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歴史人物浅評  作者: 張任
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血潮流る掌

此の世には当然ながら、多種多様な人々が存在する。

言語、人種、体型、区別するのに使われる物差は数多有れど、社会に於いて重要視されるのは矢張り性格で在ろう。

自分と波長が合うか、集団に馴染めるか、仕事を行える能力を持つか。他人と付き合うには何れもが重要な要素だ。

が、此れを見極めるのは非常に難しく、誤解や偏見、意見の擦れ違いなど様々な目眩しが人物眼を惑わせてしまう。

其れは時として異様な交友を結び、歪な人間関係を構築し、其処彼処で問題を引き起こす、強烈な存在を創る事が在る。

今回紹介する人物は早逝した天才作家の一人、石川啄木。

多くの人間を魅了する才能だけで此の世を渡り、壊滅的に過ぎる性格を自身の作品で覆い隠した生粋の碌でなしだ。


_____________________


「本の挿絵に眺め入り」


さて石川啄木の生涯について話す前に、先ずは彼の詩から特に有名な物を二つ紹介する事にする。


『働けど働けど猶我が暮し楽に成らざり ぢっと手を見る』


石川啄木の作品として最も有名な物が此の詩だろう。

働き詰めの人生を送っているのに生活が何時迄も好転しない、ふと薄汚れた己の掌を観て人生の無常さを識る。

現代でも共感する人が多数存在するで在ろう此の名文は、件の啄木が確かで豊かな才能を持つ事を窺い知れる逸品だ。

では次に、或る意味で有名な詩の方も紹介しよう。


『一度でも我に頭下げさせし 人皆死ねと 祈りし事』


…此の詩については特に説明する必要も無いだろう。

自分に恥辱を与えた奴は全員が現世から消えろ、そう憎悪を込めて祈る。読んだ通り、其の儘の文章で在る。

まあ正直言えば上記の文章も、私を含め多数の人に同意を得られそうな物なので彼の持つ才能の一端を示しているとも言えるが、啄木の自尊心が非常に高い事も理解出来るだろう。

