未踏達者
新年で在る。読者の方々は大晦日から正月、如何に過ごしただろうか。謹賀新年との事で餅搗き等の恒例行事に精を出したり、日頃の疲れを癒す為に寝正月と洒落込んだか。
新しく年が始まった事だ、良い機会だから経験の無い物に挑戦してみよう、そう考えた人も居るかも知れない。
初心で何かに挑むのは非常に困難かつ着地点を見付け辛い事だろう。其れが前人未踏、誰も考えた事が無い未知の物ならば尚更で在る。獣道も見えぬ原野に足跡を遺すのは知恵に根性、何よりも強い勇気が要るのは間違い無い。
…さて。そんな前口上から紹介する歴史人物は此の御方。
パブロ・ピカソ。
余りにも有名な画家で在り、閉塞していた芸術界に大きな新風…いや革命的な颱風を巻き起こした新時代の人物。
偉大なる一歩を踏み出した彼について今回は記そうと想う。
「法衣を纏う将校」
ピカソは19世紀から20世紀の間に活躍した芸術家で在る。
パブロ・ピカソと言う名前は画家としての物で本名は長い、実に長い、本ッ当に長々しい名前をしており、本人ですら自分の名を正確に覚えられない程だったらしい。
彼が産まれ育った国、スペインでは縁者の名前を連ねる事が一般的であり、其れに加えてキリスト教を信奉していれば洗礼名も増える。結果として異様に長い名前になった訳だ。
と名前についての話は此れ位にして、彼の人生について話す事にしよう。彼はスペイン南部の極一般的な家に産まれた。
ピカソが何時頃から画家の道を志したかは不明だが、幼少期から芸術に慣れ親しんでいた事は間違い無いだろう。彼の父親が美術の教師で在り、かつ美術館の職員だったからだ。
其の様な環境下に居ればピカソが絵画等に興味を持つのは当然とも言え、彼は11歳の時に美術学校へと進学していく。
ピカソが入学してから2年後。芸術の教師たる父親が自らの絵筆を彼へと渡し、画家から引退している。息子の類稀なる才能を間近で観て、決して越えられない壁を感じたが故の…一種の継承的な行為だったのかも知れない。
翌年、新たな技法を学ぶ為に別の芸術学校へと入学を決めた彼は、入学試験とも言える作品を一日(因みに製作の締切は一ヶ月程)足らずで完成させ、余裕綽々で合格。
翌々年には父の協力の下で一枚の絵を描き上げた結果、其の絵画が高い評価を受ける。此の作品は地方のみならず、国が主催する展覧会に於いても喝采を浴びたのだから凄まじい。
こうして突如現れた若き天才が人々の眼に留まり、成功への階段を登るのに時間は掛からなかった。能力を認められたピカソは王立の美術学校入学、即ち最高の教育を受ける事が認められた。しかし。何と彼は此の幸運を無造作に蹴っ飛ばし、勉学も途中の身だったにも関わらず中退してしまう。
技術を求めた所で、果たして自分が想う物は創れるのか。
自らが理想とする絵画や彫刻を製作する際、手助けとして技術は必要だろう。しかし、其れだけだ。学んだからと言って絵筆が勝手に動く訳でも無し。元に成る発想を創らねば。
良き作品の為、個性確立の為。枠から飛び出したピカソは美術館へと足繁く通い、先人の作品を只管に鑑賞・模写し続けた。作製を模倣し画家の心情を理解する事で、自身の芸術が行先を模索せんが為に。
「明日を往く人」
従来の方法を善しとせず、我流で道を究めんとしたピカソ。
以降のピカソは様々な人物、芸術、感情、思想に触れ、学び、時に衝突、時に別離を経て、其れ等の情報を糧とし自身の血肉と変え、軈て作品へと昇華させていく。
親友を喪失した悲哀を筆に込め、世界の不条理を描き出し。
恋を知り愛を謳う熱情のままに、未来と希望を白紙へ記す。
異国から来た未知に驚愕しては、自らの手で複製を試みる。
中でも最も衝撃的で有名なのは『キュビズム』で在ろう。
ピカソが生きた19世紀後半、世界中でテクノロジーは加速度的に進化を遂げ、写真と言う記録媒体が世に現れ始めた。
一瞬の時を完全・完璧に切り取る此の機械は、其れまでに居た写実的な絵を描く事で生計を立てていた者達を駆逐するだけでなく、絵画の是非を問う機会とも化す。
手軽で精巧、時間や金銭が掛からない写真が有るのならば、現実的に描く絵画は最早必要無いのでは…そんな疑問が人々や絵師が何時頃からか抱き、頭上から離れなくなったのだ。
当時より稀代の天才と褒め称えられたピカソも同様で写実以外の新たな価値観、絵画故に出来る手法を探し続けていた。
色彩、構図、題材を工夫して新境地を求め、線画に全力を尽くして本物より本物らしい作品にしようとも試みている。
しかし何れもが彼が考えた写真とは違う絵に成り得る事は無く、次第に行き詰まり鬱々とした日々が幾日と続いた。
苦悶し尚足掻き続けた或る日、ピカソは一つの手法を閃く。
写真が精巧な場面を切り取ると言う事は、被写体の一面しか真に写すことが出来ないと言う事も意味している。
ならば。敢えて芸術の定石や物理法則を無視して『多面的』な作品を創る事が出来れば、其れは写真では無い絵画と言えるのではないかと常識破りの手法を彼は発案したのだ。
