絢乱狂華
誰にだって夢は有る。細やかなでも、途方も無いのでも。
其の夢を叶える為に人は何かしらの努力をするのだが、時折、降って湧いた機会を掴み願望を叶える者が居る。
人に依っては此れを幸運と捉え、感謝もするだろう。
だが、油断は禁物だ。其の幸運は考えていたのと違う歪んだ物かも知れないし、叶えたかに見えた願望は実際には己以外の他人が見ている夢なのかも知れないのだから。
そして、最も注意すべきなのが自分が受け取った機会。本当に自分が掴んだのは幸運の贈物なのだろうか。
もしかしたら自分の掌中に有る其れは、誰かが零した不幸の結晶なのかも知れない。血と涙と、そして命の。
今回紹介するのはヘリオガバルスと言う人物。
ローマ史の中で最も暴虐で狂気染みた、最悪の皇帝で在る。
「新たなる日の出」
ヘリオガバルスは3世紀に実在した人物で、当時の覇権国家たるローマにて数奇な運命を辿った存在として識られる。
皇族の一人として此の世に産まれた彼は、其の高貴な立場を周囲に考慮され、若年にして司祭の職を任されていた。
古代ローマでは多くの神を容認、同時に信教の自由が保障されていた。其の内の一つを任されたと言う訳だ。
一神教と比べて司祭の重要性が些か低下しているとは言え、年端も行かぬ少年が高位の職に就けたのは自身の血筋、ヘリオガバルスの躰に流れる権力者の威光が為せる技で在ろう。
当時の彼に関する資料は余り遺されていないが、後の所業の割に敵対した勢力から悪行を取り上げられた節が無い点、自身の名に任じられた神の名を当て嵌めた事から察するに、神事を真面目に熟す人物だったと推測出来る。
大変な美少年との評判を世間から受け、時に女性にすら間違われたとの話も有る為、祭司としては神秘性を十分に孕んだ優秀な人物との可能性も強ち夢物語では無いかも知れない。
しかし彼の人生は此の後、大きく歪んで行く。他でも無い己の血筋、国を治めるに足る皇族の呪縛を持つが故に。
ヘリオガバルス、14歳の頃。運命の転機が彼に訪れる。
ローマを治める現皇帝を打倒するべく、新皇帝の神輿に担ぎ上げられたのだ。自身の出生すらも捏造されて。
此の時に権力の座を狙ったのは当人では無く、実際には母親の一族。先帝の時代に政治の実権を握っていた者達。
彼等は奪われた権力を取り戻すべく行動を起こし、母方の血統だけでは皇帝の根拠に乏しい事に加え、軍部に圧倒的な支持を受けていた先帝の恩恵を享受するべく、ヘリオガバルスの父親が先帝で在ったと事実を捻じ曲げて闘いを挑む。
先帝との不逞行為との嘘を吐き、母親の名誉を著しく傷付けてでも、件の一族は権力を握ろうとしたのだ。
現皇帝が軍部に人気が無かった事、即座に政権を掌握するべく入念な準備をしていた事が功を奏し、クーデターは成功。
競合相手の殺害にも成功した事で敵も居なくなり、盤石な体制で玉座を得た事を歓喜する新皇帝一同。
彼等は未だ識らない。自らが喜んで戴く美少年の彼が、後に史上最悪の皇帝とまで謳われる怪物と化す事を。
「光陰、肥大す」
皇帝を打倒し、新しい政権を創立したヘリオガバルス一行。
目紛しく状況が変わる中、権力者としての地位に立った彼が何をしたかと言えば、特に何事もしなかった。
実際に政治をしていたのは母親の一族ばかりで、ヘリオガバルスは正しく象徴としての役割しか担わなかったので在る。
幾つかの形式的な作業以外は碌に仕事もせず、日夜遊び呆けていたのは間違い無いのだが、不思議な事に真っ当に働かない彼への評価は意外と悪くはなかった。
政治を担う者からは煩わしく口を出される事が無く、市民からは其の美貌から何は無くとも人気が有り、前政権からの家臣には年齢の事から無邪気な行為と微笑ましく想われる。
まだ統治から日も浅いとは言え、彼の評判は簒奪を行ったにも関わらず良好で、寧ろ前皇帝よりも高い部分すら在った。
ヘリオガバルスの統治に暗雲が立ち込めるのは少し後、御飾りの王様が唯一実施すべき仕事を頼まれた時。
権力を確固たる物にすべく、後継を所望された際の事だ。
此の時、ヘリオガバルスは数度結婚したが、全ての女性と関係が破綻。一度も子供を設ける事が出来なかったので在る。
原因は全面的に彼に有った。女性に対して微塵も興味を持たず、性交渉に対して忌避している節すら存在したからだ。
幼年の時を神事に捧げた事で男女の営みに疎かったからのか、それとも、野望の為に家庭を崩壊させ、悍婦の蔑称すらも甘んじて受け入れた母親を連想して嫌悪感を抱いたのか。
