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歴史人物浅評  作者: 張任
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同腹一心


僧侶、と聞くと人は敬虔で優しく、それでいて何処か弱々しげな雰囲気を持つ、そんな人物を思い浮かべてしまう。


実際にその手の人物は多く存在してはいるのだが、それが僧侶の全てかと言うと、そういう訳でも無い。


学問に勤しむ研究肌の者もいれば、信者獲得の為と熱心に説法を説いて回る者もいる。組織内での権力を得ようと画策する者もいれば、僧侶の職を悪用し甘い汁を吸う者もいる。


様々な僧侶がいる中で最も異質な物を挙げるとすれば、やはり武力を持つ僧、僧兵と呼ばれる者達が挙げられるだろう。


和を説き、生命を慈しむ筈の者なのに、その手に敵を殺める武器を持つと言う事はどういう事なのだろうか。


矛盾している様に見える、僧兵という存在。その謎を解き明かす為には、彼等を率いていた大将について知る必要があるだろう。


下間頼廉。


信長を最も苦しめさせた勢力たる本願寺、その全軍を率いた坊官の生涯について、今回は記そうと想う。


 ---------------------------------


1.

下間頼廉は戦国時代、本願寺と呼ばれる寺院に存在していた僧侶であり、武将でもある。


一見すると相反する要素に思える僧侶と武将だが、この二つが合わさっているのには理由が存在する。


平安時代より以後、各地に出没する野盗や武装勢力を脅威と感じていた寺社の面々は、抵抗する力として僧兵と呼ばれる武力を保持する様になり、何時しかそれが常態化していた。


この武力の保持は全国が統治され、中央での支配が為された後でも行われており、当時の権力者達は信者も含めれば相当数に上る寺社の勢力に手を焼いていたと云う。


それを象徴する話として『強訴』と呼ばれる物があり、何かしら寺社にとって不利益な出来事が起きたり、政策が敷かれると、怒った寺社側が僧兵や信者達を武装させて中央へと殴り込み、自分達の意見を通すように願い出るという、手っ取り早く言えば脅迫が罷り通っていた程であった。


この様な歴史もあって寺社に武装した者達が居るのは最早当然の事となっており、武装をしたとなれば今度は戦術をと、軍学を修める坊主が現れる事も何ら珍しい事では無かった。


さて。


頼廉が属していた本願寺、及び信奉していた浄土真宗は戦国時代、非常に大きな勢力となっていた。


各地で戦乱に明け暮れ、現代とは異なり食糧事情も儘ならない状況では、本願寺の唱える手軽かつ戒律の緩い救世の教えは非常に魅力的な物で、主に生き死にの瀬戸際にいる底辺層を主力として大多数の信徒を得ていたのである。


加えて当時の指導者・顕如のカリスマ性があり、武士などに極めて高い人気を誇っており、更には本拠が貿易などの中心である経済都市・堺の近くであった事から寄進の量も多く、金銭に困る事は無かったと云う。


この様に規模・経済共に非常に大きな力を持っていた本願寺は寺社の域を脱し、もはや武家の一つと呼べる程に強大な存在と化していたのだ。


そして組織が強大に、膨大になると、それを統率する者も多数必要となる。件の坊官・頼廉も、そんな統率者の一人であった。


2.

頼廉は本願寺の指導者である顕如の側近として、若き頃から様々な仕事を担ってきた。儀式的な物から実務的な物、金銭面での遣り繰りから軍事関係まで様々な事をだ。


武力、経済共に『寺社としては』大きかったに過ぎぬ本願寺を一端の勢力にしていたのは、彼等の様な人材が努力していた事も大きかっただろう。


それでも所詮は寺社の一つ、武士の力が弱く大手を振っていられた平安時代ならいざ知らず、日本中の武士が天下に覇を唱える戦国時代において、わざわざ武家と事を構えるなど利益が無い…筈であった。


しかし天下統一を考えていた戦国大名の織田信長は莫大な軍事費から多額の金銭を欲しており、その為に日本屈指の経済都市であった堺、並びにそこを支配している本願寺の地をなによりも渇望していた。


その為か、信長は本願寺に対し、度々と多額の金銭を要求している。要求を呑んで金銭が貰えるのなら御の字、拒否されても戦争の大義名分を得る事が出来る故、この様な高圧的な態度を取っていたのであろう。


本願寺側もそれは重々承知しており、最初の内は要求を呑んでいたものの、度重なる信長からの要求に危機感を抱いた本願寺の指導者・顕如は、遂に信長との戦争を決意。


織田家を信仰を妨げる仏敵として認定し、全面戦争を起こしたのである。この時、本願寺軍を指揮する総大将となったのが下間頼廉であった。


3.

