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都道府県戦争

作者: 浅野 新

A県の市役所では「地域活性推進課」課長の熱い朝礼で一日が始まる。今日の課長はいつもの説教とは違い、誇らしげに顔を紅潮させ、嬉しそうに声を張り上げた。

「今日は大変おめでたいニュースがあります。昨日、A市B町のM子さんが無事に男の子をご出産されました!」

職員達の間に歓声と大きな拍手が沸き起こる。

「ささやかではありますが、市より出産祝い金とベビー用品一式を贈呈いたします!」

 課長の背後で女性職員が壁に貼られているB町の地図に一つ赤いシールを貼り、再び拍手が起こった。


少子化が止まらない日本では、業を煮やした政府が二千二十年に強硬策として子供の少ない地域の予算を大幅に縮小する事を発表した。それから十年が経ち、今ではどこの都道府県も子供の数を増やす事にばかり躍起になっていた。

A県も例外ではなく、市役所に「地域活性推進課」が新設され、多くの職員を配置し一人でも多く子供を増やすため全員が昼夜を問わずに働いている。壁には民間企業の売り上げ目標のように「今年の目標出生数」「現在の妊婦数」「本日現在の結婚者数と独身者数」から去年のデータ、全国との比較、果ては安産のお守りから最近出産した女性の名前まで、数字や報告書などがびっしりと貼られている。一昔前の定時上がりの呑気な公務員の面影はもはや見られない。

特に先月、隣の県に出生数が追い抜かれて以来課には重苦しい雰囲気が漂っていた。たまたま同じくらいの人口と規模の地域だったから、負けた気が余計にするのだろう。おかげで現状打開策としての企画会議がやたらと増え、日常業務に加えて会議資料作りも重なり職員の業務は増える一方だった。


 課内の同じ部署に所属する、中堅職員の四十代の矢口と二年目の新人である二十代の杉本は、朝から午後の会議に向けて資料の最終確認をしていた。他の業務も同時進行でこなしていた為、気付けばあっと言う間に昼休みになっていた。

「今日も遅くなる。ごめん。うん。そっちも無理するなよ」

 職員食堂で電話をかけていた杉本は、矢口が近づく気配を感じ慌ててスマホをポケットにしまった。直後に「おつかれ」と、どかりと矢口が隣の席に座る。矢口と杉本は同じ企画チームに所属している事もあり、職場にいる時はほぼ一緒に行動していた。


しばらく並んで食事を取っていると、食堂のテレビが他府県で起こった幼児拉致事件を報道していた。

「馬鹿じゃねぇの」

 矢口が親子丼をかき込みながらつぶやく。杉本が苦笑した。

「まあまあ。うちは関係ないんだからいいじゃないっすか」

「お前の所も気をつけろよ」

「止めてくださいよ、そこまで馬鹿じゃないですよ。大体俺、あれが売ってるとこ、うちで見たことないんですけど」

「だよな。あのステッカー、まだ販売してる所あるんだな・・・。よっぽど平和ボケしてるんじゃねぇの」


乳幼児拉致事件、別名「ベイビーインカー事件」。【ベイビーインカー】のステッカーを貼った車が他府県に入ると、信号待ちなどで暴漢に襲われ乳幼児が攫われる被害が近年急増し、今年はすでに全国で三十件を越えた。【ベイビーインカー】を貼っている車はまず軽自動車、軽なら大抵運転手は母親である女、大人は大抵その女一人。同乗者はベビーシートに乗っている乳児か他にもせいぜい助手席に幼児が座っているくらいで、母親は常に子供を意識しているため周囲への注意が散漫になる。襲撃強盗には格好の材料がいくつもそろいすぎている。声にこそ出さないが、誰もが最初にこの犯罪を考えた犯人は頭がいいと思っているに違いない。

「赤ちゃんがいますよ」というサインステッカーを貼ると言う事は、昔と違いわざわざ他府県の人間に幸せアピールをしていると取られかねないし、うちの県にはうっかり犯罪を助長するようなそんな愚かな事をする者はいない。大方、地方の治安状況を知らないトーキョーあたりの勝ち組都会者だろう。

矢口はそう結論づけると、冷めた目でテレビ画面を見ながら味噌汁をすすった。


攫われた子供は犯人が見つからない限りまず戻ってこない。たまに犯人が捕まっても皆判で押したように自称幼児好きの若い男で、子供は性的被害を全く受けておらず無事に保護。犯人は大変反省しているとの事で、執行猶予付きで釈放されて終わり。

この手の事件は、攫われた子供の保護者とその地域を除けば、異常なくらい他府県の反応は静かだ。


皆分かっているのだ。

子供は喉から手がでるほど欲しいと。


午後は恒例の長い企画会議が始まった。

「斬新な企画で子供の数を増やせ」と無茶ばかり言う部長以上の上司組と、矢口以下若手職員組はいつも意見が対立する。課長はいつも中立でお互いをなだめる役どころだ。


 矢口達は考え付いたことはやるだけやってきた。育児中の母親のケアを手厚くする事で二人目以降の出産を考えてもらおうと、二十四時間電話相談受付や三百六十五日ベビーシッター派遣をした事もあった。他府県の若いファミリー層やシングルマザーをターゲットに安い住居費と仕事を確約して呼び込んだ事もある。

