灼熱の蝋燭
歴史を語る上では切っても切れない要素は幾つも存在する。
英雄、天災、謀略、幸運。様々な事象が歴史上には登場するが其の中に一つ、何時の世でも観られる要素が在る。
差別。
宗教、人種、嫉妬、侮蔑。古来より人類は何かと理由を付けて誰かを不当に虐げ続けた。其れは私達が生きる現代に於いても続いており、一向に変わる気配は無い。
しかし、時に此の差別へと立ち向かう者が現れる事が有る。
古代でも、中世でも、そして無論の事、現代でもだ。
今回紹介するのは自身が差別的な思想を常日頃より持ちながら、突然と自分が差別を受ける側へと廻ってしまい、数奇な運命を辿る事と成った近代の人物。
ロン・ウッドルーフ。
救世主でも、極悪人でも無い、単なる中年の碌でなし。
これより語られるのはロンと言う一般人が紆余曲折の果て、国家や企業、そして負の歴史に対して文字通り命懸けで闘う漢に変貌していくまでの、絶望と希望の実話で在る。
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「彼奴に成る日」
ロン・ウッドルーフは1980年代後半から其の名を馳せた、アメリカのテキサス州、ダラスに在住した人物で在る。
当時のアメリカでは…と言うより世界中に於いて、或る病気が其の性質から恐怖の象徴として話題になっていた。
ヒト免疫不全ウィルス。別名『HIV』の方が有名だろうか。
此の病原菌は80年代前半にて爆発的に流行し、極めて高い致死性に加え、治療方法が発見されていない不治の病として人々に畏れられた。一度でも感染すれば命は無い、と。
同時にHIVの感染を何処か他人事の様に感じていた人々も多数存在した。世界中、人種を問わずに此の病気に罹る者が居たのに何故なのか。其処には何時からか世間で実しやかに囁かれ始めた、一つの噂話に大元の原因が在る。
『此の病気は、ゲイやレズにしか感染しない』
発覚当初、HIVの発症者は大多数が同性愛者だった。
彼等以外にも発症した人間は存在したものの、其の様な人々はドラッグ等が原因で免疫能力が低下したのが要因で在る。
健康な状態から感染するのは同性と性交渉を行った者のみ、通常の人間ならば、世間一般で言う『正常』な人間ならば問題は無いと、当時の人々の中にはそう考える者も居たのだ。
今回紹介する人物、ロンも其の様な人間の一人だった。
同性愛者を病原菌の如く扱い、蛇蝎の様に忌み嫌う。
彼は80年代のアメリカでよく見られた一般人、特徴の無い普通の人間だった。…契機と成る出来事が起きるまでは。
仕事上での突発的な事故。負傷したロンは病院へ運ばれる。
幸いにも怪我自体は軽く、行動に支障を来す類の物では無かった。しかし。此処で彼は衝撃的な事実を告げられる。
『…血液検査の結果、HIVの陽性反応が出ました。』
『残念ですが、余命は30日が限度だと思われます。』
「渇生活」
同性愛者にのみ感染する病気。そんな物は只の幻想だった。
HIV患者に同性での性交渉を行った者が多数存在したのは事実で在る。だが多数の実例が有るとしても、条件に当て嵌まらない人間と関係が無いとは言い切れない。
彼の場合、以前に一夜限りの関係を持った女性がHIV患者だった為に、彼女を通して己も感染してしまったのだ。
思いもしない病気の発覚。突然に言い渡された余命宣告。
ロンの思考は完全に停止し、突き付けられた言葉が脳を通り過ぎる。現実感の無い絶望にどうも意識が追い付かない。
苦難は未だ続く。
妻が消えた。仕事を失った。友は情を投棄て、嘲笑った。
血を流すと皆が怯える。死神が伝染ると遠退いていく。
ロンは一人になった。世界に蔓延していた常識に依って。
それでも彼は生きる事を諦めなかった。例え自身の存在が忌み嫌われ、世間に受け入れられない事を識っていても。
生き残ろうと必死で病気について調べた。
凡ゆる病院へと治療薬を探しに向かった。
情報を得ようと同性愛者の会合にも出た。
…しかし、全ては徒労に終わる。
