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歴史人物浅評  作者: 張任
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叛逆の烈士


挫折という物が人生には存在する。


仕事、勉強。友人活動や恋愛、如何なる物にもだ。


大いなる物に阻まれて、己の失策によって、運命の悪戯か、はたまた人間自身の業による物か。


理由は多岐に渡れど失敗なんてのは誰もがするもので、それが原因で苦い思い出をした人も多いだろう。


二度と味わいたくない苦渋の味…しかし、世の中にはそんな辛酸を幾ら味あわされても諦める事を知らぬ、反骨精神の塊の様な人物がいる。


韓遂。


今回は三国時代、異民族の住む彼方から時の王朝に反抗を繰り返した御仁、彼について記していこうと想う。


 --------------------


1.

韓遂、字を文約。彼は北方異民族の討伐を生業とし、その功を以て役人に任ぜられる程の剛の者であった。


韓遂はかなり早い段階から名を成した人物であり、黄巾の乱時には一軍を率い、反乱軍と戦っていたと云う。


その名声は当時の軍事的最高権力者、大将軍たる何進の耳にも届き、一度面会をしてみたいと遠方から態々呼び寄せる程だった。


出会ってすぐに何進は韓遂の武名を褒め称え、次いで我が国を良くする為には何をするべきかを問う。


すると韓遂は、こう答えた。皇帝におもねり、真実から目を逸らさせ、我欲を貪る近習の者達を討伐すべしと。


一見すると不敬にも思える発言ではあるが、当時としてはこの発言、別に珍しい物とは言えない。寧ろ、主流の一派であると言っても過言ではなかろう。


と言うのも当時の王朝は汚職の全盛期。賄賂と讒言が飛び交い、私利私欲で権勢を振るう者の手によって、中国全土が疲弊し切っていた時期だったからだ。


多少なりとも真っ当な倫理観、若しくは未来を見据える目を持つ者から見れば、このまま行けば国家の破滅は必定。


すぐにでも対処すべきだと諫言を申すのは当然の話なのだが、これに対して何進は返答を渋った。なにせ当の本人がその汚職で大将軍になった身であったからだ。


煮え切らない態度を取る相手に対して呆れたのかどうかは知らないが、韓遂はさっさと郷里に帰ったとされる。


此処にいても目的は達せられる事は無い、そう考えたのだろう。その時の彼の心中を推し量る事は出来ないが、無念の気持ちで一杯だったに違いない。


彼はこの時、微塵たりとも思いもしなかっただろう。


あろう事か自分の軍を興し、王朝に対して幾度と無く反乱を繰り返す日々が直近に迫っている事を。


2.