けれども結局資金が不足して母親ケアは頓挫し、若い移住者は少ししか受け入れられず、前年より子供の数が少ない時は予算を削られ、悪循環に陥っている。

大都市のように養育費の大幅補助など金をばらまこうにもその資金もなく、目立った観光資源も、魅力的な働き口もない。かと言って美しい田舎の風景があるかと言えば、半端な都市開発で景観は望めない。全てが中途半端な田舎。

 他に思いつく事はもう、市内の独身者を成婚に導くくらいしかなく、今回の企画立案者である杉本は声を張り上げた。

「やはり子供を増やすにはその受け皿、夫婦がいないといけません。市が主催の婚活パーティーであれば予算も削れます。すぐに子供の数は増えませんが、地道にやっていく事が一番の近道ではないでしょうか」


 渋る上層部から婚活パーティーの案はなんとか採用を取り付け、ぐったりしながら矢口と杉本は一緒に会議室を出る。同時に退出した課長に労いの言葉をかけられた。

「杉本君、いいプレゼンだったよ。確かに受け皿は増やさないと。ねぇ、矢口君?」

 瞬間、杉本が心配そうにちらりとこちらを見た気配を感じたが、矢口はそれに気付かぬよう課長に向かって微笑んだ。

「全く、その通りですよ」

「じゃ、皆席に戻っていいよ。―それと、林君、今日最終日だから」


同じ日に、終礼も何もされる事はなく、矢口達と同じ課の林がひっそりと辞めた。

「嫁さんの実家の方が自営業やってるらしくて、義理のお父さんの具合が悪いからそこを継ぐらしいよ」

と表向きの退職理由はそうなってはいたが、数ヶ月前から明らかに痩せ始め、最近では病欠扱いで頻繁に休み、たまに出てきてもいつも憔悴しきった様子の彼は病気退職だろうと誰もが思っていた。

 矢口の一年先輩で、温厚で人望があった林に、特に杉本以下新人達がよく懐いた。「体調が悪いんだから」と課長に言われ、最後の挨拶周りもさせてもらえず、林はせめてもと同じチームだった矢口達に頭を下げ、世話になった事を告げた。今は出入り口まで送って行った杉本に大きな紙袋を渡している。さしずめ挨拶用の菓子だろう。


 矢口は、多分林がなんらかのトラブルで課長とうまくいかなくなった事が原因だと思っていた。林が欠勤を始める少し前までは課長と林の関係は良好、どころか仕事が出来、イエスマンの彼は傍から見ても課長のお気に入りだったのだ。それが欠勤し始めるようになってから課長の様子がよそよそしくなった。公にこそなってはいないが、仕事で何か重大なミスを犯したのではと言うのが矢口の見立てだった。どちらにしろ、出世争いの一番のライバルがいなくなり内心ほっとしたのだが。

 林が最後の挨拶で、矢口に何か言いたそうな顔をしていた事は、一時間後に矢口はきれいに忘れていた。


   *


鈴木美優は中学校から自宅へ帰ってきた所だった。中三ともなると誰もかぶらないヘルメットを、ちゃっかり学校と自宅近辺だけかぶる事にしている美優はそれを脱ぎ、自転車を車庫に入れて玄関を開ける。

「ただいま」を言っても返事がない所から、電話好きの母親が誰かとしゃべっているに違いない。リヴィングルームに入ると母親がこちらに背を向けてやはり話しこんでいて、美優が帰ってきた事にも気付いていない。

「あー、あれね、無理心中の。子供さん可哀想よね」

「年子で、うん、二歳と三歳って一番大変な時じゃない! やっぱりお母さん一人では」

「ランクどうだったのかしらね。いや、そこまで知らないけど。Cならどこでも受け入れてもらえたでしょうに」

 また子供がらみのニュースか、と母親の話の内容から美優は推測した。子供関連のニュースは最近何かと増えた。死んだりでもしたら大騒ぎになる。

子供って何がそんなに偉いんだろう。

同じ火事の事件でもお年寄りが亡くなった時と子供が亡くなった時ではニュースの扱いに雲泥の差があり、人一人が死んでるのは同じなのになんでだろうと美優はいつも不思議に思う。

帰って来たよという意味で母親の正面に回って手を振り、ようやく気付いた母が手を振り返した事を確認してから二階への階段を上がる。自分の部屋へ入り、学生鞄を置いて制服を脱ぎ始める。


美優の世代の子供達はすごく恵まれているらしい。母親いわく、自分達の時は大人は何も助けてはくれなかった、と。行き過ぎは駄目だけれど、部活で体罰は多少はあったし、学校では先生が絶対的存在で、保護者が教育方針に文句を言うなんて事も滅多になかった。大学の卒業式は母親しか来ない事が普通だったし、就職では学生課は頼りにならず「資料を見て自分で探して」なんて当たり前のように言われ放置された、と。それに比べると今は体罰なんてあれば親が黙っちゃいないし、教育方針にも保護者達はすぐに文句を言う。大学の卒業式は夫婦出席が今や主流で、就活生の保護者向け就職活動セミナーに親が殺到する、そうだ。

母親のお説教はいつも美優の耳を通り抜ける。恵まれていると言われても、私達子供がそうしてくれと頼んだわけではない。母親の子供時代に生きていなかった(姉と冗談で、その時は天国から下界を見てたよねとかある意味死んでたよねと言い合う)ので比べようも分かりようもない。

ただ、言われて見れば、「学校の先生」に母親が言うような怖い大人がいた覚えがない。現在通う中学校の先生達だって、皆すごく優しい。いじめがないよう何かと気を使ってくれて、交友関係がうまくいかないようになればクラスを別にまでしてくれるし、三年生からは進路相談にもしょっちゅう乗ってくれる。タメ口で話しても怒られないし大人の友人ができたみたいで嬉しい。