調べた結果として出てくる物は気の滅入る情報ばかり、国内で流通している治療薬は治験目的の患者以外には到底手に入らない代物、会合は悩みを話し合う事で心の平穏を保つ為の物に過ぎず、有益な情報はまるで得られず仕舞い。
無為な日々。其れが何時迄も続く。余命を貪り尽くすまで。
発覚より30日後。宣告された死の当日、ロンはメキシコに向かっていた。特別な理由なぞ無い。単に紹介された医者が其処に居ると言うだけの事。
彼奴らに何が出来る。皆が深刻そうな顔をして、形ばかりの謝罪をするだけだ。助けようなんて思いもしやがらねえ。
そんな憎悪と諦観渦巻く胸中に、ふと、或る願望が浮かぶ。
楽になりたい。苦痛だらけの現実から解放されたい。
何時の間にか、ロンは人気の無い処へと向かっていた。
傍には拳銃。銃口を額に押し付け、引鉄に手を掛ける。
一瞬で終えようと、彼は指に力を込めた…が、引き切れずに終わる。苦しみだけの毎日だとしても、死を許容出来ない。
涙が流れる。こんなにも。こんなにも、生きていたいのに。
迫り来る虚無を感じながら、ロンは何時迄も泣き続けた。
自身の意識が朦朧となり、声を発せなくなる其の時まで。
…ふと気付くと、ロンはベッドに横になっていた。
夢なのかと思い起き上がると、周りは見知らぬ場所。
忙しなく動く白衣の人物を見て病院で在る事に気付いた彼は、此処が現実で自分が未だ生きていると言う事を識る。
其処行く人に声を掛けて、自分がメキシコの救急病院に居る事を聞いたロンは安堵の様な、落胆の様な息を吐く。
お節介な他人が運んだのだろうか、そう考えたと同時にロンは或る物を見つけて驚愕して目を見開く。
何の変哲も無い新聞の、皺くちゃに揉まれた紙面に記された今日の日付が、訪れる筈無き翌日になっていたからだ。
「英雄に成る灯」
絶対絶命の状態だった筈のロン、そんな彼の命を救ったのは偶然でも奇跡でも無く、極めて現実的で当然な手段、薬剤の力に依る物で在った。
ロンは識らなかった。当時のアメリカで開発された唯一とされた薬以外にも、世界にはHIV治療用の薬が存在する事を。
効能を分析する必要がある為に其れらの薬が認可されず、国内では違法薬物として扱われて流通していない事を。
異国で在るメキシコで治療を受けた事で現況を理解した彼は、自らの命を救った薬を見つめる内に突然と閃く。
ならば此の薬は、最良の商品に成り得よう。
後日。メキシコから故国たるアメリカへと帰還したロンは商売を始める。其れは他国のHIVの治療薬…此の段階では未承認の違法薬物を取り扱う、謂わば闇薬局の如き物だった。
商品は当然ながら密輸品。見つかったが最期、売る者も買う者も実刑は免れない。其の様に高い危険を伴っていたにも関わらず、彼の薬局に来る患者が途絶える事は無かった。
HIVの感染者である以上は未知の副作用なぞリスクの内にも入らず、また、店主たるロンが自らの身体で効能を証明した事で信用を得、彼の店に足を運ばせたのだろう。
ロンは客に高額の金を求めた。其れを彼等は咎めない。
彼が其の金を用いて異国の薬品情報を得て、現地に飛び交渉、危険を承知で密輸している事を知っていた故に。
ロンは客に個人情報を求めた。其れを彼等は訝しまない。
情報を元にカルテを製作、経過観察を経て薬の量や種類を変えてくれる、真摯に患者の事を考えていたが故に。
ロンは度々客に暴言を吐いた。其れを彼等は怨まない。
彼が同性愛者の思想には同調せずとも感情には理解を示し、ゲイやレズを普通の客と見做してくれたが故に。
ロン自身は別に人を救おうとは思っていなかった。
異国で薬を探すのも、他人の病状を真剣に観るのも、全ては自分の命を長らえる為の手段に過ぎない。
しかし彼の行動は確かに人々を助け、患者達の希望の光と成るのに十分な成果を現実に挙げていく。
しかし、此の現状を面白く感じていない勢力も居た。
アメリカで唯一とされたHIV治療薬を開発した者達で在る。
折角と高い資金を掛けて開発したのに、アメリカ中で他国の治療薬が出回っては元も子も無く、大損でしか無い。
