末期の席
人間、機に恵まれない時と云うのは確かに有る。
どんなに才気溢れ大志抱く人物で在ろうと、時期が悪ければ上手く行かない事も屡々。
絶望的な状況でも一つ幸運に見舞えば、そこから瞬く間に成功者の階段を駆け上がる事も珍しくない。
一人ではどうしようも無い事態というのは確かに存在するのだ。それが例え天上人と謳われる御仁でも。
三国時代。人に、国に、時に裏切られた君主が居る。
孫皓。
今回は後継を巡る騒乱で寿命を縮めた国・呉、その最後の皇帝の話を記そうと想う。
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1.
孫皓は三国時代末期、呉と呼ばれた国にて最後の皇帝を担った人物である。
かの国と言えば江東の虎と謳われた孫堅、小覇王として活躍した孫策、彼等の志を継ぎ三国の一角を成す勢力を築き上げた孫権など名高い君主が多い。
そんな傑物だらけの孫呉に於いて、当の孫皓の評価はと云うとこれが実に芳しくない。
元々滅亡した際の君主は情報工作などの影響で暗君と謗られる事も珍しくないが、それらを踏まえても彼は君主としての能力が疑問視されているのだ。
特に問題とされているのが臣下への対応。
彼は自身が皇帝となって以降、己が家臣を事あるごとに粛清してきた。
不平不満を漏らした者は勿論、政策に異議を唱えた官吏、国主に直言し死を賜った気骨の士、任務に失敗した者や寵愛を受けた佞臣であっても不興を買えば即座に処断されたと云う。
部下への理不尽な対応は君主として最も忌避すべき行為、にも関わらず次々と凶行に及んだとなれば今日での悪評も致し方無い。
致し方無いが…しかし一つ、疑問が残る。
それは何故孫皓がこの様な粛清を次々と行ったかだ。
後の事に考えが回らぬ愚物だった、とすれば話は早いが彼は幼い頃から英明で知られ、実際に就任当初は善政を敷き周囲からの評判も上々だった。
そんな彼が突如として凶行に走った。実に解せない。
不可解な行動には必ず理由が存在する。
その行動を取った原因が何処かしらに。
原因。そう、それは確かに有ったのだ。
孫皓の幼少期。世の理を知らぬ頃に起きた惨劇。
ニ宮の変___孫呉の滅亡を決定付けた後継者争い。
配下、血縁、主君。そして、己が父親。
様々な者が振り回し、そして振り回された件の事件によって彼の人生は激変する。暗い昏い、影の方に。
2.
ニ宮の変は孫権の次代、四代目の主君を定める際に起きた政争の事である。
本来ならばこの事件、起きる筈も無い出来事だった。
と言うのも後継者は既に決められており、その決定が揺るぐ事は無い状態だったからだ。
しかしこの後継と目された人物が病により死去、以降後継問題が再燃し風向きが変わる。
この手の問題は保険に保険を重ねるのが常で、実際この時も二番手の人物___これが孫皓の父だった訳だが___彼に白羽の矢が立ち、後継となる筈だった。
だが此処で思わぬ方向から横槍が入る。
孫権の四男、孫覇が後継者にならんと兄を讒言。
自身こそが相応しいと猛烈な攻勢に出たのだ。
突然に過ぎる弟の叛意の裏側には彼の母及びその一族が暗躍しており、彼等が自身の勢力を呉内部で強めようと画策したのが事の発端とされている。
とは言え孫皓の父が後継と定めたのは現当主・孫権。
こんな内乱の火種でしか無い発言なぞ一蹴出来る立場に在ったし、実際にそうするべきだった。
しかし当の孫権はこの発言に対して注意もせず、寧ろ甘言に乗せられて後継者の変更を考えてしまう。