でも。

すでに私服に着替えた美優は、ハンガーにかけた制服であるブレザーのポケットから生徒手帳を取り出した。手帳を開き、自分の顔写真の下に大きく赤字で「A」と表記されるのを見るといつも自然に顔がにやけてしまう。

親切にしてくれた先生達には悪いが行きたい所は自分で決める。トーキョーでもAランクの自分は大事に扱われるだろう。大学も就職も有利な筈だ。それにやっぱり都会の方が面白そうな大学も仕事もたくさんある。


子供の数を増やす事が目下めいっぱいの地方と違い、トーキョーはすでに子供の数だけではなくその質にも厳しくなっている。少子化対策が始まった十年前から子供のランク付けも全国統一基準で導入されたが、子供がトーキョーに移住したければ高校生になる段階でAランク以上になっていなければならない。


子供は、生まれた時に五体満足でとりあえず健康そうなら一律Cランクからのスタートだ。ランクは、公には五段階となっており、容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、健康優良児と四つ揃った特A、そのうち一つが欠けているのがA、二つ欠けているのがB、生まれつき重い病気や障害、五体不満足の子供はDランクに認定される。それから成長していく過程で、何の病気にいつどれくらいの頻度でかかったか、アトピーや花粉症などの、ほぼ大人になっても持ち続けるアレルギーはないかなど全てがポイント制で加点または減点される。結果、美優はめだった病歴もアレルギーもない健康優良児、プラス運動が平均以上にできると言う事で小学生時にBランクに昇格した。

性別差は今でははっきりと分かれ、女子の方が男子より大事に扱われる。将来健康な子供をたくさん産んでもらうため、給食から体育と言う名の運動やら全ては将来の母体のため健康に気を配っているらしいが、中学生の美優はもちろんそんな事を知らないし自分の体調を気にかけた事もない。ただ母親は昔から健康にうるさく料理も野菜中心だった気はする。

ここまでの理由から、Bランクのまま県内に残留していても美優の待遇は悪くはなかったはずだ。しかし、四つ上の姉がAランクを取り、一人上京してトーキョーでの高校生活を満喫する話を聞くうちに、美優もトーキョーに行きたくなった。両親も大賛成してくれた。それで勉強にも力を入れ成績を上げ、中学入学時にはAランクをつかみ取ったのだ。

美優が三年生に進級してから、学校の校長先生や知らない大人達が毎月のように自宅に来るようになった。両親はそれについて何も言わないが、時々美優に「トーキョーに進学するかここに留まるのか」を聞いてくるから、進学の話をしているに違いない。本人が決める事なのにどうして当事者抜きで大人達は話し合うのだろう。美優には不思議でならない。


着替えた制服のブラウスやタンクトップなどを手に再びリヴィングルームに戻る。まだ電話片手に長話をしている母親の脇を通って浴室にある洗濯機の中にブラウス等を放りこむ。母親がラジオ代わりにつけっ放しにしているTVからは、司会者が「二人目不妊」と題した特集を取り上げており、美優は母親に気付かれないよう、横目で画面をちらりと見た。

「昨今急増している二人目不妊。原因はいまだ明らかになっておりませんが二十代でも対象者が増えている事から専門家の間では日本人の食生活が大きく変わった事が一因であると見ています。対策としては、体外受精がまず候補として挙げられ、卵子または精子に問題がある場合は第三者による提供が最も有効と__」

思わずどきりとした表情を母親に気付かれていないか横目で確認しながら、美優はそっとリヴィングルームを出た。まだ楽しそうに話す母親の声が追いかけてくる。廊下を歩きながらやっぱり、先生に相談してみようと美優は思った。



   *


「うち、やっぱり甘いんですかね」

 杉本が珍しくため息をついた。


 部長たち上層部は、まるで販売目標台数をなぜ達成できないんだとでも言うように、出生率を上げられないのは何故だと会議で矢口達を攻め立てる。物を売るようにそんなに簡単に子供の数を増やす事などできないし、有効策がないと分かっているのに毎回の会議で嫌味を言われたり時に怒鳴られたりするのは、もうブラック企業と言っても良い。先日の杉本の案は一応了解は取れた。しかしそれでは少ないと今朝、課長がまず呼ばれて雷を落とされたらしい。疲れ切った顔の課長から「悪いがもう少し案を出してくれ」と言われ、矢口と杉本は再び頭をつき合わせて考える羽目になっている。


「甘いって何が」

 矢口が一行もテキストが進んでいないノートパソコンから目を上げる。

 杉本が言い難そうに切り出した。

「他県の少子化の取り組みって、今はどこの職員も警戒がすごくて教えてくれないじゃないですか。だからネットとか噂でしか聞いた事がないので信憑性がないんですけどぉ―」

 続けろ、という風に矢口が無言で頷く。杉本が一瞬左右に視線を配り、声をひそめた。

「たとえばZ県はベイビーインカー事件に関わってるって言われてるんですよ。あそこ土地柄こわい人多いじゃないですか。その人達に頼んで幼児をさらってるって。実際、少しずつですがあそこの子供数は増えてますよ」

