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歴史人物浅評  作者: 張任
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臥竜の横で


才有る者は歴史上にごまんといる。


彼等無くして歴史という大河は成り立たず、彼等無くして今の文明は存在しないと言っても過言ではない。


国を平定し、法を定め、争いを鎮圧し、飢饉や災害などから国家を守る為に尽力する。


そんな彼等の力が無ければ、今の世の中はもっと暗澹とした、暗く混乱した物となっていった事だろう。


しかし、世の中にはその才を発揮する前に亡くなってしまう者もまたいる。


彼等はその力を惜しまれながら世を去り、歴史上にポツンと残るだけとなっている。


彼等の才覚は誰の目にも留まらず、ただ流されていくだけなのであろうか。


いや、違う。


才覚を知り、世に出すことを考えた者達の記憶によって、記録に残されているのが常であろう。


この先、何事かを成す者をあらかじめ書き記しておき、彼等が活躍をした際に人となりを示す為に日記なりを書き記す。


彼等の歴史という物を、後の世に書き伝える為に。


三国志の時代。悲運の運命を辿り、歴史に名を残せなかった人物は多数あれど、今回紹介するのは、その中でも才を評されながらも上手くいかなかった人物の一人。


ホウ統。


伏龍・諸葛孔明の対として鳳凰の雛の名を冠した智者である彼について、今回は記していこうと想う。


 -----------------------


1.

ホウ統とはどのような人物なのだろうか。


私の拙い知識での話ならば、彼は荊州出自の智者であり、水鏡先生と称された人物・司馬徽によって才を見出され、鳳凰の雛と称される程の激賞を受ける。


その後、劉備によって見出されて地方の統治を任せられるも、本人の資質と合っていなかった為、やる気が出ずに成果をあまり出せずじまい。


その結果に見切りをつけようと劉備がした所、さまざまな人物がホウ統を擁護していく。


曰く、彼の能力には合う場が存在するのだから、場を用意すれば自然と才覚を発揮するだろうと。


それを聞いた劉備は得心が行き、彼を軍師として扱う様になっていく。


その結果、彼は自らの才覚を発揮し始めて、軍略の面に於いて劉備の補佐をし始める。


彼の知略は中国は益州と呼ばれる地域を奪うという策をもって、劉備を三国の一角へと押し上げる大きな一助となった。


しかし、その途上で敵の策に落ち、惜しむらくもその命を散らした…と言った所だろうか。


さて、この不幸なる最期を迎えた御仁、本当は如何なる御人であったのだろうか?


彼の出身は荊州の名門出であったようだ。


家柄からか若くして英才教育を受けて多大なる知識を蓄えたものの、風体が芳しくなく口下手でもあった為、あまり人からの評価は良い物では無かった。


それもあってか幼年期の彼は引っ込み思案で自身の余り無い子供だった様だが、人物鑑定で有名な司馬徽にその才を評価された事や、他の人物からも「半ば英雄の兆しあり」との評を受けたことで自信を獲得。


ここからホウ統の周囲からの評価も上がっていき、その後は呉の周瑜の部下となったようである。


ここからも分かる通り、彼は蜀と言うよりは呉に近しい人物であった。


彼の死体を呉へと戻した際には孫権始め名家がホウ統の元を訪れ、交流を深めたとか。彼が帰る時には名だたる名士が見送りに来たと言うから、ホウ統の家の名声と才覚が如何に評価されていたかが良く分かるという物であろう。


2.

呉より戻って以降、ホウ統は劉備の部下となり、地方の長官としての仕事を任ぜられた。


しかし、この仕事がホウ統の資質に合っていなかったのであろうか、彼はこの任ぜられた命を上手くこなす事が出来ず、劉備からの評価を著しく落としていた。


劉備という男は人の資質を見る際、早々に見切りを付ける癖があるようで、彼はこの不甲斐ない結果を見た事で、ホウ統に使えない奴と見切りを付けようとする。


しかし、これに対して旧知の仲であった諸葛亮や長年親交のあった魯粛等が異論を唱え「彼の才能はそんな場所で用いるべき物では無い」との言葉を残す。


人の意見を柔軟に聞く事で乱世を生きてきた劉備である、彼はこの言葉を信じてホウ統との直接面談を行う事となり、ここでホウ統の才覚を真に知った劉備は彼を参謀として扱う事としていく。


諸葛亮が内政の才を持つ男であるならば、ホウ統は軍略の才を持つ男であった。


先にも記したが益州と呼ばれる地域を奪う事を進言したのは、史実でもホウ統である。


彼は簒奪行為では無いかと入蜀を渋る劉備を説得し、後々の統治が良ければ皆が納得するとの言葉で益州獲得を動かしている。


劉備は諸葛亮の進言には度々と難色を示していたが、ホウ統の言葉には余程考えが合ったのか、殆ど議論となる事も無かったという。


言葉巧みに劉備に献策を行うホウ統が居なければ、三国志という物語は存在していなかったと言っても過言では無いだろう。


3.