失意の韓遂が故郷に帰ると、そこで待ち受けていたのは反乱であった。


異民族と現王朝に対して不満を抱く者、盗賊などを加えた大軍勢が地方にて決起したのである。


この反乱に巻き込まれた韓遂は成す術無く虜囚の身となるが、この後すぐに予期せぬ事態が訪れた。


この大規模な反乱軍自体が、彼に総大将の役をしてもらいたいと請うてきたのだ。


元々が寄せ集めの様な軍団である。数だけは一丁前に膨れ上がりはしたが、統制なんぞまるで取れていない。


そこで彼等は己らを律する人材を求めており、白羽の矢が立ったのが異民族や反乱討伐で名を成していた韓遂であったという訳である。


この要請に対して韓遂は拒否できる様な状況下で無い事、いい加減に宮仕えが嫌になっていたのも重なり、これを承諾。


勢いそのままに反乱軍の首領として、王朝に対して攻撃を開始する。そして此処から、彼の激動の人生が始まっていく。


先ず第一回目の反乱。官軍との戦闘にも連戦連勝、このまま中央まで行くやもしれぬ、そんな勢いでいた韓遂の軍勢の前に、或る一人の将軍が立ち塞がった。


同じく北方の雄、後に魔王と恐れられる董卓である。


彼の軍勢には異民族の騎馬戦術がみっちりと仕込まれていた上、士気も高く統制も取られていた。


如何に韓遂の名で結束したとは言え、反乱軍は僅かの期間しか一緒に居なかった、にわか仕込みの素人軍団。


本場の戦闘に慣れている兵士集団に戦って敵う訳も無く、あっという間に蹴散らされ、敗走して一転窮地に陥る羽目に。


そんな進退極まった時、韓遂が取った行動は或る意味で驚くべき物であった。


なんと自分を担ぎ上げた反乱軍の将軍達の首を奪い、つい先日まで激戦を繰り広げていた官軍の前に降伏したのである。


本来ならば如何に已む無い理由があれど、国に弓引いた反乱軍の総大将となった以上、極刑以外の道は無いのだが、彼には勝算が有った。


当時、国は大いに乱れて混乱の真っ只中。国力は下がり切っており、異民族の侵攻に中央は日々怯えていた。


そんな中で討伐の実績があり、異民族にも名声を轟かせている武闘派の重臣たる己を殺す勇気や正義なぞ、今の王朝は持ち合わせていないと踏んだからだ。


実際、韓遂は徹底的な追求をされる事も無く、地方で己が軍勢を持ち続けたまま、放置された。面倒事には関わり合いになりたくないとなった訳である。


かくして彼の叛逆の道は、此処に開幕を遂げたのだった。


3.

韓遂、二度目の反乱。それは意外と早く、前回から2年も経たない内に起きた。


幾ら処罰が軽かったとは言えど、反乱軍の大将を勤め上げたのである。流石にこんな奴に地方の統治は任せられんと、他の人材が韓遂の元領地には充てがわれた訳、なのだが。


しかし、この男が佞臣の言に従い、好き勝手し始めてしまった為、当然ながら住民達からの不満が大爆発。


異民族と手を取り合い、またしても大規模な反乱が発生してしまう。この時、韓遂は自らの意思で反乱に参加している。


恐らくは以前の対応から現王朝に見切りを付けたのだろう、今度は自らの野望を伴い、己が為に叛逆をしたのだ。


この時もまた大勢を駆って幾分かの戦績を残したものの、やはり董卓の軍勢に阻まれて敗北してしまう。


この時は反乱の指導者が自分では無かった為、その男を追放して自分が権力を握ろうとしたものの失敗。


残った勢力同士で不毛な権力争いが始まってしまい、この二度目の反乱はグダグダのまま、内輪揉めで終わってしまう。


この経験を得た韓遂は勝算や統制が取れないまま戦っても徒労に過ぎないと知り、機が訪れるまで恭順の姿勢を見せる。


折しも二度に渡って侵攻を阻んできた董卓が死に、今度は官軍側が権力争いで消耗していた頃。


これ幸いと北叟笑んだ韓遂は、董卓の後を継いだ李傕・郭汜の両名の元に馳せ参じ、表向きは配下となる事で自身の領地と行動への介入を阻止。


虎視眈々と反乱の機会を窺っていたのだが、此処でまたしても問題が起きてしまう。


彼が行動を起こす際、協力関係を結ぶ筈だった諸勢力の一つが先走り、李傕・郭汜に対して反乱してしまったのである。


如何に策を弄そうとも、事が起きてしまった以上は動かなくては全てが水泡に帰す。


なので仕方なしに反乱軍と合流したのだが、これが中々上手くいかない。


根回しをし、味方になってくれる筈だった勢力はタイミングがズレたせいで合流出来ず、敵に至っては内輪揉めを止めて一致団結する始末。


敵は減らず、味方は増えず。こんな有様では戦に勝てる訳も無く、韓遂は今度の反乱も失敗し、逃げ帰る羽目へと陥る。


同郷の誼で追手からは見逃され、命からがら本拠へ戻った韓遂。さしもの彼も三度失敗すれば諦める…なんて事は無く。


味方を作るべく、この反乱で意気投合した者と義兄弟となり、自分の勢力増強を図るものの、これもまた失敗。


打算で得た信頼だからなのか、それとも元から相性が良くなかったのか、はたまたそれが彼等の生き残る戦術なのか。


なんにせよ義兄弟同士での勢力争いにまで発展し、勢力増強どころか減少する憂き目に遭ってしまう。


さしもの韓遂もこの状況は応えたようで、暫くは野望を見せる事は無くなった。見せる余裕が無かったというべきか。


幾度か攻勢を仕掛けるも、その度に失敗してしまった彼を尻目に、天下の趨勢はゆっくり、しかし確実に変化していく。


その天下のうねりは北の果て、中央から遠く離れた韓遂をも巻き込んでいくのであった。


4.