 本当か? と問うと、はい、と力強く頷く杉本を見て、

「お前・・」

と思わず矢口が表情を険しくすると、杉本は

「ち、違うんです! うちもやれとはそんな事言ってませんよ。ただ他県と比べるとうちは緊迫感が足りないんじゃないかと思ったんです」

 そこで杉本は大きくなった声を再びひそめた。

「軽蔑しないでほしいんですけど・・・、僕、思ったんですよ。子供を増やすったって、Dランクの子供がどんどん増えてもいいって意味じゃないでしょう? 上の人達すましてそこの所何も言いませんが、実際障害児増えたら税金使われるばっかりで困るだけじゃないですか。そもそも子供を増やす目的って、要は働いて税金納めて欲しいからでしょう? だったらきれい事言ってる場合じゃないんですよ。あくまで夫婦、それも若いカップルを増やして、健康な子供を増やす。そこまで強い方針を打ち出さないといけないと思うんです」

 矢口は大きく頷いた。

「分かるよ。女は二十代から三十五歳まで、男は四十五歳くらいまでにして、もう後は諦めろってくらいがお互いの為にいいんじゃないかと俺は思ってる」

 瞬間、寂しそうな笑顔の女が浮かんだが、矢口は髪をかきあげる振りをしてすぐに打ち消した。

「ですよね! そうですよね!」

 仲間を得た杉本は嬉しそうに他県のケースを語った。


他の県の対策では「男も女も早く結婚して妊娠・出産する事がどれだけ有利か」を全面的にアピールし、無料冊子や大学の特別講義などで、卵子や精子能力の観点から、育児する体力の観点から、定年まで働ける期間が長い事で貯蓄ができ老後破産のリスクを抑えるという金の観点から、なるべく早く産む事を推奨している。女性が十六歳で結婚できる事から、十代での出産を宣伝するほどだ。

「さすがに高校生はまずいだろう」

女性保護団体に目をつけられたら後々が面倒な事になる。それにまず役所内の女性の理解が得られないだろう。

「あくまでネットでの噂ですから、そこまでどうなってるかは分かりません」

 そこまで一気に話した杉本が恐る恐る矢口を見上げた。

「すみません、矢口さん関係ないと思って言ったんですが、お気に障ったとか・・・」

「全然気にしてねぇよ。言ったろ、俺のは健康だったって。ちゃんと調べてもらったし。・・・で、そこは出生率上がってるのか」

 矢口の回答に、杉本は良かった、とほっとした表情を見せた。

「そうなんですよ。とにかく子供の数が増えればいいという戦略取ったみたいで。地方初のドラマや漫画で十代、二十代の主人公の愛や性を扱った作品を大量に出したらしいんですね。金をかき集めて人気アイドルとか使って。そうしたら十代の出産が増えたそうです。それを見込んで赤ちゃんポストを設置してたからけっこう回収できたみたいですよ。皆健康優良児だそうです。すごいですよね」

「そんな後々めんどくさくなりそうな事うちもやろうってのか、お前」

 矢口がげんなりとした様子で言うと、杉本は慌てた。

「もちろん分かってます! うちはクリーン、婚活パーティーもそうですけど、正攻法で行ってますよ。ただ、うちの県の女性って多くても二人くらいまでしか結局産んでくれないじゃないですか。うちは子供手当も大した事ないし。上層部の肩を持つようであれですけど、奇策でないともう子供の数を増やすのも限界があるんじゃないかと思って」

「かと言って赤ちゃんポストはまずいだろう」

「二十代にしぼれば・・」

「トーキョーと違って数がいないだろ。・・・まあ、若者の結婚・出産を促すっていう案自体は悪くないから、それを一つ入れようか」

 話しながら矢口がカタカタとパソコンに文字を入力するのを眺めながら、杉本が髪の毛をがしがしかきつつ唸った。  

「他にもあったんですけど――、囲い込みって言うんですか、それをやってる所もあるそうなんですよ。僕はそれはどうかと思うんですが」

 パソコンを打ちつつ、うん? と矢口が頷いた。

「子供の数を増やすのも限界があるじゃないですか。だから今、県に在住しているこれからの若い労働力と出産する若者をいかに他府県、特に都会へ流出させないか、いろんな好条件をつけて引き止めるってやつだそうです」

「うちもやってんだろ」

「え」

「えってお前知らなかったのか」

「そうなんですか!? え、それちょっと引きますよ。どこで学ぶ・働くってくらい本人に選択させてあげてもいいじゃないですか」

 あれだけ鬼畜な案を出していたくせに、時々こいつのツボがよく分からないと矢口は思いつつパソコン画面を見つめたまま言った。

「そんな甘い事言ってたらこんな地方、誰も残らねぇだろ」


  *


美優は放課後にクラス担任を呼び出し、会議室に二人机を挟んで向き合った。

「今日はどうしたのかな」

 いつも明るくて優しい女性の担当の笑顔に美優は幾分緊張がほぐれた。


健康に育った美優に特別深刻な悩みはなかったが、思春期に入り気になりだした事は家族と自分が全く似ていない事だった。両親はどちらも小さな顔にはっきりとした二重、高い鼻、薄く整った唇をしていたが、美優はその正反対のこけしのような地味な顔立ちをしていた。祖父母に似ているのならまだあきらめもつくが、これも全く似ておらず、親戚にも親近感のわく顔は誰もいない。両親のどちらにも似ていると言われた美しい姉と比べられる事は特に辛かった。小さな頃は自分も大人になれば母や父に似た容姿になるのだと無邪気に信じて疑わなかった。子供の頃、誇りに思えた家族に対する賞賛―かっこいいねだとか綺麗ねだとか―はやがて苦痛に変わっていき、中学生になると周りからの無遠慮な「美優ちゃんって全然似てないね」という言葉に表面上は気にしないフリをして心の中では深く傷ついていた。そうして、最近良く聞く「二人目不妊」およびそれに関わる「卵子提供」などをニュースで聞くうちに、自分は本当は血の繋がっていない子供なのではないかと疑問に思うようになっていった。