そう考えた彼等はロンに対して圧力を強め、商売する拠点の封鎖、密輸ルートの特定、異国の研究機関への厳重警告を行い、闇薬局が立ち行かない様に仕向けていく。
軈て資金も減り始め、二進も三進も行かなくなったロンは密輸を諦めようかと考え始めた…其の時期の事で在る。
彼の薬局に良く訪れていた人物が、突然と死亡した。
死因はHIVに依る物では無く、唯一認可された治療薬を使った際の副作用で、激烈な拒否反応が出た事が要因だった。
此の時。ロンの心の奥で火が点く。怒りと言う、猛火が。
選択の自由を奪い、自分達の薬を押し付けておいて、其の薬品で病人を、顧客を、俺を殺そうってのか。
今生きている患者は実験動物でも、尊い犠牲でも無い。
ただ明日を夢見る、一人の人間に過ぎないと言うのに。
火は何時しか全身に燃え拡がり、彼の思考を世界との闘争へと染め上げていく。自分の、自分達の命を護る為。
時は流れ、副作用での事故を引き起こした件の治療薬は治験期間を終えた開発者一同は、手に入れたデータを数多の薬剤関係を集めた舞台で公表し、如何に此の薬がHIVウィルスに対して効果が有ったのかを高らかに謳う。
関係者に配られた書類には無論、事故の事は書かれていない。副作用の事も同様に、闇の中にへと葬られた。
製薬会社、医者、政府関係者の者達は書類を見て驚き、感心し、製作者を褒め称えた。此れならば人を救えるだろうと。
万雷の拍手に包まれる会場、音は何時迄も鳴り響く…かに思われた。突然と入口の扉が開き、誰かの影が現れるまでは。
点滴を打ちながら患者の服を着、よろけ足で真っ直ぐ歩く事も覚束無い、今にも此の場で死にそうな人間。
其の人物は、ロンだった。ロン・ウッドルーフの、延いてはHIV患者の偽らざる、細工無き真実の姿で在った。
突然の客に静まり返る会場。そんな状況なぞ気にも留めず、彼は居合わせた薬剤関係者達に手持ちの紙を渡していく。
其処には今紹介された治療薬の副作用、其れの実例、HIVについての詳しい情報、そして闇薬局の際に発見した、治療効果の有る違法薬物のリストが記されていた。
唐突に齎された新情報に次第に混乱を増していく人々。
開発者達は慌てて警備員を呼び出し、侵入者を外へと連れ出す様に命令した。…ロンは抵抗しなかった。
ただ、彼は何時迄も叫んだ。会場に、人々に、世間に。
『俺が死ねば、全て元に戻るとでも考えているのか』
『誰が死ぬ物か、お前らがどんなに死ねと思おうが』
『何処までだろうが、生き続けてやる』
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ロン・ウッドルーフは最初、余命30日と宣告された。
しかし彼は其の後も生き続け、なんと7年も生き続けた。
効果の有る薬品を手に入れた事、闇薬局を開くと言う発想、彼の生命を生き延びさせた要因は数多く有れど、最も影響を与えたのは間違い無く生命への強い執着で在ろう。
ロンは人間として生きたかった。しかし状況は其れを許さず、世間は彼を普通の存在と看做さず、迫害した。
何故、自分が此の様な目に会うのか。怒りだけが募り行く。
彼は怒りを昇華させる聖人では無く、そして怒りを破壊に移す悪人でも無かった。彼はただの、自分の感情をぶつける先を探し続ける一人の碌でなしでしか無い。
だからこそ。只の人だからこそ、彼は歴史に名を刻む。
誰の為でも無く、自分の為にしか動けない利己的な人間。
そんな人物が、何時しか己以外の為に怒りを覚え始めて。
何の得にもならない、英雄的行動を成し得たが故にだ。
人は所詮、同じ状況に置かれなければ理解などしない。
かつてロン自身が同性愛者を病原菌と迫害をした様に。
此の世に蔓延る差別も言葉の上では美しく解消出来ようとも、実際に人として向き合えば上手く行かない事も屡々だ。
だからと言って、其れが世界に諦観する理由にはならない。
過去にロンと言う漢が存在した事が、碌でなしが己の意識を変え、そして世界を動かそうとした事実が存在する限り。
誰もが英雄と成る機会が有ると、確かに信じれるのだから。




