第九話・新たな波乱の予感
『父さん、この子をお願い』
『む、無茶じゃ、相手がどれだけ大勢いると思っておる!? お前も旦那も殺されるだけじゃぞ!』
『ふふ、嫌な世の中よね。人間の欲は神さまでもどうしようもないって言うのが……なんとなく分かるわ』
薄暗い小さな小屋の中で、美しい銀の髪を持つ女性がおかしそうに笑う。彼女と言葉を交わすのは、今にも倒れてしまいそうなほどに蒼褪めた老人だ。彼の腕の中には、ふるふると身を震わせる幼い少年がいた。鞘に入った剣を大切そうに抱き締めながら。
すると、女性は表情に穏やかな笑みを浮かべて腰を折り、少年と目線の高さを合わせる。そうして、小さいその頭を優しく――どこまでも優しく撫でた。手が微かに震えているのは恐怖か、はたまた悲しみか。
『いい? おじいちゃんの言うことをよ~く聞くのよ』
『お……おかあさん……おかあさんと、おとうさんは……?』
『大丈夫よ、お父さんもお母さんもいつだってあなたの傍にいるわ。お母さんにはあまり恩恵はなかったみたいだけど、きっとその剣があなたを守ってくれる。だから強く生きて――そして、どんな時にも優しさを忘れないでね、シェーン』
その言葉と共に、夢がゆっくりと終わりを告げる。
優しい風貌の彼女は陽炎のように空気に溶けて消え、抱き締める腕も静かに離れていった。慌てて手を伸ばしかけたが、それが何かを掴むことはない。
「母さん」と、確かに声を出したはずだったのだが、その声さえも夢に呑まれ、音となって響くことはなかった。
* * *
「――!!」
シェーンは目を開けると、そのまま勢いよく上体を起こして文字通り飛び起きた。
全身を嫌な感覚が包み、どっと汗が噴き出してくる。胃の中に無理矢理に大きな岩でも詰め込まれたような不快感を覚えた。
急に起き上がったせいか、それとも今の夢の影響か――不意に目の前がぼんやりと暗くなり、軽い眩暈を覚える。思わず目を閉じて、片手を己の額の辺りに添えた。
「……だいじょうぶ……?」
「……え?」
脳裏に焼き付いて離れない夢の中の映像にシェーンが奥歯を噛み締めた時、ふとか細い声が聞こえた。油断しているとそのまま聞き逃してしまいそうなほどの、小さい声が。
咄嗟に顔を上げてそちらを見遣ると、そこにいたのはメリッサだ。シェーンが眠っていると思って気を遣ったのか、部屋の灯りは落とされていて薄暗い。窓もカーテンで閉ざされていた。
「メ、メリッサ? あれ、ここは……」
「私の、家……」
「じゃあ、シャン・ド・フルールに戻ってきたのか……ラフィンたちは?」
「みんな……もう、寝てるよ。今日は宿屋が……満室、だったの……だから、私の家で……」
カーテンの隙間から見える外は、既に陽が暮れて真っ暗だ。街の灯りがあるものの、時刻は完全に夜と言える。隣が宿屋であるにもかかわらず酒飲みの声が聞こえてこないということは、随分と遅い時間なのだろう。
メリッサは手に持っていたトレイをサイドテーブルの上に置いてから、身体ごとシェーンに向き直った。その表情はなんだか心配そうだ。
「……ラフィンたち、すごく……心配してた、よ。……だいじょうぶ、なの……?」
「…………問題ない、大丈夫さ」
普段ラフィンに対して毒を吐くことは多くとも、彼や仲間の性格は既に熟知している。恐らくメリッサの言葉通り、随分と心配を掛けたのだろうと思えばシェーンの胸には罪悪感が滲んだ。
視線を下げて返答する声は、自分でも驚くほどに頼りなくてシェーンは自分で自分が情けなくなった。
追究されるだろうか――そう考えると、身体が自然と強張る。過去に起きたことを現実だと理解はしているものの、その全てを真正面から受け止め切れているわけではないのだ。
しかし、シェーンの心配をよそに、メリッサはそれ以上聞こうとはしなかった。代わりに窓辺に歩み寄ると、閉ざされていたカーテンをそっと開けて肩越しに振り返る。
「……今日は、とてもお月様が……綺麗なの。月の光には……色々なものを、浄化してくれる力が……あるんだって……」
「……」
「シェーンの苦しいのも……浄化、してくれる……かな」
メリッサの言葉を聞いてシェーンは下げていた視線を上げ、窓越しに空を見上げてみた。彼女の言葉通り、今日は雲ひとつない晴天だ。月だけではなく、それに寄り添うようにして輝く星もよく見えた。
特に何をするでもなく暫しそうしていると、先ほどまではあれほど不快な気分だったというのにじわりじわりと、だが着実に気分が落ち着いていくのを感じる。十分ほどが経過する頃には嫌な気分もなくなり、シェーンは思わず己の胸の辺りに片手を添えた。
「……浄化、されたかどうかは分からないが……少し落ち着いたよ、ありがとう」
「……みんなに、話さないの? わたしがそうしてもらって、落ち着いたみたいに……シェーンも、苦しいの全部、吐き出しちゃったら……きっと、楽に……なるよ」
相変わらずたどたどしいが、彼女なりにシェーンを気遣っているのだろう。そして純粋に心配もしているのだ。
シェーンは、暫しメリッサの言葉に対して考え込むように黙り込んでいたが、ややあってから改めて彼女に向き直りそっと頷いた。
「……そう、だな。気が向いたら、そうしてみるよ」
明確な約束の言葉ではなかったが、それでもシェーンの返答を聞いてメリッサは嬉しそうに笑った。それはそれは、安心したと言うように。
* * *
その一方、シャン・ド・フルール騎士団の詰所は騒然としていた。
時刻は既に深夜、新しい日を迎えてもうすぐ三時間が経過する頃。団長室には怒号が響き渡る。それは、団長が留守にしている間、この騎士団を預かっている副団長フェリオのものだ。
「どういうことだ、二人も見張りに付いていながら罪人を逃がしただと!?」
「も、申し訳ございません! トイレに行きたいと言うので、我々二人で付き添ったのですが……」
「いつの間にか手枷を外していたようで、窓を破って……」
「馬鹿者! すぐにでも追え、まだこの辺りにはいるはずだ!」
夜勤の眠気覚ましにとコーヒーを優雅に啜っていたところへ、部下の騎士二人が大慌てで駆け込んできては「罪人を取り逃がしました」という耳を疑いたくなるような報告を寄越してきたのである。
それも逃がしたのは、あの洋館で敵意むき出しに襲ってきたカネルだと言う。罪人と言えど女性、トイレの個室の中まで同行して見張ることはできないのを利用したのだ。フェリオが特殊なだけで、騎士団は基本的に男所帯なのだから。
フェリオの怒声を受けて、部下二人はこれまた大慌てで部屋を飛び出していく。そんな彼らの背中を見送ってから、指示を出したフェリオ本人もまた、武器を腰に提げて駆け出した。
カネルがどれほどアルマを憎んでいるか、どれだけの敵意と憎悪を持っているかをフェリオは知っている。早く捕まえねば、また彼らに牙を剥くのではないか――それがなによりも心配だった。