中学入学記念に買い与えられた「お子様用スマートフォン」は多分特殊なフィルタリングがかかっている。多分、と言うのは親に聞いてもはぐらかされるからだ。アダルトサイトなど見たくもないしフィルタリングがかかっていようがそれは何も問題はないのだが、ある特定の情報を調べようとした時に極端に情報量が少なくなるのは困る時もある。たとえばギャンブル、宗教、戦争、殺人、テロ、そうして少子化およびそれに関する生殖方法など一切の情報であり、DNA鑑定もその一つと見られているのか詳細な方法が何度調べても出てこないのだ。自宅や学校のパソコンもそんな具合なので大学生の従兄弟の家に遊びに行き、パソコンを使わせてもらってやっと必要な情報を得ることができた。いわく、DNA鑑定に必要な物は血液または唾液。そして、髪の毛。美優の瞳は髪の毛の文字に引き寄せられた。血液や唾を本人に気付かれずに採取するなど不可能だ。だが、髪の毛ならいけるはずだ。鑑定費用は昔と違い一万円ほどしかしない。お年玉を使えばいける金額だ。

しかし大きな壁が一つあった。どれだけ手軽にDNA鑑定できるようになったとは言え、さすがに未成年だけでは依頼できない。保護者の同意がいるか、または誰か大人に代わりに依頼してもらうかの二択しかない。二十歳の大学生の従兄弟になんとか頼むか。しかし理由は必ず聞かれるだろうし、親に告げ口しないとも限らない。親戚の叔父や叔母達も同じことだ。

悩みに悩んだ挙句、結局他に頼める人がいるわけでもなく、担任の先生に相談する事にした、というわけだ。


先生は、今までに美優から時々容姿コンプレックスの相談を受けていたので、美優が想像した以上に落ち着いて話を聞いてくれた。美優が話し終わると、少しの間黙っていた先生は優しく切り出した。

「DNA鑑定をやったとして、もし、もしもの話だよ。親子じゃないと分かったらどうするの」

「それは・・・、その時に考えようと思って」

先生がそっとため息をつく気配がした。

「これは先生個人の意見だけどね、どれだけうまく隠しても、今はDNA鑑定で他人かどうか一発で分かっちゃうでしょう? でもね、鈴木さんの話を聞いている限り、昔からずっとお父さんお母さんが何か隠してるような素振りって全くなかったんでしょう? 」

 美優は眉間に皺を寄せて思い出しながらも、しぶしぶ、うん、とうなずいた。

「今まで何度も鈴木さんが皆と似てないねって話題になったらしいけど、家でもそこで皆が話を変えるとか、誰かの態度が怪しかったとか、養子縁組やそういうニュースを見ないとか、そういう事もなかったんでしょ? 」

美優は不承不承うなずいた。

「鈴木さんが本当に養子だったら、まずそういう話題自体しないと思うんだ」

 DNA鑑定は未成年のみでは申し込みできない。自分が調べられるわけがないと高をくくっているのかと最初は疑ったが、成人になれば調べられるのだから、ごまかし通すとしてもあと五年程しかない。家族と自分はあまりにも似ていないからその間隠し通す意味も分からない。

 やはり、たまたまの偶然なのか。不幸な偶然によって、自分は美しい両親にも、祖父母にも親戚の誰にも似ていない容姿に生まれついてしまっただけなのか。何か意味を持たせる事はそもそも無意味だったのか。

美優が力なくうなだれると、先生は明るい声で励ました。

「鈴木さん、自信を持ちなさい。あなたはAクラスなんだよ。内緒だけどね、ここではAクラスの子って少ないの。みんなトーキョーに行っちゃうからね。・・・だから逆に言えば、もし鈴木さんがここに残ってくれれば特別待遇だよ」

「中学、すごく楽しいって言ってくれたよね。いじめも何もないって。先生ね、県内なら高校の先生にも知り合いがいっぱいいるの。ここならいつでも助けてあげられる。絶対鈴木さんがご家族の事でからかわれないように全力でサポートするよ。お母さんが来るのが嫌なら、先生が体育祭でも文化祭でも応援に行くよ」

 美優は前のめりになった先生から少し後ろへ身体を引いた。


違う。いじめなんて考えた事もなかった。家族の中で自分一人だけが美しくなくて、それがコンプレックスだったのだ。こんな個人的な事、わざわざ友達に言う事もない。写真や家族の顔さえ見られなければ似てるも似てないもそもそもばれやしない。大体家族間が似ていなくてからかわれるなんて事は高校では__。

「それに、」

考え事をしていた美優の思考は、少し声をひそめた先生によって遮られた。

「さっきの話ね、しばらく考えてもらって。でも、どうしても鈴木さんの気が晴れないと言うのなら、先生、DNA鑑定代わりに申請してあげるよ。もちろんお父さん達には言わないよ、約束する。・・・大丈夫だとは思うけど、万一の結果が出たら、カウンセラーでも何でも呼ぶし、先生もいつまでもサポートする。いつでも先生は鈴木さんの味方だから。二人だけの秘密にしようね」

