しかし上役の劉焉は処罰を下す事も無く、張魯に漢中の統治を任せている。信仰に縛られ動かし辛い者より、幾分か操縦し易い張魯の方を残した方が良いと考えたのかも知れない。

事実、此の騒動の後も張魯は臣従し続けており、特に不穏な行動を起こす事も無く、彼は良き臣下で在り続けた。


高齢の劉焉が死去し、後継者の息子に支配権が移るまでは。


後継時に於ける混乱、遺された臣下の階級整理。そして障害を喪った事で此処ぞと攻めてくる北方や南蛮の異民族達。

様々な問題が同時に生じ、上役の監視が綻びを見せた此の好機を張魯は見逃さなかった。主君に統治者たる資格無しと、自身が治めていた漢中で独立を宣言したのである。

自身も若輩の時、後継の際に混乱した教団の収拾に酷く苦労した。其の時の経験も決意を促す要因と成ったのだろう。

実際に後を継いだ息子の行動は後手後手に回っており、更に討伐を命じた者との関係も悪化の一途を辿っている。

如何にか兵を差し向けた頃には内部は安定し領民は張魯を信奉、漢中は教団の絶対的な領地と化していたのだった。


「黄金色の理想郷」


張魯が漢中支配を出来たのには、他者から妨害を受けない様に機を窺っていた事も一つの要因だが、同時に領民が彼の統治を認める程に善政を敷いた事も見逃してはならない。

棄民対策に簡易的な拠点を置き、其の場所で食事や宿泊をさせる事で治安と民心を維持。また罪人への対処も当時としては異様に寛容で、罪を犯した際には過去の嘘や悪行を話させる事を旨とし、暴力に訴える事は無かった。

複数回の罪を犯した者でも軽い労働程度の罰則に留めている事からも、本人が改心する事を一番の目標としたのが解る。


災害時の炊き出しや犯罪者に対するグループセラピーは現代でならば観られ理解される行為では有るが、三国時代に此れ等の方策を行った人物は非常に限られえいる。


当時、同様の行為を行ったのは奇しくも同じ宗教集団だった黄巾党。冒頭でも説明した大叛乱を起こした勢力だ。

彼等は宗教団体としては非常に洗練された権力構造をしており、其の甲斐も有って漢帝国に対抗が可能だったのだ。

しかし余りに数を増やし過ぎた事で食料難に陥り、流民だらけだったが為に農耕等をする暇も無し。更に最悪な事に当時の支配国に対して真っ向から反抗したので全方面に敵を作ってしまい、其れが黄巾党の崩壊を招いてしまう。

張魯はそんな先人の過ちを考察し、自分なりに改良を施す事で漢中の実権を掌握。一歩先を行く宗教国家を成立させた。


領内で恩恵を受けるには信徒と成る事を要請し、其の際に一定量の食料…20ℓ程度の米を納める様にして、勢力の拡大と食料供給への懸念を同時に解決。

徒らに版図を拡げる事はせず内政に努め、見込みの有る人材を発掘しては道術の付与と称して権限を与えた。

また衰退の一途を辿っていたとは言え、依然として存在する漢に対しての根回しも周到に行い、支配を容認する認可を頂く。仮にも政府軍たる劉焉から離反したにも関わらずだ。

善政を敷いていた事、貢納も行なっていた事。何よりも独立の志を持つ劉焉軍に帝国が不信感を抱いていた事。情報を駆使し心象を逆手に取った見事な外交は、様々な事業を成した張魯の行動の中でも白眉と言って良いだろう。