董卓の死後、中国では二大勢力が天下を巡って争っていた。


名門として名高い袁紹と、稀代の奸雄と評された曹操。


彼等は互いに鎬を削り、我が先に天下に覇を唱えんと戦いを続け、遂には決戦の時を迎えるまでに至っていた。


さて、そんな時代の変わる潮目とはてんで関係の無い所に居た韓遂は、しかし、思わぬ所でこの大戦の片方、曹操と関係を結ぶ事となる。


と言うのもだ、袁紹との決戦に総力を注ぎたかった曹操にとっては、韓遂の居る北方に予備戦力を投じる余裕が無く、後方の不安を抱えるよりは懐柔するがよしと判断したが為、なるたけ良き関係を結びたかったのである。


それは韓遂としても同じ事で、諸勢力との戦闘で疲弊していた彼にとって、臣従すれば安心安全を確約する曹操の申し出は喉から手が出る程欲しい代物であった。


かくして両者の利害が一致し、彼等は協力関係を結ぶ事となる。曹操は勢力の安全を約束し、相手側は周りの勢力を説得して、人質を送る事に成功。これによって目出たく曹操と韓遂は仲良く手を取る関係へと落ち着く


なんて事は無かった。


袁紹との大戦に勝ち天下取りに王手を掛けた曹操は、他の地方への進出も兼ねて、諸勢力への介入を強めていく。


その際に韓遂の領地を通る事があったのだが、この際、彼に対して『反乱し続けている自分達を、果たして曹操が見逃すだろうか』という危惧が襲い掛かる。


不安というのは何時の時代も強い物で、自分達にも同調する者が数多く存在したのも後押しし、元から敵意を持っていた者などと共に連合を結成。


曹操の大軍相手に大量の勢力が力を合わせて戦う、過去一の規模の反乱を起こすに至ったのである。


この反乱は当初、異民族をも擁する連合側有利に進んでいたものの、相手側が本腰を入れ始めると泥沼化。


長期戦になる事を嫌った曹操により、とある策を用いられた事で、連合軍側は危機に陥る事となる。


その名は離間の計。


これはあくまでも自領が脅かされるではないかという理由で動いていた韓遂と、曹操憎し若しくは危険視していた者達の仲を引き裂くという物。


そこまで相手を憎んでおらず、ともすれば有利な状況での講和を目論んでいた韓遂に対し、敢えて好意的な反応を示す事で連合軍の疑心暗鬼を誘うこの策は成功。


あっという間に連合は瓦解し、またしても韓遂の反乱は失敗に終わってしまったのだった。


この失敗は晩年にまで尾を引き、勢力が回復できなかった韓遂は、今度こそ自領を奪いに来た曹操に対し苦戦を強いられ、劣勢の姿を見た部下達の造反によって殺害される。


齢にして70年。数十年にも渡って反乱を繰り返してきた彼の人生は、己が反乱をされた事で幕を閉じる悲劇的な結果に終わってしまったのである。


 --------------------


韓遂は何十年もの間、王朝への反乱に身を費やしてきた。


しかし、その成果は必ずしも芳しい物では無く、物によっては手痛い打撃をも受けている。上記で記されている大きな反乱は、その最たる例だと言えよう。


結局の所、彼の反乱は無念の結果に終わり、歴史にほんの少しの爪痕を残すばかりの結果に終わってしまった。


後の史書からすれば、韓遂の名は無謀な反乱を繰り返した者と記されてもおかしくは無い。如何に手を尽くそうとも結果が付いてこない以上、評価が低くなるのは仕方がない。


が、それはあくまでも結果論的な話であって、当時の評価としてはどんな物だったかと言うと、それはまた違う話だ。


韓遂は幾度も失敗していたにも関わらず、その勢力が晩年に至るまで潰える事は無かった。


当時の王朝に対する不信感、董卓・曹操に対する世の敵意など理由は多岐に渡れど、異民族を含めて群衆を纏め上げ、複数回反乱に導いた手腕は評価に値する物と言えるだろう。


また本当に最後の最期、大軍に迫られてもはや打つ手無しの状態に至るまで自領内で大規模な反乱が行われていなかった点を鑑みると、統治能力も中々の物である事が窺える。


多数の勢力と綿密に連携し、力押しだけでは無く策をも弄する点を見ると、韓遂には将たる才が十分に溢れていると思えてならない。


考えてみれば失敗続きだったのは、後に三国の一角を担う事になる劉備とて同じ事。


それを考えると極めて長期間に渡り抵抗を続け、一端の勢力として世に生き続けていた韓遂もまた彼等と並び立つ才覚を持つ、一匹の臥龍と見る事も可能なのではないだろうか。

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