頼廉は上記の様な経緯で総大将となった訳だが、日の出の勢いにあった織田軍に対し、職業軍人たる武士が存在しなかった本願寺は如何ように戦ったのだろうか。


どう足掻いても個々の武力では敵わない相手、それに対抗する為に打ち出した頼廉の策は物量作戦、加えてゲリラ戦や暗殺などを積極的に用いるという、所謂『普通の戦』をまるでしない特異な物であった。


当時、本願寺は圧倒的な速度で信徒を獲得しており、全国各地に潜在的な軍隊を持っている様な状況ではあった。


しかし当然の事ながら、彼等は正規の軍人では無い。戦闘の訓練どころか、戦場に出向く心構えすら出来ていない。本来なら、そんな人間を戦わせるのは至難の業だと言えよう。


この難題を、頼廉は物語を用いる事で解決に導く。


普通の村人に対し、彼が語ったのは『仏敵・織田信長が貴方達の安心を奪おうとしている』という物であり、遠い存在である筈の戦国大名を、否が応でも意識させる代物であった。


本来、信長は本願寺を迫害しようとは考えていなかった。


何故なら彼が欲していたのは本願寺の土地、及びそこから産み出される無尽蔵の金銭であり、自身の宗教観に合わないから攻撃しようなどという物では無かったからだ。


だが頼廉はその事実を捻じ曲げ、信徒の心の拠り所であった宗教を破壊しようとする悪であり、この暴挙に対して我々は団結して立ち上がり、敵を粉砕しなければならない、という非常に分かりやすい勧善懲悪の物語へと置き換えた。


この物語は実に効果的に作用し、遠い話に感じていた(というより実際に遠い話なのだが)合戦を身近な物であるかの様に思わせる事に成功させ、各地の信徒を戦う事も厭わない戦士へと変貌させたのである。


加えて頼廉は『進めば極楽、退かば地獄』という文句を掲げ、それを戦場や拠点で幾度も叫ばせる事で信徒達の恐怖心を麻痺させ、無敵の兵士へと仕立て上げもした。


たかが言葉一つで人間の意識が変わるのかと疑問に思われるかも知れないが、皆で同じ言葉を共有し、何時如何なる時でも叫ばせる事は、否応も無く集団としての意識を強くし、個人の意志を失わせ、集団の為に全てを投げ出す人間を作る方法として広く用いられている。


有名な例としては、三国志の時代の始まりとなった黄巾の乱が挙げられるだろう。


『蒼天已死す 黄天正に立つべし』の文句で正義と悪を極端に単純化し、皆で『中黄太乙』の言葉を共有した黄巾賊は、個人が命を惜しむ事無く、皆が皆、集団の目的の為に苛烈な戦場へと赴き、結果、国家の屋台骨を根幹から破壊する事に成功したのだ。


頼廉はこの成功例を分析し、それを実行に移したに過ぎない。そしてそれは、あの織田信長をして生涯で最も苦戦させた相手として史書に残される程であった。


そういう意味では、頼廉の最も優れた部分とは坊官らしからぬ戦争関係や経済関係では無く、人々を扇動し狂乱させる煽動者アジテーターの才であったのかも知れない。



4.

頼廉率いる本願寺軍は各地での蜂起などによる大量な、かつ急襲行為を行い、全面での防衛を余儀無くさせられた織田陣営を大いに苦しめていく。


普通の一揆ならば、鉄砲が一鳴きでもすれば恐怖に煽られ、蜘蛛の子を散らすように逃げる物なのだが、上記の様に頼廉によって恐怖心が麻痺した民衆は、死ぬ事すらも恐れぬ無敵の兵士となっており、織田軍はこれにも手を焼いた。


加えて各地で蜂起した一揆衆の為に、本願寺は貯蓄していた金銭を放出し、装備や食料などの継戦する用の準備、それらの援護を潤沢に行いもした。


これらの点から本願寺軍は極めて厄介な集団と化し、それまで破竹の勢いにあった織田軍は大量・無敵・金満の相手に後手後手の戦をしなければならず、攻勢の時の勢いが嘘の様に苦戦を強いられる。


