第十二話・鮮血の舞台
Aブロックの試合から三十分ほどした頃、次のBブロックの試合が始まった。
今回もまた、フューラは羽織る外套に両手を隠したまま足だけで戦うようだ。中から腕を出す様子はない。
対するミスティオは緊張した面持ちで、固唾を呑んで彼の出方を窺っていた。
両者の間に沈黙が落ちて数拍——先に動いたのはミスティオの方だ。勢いよくリングを蹴り、真正面からフューラの懐へ飛び込む。
その動きは、やはり素人には見えなかった。
ミスティオは両腕をフューラの腰に絡ませて掴むと、全体重を乗せてその身をリングに張り倒す。これまでのフューラの戦法から、距離を取っては明らかに不利だと判断したのだろう。
「よっしゃ、行けええぇ!」
「あの男、なかなかやるじゃないか。いい動きをするものだな」
「ミスティオさん、頑張って!」
プリムは席に座ったまま身を乗り出して目の前の柵を掴み、声援を送っている。試合をしているのはミスティオなのに、まるで彼女が戦っているかのような熱の入り具合だ。そんな彼女の隣に腰を落ち着かせているシェーンも片手を己の顎辺りに添え、感心したような声を洩らした。
ラフィンの隣に座るアルマも、両手を振り上げて必死に応援している。しかし、ラフィンとデュークだけはどこか腑に落ちない様子で閉口していた。
ミスティオはフューラの腰の上辺りに乗り上げると、ほんの一瞬のみ申し訳なさそうな表情を顔に乗せたが――すぐに拳を握り締め、フューラの左頬を横から抉るように殴りつける。そうして立て続けに、今度は左手で右に叩き込もうとした。
観客席からは「いいぞー!」だの「やれえぇ!」だの、熱の籠った声援が飛ぶ。Aブロックの試合が途中どうなっていたかわからないこともあり、観客もいかにも「戦ってます」と言える試合が嬉しいのだろう。
「ククッ、思ったよか力はあるみてぇだな」
「……え?」
「だが――ここまでだ!!」
一発、二発。ミスティオが渾身の力を込めて振るった拳は、確かにフューラの顔面に入ったはずだ。
しかし、当のフューラにはまったく堪えたような様子はなく、それどころか口角を釣り上げて笑う始末。告げられた言葉にミスティオは思わず疑問に近い声を洩らしたが、その直後のことだった。
なにかが彼の視界の片隅に飛び込んだ。陽光を受けて閃くそれがなんだったのかまでは、その一瞬では窺えなかったが。
「な……」
不意に、ミスティオは身体から力が抜けるのを感じた。衝撃が右肩に走り、数拍遅れて肩の関節には激痛が。その痛みで、全身の血が沸騰しそうな錯覚を覚える。
それと共に辺りには歓声ではなく、観客たちの悲鳴が上がり始めた。状況が上手く把握できないながら、顔を動かして肩を見てみると、そこには衣服をべっとりと赤に染め上げていく――血。他の誰でもない、ミスティオ本人のものだ。
「ぶ、武器っ!? 刃物だぞ!」
「おい審判、ありゃ反則じゃねーのか!? この大会は武器の使用が禁止されてるはずだろ!!」
「観客には女子供だっているんだ! なにを見せるんだよ!」
観客たちが挙って示すのは、ミスティオに跨られたままのフューラの右手だ。今大会で初めて腕を出した彼の手には、確かに鋭利な刃物が握られている。それも、人を斬るのに適した形状と言われる湾曲刀だ。
外套の中に隠すためのものなのか、通常のものよりもサイズは小さめだが武器――そして刃物であることに変わりはない。
「お願いです領主様! やめさせてください!」
試合を見守っていたエリアは、顔面蒼白になりながら領主に縋りついた。
しかし、領主はといえば大粒の涙を流して己の腕を掴んでくる彼女に向き直ると、よしよしと逆手の平でエリアの頬を撫でつける。
「おや、なぜだい? あの男はキミに執拗に付きまとう邪魔者じゃないか。愛し合うボクたちの障害にしかならないんだ、ここで始末した方がいい。キミのためにもね」
「なにを……なにを仰っているのですか……!?」
エリアが慕っているのは、この領主ではない。現在進行形で痛めつけられているミスティオなのだ。
当然、領主が好きなどと口走ったことはないし、今後も言う予定はない。だと言うのに、領主の中ではエリアが領主を愛していることになっている。わけがわからなかった。
彼女にわかるのは――ただただ、気持ちが悪いということだけ。
領主はにんまりと歯を見せて笑うと、片腕で彼女の腰を抱き寄せてリングへと向き直った。
「ゴホン、大事なことを伝え忘れていて申し訳ない、私としたことが失念していたようだ! 今大会から全面的に武器の使用を許可する、それにより当たり所が悪く不運にも命を落としてしまう者もいるかもしれないが……大会に出場した時点で、命を落としても構わぬという意思だと受け取る!」
「そんな……!」
「ああ、それと言い忘れていたが――そのフューラが私の代理選手だ。いやいや、まさか領主たる私がここまで勝ち進めることができるとは思っていなかった、他の選手たちに申し訳ない気分だよ」
まさに勝手を宣う領主に、観客たちからは一斉に抗議の声やブーイングが上がった。