後事を託した息子に加えて最愛の妻をも同時期に亡くし、長年相談役を務めた宿老も遂に世を去った。
自らを知る戦友も先に居なくなり孤独に苛まれていた孫権にとって、例え偽りだとしても己が身を心配する言葉は身に染みたのであろう。
だが。この僅かな隙が孫呉に最大の災禍を呼ぶ。
後継者を変更する事は即ち対象の支持層、国内の派閥を丸ごと入れ替える事を意味する。
当然ながら梯子を外された側としては面白くない。
自分の立場を守る為に敵対者並びに孫覇を非難。
相手も言われっ放しでは無く反論が始まり、次第に宮中の空気は悪化。泥沼の権力闘争が幕を開ける。
この機に乗じて成り上がらんとする非主流派、内乱の兆しを感じ対処に出た重臣をも巻き込み、事態は国家を揺るがす大政争と化していく。
詰り罵られ。殺し戮され。国は混乱の坩堝となり、中に放り込まれた人々を否応も無く呑み込んでいく。
老いさらばえた孫権には事態を収拾する力は最早無かく、ただただ事態が悪化するのを眺めるのみ。
二宮の変は最終的に弟・孫覇の自害、孫皓の父・孫和の廃位と云う処分で一応の決着を見せる。
だが国内での騒乱による疲弊、数多の重臣・能吏の左遷と処刑、そして依然として宙に浮いたままの後継者問題はその後の孫呉が行末に暗い影を落とし、日毎に国力を衰退させていく事となった。
相手を失脚させようと互いが互いの足を引っ張り、優位に立てば敵を悉く粛清し、そこから生じた憎悪が同じ事を繰り返させる。
孫和もまたこの騒乱に巻き込まれ続け、影響力を重く見た者等の手に掛かり自害の憂き目に遭う。
そんな人の醜悪な部分を間近で孫皓は見たのだ。
仲間が仲間同士で殺し合い、利益を求めて道理を捻じ曲げる。その結果、自らの父すらも殺めた惨劇を。
そして時は流れて264年。
内部は未だ崩壊の最中、内乱の火種は尽きぬまま。
外部は魏改め晋が蜀を滅ぼし益々力を強めていく。
そんな絶望の中、孫皓は皇帝に就任する事となる。
孫呉の復興という幻の如き重荷を背負わされて。
3.
先に記したが孫皓は就任当初は善政を敷いていた。
周囲の評判も中々良く、彼こそが呉を救ってくれるとの期待も少なからず存在した。
しかし、それはあくまでも表面上の話。
彼の心中の奥底には為政者として看過し難い闇が培われていた。ニ宮の変が弊害__人を信じる事が出来ないと云う最悪の欠点が。
そも孫皓は就任直後から自らの弟や異母兄弟、他の皇族連中を悉く粛清若しくは追放している。
直近に起きた事が事だけに同じ轍は踏むまいと考えたのは理解出来るが、人材乏しい呉で十数名も処刑するのは国力の低下に繋がってしまう。
しかも処刑された中には叛意を持っていたか疑わしい者、私怨で罪を定めたのではないかと考えられる者、明らかに一時の激情で粛清した者も含まれている。
巨大な機関である国家を動かすには多数の人間の助力が必要不可欠、にも関わらず上記の行動に出たのは単に相手を信頼出来なかったからに他ならない。
本来ならば政務の途上で臣下と交流を図り時間を掛けて築くものが信頼と云う物だが、孫皓は過去の経験から他人に裏切られ無念の死を遂げた父を見ている。
故に他者を心の底から信じるなぞ最初から到底不可能な事で、ならば災いになる物は全て葬るべきという極端な行動に出てしまったのだろう。
また内憂外患が彼の心を急速に蝕んだとも言える。
内部からは度重なる後継者争いに辟易し愛想を尽かした者も多く、加えて孫呉自体が他国と違い豪族の集合体との面も存在したので孫皓に従わぬ者が続出。
外部では司馬一族が内部での混乱を収拾して安定化、一部の隙も無い状態で大軍を率いて迫っていた。