何れにせよ彼の性格は美人を充てごうとも変わらず、当時の禁忌とされていた巫女との婚約を成しても一向に好転する事が無かった。此の事が切掛と成り、彼の人生は暗転する。
周囲からの期待、其れに応えられない事で受けた失望と侮蔑は、ヘリオガバルスの精神を急速に蝕んでいく。
次第に周囲の人間を信じなくなった彼は奇行が目立つ様に成り、自身の評価を些か下げた。が、其処で話が終わる。
御飾りの身では何も出来まい。此の様な人々の驕りが彼への無関心を呼び、ヘリオガバルスが闇を深める原因と成った。
誰も識らぬ苦悩を抱き続けた彼は、軈て自らの狂気に精神を取り込まれ、破滅的な行動に興じ始めていく。
「太陽が堕ちる刻」
ヘリオガバルスの晩年、彼が統治していたローマは華やかさや活発な雰囲気は鳴りを潜め、其の代わりに怒気と恐怖に満ちた陰鬱な都と化していた。
多数の神を容認し、信教の自由を認めていた国家は何処へやら、強制的に一神教へと領民が鞍替えさせられたからだ。
他人に対して猜疑心を強め続けた彼は、軈て人間其の物を信用しなくなり、幼少から信仰した神に依存していた。
寄る辺の無いヘリオガバルスには最早、神以外に縋る存在が居なかったのかも知れない。故に彼は唯一の理解者の為に、人々を強制的に改宗させて恩に報いようとしたのだろう。
しかし、彼の行った此の行為は最悪の結果を招く。
母親の一族、政治を担っていた者達の不興を買ったのだ。
幾ら実権の無い存在とは言え、自分達は皇帝の名を用いる事で漸く権力を掌握出来る。だが件の人物が此の体たらくでは叛乱を起こされるのは時間の問題。
そんな不安を抱いた彼等はヘリオガバルスに見切りを付け、別の後継候補の許へと一人、また一人と逃げ出して行く。
数少ない味方が消え去る中、当の皇帝は現況を気にするでも無く、神に対する供物を次々に捧げ続けた。
金品、祈祷、祭事、そして、人間。
ヘリオガバルスは既に廃れた生贄の儀を復活させ、無作為に選んだ領民を犠牲にして神への礼を尽くそうとまでした。
民衆を護るべき存在などでは無く、神に捧げるべき贄としか想わない程に、彼の人間不信は悪化していたので在る。
事此処に到り漸く皇帝の異常性に畏れを為した人々は、諸悪の根源を滅するべく王宮に突撃。皇帝の座る玉座まで突き進み彼の一族を惨殺し、道中でヘリオガバルスを引き摺りながら何度も殴打し続け、物言わぬ骸と化したのを確認した後、塵屑の様に川の中へと投げ棄てた。
幼少期、男女の境目すらも曖昧な、神秘的な魅力に溢れた少年は晩年、己の全身を見る影も無く叩き潰され、畜生にも劣る扱いを受けながら最期の刻を迎える。
産まれてから死ぬまで、一度たりとて神への祈祷を欠かさなかった彼だが、其の最期は無惨な結果に終わってしまう。
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ヘリオガバルスは統治している間、本当に何も政治的な行動をしなかった。一族に任せていたとは言え、仮にも最高権力者で在る人物が国政にまるで干渉しないのは非常に珍しい。
此れは彼が統治者として完全なる無能で在る事も示すが、同時に野望を一欠片も持たない純粋な人物で在る事も示す。
純粋、と言う言葉だけだと褒めてる様に思えるかも知れないが、此処で言う純粋とは損得感情では動かない、自身の倫理観だけで行動を起こす危険性の事を言う。
ヘリオガバルスは幼年時から司祭として宗教の世界に生きており、其れ故に制御し易いだろうと権力を狙う者に想われ、皇帝として担ぎ上げられるに至った。
彼等は理解していなかったのだろう。人形と人間は違うと。
自分の思うが儘に動く人間など、此の世に存在しない。
そんな当たり前の事も識らず、彼等はヘリオガバルスに自身の欲望を叶えさせるべく命令を続けた。
結果として彼は精神のバランスを崩し、ローマ史に悪名を遺す事と成る。ヘリオガバルスの悪事を擁護する事は出来ないが、彼の置かれた状況を鑑みるに母親方の一族が野心を持たなければ、神秘的な良き司祭として一生を終えられた可能性は高い様に個人的には想う。
ヘリオガバルスは女性との結婚生活が全て破綻した後、或る男性との婚約を行い、新婦役を担って結婚した。
当時、ローマ中から強く非難された此の恋愛劇は、拠り所の無い彼が抹消された父親の偶像を求めた結果の、酷く哀しい憧憬の成れの果てなのかも知れない。