権謀術数の限りを尽くし、他勢力の動きを牽制する事で自身の領内を豊かにする事に成功した張魯。

もはや並大抵の者共では太刀打ち出来ない程に成長した教団は遂に中国全土に教えを拡めようと動き出す…筈だった。

しかし。天は此の時代に彼以外の臥龍を世に放っていた。

まるで、自身以外の神の存在を許さないかの如く。


「常世の神語り」


劉備、襲来。後に三英傑と呼ばれる英雄の突然過ぎる来訪に漢中全土で激震が走る。当然、誰も予想出来た者は居ない。

なにせ劉備が拠点としたのは山々ばかりが並ぶ蜀とは正反対の、漁港や交易で活気に満ちた大海側だったからだ。

本来ならば関わり合いになる筈も無い存在だったにも関わらず此処で相見える事に成ったのは、あろう事か劉焉の息子が自分達を討伐させる為に引き込んだのが理由。

内部の奥深くまで埋伏の毒を易々と通す愚行には、さしもの張魯と幹部達も考えが及ばなかったのである。

優柔不断で臣下からの信頼に薄い息子側と違い、果断即決・勇猛剛毅な性格に加えて人心掌握は三国一の劉備は、現在の張魯の勢力では強大に過ぎる相手だった。


災禍は未だ終わらない。一人でも手に余る敵だと言うのに、更にもう一人の臥龍が関中の許へと迫りつつあった。

乱世の姦雄、曹操。覇王として天下に名を轟かせた英傑が張魯の教団、そして其れを討伐に来た劉備を脅威と捉え、此れを討ち払わんと大軍を以って攻め込んできたのだ。


正に前門の虎、後門の狼。三国時代に於いての三強の内、二人に囲まれた状況には如何に策謀に長けた張魯と言えど打開する方策は一つたりとて存在し得なかった。

多少の抵抗をしようとも、いずれ呑み込まれる日が来よう。

万策が尽きた今、張魯に残される手段は全面降伏のみ。

教団の命運もこれまでか…そう彼が絶望し掛けた時。

張魯が全幅の信頼を置いていた軍師が、一つの忠言をした。


『神威を纏う者、易々と平伏する事、能わず。』


幾ら絶望的な状況だとしても、軽々と降伏すれば相手に軽んじられるのは必定。更に教主が日和見で動けば長年の信仰は幻想と成り、瞬く間に幻滅される事だろう。

其れは教団が壊滅するよりも更に最悪、唾棄される存在として歴史上から消滅の憂き目に遭うのは間違い無い。

軍師の忠言で最も恐るべき事態に気付いた張魯は、知らずに破滅へと突き進む己の不明を恥じ、覚悟を決めた。

暫くして。両者の激烈な攻撃を受けながらも降伏を善しとせず、抵抗しては撤退を行い信徒の象徴として戦い続ける。

軈て張魯を追い立てる両者の心中に、或る種の尊敬とも言える感情が芽生えていく。敗北し撤退する際も追討を防ぐ為の焼き討ち等はせず領民の暮らしを守り、蓄えた財産を持っていく事も無く封をして蔵に置くばかり。

相手を単なる謀反人との認識から興味深い人物と見識を改めた曹操は、攻撃の手を止めて説得の使者を彼の許へと送る。


苦難の末に得た講和の機会。此れが張魯の狙いで在った。


降伏で自らの威を喪う事無く、さりとて無益な戦闘は行わぬ様に講和を行う。教団を取り潰されない為に、対等な関係で話し合う事に成功した此の出来事は張魯にとっても、そして曹操にとっても勝利と呼べる物で在った事だろう。

此の時に使者は張魯に対して一つ、言葉を投げ掛けた。


『何故、財をそのままに?敵に奪われるだろうに。』


当然の質問に対し、張魯は事も無げにこう答えたと言う。


『蔵の財は民からの物。ならば天下に返すが正道故に。』


_____________________


画して曹操に降伏した張魯は稀有な精神性を評価され、賓客扱いはおろか将軍職にまで就ける高待遇を受ける。

元々才能有る者には正邪の区別を設けずに採用する曹操が相手だったので、此の異常が過ぎる扱いもまあ納得が行く。

また人物眼に定評の有る劉備も張魯を迎え入れる準備をしており、当時の彼の評価が如何に高かったのかが窺い知れる。


劉備と曹操。英雄たる両者に存在を請われた張魯。


何故、彼はそうも高い評価を受けるに至ったのか?

乱世に似合わぬ善政を敷いたから。撤退の際にも民を想う器を持っていたから。確かに何れも素晴らしい事だ。

しかし、個人的には両雄が張魯を評価した部分は其処では無く、彼の根底…常人とは異なる野心に在ったと私は想う。

張魯は確かに領民の事を考えて政治を行ってはいた。

だが同時に彼は教団内での地位を確固たる物とする為に対抗相手を殺害し、紆余曲折は有ったにせよ主従関係を結んでいた劉焉の勢力を裏切り、策略を以って独立している。

此れ等の行動からは平和主義者的な側面よりも、自らの野望成就の為には躊躇しない覇者的な感情を感じてしまう。


張魯にとって宗教とは信仰と言うよりも道具、天下の群雄と渡り合う為の武器にしか行動を観る限り想えないのだ。


天下が三分された時。一人は天の機を得て、一人は地の利を以って、一人は人の力を併せて其々が自らの国を得た。

人智を超えた怪物を相手とした際、張魯は他の者と違って同じ土俵で闘う事を良しとせず、別の方面から天下を狙う。

機会も、土地も、人間も。物質全てが敵の手に有るのなら。

眼に視えぬ畏れや信心、希望や不安を用いて成り上がらん。

過ぎ去った過去の出来事故、真実は誰にも分かりはしない。

だが、もしも張魯に天下を狙う野心が有ったとすれば。

三国時代の最終的な勝者は三英傑の誰でも無く、心を武器として乱世を渡り歩いた張魯に軍配が上がるかも知れない。


彼が創り上げた教団は名前を変えながら、現代に於いても人々に信仰される存在として生き残っているのだから。

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