此の新しき発想から複数の習作を実際に描き上げ、漸くと形にしたピカソは遂に一つの作品を描き上げ世に公表した。
双眸、毛髪、骨格から服装に至るまで、一つ一つの部分を其々別の視点から観、単純な形に置き換え、組み合わせる事で創られた其の絵画は内外に大きな反響を呼ぶ。
軈て此の作品から端を発する平面上でしか有り得ない立体構造の手法『キュビズム』は当時の芸術界に旋風を巻き起こし、時代に取り残されかけた絵画に現代に至るまで洗練される事になる独自の価値観を齎すのであった。
「共に産みし絵」
苦闘の末に新たな価値を創造し、歴史に名を刻んだピカソ。
とは言え彼は此れで満足せず、其の後も別手法に挑んでは幾多の作品を創り出している。現世には存在しない、常識では有り得ない物を描くシュルレアリスム、現代の技法で古代の作風を創る温故知新を形にした新古典主義などピカソが試した方式は数知れない。
また彼は表現のみならず思想に於いても新しい物を求めて、万人が万人の為に働く共産主義を識ると此れに傾倒した。
元々が革命者気質・反体制的な性分で、しかも其れが芸術に携わり新たな価値を創り続けた事で異様に先鋭化していたので当然と言えば当然の結果と言える。
共産主義の是非は此の際置いといて、以降ピカソは反戦を訴える為に過激な絵を描いていく。此の時に発表された作品の内の一つに、かの有名な『ゲルニカ』が存在する。
縦幅が約4m、横幅が約8mもの巨大さを誇る此の絵画。
現代での傑作と言う評価から考えると意外な事だが、当時の世間から受けた評価は芳しい物では無く。
曰く単純化が過ぎて戦争の悲惨さを表現出来ていない、色に乏しく喪った際の悲哀を感じ取る事が出来ない、全体的に説明不足で物語を読み取る事が出来ない等、此の作品が受けた酷評は様々で傑作とは言えず、寧ろ失敗作的な扱いだった。
しかし。時間が進むに連れ、戦争が身近に感じる様になると『ゲルニカ』を観る眼は変貌し、評価は変わっていく。
無数の砲弾が飛び交い、爆弾が全てを吹き飛ばす世界で、細部まで精巧な風景が如何程の真実を帯びようか?
色彩に満ちた世界が崩れ去る時、灰色の廃墟に色を塗りたくった所で、人々が味わった悲哀を表現出来ようか?
命を奪われ歴史を喪くし、倫理や道徳が通用しない戦場に、人が理解し易い文学的悲劇が存在し得よう物か?
破壊は無秩序で、意味など無く、突然な物だと世の人が理解した頃、只の落書き程度の扱いだった『ゲルニカ』は戦争を表す作品に姿を変え、世の人々を驚嘆させたのだった。
人々や風景の美を遺す為に努力し、苦悩し続けたピカソ。
そんな彼が創り上げた最大の傑作が、憎悪と悲哀を込めた全てを破壊する戦争の絵画と言うのも、愛する物を奪われた事を想えば至極当然の話なのかも知れない。
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ピカソは孤独を何よりも忌避した人物と言われている。
結婚離婚は生涯で数知れず、愛人を何人も設けては修羅場に遭遇した事は珍しくも無い。友人とは幾度も協同製作を行い、親友を喪った際は作風にも影響を及ぼした。
彼は恋多き人物だった為に良き夫とは到底言えなかったが、だからと言って家族を愛していなかった訳では無い。
自身の娘に関しては如何に仕事が忙しくても必ず特定の日に二人で過ごす程度には良い関係を構築しているのは、偏屈者や変人の多い芸術家としては珍しいとさえ言えるだろう。
ピカソの作品や行動等を観ている内に分かったのは、彼が人間自体を深く愛していたと言う事。そして其の魅力を引き出そうとするのが作品の製作動機だと言う事だ。
彼が創作した作品は400を軽く越えており描かれたモチーフは多数に渡るが、中でも人物を題材とした物が非常に多い。
特に多用された題材が女性。愛人をモデルにしたキュビズムの代表作『泣く女』然り、ピカソの恋愛遍歴はそのまま作品にへと昇華され、晩年に至るまで其れは変わらなかった。
死去に至る迄の数年間、彼が描いた作品は裸婦画が殆どを占めており、中にはあられもない姿の絵すら存在した。
技術的にも観るべき所が無い此の作品を、当時の評者は『老人の下劣な欲望』『才能の搾粕』等と酷評したが、当のピカソは其れ等の言葉を意に介さず以下の言葉を述べた。
『漸く、子供の様に絵を描く事が出来る様になった。』
現代。美術の歴史が積み重ねられた今、晩年のピカソが描いた絵画の評は当時から大きく変化している。
難解なテーマを抽象的に描き、一見しただけでは理解出来ない技術や講釈に疲れ果てた芸術家達にとって、自分が単に描きたい物を何も計算せずに描いた晩年の絵は、絵画を創造する事の楽しさを思い起こさせる物だった。
軈て彼等の感情は一つのうねりと化し、芸術界に『新表現主義』と言う新たなる道筋を開拓する事と成る。
ピカソが此の世を去ってから四十と幾年。彼は今でも流行の最先端に存在し、未知の価値観を創造し続けている。




