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歴史人物浅評  作者: 張任
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人斬りの一族


人は時に罪を犯す。そして、罪には罰を以て報いる物だ。


紀元前の法律として名高いハンムラビ法典には、有名な一文たる『目には目を、歯には歯を』という刑罰が存在する。


遥か昔から善悪や利害、犯罪の抑止や統治の手段として法律や約束事は設けられ、それを破った者には様々な種類の罰則が課せられてきた。


禁錮や労役、犯罪者である事を示す入墨刑や、遠地への追放など……その中には更生の余地無し、殺すよりほか術は無しと、死刑に処される者達もいる。


さて当たり前の話だが、刑罰なんてのは囚人一人で実行出来る物では無い。それを実施、管理する人間も必要となる。


監視・拘束する役の看守、量刑を推し量る裁判官、諸々の手続きを行う官吏、そして、極刑を実施する執行者もそうだ。


江戸時代。


罪人を斬る事を生業とし、幾千、幾万人もの人間を処刑した一族が居た。


山田浅右衛門。


今回は執行者の称号たる『浅右衛門』の名を引き継いできた者達、彼等の人生について記そうと想う。


 

  ----------------------


1.

家畜だろうが、人間だろうが、生物を殺める事を生業とする者は、どうしても非難の目に晒される事が多い。


古代では肉屋を賤業と看做す者が数多く、生物を悪戯に殺めているとして穢れを溜める職業、つまりは穢多えたとして謂れなき差別感情を向けられていた。


古代中国の小説では度々、肉を斬るのが上手いのなら人を斬るのだって上手いだろうと、豪傑が肉屋を営んでいる事がやたらと多い。これは結構酷い話だと思う。


そんな訳で世間感情からは忌み嫌われていた彼等であったが、経済的には成功している者もまた多かったと云う。


これは屠殺業は嫌われても動物の肉を嫌う者が少なかったが故、競合相手が少なく利益を独占出来たのが原因だろう。


もしかしたら上記の忌み嫌われる声の中には、彼等が裕福なのを妬んだ声も少なからず有ったのかも知れない。


閑話休題。


話を戻し、山田浅右衛門の家について話す事にしよう。


山田家の歴史は存外に前で、江戸幕府初代将軍・家康の頃から仕えていた古株であった。


先祖は家康の子である忠輝、彼の重臣であったらしく、その点から察するに中々の能力と器量の持ち主だったのだろう。


が、主君である忠輝が不興を買って失脚すると、それに連坐する形で切腹を申し付けられ、敢えなく死去。


その後、家族は浪人となり各地を流浪する事となる。


この一族に転機が訪れたのは、17世紀の話だ。


当時は天下泰平も長らく過ぎており、武器なんざ使った事も管理した事も無い武士が大量発生。


自分の刀が本当に使えるのかどうかすらも判断出来ない者が続出していた、所謂『平和ボケ』が生まれていた頃だった。


武器が本当に使えるのかは知りたい、でも武器を扱える自信はあまり無い。


そんな人間達が増え始めていた時分、何処かの誰かが一つの考えに至った。


「そうだ。武芸に長けた者に武器を鑑定させ、証明書を出して貰えれば良いじゃないか」


この何処か間違っている様な気がする結論、これに皆が同意を示し、突然と武士という武士が刀の鑑定を武芸者に頼む、謂わば鑑定バブルが発生する事となる。


何処の道場も刀を鑑定してくれとねだる者達ばかり、武芸者達の名と財が高まる中で、一際目立つ存在が現れた。


山田貞武、そう、追放され浪人となっていた山田家である。


定武は浪人生活中、武芸を磨く事に励んでおり(浪人の身で身を立てるならばそれしか道が無かったとも言えるが)、この時には屈指の剣客として名が売れていた。


加えて鑑定の内容も確かな物だったので大評判となり、リピーターも続々現れる程に盛況な有様だったという。


さて、客の数が日に日に膨らんでいくと、軈て幕府の耳にも定武の評判が届き始める。彼の実力を知り、元は幕臣の一人である事を知った当時の将軍は、彼等を再度雇用。


武器の鑑定を行う、謂わば武士の魂を預ける重要な職へと配し、山田家を再興させたのである。


そしてここから、彼等の『首切り役』としての異名が世に轟く事になっていくのだ。


2.