いぶかしげに話を聞いていた美優の表情がみるみる凍り付いてゆく。姉が言っていた。この先生は苦手だったと。トーキョーに進学すると分かった途端冷たくなったからだと。あの時は姉が神経質な性格であるだけで、気にするほどの事でもないと笑い飛ばしたのに。自分は間違ってしまったのか。もしかすると一番相談をしてはいけない相手にしてしまったのか。


だからさ、と先生が明るい声で続ける。

「残留の事、前向きに考えてくれると先生すごく嬉しいなあ」

全く邪気のない顔でにっこり笑った。


 *


 矢口と杉本は最近一緒に仕事をする事が少なくなった。矢口は課長に呼ばれる事が多くなり、様々な会議にも度々出席するようになった。会議の内容は後日詳細が杉本に伝えられる時もあれば、そうでない時もあった。林が退職した後のチームの責任者として色々厳しいことを言われているのかもしれない、と杉本は考えた。それとは反比例して杉本は課長から早く退社するように言われる事が増えた。

「大事な時なんだから」

満面の笑顔で課長に言われ、杉本も素直に厚意を受け取り、一日のうちほとんど空いたままの隣の席を気にしながらも定時退社をする日がしばらく続いた。


 爆弾はいきなり落ちてきた。

 出勤するなり「部長が今日の朝礼は至急、全員大会議室へ来るようにとの事です」と言われ部屋へ向かった杉本は、

「やられた!!」

とあちこちで大きなうめき声が響く異様な光景を目にした。


大会議室に設置された大型テレビの画面からは、過疎化の進むC県が、某国の難民を六歳以下の乳幼児とその母親に限り受け入れるとのニュース速報が流れ続けている。その数は子供だけでも一気に百人。その後毎年数を増やしながら受け入れる計画が順調に進めばうちを抜かすのも時間の問題だろう。「一丸となってこの危機を乗り越えよう」と職員に発破をかける部長の声とざわざわとどよめく群衆の中で、杉本は一人冷静だった。

毎年増え続ける一方の外国人難民は六歳以下でもかなりの数になる。しかし全員受け入れる事はさすがにC県は不可能だろうし、言葉や文化の問題もある。それに――。

杉本は顔を左右に動かすと、TVの前の群集から少し離れた位置に立つ矢口に気が付き、「矢口さん」と明るく声をかけた。

「あれ、馬鹿じゃないですか? 目的が見え見えじゃないですか。国際世論から非難されるに決まってる。C県のイメージもがた落ちですよ」

 矢口のいつもの皮肉な言い方を真似して、隣に立つ彼に笑いかけようとした杉本は言葉を失った。画面を見つめる矢口が顔面蒼白だったからだ。

「・・・逆に言えば、もうC県でしかこの方法は使えないんだよ」

呟いた矢口は、背後から課長に

「矢口さん、ちょっと」

と呼ばれるとびくりと肩を震わせ、二人で別室に消えて行った。


仕事をしていない男が使い物にならないように、子供を産めない女も社会のお荷物でしかない。セックス付き家政婦だと思えば良いじゃないかと言う奴もいたが、二十代ならまだしも四十代で老ける一方の女となぞ誰が一緒にいたいと思うのか。男なら大抵そう思うはずだ。反論を唱える奴も押し黙る奴も全てが偽善者。本音を言う自分こそがよほど善人なのだ。俺はまだ自覚があるだけましだ。大抵の男は妻はセックス付きの家政婦兼子守兼介護役だと思っている。それこそ無自覚に、残酷なほど無邪気に。


 実際歯に衣着せぬ奴と言う事で、子供のいない俺でも上司及び上層部からは可愛がってもらえた。妻のせいで子供ができないと判った時は大いに同情してもらえたほどだ。

 俺は間違っていない。間違っていなかった。今までだって、これからだってそうだ。

 それなのに。


 なぜ俺は小さな会議室で一人部長達に囲まれ、課長に肩をつかまれているのだろう。なぜ彼は気味が悪いほど微笑んでいるのだろう。

 なぜ目の前の机には「安心・安全 妊娠・出産マニュアル」なんて置いてあるのだろう。



 C県のニュースの後、課長に連れられ別室に入った矢口は一番入り口に近いテーブルに座らされた。

「大変な事になったな」

 会議机を挟んで遠くにずらりと部長達が座っている。地域活性推進課の部長が口火を切った。

「C県のやり方は得策とは言えないが、我々も思い切った方法を取らないと少子化対策に乗り遅れる危険がある。そこで――」

 いきなり何が始まるのか。思わず身を硬くした矢口のそばへ課長は歩み寄り、彼の肩をぽんぽんと叩いた。

 まあまあ、矢口君には急な話ですから、と課長が重い雰囲気をまとわりつかせている上司達をとりなし、くるりと矢口の方を向いた。

「前々から概要は説明させてもらっていたけれどね。矢口君、おめでとう。我々は満場一致で、正式に君を選んだよ。君は、念願の君の子供が持てるんだ」

 委任状は後日正式に渡すよと言いながら課長は別のテーブルに置いてあった分厚い冊子を静かに矢口の前に置く。矢口の瞳が驚愕で見開かれた。


少子化対策と時を同じくして男性妊娠法が施行されて十年。女性から健康な子宮を男性へ移植し体外受精で男性も妊娠、帝王切開で出産が可能になった。いくら子供を増やす為とは言え、最初はイロモノ扱いで見られていた方法は、とある愛妻家の男性が身体が病弱で産めない伴侶の代わりに妊娠、出産したニュースで一気に美徳に祭り上げられた。お涙頂戴の感動話は時にたやすく倫理をねじ曲げる。その後加速する少子化も相まって世論の支持を一気に獲得し、妊娠する男性はヒーロー扱いされるまでになった。移植される子宮の多くは発展途上国の女性から買っているのだが、子宮の入手やそれにかかる費用、入院、手術代も国で請け負うため金銭的負担は少ない。ただ、いくら医療技術が進歩したとは言え、移植には多くの危険を伴う。結果、妊娠する男性はまだ少数派だった。


