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歴史人物浅評  作者: 張任
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愛を詠う人

恋愛脳と言う言葉が有る。

思考が恋愛を中心に成り立つ人の事をそう呼ぶらしい。

子供の頃に聞いた事が無いので、最近の言葉なのだろう。

そんな自分の能力と思考の全てを恋愛に費やす存在。

其れを体現したかの様な女性が一人、日本に居た。

時は遠く遡って平安時代。貴人集まる宮中にて。

数多の傑作恋愛歌を詠んだ稀代の歌人、和泉式部。

そんな桃色で頭が一杯の彼女が今回紹介する人物だ。


「されど、和泉はけしからぬ方こそ在れ」


さて、先ずは彼女の人格を説明しようと思うのだが、此れが何と言うか、恋に恋する乙女と言うか、少女漫画の主人公みたいと言うか、とにかく恋や愛に並々ならぬ情熱を注いだ人物だったと言われている。

恋愛遍歴もまた凄まじい物で軽く調べただけでも超高位の人物二人から求愛を受け、その二人も含めると計四人もの男性と何かしらの関係を持っていた。

それ以外の男性にも関係を言い寄られていたのは間違い無いようなので、此れはもう逆ハーレムみたいな状態だった。

同僚から「歌は凄いんだけど、和泉は色ボケが過ぎる」と書かれる程だったのだから相当な物だったのだろう。

そんな和泉は上司に「浮かれ女」との有難い渾名も賜った。

一応は公的な存在の筈なのに、えらい言われ様である。

にしても何故、彼女はそんなにも世の男性を虜にしたのか?

それは彼女の詠む歌と平安時代の恋愛事情に秘密が有った。


「物語にめでたしと言いたる男女の容貌」


上の文は「春はあけぼの」で有名な清少納言の言葉である。

一見すると良い風に言っている様に思えるが、実際には「物語で言われる美しい男女は、絵にするとそうでも無い」との意味の言葉だ。

此の言葉は平安時代に於ける恋愛事情にも当て嵌まる。

当時の女性は家族以外の人物に姿を見せる事は無かった。

ドラマ等でも見られるが簾を下ろして姿を覆い隠すのが一般的な光景であり、男性に与えられる情報は声と影の形、残るは件の女性の評判くらいの物だった。

その為、平安時代の恋愛は先ず相手の姿を一目見ようとする所から始まる。其処から想いを募らせ、恋文を出す訳だ。

まるで学生の恋愛の様な初々しさと慎ましさである。


傍から見ればだが。


実際は下心全開のドス黒い部分も見え隠れしていたりした。

そもそも評判だけで事が進む時点で何処か奇妙だ。

兎も角、平安時代の女性がモテる為の条件は見れない外見よりも中身…家格、教養、知性の方へと集約されていく。

他人を越す為に勉強をし、高位の者と親しくなろうと策謀を巡らせ、自身の評価を上げる為に熾烈な情報戦を行う。

それは平安と言う文字からは程遠い文化的な戦争状態であり、例えるならば恋愛の乱世とでも言うべき環境だった。

此の魔窟にて和泉式部は己の秀でた歌詠みの才能に活火山の如き愛情を込めた恋文を武器に、ひたすらに真っ直ぐで純真な情熱を以って想い人に猛攻を仕掛けていた。

曖昧な情報しか与えられない殿方にとって和泉式部から送られる短歌は教養に満ち溢れ、尚且つ己を愛する気持ちが痛い程に伝わる必殺技となっただろう。

結果、彼女の評判は鰻登り。男衆の間に絶世の美女の評判が『かぐや姫』もかくやと拡まる事となった。

そんな嵐の如き生き様の彼女を端的に示す短歌が一つ有る。


『逢ふ事を息の緒にする身にしあれば』

(愛する者と逢う為に命を懸ける我が身だから)

『絶ゆるもいかが悲しと思はぬ』

(例え其れで命が絶えても悲しいと思う事は無い)