首切り役人としての話をする前に、武器の鑑定とは如何なる事をするのかを先ず話さねばならないだろう。


刀にせよ何にせよ、作った工匠や工法の知識は幅広く必要であり、それ以外にも材質や刃の反り、微妙な重さを判断するなど五感全てを用いた鑑定方法の習熟も不可欠。


知識と感覚で出来を幾分判断した後は、実践を用いて切れ味を確かめていく。この場合の実践とはつまり人肉を斬る事。


屍体を用い、実戦で使えるかどうかを判断するという訳だ。


切断方法は多種多様に渡ったとされる(厭な言い方だが、鑑定する顧客の趣味もあったのかも知れない)が、一般的には空手の試し割りみたいな形式が多かったようである。


無論、破壊するのはコンクリートブロックなどでは無く、実際の人体。縄で縛られ重ねられた、屍体の塊達である。


人間を斬る、なんてのは言うは易し、行うは難しの典型。


肉の油は切れ味は鈍らせ、骨を絶てば刃が毀れる。


変な角度で斬ってしまえば、刀は折れてしまう事だろう。


刀を折るなんてのは魂を預けた武士への最大の侮辱であり、そんな事故がもしも起きてしまえば切腹は確実、場合によっては御家取り潰しも有り得る。


そんな重責を背負いながら確実に仕事をやり遂げる技術、そして胆力に関しては、凄まじく高い水準を要求されていた事は間違いないあるまい。


武器の鑑定、なんて言葉だけ聞くと『な〇でも鑑定団』みたいな感じを想像してしまうが、その武器が家の名誉や家格を背負っていた時代に於いては、道楽では無く戦場に近い職業だったのではないかと、私は個人的に思っている。


確かな知識と技術、それから齎される数多の実績。


それ故なのだろうか、彼等は何時しか試し役のみならず、処刑人としての役割を求められるようになっていった。人を斬るのならば慣れてる奴に、という事だろうか。


この役割の追加に対し、山田家は一言も異議を申す事も無く、粛々と受け入れたと云う。栄達の為か、それ以外の道が残されていなかったのか、どうなのかは分からない。


その後、仕事を重ねていく内に首切り役人と呼ばれるようになっていった山田家は、軈て江戸の時代では極めて異常な方法で、代々の当主を決めるようになっていく。


即ち、完全実力主義。世襲が主であった当時に於いては、異常も異常な手法を彼等は敢えて取ったのである。


これは酔狂でも何でも無く、必要に迫られた結果としてこうなったらしい。


先にも記したが、試し役も処刑人も生半な腕では全う出来ない仕事である。増して実力を認められて職に就いた身、失敗なぞ許される筈も無い。


斯様な理由から山田家は血の繋がりを重視せず、門下生も含めた膨大な人数の中から一番の実力者を代表としたとか。


この時、一族の者以外が代表となった際の名として『山田浅右衛門』が用いられるようになり、軈てその名が彼等の全てを表す様になっていくのである。


3.

処刑人の仕事を得、象徴たる『浅右衛門』の名を得た山田家は、一部には穢れを纏う一族と忌み嫌われたものの、その生活振りは存外に裕福な物だったと云う。


これは本来の仕事以外にも以前から続く鑑定や刀剣の試し、これの人気が途絶えなかった事も理由の一つとして挙げられるが、他にも大きな要因が存在する。


死体を原材料とした医薬品の製造、販売がそれだ。


人間の身体を切り刻んだ挙句、中身を商品とするなんて悍ましく思われるかも知れないが、それは現代の価値観での話。


医術といえば薬を飲むだけなのが一般的、外科的処置なぞ考えるだけでも悍ましいとされた当時に於いては、臓腑の病気は同じ物を食べて治すべきという考えが支配的だった。


そんな環境下ならば人体を使って薬を作る、なんてのは普通の事で、特別珍しい事では無かった。(倫理的な問題とかは当時もあったろうが)