 なぜ俺なんだ。

 矢口は背中を流れる冷や汗を感じながら絶望の淵に立っていた。


男性妊娠に関する理解と言うレクチャーは役所内で数ヶ月前から秘密裏に始まり、何故自分が受講者に選ばれたのか分からないほど愚かではなかった。しかし受講者は自分だけではなかった。不妊が珍しくなくなった今は、既婚で子供がいない職員は他にも結構いて、受講者は多かった事、自分は上司及び上層部のお気に入りだった事からまさか自分が選ばれるとは想定していなかった。


仮に、五十代以上の男は体力的に移植が無理だと、二十代と三十代は一般の不妊治療が成功する確率が高いとそれぞれ除外されたとして。ターゲットとして絞られるのは四十代男性。だとしても何故俺が。他にも――。


突然、矢口の頭の中に雷のような衝撃が落ちた。

林だ。

彼が最初のターゲットだったのではないか。


四十代の既婚者で子供がいなかったのは他にもいる。しかし、講義が始まった時期と林の調子がおかしくなった時期がぴたりと重なり、最初の候補者は彼以外考え付かなかった。彼が別れの際に何か言いたそうにしていたのも、実はこの事を伝えたかったのではないか。四十代で、彼の次に若手は俺だと。


途端に足元が崩れ落ちるような衝撃を感じ、矢口はテーブルの上に置いていた両手を握り締めた。汗ばんだ両手の爪が白くなっている。


林も同じ怖さを抱えていたのだろうか。男だった自分が、女でもない男でもないモノへと創りかえられていく恐怖に耐えられなかったのだろうか。


「課長」

 思わずすがる思いで目の前の男を見た。

「俺は、」

 喉がカラカラに渇いている。

 俺は男ですよね。

「君は男だよ。しかも勇気がある立派な男だ」

 下世話だけどね、と課長は矢口に顔を寄せ、声をひそめて話した。

「出産に成功すれば君はうちの市役所職員第一号と言う事で莫大な報奨金が出る。退職金に匹敵するかもしれないぞ。昇進ももちろん私からも推すが、子持ちになるんだ、君はもっと身軽になった方がいいんじゃないか? 身体に負担もあるだろうし。まあこの話はおいおい」

 無事に出産さえすればお払い箱になる可能性を言われた気がするが、矢口の頭の中は別の疑問が渦巻いており、それに頓着する余裕はなかった。

 もし出産に失敗すれば俺はどうなるんですかと尋ねる勇気はない。男性の帝王切開手術は、一度子宮移植手術をした負担がある為か、現在の所失敗すればほぼ死ぬことは免れなかった。出産がうまくいかなかったとしたら、かなりの確立で自分は死ぬだろう。却って挑戦するだけして死ねるのだから悔いはないのかもしれない。しかし俺は恐れているのはそこではない。

 出産以前の段階で妊娠しなかったら、受精しなかったら、そもそも俺の精子が使い物にならなかったとしたら。


 こんな恐ろしい、足元の地面が今にも崩れ落ちそうな、寄るすべもない不安定な気持ちを妊娠できない女達は抱えていたのか。

 元妻はどうだったか。離婚届を静かに受け取ったあの女の顔は、当時どんな様子だったかは、はっきりと思い出せない。ただ、あの時の妻はひどく疲れていたような気がする。いや。


 矢口はなぜかこの状況で唐突に思い出した。

そうだ。彼女は用紙を受け取った時、なんとも形容しがたい、しいて言えば泣き出しそうな顔になったのだ。湿っぽい展開は御免だと思いその場から離れたが、その後妻が泣いた様子はなかった。あれは泣き出しそうだったのではなく、安堵した表情だったのではないか。終わりが見えない不妊治療から開放され、「赤ちゃん待ちの誰々さんの奥さん」から個人名で呼ばれる自由を取り戻した顔をしていたのではないか。


「矢口君」

課長の声に矢口はびくりと身体が揺れた。

「やってくれるね」

 死刑宣告を受けたかのように頭の中が真っ白だ。動悸が早くなり、背中の汗は冷たく背中を濡らしてゆく。

 顔面蒼白の矢口を見て、課長はふ、と表情を緩めた。

「杉本君、若いよねぇ。いくつだったっけ? 」

 ことさら大きくなった課長の明るい声に再びびくりと矢口の肩が無意識に動いた。課長の意図が分からず思わず彼を見上げる。課長が楽しそうに笑った。

「大丈夫、クイズじゃないよ。気軽に答えて。ほんとに忘れちゃったんだよ」

「に、」

 のどから声を絞り出した。

「にじゅう、ろく、さいです」

「そうかあ、そんなに若いのか。それでね、彼、二人目ができたんだよ」

 矢口は一瞬息をとめた。

あはは、と突然課長は矢口の背中をばんと叩く。

「そんな葬式みたいな顔するなよ。めでたいじゃないか。ちゃんと祝ってやらなきゃ。あ、彼の事は誤解しないでやってくれ。まだ僕にしか報告はしてない。君の事を気にしていてね、いつ言ったらいいのか悩んでたから僕から皆に話すと言ったんだ。忙しくて中々機会がなかったんだけど明日にでも言うつもりだったんだよ」

