第十四話・『マリス』
ラフィンは中央区に差しかかった辺りで、夜空を泳ぐ正体不明の何者かを視界に捉えた。よく見ないとうっかり見落としてしまいそうになるが、確かに夜の空をなにかが滑空している。
あれはなんだと怪訝そうに眉を寄せたのも束の間、その何者かが彼の目的としていたアルマの上空で止まるのを目の当たりにすれば、途端に敵意をむき出しにして駆ける足は止めぬまま宙に指先を滑らせた。
その正体こそ知れぬものの、アルマの上でピタリと止まり、あろうことかその頭に死神の鎌を振り下ろす様を見れば到底味方とは思えない。
「やらせるかよ――守護壁!」
振り下ろされた鎌は――間一髪、アルマの頭に触れることなく、その身を守るように張り巡らされたドーム状の防御壁により弾かれた。
金属が衝突したような音がすぐ間近で鳴ったことでアルマは両手で頭を押さえると、思わず後方を振り返って頭上を振り仰ぐ。周囲にいた野次馬たちは、その鋭利な鎌を見てクモの子を散らすように我先にと逃げ出し始めた。
「うひゃっ!?」
「――アポステル様!?」
エリシャとハンニバルは咄嗟にアルマに向き直ると、視界に不気味な鎌を捉える。
自然とその出所を窺うことで、ようやく空に浮かぶ漆黒のなにかを発見した。ハッキリと姿形を確認することは叶わないが、敵であることだけは確かだ。
ラフィンは様子を見ることもなく、駆ける勢いそのままに大地を強く蹴って跳躍すると、無粋な襲撃者へ問答無用に威嚇の拳を叩きつけた。
「ラフィン!」
それを見たアルマは、一度状況も忘れたように表情に安堵を滲ませた。
けれども次の瞬間、近くにいたラフィンやアルマはもちろんのこと――エリシャやハンニバル、リリスの耳にボギ、という太い骨が折れるような生々しい音が響いたのである。
ラフィンは叩きつけた拳に感じる骨が折れた感触に、思わず表情を引きつらせた。夜空に同化していてよくは窺えないが、彼が殴りつけた箇所は恐らく腰部分。腰の骨を粉砕してしまったのかと思ったのだ。
しかし、襲撃者からは苦悶さえ零れることはなかった。それどころか悠々と身を翻し、今度はその鎌をラフィン目がけて振るってきたのである。
「ぐ――ッ! こ、んの野郎っ!」
重力に倣い地上へと身が落ちていくお陰で直撃は免れたが、髪の毛先がいくつか犠牲となった。切れ味は、恐ろしいほどによい。あのような鎌で斬り裂かれたら、どうなることか。
ラフィンは着地を果たすと、すぐにでも敵を仰ぐ。アルマやエリシャはそんな彼の傍らに駆け寄り、大丈夫かと怪我の有無を確認した。
すると、襲撃者は上空からラフィンを見下ろして不意に笑い声を上げた。
――否、それを「声」と称すことが適切かどうかは不明だ。声というよりは、単純な音のようにも聞こえる。
けれども、その音は非常に不快だった。高く高く、人の鼓膜を突き破り脳を破壊するかのような、そんな衝撃を受ける不気味な音。
『ククク――ッウ、キャキャキャキャ! ケェケケケケッ!!』
「ううぅッ!」
「ぐ……う、るせえぇ! 黙れってんだ!」
脳が強制的に揺らされるような錯覚を覚える中、ラフィンは苦悶の表情を浮かべながらも敵を忌々しそうに睨み上げて再び宙に印を刻むことで、周囲に巨大な陣を展開させた。
すると、その刹那――ピタリとその声と思われる不気味な音が止まってしまったのである。
エリシャとハンニバルは片手でこめかみの辺りを押さえながらラフィンを見上げ、アルマは屈んだ体勢のまま横からリリスにぎゅうぎゅう抱き込まれていた。彼女なりに守っているつもりなのだろう。
自分が上げた声が止まってしまったことに、上空に浮かぶ漆黒の敵は一度黙り込んだ。夜空と同化しているせいで顔など窺えないのだが「なぜ?」と言っているかのような雰囲気で。
無論、それはラフィンが操る守護者の心の技のひとつの効果なのだが――どうやらお気に召さなかったらしい。
どことなく怒りに満ちた雰囲気で見下ろしてくる。
だが、その時。やや強めの風が辺りに吹きつけた。
すると、敵が羽織っていたと思われる黒衣が捲れ上がったのだ。それは闇に同化する特殊な衣なのか、風によりぶわりと捲られた下――それを見てラフィンたちは思わず双眸を見開いた。
「な……ッ!?」
「なん、なのだ……こいつは……! 魔物なのか!?」
「ほ、骨だ、白骨体……!?」
闇に紛れる漆黒の衣の下、その正体は頭から足の先までが綺麗に揃った白骨体だった。人の骨だが、皮膚や頭髪、眼球は当たり前のように存在しない。無論、内臓も。
先ほどの音は一体どこから、どのようにして出していたというのか。
ラフィンの拳がぶつかっただろう腰の骨は真ん中から折れていたが、これでは痛みなど感じるはずもない。
「マリス……」
「……マリ、ス? えっ、あれ女!?」
「うふふ、ラフィンさんのそういうボケは嫌いじゃないですけどぉ……人名ではないんですぅ。マリスというのは悪意を意味する言葉なんですよぉ、大昔に神さま方が封印されたはずなんですけれど……」
「あ、悪意?」
「はぁい。でも骨だけなのでぇ、まだ生まれて間もないはずですよぉ。マリスは生き物の悪意をエサにして成長していくんですぅ」
どうやら百合神アイドースに創られたリリスは、この「マリス」と呼ばれた白骨体のことを知っているようだ。神さま方が封印した、ということはつまり――
「強い、のか……」
「はいぃ、神さま五人でようやく封印できたくらいの恐ろしいやつですぅ。でも、まだ骨だけの状態ですからぁ、今ならそんなに力はないはずですよぉ!」
「ならば……ラフィン君!」
「ああ!」
リリスはつい今し方、この「マリス」は生まれて間もないはずだと言っていた。
このまま放置すれば、いずれ神々五人でようやく鎮められるほどの強さになるというのなら――
「この場でぶっ倒すぞ!」
それならば、今この場で倒す以外に道はない。
エリシャとハンニバルはラフィンの言葉に剣を引き抜き、リリスはアルマを連れて後方へと退いた。