無論、全てが全て上手く行っていたとは言えない。


実力を認めた者を養子に迎えたは良いが、その人物が処刑の見学を行った際、煙草を咥えたまま見ていたという舐め腐った態度を取りやがったので慌てて離縁したり。


自分達が斬った者達への供養を忘れる事も無く、社会奉仕として貧民への救済、つまりは治安向上にも努めたり。


それ以外にも処刑の際には辞世の句を遺す者も多かった為、彼等の思いを正しく理解しようと教養を学びもしたり。


技量的にも、精神的にも色々と努力していた山田家は幕府の覚えも目出度く、7代目まで処刑役を全うし続け、名声と財力を高め続けていた。いた、のだが。


しかし…或る事件が起こり、彼等の人生は一変してしまう。


明治維新。永年続くと思われた幕府の消滅である。


文字通り天と地がひっくり返った様なこの出来事、勿論、山田家とてその影響から逃れる事は出来ず、彼等の生活は一気に困窮する事になってしまう。


なにせ明治政府の意向で人体を用いた薬剤の製造・販売は禁止、武士の居場所自体が激減した為に試し役の仕事も減少。


それでも処刑役としての仕事は残ってはいたものの、8代目の時には処刑方法が絞首刑へと定められ、これも廃職。


時代の中に居場所が無い事を悟った山田家は、静かに官職から離れた。まるで、自分自身の首に処刑の刃を立てる様に。


一時は蝶よ花よと持て囃された山田浅右衛門の名も、明治の名が進むに連れて風化していき、誰の記憶からも消え去っていく。


幕府の、いや時代の穢れを一身に背負った彼等の記録は、こうして時代の彼方へと埋もれていくのだった。


 ---------------------------------


人斬りの一族、処刑人の家系との言葉を聞くと、どうしても現代人としては色眼鏡で見てしまう事だろう。


それは仕方の無い事だ。今のように様々な倫理観が育ち、医学の発展等で身近に死を感じなくなった現代に於いては『処刑』を生業とする者達は殊更異常に見えて当然の話。


彼等の事を血も涙も無い怪物か、若しくは常人の域を逸した特異な精神性の持ち主と、そう考えてしまうかも知れない。


しかしだ、ここで忘れてはならないのは、処刑人とて同じ人間であり、我々と同様、様々な思考をする存在である事だ。


意外に思われるかも知れないが、世界各地の処刑人と呼ばれる者達の中には、慈悲と慈愛の心を持つ者も数多い。


処刑という言葉だけを聞くと恐ろしく感じるだろうが、言ってしまえば彼等は法の執行者…つまり公務員でしか無く、個人的な感情で私刑を行う輩では決して無い。


彼等だって、単に役割だからそれをしたに過ぎないのだ。


寧ろ罪人が苦しまずに済むよう、日夜技術を磨き、道具の改善に勤しんで、最期の一時を安らかに逝けるよう努力していたのだ。


それを考慮せず、結果だけを見て彼等を非難したり、恐怖の対象とするのはちと酷な話であろう。


それを鑑みてみれば山田浅右衛門、並びにその一門は大変人間らしい人達だったと言える。


自らが処した者達の為には供養の手を緩めず、罪人の最期を汲み取らんと勉学に励み、彼等の言葉を一言とて漏らさずに聞く。


その姿は処刑人と言うよりは僧侶の様な物である。


現代でも死刑執行の際には僧侶が片時も離れず、現世への未練を断ち切らせ、冥府の道を迷わぬ様に寄り添っているという話も聞く。


それを考えると、今の法社会に於いても彼等、山田浅右衛門の意志は脈々と受け継がれていると言えるやも知れない。

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