内側の統制すらまともに取れないまま滅びだけは確実に近付いてくる、そんな状況に焦る孫皓は幾度も反攻作戦を企て実行、打開を図るも全て失敗に終わる。
結果として益々家臣の信望は落ち国力は無理な攻勢で衰退、呉内部に皇帝交代論まで出てくる始末。
国家の事を考え必死に抗うも、その行動自体を護るべき存在から疎まれてしまう。その無常さが彼の精神を変容させたとしても何ら不思議では無い。
誰も信頼しない出来ないまま、ただズルズルと悪化の一途を辿る孫呉を間近で見るしかない孫皓。
彼はその後も幾つかの対策を打ち出すも芳しい結果は齎されず、疑心暗鬼に陥り数少ない賢臣をも殺め。
人心が離れ、領地も狭まった280年。
遂に孫皓は晋に降り、孫呉は滅亡したのである。
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三国時代の識者をして孫皓は最悪の為政者と評されている。王道を外れ無闇に民草を苦しめ、忠臣を遠ざけ佞臣を蔓延らせ、遂には国を滅ぼした暗君だと。
その評価は概ね正しい。彼の行った事は粛清を繰り返し、無謀とも言える戦に臨み、徒に疲弊させたのみ。
しかしだ、それは結果から判断した事実であって彼個人を証明する真実では無い。
個人的な見解では孫皓は暴君ではあるが、史上最悪の暗君とまでは言い難いと思う。
そも彼が就任した頃、既に呉は半ば…というより九分九厘『詰み』の状態にあった。
国力に於いて最大の敵・魏晋に大きく水を開けられ、一丸となり戦わねばならない正念場に後継者争い。
人材を数多く失ったばかりか権力闘争が長引いたせいで臣下間の信頼関係はボロボロ、兵力とて十分とは言えず政を疎かにしていたお陰で国民は疲弊。
こんな状況で国を建て直すなぞ不可能に近く、本気で勝利を望むならば一か八かの博打に出るしか無い。
そして博打に負け国が滅びた。それだけの話だ。
彼の行動を正当化する訳では無い。
国主として人を信頼せずにおり、悪手を打ち情勢を悪化させ、孫呉の滅びを早めたのは確かだ。
しかし孫皓には必死となって責務を全うしようとする意志が存在した。後継者としての覚悟を持っていた。
苦境打開の方法を模索し、足掻いた痕跡も有る。
豪族の集合体という孫呉の体質を改善し、一丸となって動き易い中央集権を目指して綱紀粛正を図り。
人材不足を補うべく名士層や豪族層のみならず、低い身分の者でも才能有るならば登用を積極的に行い。
人の目を見る事が出来ないと云う典型的な対人恐怖症を持ちながら、多くの家臣に命令を与えていた。
彼は晋に降り孫呉が滅ぶとなった際、付き従ってきた配下に以下の様な言葉を残したとされる。
『…私は王としての才に乏しいにも関わらず、帝となって見合わない地位に就いた。国を乱し民を苦しめ、忠義者に対して多大なる不徳を働いた。
孫呉が滅ぶのは全て私の責任である。貴殿らが呉に背いたのでは無く、私が貴殿らに背いたのだ。
故に晋に仕えるは正道であり、気に病む事は無い。
乱れた国では無く治った朝廷に仕えるは忠義に反さず、その天下の才を無為にする事こそ罪だろう。
貴殿らの努力と発展を祝し、自愛に努めるを願う。
これが私からの最後の命だ。』
___孫皓はその後、晋に渡り数年後に没した。
巷には悪評が流れ、今尚その評が覆った事は無い。
しかし。最も彼を憎悪しているであろう孫呉の亡臣の多くが寧ろ最期まで彼の事を敬愛し誼を通じていた話を聞くと、彼もまた終わりゆく時代に咲いた一輪の徒花なのかと感じてしまうものである。