 笑い声のまま課長は

「これで――うちの課の既婚者は大体皆子供が二人になったね」

 これ以上の苦痛は耐えられない。

 それ以上を言われる前に、矢口は立ち上がって両手をばんと机に置き、がばりと頭を下げた。

「も、申し訳ございません!! 」

「矢口君のせいじゃない。そうだろう? 君は至って健康なんだから。ほら、座って座って」

 課長がレストランのウェイターのようにパイプ椅子を矢口の後ろに寄せ、矢口は仕方なく座った。

「君には問題がないのにパートナーのせいで子供ができなかったなんて気の毒な話だよ」

 そこでだ、と課長は後ろを振り向いて分厚い書類の束を机に下ろした。

「今回、手術成功率百パーセントのT先生をお迎えしたんだよ。矢口君も知っているでしょう、あのTVで有名な。もちろん移植だから体への負担はもちろんある。術後の痛みもあるだろう。その点最高の先生と病院とスタッフを用意させてもらったよ。丁寧な資料も用意した。これを読んで事前に分からない事、不安な事は何でも専門のカウンセラーに言ってほしい」

「君が希望するなら、今誰かいい人がいるのなら彼女との体外受精でも構わないが、卵子カタログも用意したんだよ」

課長がパラパラとカタログをめくった。

「提供者は二十代ばかりだし、写真もついてる。君好みの可愛い女の子を選んでくれて構わないんだよ。子宮はさすがに分からないけれど、二十代の出産経験者から提供してもらうから安心していいよ。

文字通りきみの子供が授かるんだ。こんな好条件二度とないだろう」


力強く、一辺の後ろめたさもなくまっすぐにこちらを見詰める課長の瞳に、矢口は狂気を感じてぞっとした。


違う。林や俺が選ばれたのは、気に食わないからじゃない。ここにいる奴らは、お気に入りだからこそ最大級の栄誉を授けようと本気で考えているのだとしたら。子供をもうける事こそが人生で一番の名誉だと思っているのだとしたら。

課長のほがらかな声が静かな会議室に響いた。

「君は子供が欲しいし子宮と卵子はそろっている。しかも手術も含めて費用は一切かからない。休職中の給与も、特例で月収の満額保証される――これだけそろっていて、断る理由は、あるのかな」

 俺に選択権はなかった。



「皆さん、本日は素晴らしいニュースを報告します。わが課の矢口君が子宮移植手術を受けられる事になりました。その為明日から特別休暇に入られます。彼の大きな勇気を称え、手術の成功、そして是非ともお子様の誕生という素晴らしい一報を頂けるよう、全員一丸となって応援しましょう!」

何かの就任式かと思うほどの仰々しい大きな花束を女子職員から手渡され、力なく笑う矢口を杉本は呆然と見つめていた。彼は次々に握手を求められ、後は任せろだとか、仕事は心配するなだとか上司や同僚から台本のような言葉をかけられている。

 

 杉本は一ヶ月前の休日に矢口に呼ばれ、事の顛末と移植手術を受ける事を聞いていた。あまりの衝撃に言葉をなくす彼に、矢口は「子供がいないと、俺の存在価値はないんだよ」と寂しそうにつぶやいた。


まだ十数名という数であるものの、全国に比べるとわずかではあるがこの県の男性出産者は多い。女性がより良い仕事を求め都会に出てしまったから男性の数が多いと言うだけなのだが、課長や上の人達はすでに男性出産の多い県としてここを売り出そうとしていたのではないか。増えない移住者に見切りをつけ、若い男性をターゲットにして出産可能予備軍を増やす。その宣伝役としてまず職員が標的になったとしたら。妻が妊娠したばかりの自分には声がかからなかっただけで、子供がいない若手の既婚男性や矢口のような中年独身男性に精神的プレッシャーを与え続けていたのだとしたら。


思わず背筋がぞっとして、杉本は再び視線を前に向けた。

顔に貼りついた笑顔でひたすら万歳三唱をロボットのように繰り返す群集。その中心で硬い表情で佇む矢口。彼の肩を強く掴み、課長が激励の言葉をかける。

何かを言わねばならない気がして、背伸びをし隙間を探して何度頭を左右に振っても群集の万歳の山にもまれるだけで矢口に近づく事もできない。

 人影から時折見える、ややうつむき加減の白い顔を、強く引き結んだ口元を、杉本と決して交わらない瞳を、ただ見つめ続ける事しかできなかった。

 万歳、万歳という声がうるさく耳に響き渡る。


――なんだろう、これをどこかで、

これと似た光景を自分は見た事がある。


人でごったがえした駅のホームで男性を取り囲み万歳を繰り返す人々。敬礼で激励に応える若者。硬い表情に笑みはない。人々が手にする日本国旗が画面いっぱいにわさわさとはためいている。決められた未来。意思なき民衆。モノクロームに彩られた世界は遥か遠いものだと思っていたのに。


あれは我々にとってテレビの中だけの世界ではなかったのか。


我々は知らなかったのだ。

いや、知っていても見ない振りをしていたのだ。

都道府県間で子供を巡る戦争はもう始まっているのだと。

                                     了



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