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第二十六話・来ないアレ


「ううぅ……痛い、痛いわ……」



 マリスのお陰で辛うじて撤退することができたカネルは、震える手で己を抱き締めるように両手を二の腕辺りに添えて身を縮めていた。身体に傷はない。完全に癒えているものの、負った際の痛みが忘れられず錯覚を引き起こしているのだろう。

 ここがどこなのか、彼女には何も分からない。右を見ても左を見てもゴツゴツとした岩があるだけ。どうやらどこかの小さな洞窟のようだ。

 カネルと分離したマリスは、そんな彼女の真正面に立ちぼんやりと見下ろす。



「わたし、もうイヤよ……殺されるかと思ったわ……あんな怖い顔したラフィン初めて見た……お願いマリス、あなたがやって」

「だい、じょうぶ……もっと強くなれば、いい……だけ……」

「もっと強く? 無理よ、わたし怖いもの……」

「うふふ……だぁいじょうぶ……おいしいゴハン、いっぱい食べにいこ……? 一緒なら、きっとカネルも……おいしいって、思うから……」



 カネルは、マリスのその言葉に不思議そうに目を瞬かせる。

 ラフィンたちの話が本当なら、マリスの食事は悪意(・・)だ。カネルがアルマを憎み続けてきたことで、マリスは瞬く間に成長を果たし――現在に至る。

 しかし、その口振りは気になった。まるで自分以外の悪意を食べに行こうと言っているように感じられたからだ。



「騒ぎを、起こすの……昨日みたいに、魔物を……操って……」

「……騒ぎを?」

「そう……騒ぎを起こして、人間たちを甚振って……追い詰める。食べ物を奪って、住処を焼いて、限界まで追い込んだら――人間たちは弱いから、どんどん仲間内で憎み合って、おいしいゴハンを作ってくれるの……うふふ、うふふふふ……」



 たどたどしくゆっくりと紡がれる言葉に、カネルは神妙な面持ちで一度視線を地面へ下ろす。

 人間というものは――マリスの読み通りだ。


 人はある程度余裕がある時ならば、他者に手を差し伸べて優しくできる。

 けれども、自分に余裕がなくなると優先すべきは他者よりも己のこと。助け合いよりも、蹴落とし合いが始まる。そして、互いに憎み合うようになるのだ。

 一番簡単な方法は、マリスの言うように食糧。食糧を焼き払ってしまえば、人間たちは食べ物を奪い合い、他者を攻撃し始める者がほとんど。そうして様々な悪意が生まれ、マリスがそれを喰らうことで今よりも力を付ける、そういうことだろう。

 そこまで考えて、カネルは口元に笑みを滲ませると、一度は下げた視線を再びマリスに向けた。



「……おいしいご飯をたくさん食べたら、ラフィンたちに勝てる?」



 自分を真っ直ぐに見据えてくるカネルを見返すと、マリスはにこりと穏やかに笑って――しっかりと頷いた。

 マリスのその様子を見たカネルは、双眸を笑みに細めて静かに立ち上がる。そうして一歩足を踏み出して、ハッキリとした口調で告げた。



「分かったわ。じゃあ、行きましょう。魔物を操って壊滅させるなら、一番いい場所があるわ」

「……? ドコ……?」

「――東の都ヴィクオンよ。ラフィンの大事な家族を奪ってやる……そうすれば、ラフィンだってわたしたちに悪意を向けてくるわ。それも食べちゃえばいいのよ。世界中の悪意を全部食べて、誰もわたしたちに逆らえないようにしてやりましょう」



 カネルがそう告げると、マリスは嬉しそうに双眸を細めて笑う。

 そして「カネル、サイコーだね」と呟いた。



 * * *



 西の都シャン・ド・フルールへと帰り着いたラフィンたちは、村人たちの仮住まいとなる騎士団詰め所の近くに足を運んでいた。

 詰所のすぐ隣にある簡素な宿泊施設は、入団試験を受ける者の一時宿泊所として使われていたのだが、騎士団への入団試験が行われるのは毎年春に一度だけ。現在は季節が異なるために、誰も使う者がいない状態だ。モスフロックス村から避難してきた村人たちは、しばらくの間、この宿泊施設に住むことになった。


 急なことだったため、あちこちを騎士が駆けずり回る。ある者は避難民が使えるようにと寝具を両腕で抱え、またある者は空腹だろうと騎士団の詰所から様々な食糧を宿泊施設へと運び込んでいた。

 ラフィンも手伝おうかと思ったものの「これも部下たちの訓練になるから」とフェリオに笑顔で言われてしまえば、それ以上は何も言えなかった。駆け回る者たちの中に騎士団長であるはずのバルガスも混ざっているのは大丈夫なのかと思ったが。