劉備の入蜀は思ったよりもスムーズに進んでいた。


というのも益州を支配していた劉璋、彼の統治力に疑問を持つ現地の家臣達の幾人かが手助けをしていたからだ。


そもそも劉備自体、劉璋からの要請で益州に入った身。


客将としてもてなされはしても、よもやその相手が自分の領地を狙っているとは劉璋も考えはしなかった事だろう。


途中で陰謀がバレてしまい、攻撃を受けることになってはしまったものの、その時には現地での支持も取り付け、反撃する態勢を用意する事も出来た。


この態勢を用意出来た事は極めて大きく、乱世にあって戦場を知らぬ劉璋軍の後手後手の戦略に対し、先手先手を取る事が出来た劉備軍はあれよあれよと首都近辺まで侵攻。


あわや益州を取る事が出来る寸前まで行く事が出来た。


しかし、ここで一つのアクシデントが起きてしまう。


この絵図を描いた軍師、ホウ統が矢を受けて戦死してしまったのだ。


益州獲得の策を一手に担っていた軍師の退場の影響は極めて大きく、首都を目前にして劉備軍は足踏みするばかりで状況がまるで好転しなかった。


結局は軍師不足に喘いでいた劉備軍の弱点がもろに出てしまい、この苦境を打開する為に諸葛亮を呼び寄せることになるのだが、これが切っ掛けとなり劉備軍は経済の要たる荊州の地を失ってしまう。


結果、益州を獲得する事には成功したものの経済面での不安が常に付き纏うようになり、真っ当な戦略を立てることすらも難しくなってしまったのである。


たかが軍師一人、されど軍師一人。


軍の行く末を左右する人材、ホウ統の死はこうして劉備軍に暗い影を落とす結果になってしまったのであった。


 -----------------------


ホウ統の人間性を示すエピソードにこんな物がある。


彼は若い頃に評判となった際、ホウ統の名声に肖ろうとする者達から人物評をひっきりなしに頼まれた事があった。


この際、彼は如何なる人物に対しても褒めるばかりで、厳しい事を言うことは一度たりとて無かったという。


これを見た友人の一人は「何故そんな風にするのか、物にならない人とて居るだろうに」との言葉を残す。


それに対してホウ統は事もなげにこう言い放った。


「こんな乱世の時代に何を好んで暗い事を言うのかね」


「世に人が飛び立つ助けとなるならば、私の言葉なんぞ喜んで差し出そうではないか」


「私の言葉で人一人世に飛び出すとしたら、これほど喜ばしい事はあるまい」


この言葉からも分かる通り、利益よりも彼は人間の心を重要視する節が見受けられる。


諸葛亮の提言に難色を示しがちで、我を通す事が多い劉備がすんなりとホウ統の言葉は聞いたのは、考え方が似通っていたからであろう。


政策などは人情よりも理論の方が優先される物だ。


システムに不確定要素たる感情を入れ込むのは極めて難しく、利益になり辛い。


それ故なのだろう、内政に特化していた諸葛亮は戦争を得手としておらず、革命的な政策を以て蜀の運営を行っていた。


対して、ホウ統はどうか。


彼は理論よりも先に人の感情を重視しているように思える。


システムに於いては感情というのは不必要な物だが、戦闘ともなれば感情は切っても切り離せない代物だ。


人間の功名心や臆病さ、勇猛果敢な心意気などを巧みに利用し、戦場を支配するのが軍師の仕事である。


連携を崩し、猜疑心を増し、敵軍を阿鼻叫喚の渦に巻き込むには人の心を知る必要がある。その点に於いてホウ統は三国でも一、二を争う知力を持っていた。


人の長所を見抜き、それを煽てる力があるという事は、人の短所をも見抜き、それを煽る力を持つ事に繋がるからだ。


文官・軍師不足に喘いでいた劉備軍にとって、この能力を持つ人間が加入した事は幸運な事であったろう。


実際、彼が参入してからの劉備軍は破竹の勢いで敵軍を蹴散らし、本拠地を狙う位置まで進軍する事が出来た。


しかし、彼が死んだのは劉備軍にとっては極めて不運な出来事であったのも事実である。


本来ならば益州制覇まで戦う予定のあった軍師が居なくなった事でまたしても軍師不足に喘ぐ事となり、経済の中心で働いていた諸葛亮を呼び出す事となってしまう。


結果、劉備軍は益州を手にする事は出来たものの、荊州を失うという手痛い出費を払う事となってしまった。


それだけでは無い。


これにより呉との関係が悪化してしまった蜀は単独での魏攻略を余儀なくされ、極めて難易度の高い侵攻をするしかなくなってしまった。


これらの点を鑑みると、ホウ統と呼ばれる人物は思ったよりも大きな存在であった事が分かる。


例え歴史上に名を残す功績を残せずとも、当時に於いては替えの効かない存在とはいるものである。


ホウ統について調べると、その事が如実に分かる物だ。


そして、それは今を生きる私達も同様であるかも知れない。


自分達のしている事は俯瞰して見ると小さく見えるかも知れないが、その場に於いては大きな出来事であるとも言える。


事の大小を歴史に委ねた所で、その事自体には意味は無いのではないだろうか。

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