このまま順調に戦況が推移すれば、本願寺が織田に勝利する日も遠くない…かに思われた。


だが戦況は頼廉の期待を裏切り、悪い方向へ向かっていく。


同時に織田家と対抗していた他の大名家が次々に脱落し、孤立無援と化した事で本願寺の負担が急増。


流石の金満勢力と言えども勢いに陰りが見えた所で、織田家が戦略を転換し、真っ向勝負から兵糧攻めなどの搦め手を重視するようになったのも追い討ちとなる。


戦場では死をも恐れぬ無敵の軍勢も、戦う場を与えられなければ食糧を喰むだけの荷物となってしまう。数を最大の武器にしていた本願寺軍は、その数を逆に利用され、次第に弱体化していく。


更に兵糧攻めと云う戦術は一歩一歩、歩みは遅くとも着実に死に近付かせる方法であり、日々衰えゆく身体は頼廉が麻痺させた恐怖心を再燃させるに十分な要素であった。


一度でも恐怖を思い出した人間は、もはや前の様に死を恐れぬ兵士になる事は出来ない。まして、それが只の一般人ならば尚更の事である。


こうして織田の長期的な戦略によってジリジリと追い詰められていった頼廉は、指導者である顕如との再三の会議を重ねた結果、朝廷を用いての和議を執り行う事を決断。


信長と顕如、そして総大将として軍団を指揮していた頼廉を交えての和議は、当然の事ながら本願寺に不利な条件(指導者・顕如の追放など)を付けられて締結となり、長きに渡った戦争も形だけながら終焉を迎えた。


形だけ、と言うのは依然として織田家に反抗していた一揆衆は数多く存在したからであり、頼廉はこれらの軍団を訪ねては鎮撫を行う行脚に追われる事となった。


現代でもそうなのだが、物語を用いて感情に訴える洗脳方法は、いざその洗脳を解く際に凄まじい労力を必要とする。象徴となっている人物…この場合は顕如が姿を現す事が出来ないとなれば尚の事だ。


しかし頼廉は辛抱強く説得を行い、幾度と無く武力放棄を訴えた。


内外からの再三に渡る一揆の誘いにも決して乗らず、徹底して武力放棄の道を突き進み、信長からの不信感、並びに討伐に値する大義名分を与えない様に終始した。


その結果、信長が死んで秀吉の時代にもなると態度も軟化し、なんと追放された顕如を呼び戻す事に成功する。


面と向かって反抗したにも関わらず、徹底して武力から遠ざかった事により信用を得、戦国の世を生き延びる事に成功した本願寺。


その裏には一揆衆や権力者との交渉に尽力した人物、総大将たる下間頼廉の活躍があったのは疑いようが無い。


 ---------------------------


下間頼廉は信長を大いに苦しめた武将として名が知られており、鉄砲の名手として有名な雑賀衆の統領・雑賀孫一と並び立てて評され『大坂之左右之大将』として織田軍に恐れられていたと云う。


大将、と言うのは軍事面での能力の高さもさる事ながら、内政面・外交面でも高い能力を発揮していた事を意味する。


信長との抗争が続いていた頃、各地で一揆衆を率いていた坊官の中には権力を悪用し、与えられた物資や金銭を私物化する者や、一揆に加わった民衆を犬畜生の如く使い倒す者もいたと云う。


頼廉はこれらの人々に毅然とした態度を取り、厳しい処置を下す事で全体の士気が低下する事を未然に防いだ。


この事から分かる通り、彼は戦闘一辺倒の猪武者では無く、人を率いる大将の風格を備えた人物であった事が窺える。


戦争から一転、武力放棄を徹底して権力者の疑念を解消させ、指導者の追放処分を解除させた点も鑑みれば、政治的な才覚にも恵まれていたのだろう。


こうして頼廉の行なってきた事を見ると、僧侶というのは念仏を唱えるだけの存在では無く、軍事・政治などの見識にも優れた知識人の一種である事が分かる。


今の様に非暴力なイメージが培われたのも、彼等が自分の宗派を生き残らせる為にはそうした方が良いと考え、行動に移した結果なのであろう。


思えば僧侶から伝来した技術や思想などは無数に存在する訳で、それを思えば、戦国の世に於いて武家顔負けの勢力を寺や教会が持っていたのも、別段不思議だったり矛盾している様な話でも無いのかも知れない。

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