彼は岩手県出身の人物で四兄妹の三番目、唯一の男児として此の世に生を受ける。たった一人の男の子と言う事で母親は啄木を溺愛し、年少の時を何不自由無く過ごした。

そんな彼が文学の道を志す様に成ったのは高校生時代の事、雑誌に載る作品と上級生との交流で影響を受けてからだ。

啄木の文藝への熱の入り方は相当な物で、昼夜問わず寝食を忘れて没頭、創作方面にも手を出して自作を投稿する程。

が此の情熱が仇と成り、文学に感けて勉学を疎かにした結果、試験の際に問題が何一つ理解出来ない緊急事態に陥る。

思考を巡らせた処で答えが浮かぶ訳も無く早々に自己解決を諦めた後、啄木の頭上に或る名案が浮かぶ。


言わずもがな、カンニングで在る。


答が解らぬなら解る奴のを視れば良い、そんな合理的な考えから躊躇う事もせずに彼は其れを実行し、即刻見破られて、当然ながら処罰を受ける事と成る。

そもそも試験が何故有るのかを思えば自身の行為が如何に危険か分かりそうな物だが、啄木は理解出来なかったのか、理解していて敢えて行ったのか、再度のカンニングを実行。

流石の学校側も此の行為にはブチ切れ、啄木は退学処分。

未だ青少年の身で世間の荒波に放り込まれた彼は、しかし退学を転機とし、本格的に文藝の道へと進む事を決心。

斯くして啄木の人生は(自業自得の形で)波瀾万丈の幕開けを迎え、己の才覚のみを頼りに突き進んで行く事と成る。


「恋の甘さと哀しさを」


学生時代のいざこざは有れど、文筆家として身を立てようと決めた啄木。才気溢れる彼の作品は早々に認められ、世間の人々に持て囃される様に…とは行かなかった。

夢を追い求め上京した迄は良かったが、出版社への就職が中々に決まらなかったのだ。原因は啄木の性格で在る。

出版社や文筆家には彼の作品を評価する人物は多数居たのだが、彼の性格を評価する人物は皆無に等しかった。

仕事での約束は反故にし、何度も無断欠勤を行って、遅刻した上で仕事をしない、正に何処を取っても屑野郎の鏡。

其の様な体たらくで仕事に有り付ける訳も無く、生活は次第に困窮。病気が発症した事も災いし、実家へ帰る事態に。

列車に乗り故郷へ帰る途中、夢破れた啄木青年に去来するのは今後の現実。父は仕事を喪くし家に財は在らず、自分が稼がねば一家の息の根は途絶えてしまうだろう。

そんな過酷な状況を鑑みた彼は、車内で暫し考えた後。


途中の駅で飛び降りて、実家へ帰る事を拒否する。


家族の面倒を見るのを嫌がって逃げ出したのだ。

因みに啄木、此の時に妻との結婚式を故郷で控えていた。

親戚一同が集まり、新郎が来るのを今か今かと待ち侘びた新婦は、居るべき筈の列車から啄木が何時迄も降りて来ないのを見て一体何を想ったのだろうか。酷い話で在る。

彼女の受難、と言うか啄木の暴走は此れでは終わらない。

なんやかんやで結婚をした二人だが、生活は貧困の極み。

夫の啄木は碌に仕事もせず、就職しても直ぐに問題を起こして退職するかされるか、兎も角と真面目に収入を得ない。

妻が日々を過ごす為に私物を質に入れて命を永らえていた頃、当の夫は職場から前借りした給金と友人から無心した借金で毎夜の如く酒を飲み、有ろう事か遊女まで買う始末。

啄木は非常に女好きだったらしく、十数人の女性と関係を持ったと日記にも書いている。妻帯者にも関わらず躊躇わずに色街へと向かったとも有るので相当な物だ。

もう既に大分駄目な感じだが、啄木の暴走はまだまだ続く。

凡ゆる知人に金を無心して一千万以上を借金。

友人から借りた服を質屋に入れて小金を得る。

世話になった恩人の悪口を自分の日記に記す。

果ては親友相手に詐欺紛いの商売を持ち掛け。

其れ以外にも数多の悪行を、雨霰の如くにやらかしまくる。


或る人は彼が家に来る度に物が質に消えて行くので、啄木の事を名に準えて『盗賊・五右衛門』の子孫ではと考え。

或る人は好意に付け込んで金を無心する彼を酷く嫌悪し、啄木の死後『唯一の善行が死んだ事』と辛辣な言を遺す。

或る人は文藝の才能を認めつつも、啄木を人間的・社会的能力に於いては全く以って無能力な人間だと判断した。


此の様に人間性を酷評された啄木で在ったが、不思議な事に被害を受けている筈の妻や親友は何度彼に裏切られようとも彼の事を支え続けた。

啄木の才能に惚れ込んだ事も理由として有るのだろうが、其れ以上に彼の運命を勘付いていたからなのかも知れない。


「今日も密かに泣かむとす」


1912年。啄木は死の淵に居た。自身の病気に依って。

病状は日に日に悪化し、体力が徐々に喪失する。往年の無法も鳴りを潜め、心静かに療養する日々を過ごす啄木。

死の間際になっても創作活動を続けた彼は、しかし、其れ迄とは打って変わった作品を次々に産み出して行く。

此処に至る迄の啄木が恋愛、名誉、社会を主題とした大きな世界を歌う詩を創っていたのに対し、晩年の彼が主題にしたのは故郷、家族、記憶。そして死への想いと生への渇望と、啄木自身の極狭い世界の事をつらつらと記している。


薬を飲まない事を母に怒られ心配される事に何故か喜びを感じ、過去に暴言を吐いた相手の事を想って悔やみ、昔は何とも思わなかった故郷の景色を見て涙を流す。

入水自殺をしようと海に行くが、命惜しさに足が竦み情け無さに泣いてしまう。其の儘ぼぅと波の音を聴く内に童心へと還り、砂で遊んで蟹を追い掛け、一日を終える。


日常の風景に眼もくれず、華やかな世界を追い求めて足掻きに足掻いた啄木が最期の刻に思案した歌は、何も無い田舎で在る筈の故郷を儚げに愛する物だった。

同年、四月九日。石川啄木、永眠。

妻、父、友に見送られ、静かに此の世を去ったとされる。


_____________________


石川啄木は当時ですら言動を批判され、人間性について酷評される事が儘有った。そして、其れは紛れもなく事実だ。

社会生活に於いて必要な能力が全て欠落したとしか思えない彼の行動は、碌でなしとの言葉でしか言い表せない。

しかし。此処で留意するべきは私達が普通に生き永らえる事が出来るのと違い、啄木には時間が無かったと言う事だ。

永い眼で観れば彼の行動は破滅的にしか思わないだろう。

だが、彼の様な人生の時間が迫る人にとっては如何か?


仕事をして少ない命を費やせるか。己の生きた爪痕を何処かへ遺したくないか。誰かと縁を結び、記憶されたくないか。


啄木は幼少時から病弱だった。若しかしたら自分自身が永く生きられない事を子供の頃に悟っていたのかも知れない。

そんな夢も希望も抱けぬ彼にとって文学との出逢いは、己と言う存在を世に生き続けさせる魔法に想えた事だろう。

文字の形をした人間と成りて、恒久的に人と交わりたい。

どんなに短くても、人間の命を堪能したい。

啄木の生きた滅茶苦茶な人生は、そんな純粋な願いが巻き起こした一連の結果の様にも私的には思える。


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