「……?」



 宿泊施設の傍でフェリオと話していたラフィンは、ふと背中に刺すような視線を感じた。殺気の類は感じられないが反射的に振り返ってみると、そこにいたのはラフィンの腰ほどまでしか背丈のない少年だった。

 栗毛色の髪をした少年は、子供特有の大きな目でジッとこちらを見つめてくる。誰だろうと一度こそ思ったが、すぐに思い出した。



「おい、アルマ。お前の弟が来てるぞ」

「え?」



 モスフロックス村が襲撃される前に、アルマの家で見た――彼の実の家族の一人だ。栗毛色の髪と青の双眸はアルマと非常によく似ている。

 ふと少年に合わせた視線を上げて道の先を見てみると、宿泊施設の傍に置かれた木箱の陰からこちらを覗き見る三つの影を見つけた。深く考えなくても分かる、アルマの両親だ。邪魔になるかもしれないと思って声を掛けられないのだろう。

 ラフィンとプリムは一度顔を見合わせると、ほぼ同時にアルマの背中を軽く押した。



「行ってこいよ。お前の父さんと母さん、昨日も来てたんだ。ずっと会いたがってたんだぞ」

「パパとママに思いっきり甘えてきーや、あとで弟くんと妹ちゃんの名前教えてな」



 二人のその言葉に、アルマは一度肩越しに振り返る。やや困惑した様子ながら、その頬がほんのり赤らんでいるところを見れば純粋に嬉々も感じているのだろう。

 程なくして照れたように笑うと、しっかりと頷いた。そんな彼を見て、傍にいたアルマそっくりの少年が「早く早く」と手を引っ張る。

 その様子を目の当たりにした両親は、身を潜めていた陰からそっと出てくると、感極まったように大慌てでアルマの元に駆け寄った。



「わわっ」

「ごめんね、ごめんね……ごめんね、アルマ……神殿の圧力に負けた私たちを恨んでいるでしょう? 本当にごめんなさい……でも、私たちは一日だってあなたを忘れたことはなかったわ……こんなに、立派になって……」

「悪かった、本当に……だが、私たちを助けてくれて……守ってくれて、ありがとう……」

「い、いや、僕はそんな……みんながいたからなんとかなっただけで……それに恨んでなんて……」



 ぎゅうぅ、としっかりと両親の腕に抱き締められて、一度こそアルマは苦しそうに目を細めたが、母の身が小さく震えていることに気付くと、一拍の後にそっと彼女の背中に手を回し、手の平でポンポンと撫で叩いた。

 神殿の圧力――恐らくはヴィクオンの神殿の者たちだろう。アポステルの誕生を知り、遠路遥々モスフロックス村まで赴き、この両親の元からまだ赤ん坊だったアルマを強引に奪ったものと思われる。その様子を想像して、ラフィンは自然と眉根を寄せた。



「(……それで、自分たちの思い通りに祈りの力が育たなかったら落ちこぼれってか。人様の人生狂わせておいて……考えてみりゃ最悪だな)」



 言葉にこそ出さなかったが、内心でヴィクオンの司祭たちに対して嫌悪感に近いものを覚えたのだ。

 だが、しかし――とも思う。

 ラフィンには、どれが正しいのかよく分からなくなっていた。



「(……アルマがもしモスフロックス村で育ってたら、俺の母さんは助からなかった。プリムの弟も……デュークも。けど、アルマの親御さんは、この十七年間ずっと会うこともできなくて自分たちを責め続けてたんだろうって思うと……)」



 そこまで考えて、自然と口からは重苦しい溜息が零れ落ちた。

 視線を上げた先では、アルマが戸惑いながら、それでも父や母の背を撫でて嬉しそうに笑っている。その周りとチョロチョロと妹や弟が駆け回っていた。ずるいずるい、自分たちもお兄ちゃんに甘えたい――そう言いたげに。

 今更もしもの話を考えたところでどうにもならないのだが、ラフィンの胸の内は複雑だった。


 ――と、そこでふと思う。



「(あれ? そういえば……最近アレがこねーな、発情期……)」



 来たら来たで色々な意味で困るのだが、来ないと逆に心配になる。あのジジイ神の魔力だ、もしやまたアルマの身に異様な変化をもたらすのではないかと。

 アルマは大丈夫だろうか。ラフィンは一抹の不安を抱きながら彼に視線を戻したが、家族に囲まれて嬉しそうに笑う彼を見ると、そのひと時を邪魔する気にはなれなかった。



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