恋人の為に己の人生も捨てる覚悟を詠う、激しき愛の歌。

それは正に無数の男達を魅了しては思考を恋色に染め上げ、そして無数の男達に魅了されては激動の人生を送る事になる和泉式部と言う存在そのものだった。


「誰ゆへに 乱れそめにし 我ならなくに」


今の私の心は大いに乱れている、他でも無い貴方のせいで。

平安時代の或る男性歌人によって詠まれた此の短歌は、そのまま和泉式部の心情を表していると言っても過言では無い。


彼女の恋愛遍歴が凄まじい事は先述した通りだが、其の恋愛道中でも濃厚な事件ばかりを起こしていた。

和泉は幾度か結婚をしており、その中の一人で最初に婚約を結んだ相手とは子供も設けている。

面白いのは彼とは付き合っている間は非常に仲睦まじい様子だったのに、いざ結婚をすると両者間の仲は冷え切って別居する段階にまで至った点だ。

最初の内は相手の良い部分を見つめて気分が盛り上がり、いざ深く知る事が出来る様になると却って欠点が目につく。

結婚生活の不満は今昔共に変わらぬと言う事か。

結局は最初の結婚生活は好転に向かう事も無く離縁する事になるのだが、不思議な事に彼等は後年、互いが互いに未練を持っている事を伝えている。

人間の業、いやさ性と言うのは何時の時代も不可解な物だ。

さて、離縁した彼女は直ぐに新しい交際を始める。

次の恋人との熱愛ぶりは皆が口々に噂する程で、その男性と結婚をするのも時間の問題かに思われた。

しかし途中で両者の間に思いも寄らぬ横槍が入ってしまう。誰であろう、和泉式部自身の親にだ。


「釣り合わぬ身の恋で世を乱すな。お前の愛は大罪だ。」


此の時に和泉が付き合っていた人物は宮中でも最高位の家格の持ち主だった。対して彼女の家格は小ぢんまりとした物。

当時の家格の高さはそのまま権力の強さであり、悪用せんとする輩への牽制として高貴な血統が重要視される。

国を支配するに足る者は稀有な血を持つ者のみ、そんな権威を用いた大義名分を得る事で漸く治安を維持出来た。

和泉式部の恋愛は此の社会基盤を揺るがす行為だった。

幾ら愛する二人には身分が関係無いとしても其れが原因となり権威が崩壊、暴力支配の時代に回帰するとなれば止めない理由は存在しない。

しかし道理を説いても納得出来ないのが人の情で在り、抑圧すれば爆発するのが人の常で在る。

結局、両親は彼女の恋心を止める事が出来ずに匙を投げ、和泉式部を勘当して家から追い出した。

住む所を無くした彼女は当然、愛する男の元へと向かう。

だが此処で思いも寄らぬ事が起きてしまった。


件の恋人が病気を患い、瞬く間に帰らぬ人となったのだ。


此れは和泉式部にとって人生最大級の衝撃だった。

家族に捨てられてでも添い遂げようとした男が消えたのだ。

彼女の心に如何程の哀しみが押し寄せたか想像が出来ない。

想像が出来る訳が無い、和泉は総てを失くしたのだから。

此の出来事は和泉式部の心に深い穴を開け、また醒める事の無い幻想を彼女に抱かせる事となる。

浮気者で有名であった其の恋人と一緒に居れば何れは諦観、若しくは最初の夫の様に拒絶出来たであろう感情。

その幻想の名は『真実の愛』。恋人が死んだ事で完成してしまった感情は、和泉の純心を何処までも捻じ曲げていく。


真実の愛は癒される事が無い。癒す存在が居ないから。

真実の愛は満ち足る事が無い。満たす物事が起きないから。

真実の愛は忘却する事が無い。飢餓の念が己を縛るから。


此の事件の後、和泉式部は亡くなった恋人の弟から求愛を受ける。彼女は此れに対し、肯定の意を情熱的な短歌にして相手方に送った。

一見すると酷く軽薄に思える行為だが、送られた和泉の短歌を見ると一つの仮説が頭に浮かぶ。

彼女は短歌内で「死んだ人の事を考えるよりも貴方様の声を聞きたい」と書いたが、共に「兄上様と同じ声かどうか」と奇妙な文言も記した。

此れは弟の貴方も兄と同様に愛しているとも、血の繋がる弟に亡き恋人の面影を求めているとも取れる。

もし後者の意で言ったとするならば。

彼女の「浮かれ女」とまで言われた派手な恋愛遍歴は、死んだ恋人の幻影を追いかけ続ける悲哀を表すのかも知れない。


_____________________


どちらにせよ和泉式部と言う女性が数多の者に惚れられ、そして無数の者に惚れた事は歴史に刻まれている。

そんな目紛しく変わる登場人物の中で一人、和泉式部の愛を受け続けた存在が居る。最初の夫との間に出来た娘だ。

此の娘もまた母同様に歌の才能に溢れ、恋多き人生を送る。

だが決定的に違う所が一点有る。彼女もまた早逝したのだ。

二十代の若さで亡くなった娘に、和泉は何を思ったのか。

当時の彼女の心境を綴った短歌が存在する。


『とどめおきて誰をあはれと思うらむ』

(あの世で娘は親と子、何方を哀れに思うのか)

『子はまさるらむ子はまさるなり』

(きっと親よりも子を思う、私がそうで有るが故に)


今は亡き娘の心境を想像して、自分よりも我が子の事を想うだろうと母子の愛の深さを詠う短歌。

其の深き愛情を注いだ子が自分よりも先に死んでしまう、例えようが無い哀しみも同時に表現している。

愛を手に入れんとし、愛を掌中に掴み取り、愛が指から零れ落ち、愛を想い続ける。そんな和泉式部の人生。

だから和泉が詠う短歌には火傷に至る熱量が籠るのだろう。

本人の奔放たる歴史が、たった数行に納められているが故。

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