第七話・アプロスの術
「……」
母クリスに呼ばれて居間に降りたラフィンを待っていたのは、父ガラハッドとカネルだった。
もちろん、カネルは家族ではない。当然ながらラフィンはそこで確かな引っ掛かりと共に言葉にし難い嫌悪を覚えた。
どうしてカネルが自分の家にいるというのか。
「なんで、お前がここにいるんだよ」
頭があれだこれだと考え始めるよりも前に、彼の口を突いて出てきたのはその疑問だ。
すると、カネルが大きな猫目を丸くさせてきょとんとすると、隣に座っていた父ガラハッドが咎めるように口を開く。
「こら、ラフィン。せっかくカネルちゃんが来てくれたってのになにを言い出すんだ?」
「そうよラフィン、どうしたっていうの? ごめんなさいね、カネルちゃん」
ガラハッドもクリスも、まるでラフィンがおかしいかのように口を揃えて叱りつけてくる始末。ラフィンはそこで改めて辺りを見回したが、見間違うこともない。ここは確かにヴィクオンにある自宅だった。
だが、当のラフィンにもなにがどうおかしいのか、肝心な部分がなにもわからないのである。
カネルがこんなふうに自分の家にいるのはおかしいはずなのに、それがどうしてなのかは分からない。そんな状態だ。
「(どう、なってるんだ……? けど、なんかおかしい……なにかが違う。本来ここにいるのはカネルじゃなくて…………誰、だったっけ……)」
その部分を思い出そうとすると、頭に深い靄でもかかってしまったかのように詳しい部分をまったく思い出せないのだ。しかし、カネルがここにいることには確かな違和感があった。
だが、ラフィンが抱く違和感など露知らず。ガラハッドは呆れたように溜息を吐き出すと、至極当然のことのように言葉を続けた。
「まったく……お前はカネルちゃんの守護者になるんだろう? 守るべき相手を悲しませるようなことを言うのは感心せんぞ」
「お……れが、カネルの……ガーディアンに……?」
ガラハッドのその言葉に、ラフィンは鈍器で後頭部を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
自分がカネルのガーディアンになる。
何度かその言葉を頭の中で反芻すると、先ほどから感じていた違和感が更に強くなった。
自分が守るべき存在は彼女じゃない、他の誰かだったはずだ。確か、自分はカネルをなによりも嫌っていたはず――――
「(……俺、なんでカネルが嫌いなんだっけ。くっそ、なんでこんなに頭が……モヤモヤするんだよ……!)」
ガラハッドもクリスも、もちろんカネルも。
まるでラフィンがおかしいかのように怪訝そうな、それでいて心配そうな表情を浮かべて見つめてくる。口々に「大丈夫?」だの「どうしたの?」だの呟きながら。
もしかしたら、本当に自分がおかしいだけなのかもしれないと錯覚さえしてしまうほど。
「ねえ、ラフィン。どうしたのよ。なにがあったの?」
頭を押さえて俯くラフィンを心配そうに覗き込んでくるカネルを見ても、ラフィンの心はほんの僅かにも揺れることはなかった。
自分のパートナーは彼女じゃない、全身がそう悲鳴を上げるかのように粟立ち、拒絶反応を示す。
自分は本当にどうしてしまったんだろう。そんなことを思いながら、ラフィンは頭を振った。違和感が己の中に馴染んでしまわないように。
* * *
一方、アプロスは再び腰を落ち着かせると今度は酒瓶を手に取ることはせずに、ゆるりと双眸を細める。床に倒れ伏してしまったラフィンたちを見つめながら、クスリと口元に笑みを滲ませた。
「流石ですね、ラフィンは。わたくしの術に抗うとは……彼も彼女も暖かい家族に絆されつつあるというのに……」
アプロスの視線は、そこで一度プリムとデュークに向く。
完全にではなくとも、彼ら二人はアプロスの術に既に支配されつつあるのが現実だ。
アプロスは、生き物が死んだ際に次なる生へと転生させる役割を担っている。そのため、これまでの記憶を消し去ることも、現在の記憶をあやふやなものにしてしまうのも容易なのだ。
その能力を使い、アプロスはラフィンたちの記憶を曖昧なものにした上で、家族の温もりに包まれる夢の中へと彼らを誘った。それが、彼女が与える試練だ。
「(暖かい家族の愛情は心地の好いものでしょう、そのまま浸かってしまいたいでしょう。ですが、祈りの旅をする者はそれではいけません。どれだけ心地好くとも自ら立ち上がり、抜け出す意志の強さをわたくしにお見せなさい)」
これまでにも、多くのアポステルが世界中を旅して回り、各地で祈りを捧げてきた。
しかし、その誰もがこのピースの神殿で一旦旅をやめたくなったものである。それらを思い返してアプロスは複雑そうに眉根を寄せた。
「(……アポステルたるもの、様々な誘惑を向けられることがあるでしょう。甘く、優しく誘われて悪の道に走ってしまう可能性も否定はできません。そうならぬように、誘惑に負けない強い意志を見せるのです、そのために幼くしてアポステルを親元から引き離すのですから……)」
歴代のアポステルは、アプロスの術で初めて親の愛情と言うものを夢の中で見せられ、一度は意志が揺らいでしまうものだった。仲間によって助け起こされるまで夢から覚められない者も多かった。
今回も例に洩れずそうなるのだろうと、アプロスは確かにそう考えていたのだが――
「……! えっ……!?」
次の瞬間、細められた双眸は大きく見開かれた。
どうせまだ暫くはこのままだろうと、再び酒を飲もうと酒瓶に手を伸ばした時、それまで倒れ込んでいたはずのアルマがむっくりと身を起こしたからだ。まさに寝起きと言わんばかりの、いつものようにとぼけた顔で。
それには流石のアプロスも驚いたようで、暫し彼を見つめたまま瞬きも忘れて絶句していた。
「そ、そんな……わたくしの術を、こうまで簡単に……!?」
歴代のアポステルの中には、心が揺らぎつつも真っ先に目を覚ます者も確かにいることはいた。だが、こうまで早くはなかったはずだ。アルマの場合、時間にして十数分。あまりにも早すぎる。
驚いたように自分を凝視してくるアプロスを見て、アルマはこれまたいつものように頻りに首を捻っていた。とても不思議そうに。
※本日22時にもう1話更新されます。