伝統のある闘技大会を勝手に殺しの場としたことに、住民たちだけでなく観客たちも文句や不満しかなくなったようだ。
だが、こうしている間にもリングの上では――戦いが続いている。
刃物を持ったフューラと丸腰のミスティオ。明らかに、ミスティオにとって不利な戦いだ。それに彼は不意打ちで既に重傷を負ってしまっている。
「ミスト! お願い逃げてえええぇッ!!」
「降参しろミスティオ! あとは俺が――――!!」
エリアの叫ぶような声を聞いて、ラフィンは今にも飛び出していきそうになりながら必死にミスティオに声をかけた。降参すればそこで試合は終わる、殺されることはないはずだ、そう考えて。
次々に繰り出される剣撃に、ミスティオの身はボロボロになっていくばかり。反撃をしようにも、出血のせいで身体に力も入らないのだろう。これでは、ただ甚振られるだけだ。
しかし、ラフィンの言葉を聞いたフューラは厭らしく口角を引き上げて笑うと、鮮血が付着した刃をべろりと舌でひと舐めしてから――問答無用にその刃を振るった。
「ハハハッ! 降参? させるワケねーだろうがああぁッ!!」
次にその刃が無情にも振られた時、エリアはもちろんのこと――ラフィンたちは我が目を疑った。
フューラが振るった刃は、ミスティオの首を――正確には、喉を掻っ切ったのだ。彼の腕ならば今の一撃で首を落とすこともできただろうに、そうしなかったのはまだ甚振ろうという意思表示だ。
ミスティオの口からは声の代わりに苦しそうな息と血が吐き出され、その場にうつ伏せに倒れ込んでしまった。
「――いやあああああぁッ!!」
「てめええぇ! やめろ、やめやがれええぇ!!」
場内には、エリアや観客たちの悲痛な声が木霊した。
その声を聞いてフューラは愉快そうに声を張り上げて笑うと、意識があるのかないのかさえ定かではないミスティオにゆっくりと歩み寄っていく。倒れ伏した彼を見下ろし、愉悦を滲ませながら脇腹を強く蹴り飛ばす。すると、その身は転がり反転した。
喉を斬られたことで声帯がやられたのか――声は、出ない。代わりに苦しそうな咳がか細く洩れるだけだった。
「あんの野郎……ッ! もう見てらんねぇ!!」
フューラが剣を振り上げたのを見るや否や、ラフィンは柵を乗り越えようと両手をついて片足を引っかけたが、その行動は傍らで同じく立ち上がったシェーンによって制された。身体前に添えられた彼の手に不満と焦りを滲ませながら見遣るが、シェーンはリングを見つめたままだ。
「お前は明日の決勝戦があるだろう、横やりを入れて失格にでもされたらどうする。あの領主ならやりかねない。それに――こういう時の妨害は僕の方が得意なんでね」
「……へ?」
ラフィンやプリムが間の抜けた声を洩らすのと、シェーンが腰から剣を引き抜くのはほぼ同時だった。
すると彼が愛用する祈りの剣は、その怒りに呼応するかの如く常よりも大きく、そして速い風を発生させてリング上にいるフューラ目がけて大地を疾走。妨害と言うよりは、完全に敵意を孕んだ攻撃だ。
しかし、疾走する風はフューラの身を捉えることはなく、軽い足取りで避けられてしまった。だが、シェーンが特に気にした様子はない。
「審判、既に勝負はついている。試合終了のコールを。この闘技大会で死者など出してはならない」
「は、はひッ!」
「おいおい、審判よ。ケリはついてねぇだろぉ? まだ対戦者が生きてるんですけどぉ? テメェからその首、落とされてぇのか?」
「審判はあくまでも中立の立場だ、その審判に手を出すのならルールもなにもあったものではない。こちらも好きにやらせてもらうが、それでもいいのか?」
見ている方が憐れになるほど顔面蒼白になってしまっている審判は、シェーンの言葉に何度も頷いたが、続いてフューラが歩み寄ってくるとその身を縮めてしまう。まるで小動物のようだ。
しかし、次にフューラの意識が向いたのは――自分のお楽しみを妨害し、臆することなく言葉を投げてくるシェーンだ。不愉快そうに、それでいて小馬鹿にするような表情を顔面に貼り付けて、フューラはシェーンを見遣る。
「近頃のガキは教育がなってねーなぁ、おい。随分と生意気なガキが増えたモンだ、嘆かわしいねぇ」
「ああ、僕は世間一般ではまだ子供に分類される。若いというのはいいぞ。少なくとも、図体だけ大きくなった知恵遅れの大人崩れよりはな。どのように育てばそのような醜い存在になれるのか不思議でならないよ、オッサン」
淡々と告げられる言葉の数々に、ラフィンとプリムは思わず数歩後退した。やや表情を引きつらせながら。
「……きっつうぅ……」
「俺……口では一生あいつに勝てない気がする……」
矢継ぎ早に叩き込まれる言葉の数々にさしものフューラもその表情を嫌悪に歪めると、手にした湾曲刀を下ろして静かに踵を返す。領主はそんな彼を見て、その背中に慌てて言葉を向けた。
「お、おい! フューラ!」
「冷めた。お楽しみは明日に取ってあるんだから、別にいいだろ。俺は先に休ませてもらうぜ」
それだけを告げると、振り返るようなこともなくフューラはさっさと選手控室へと戻っていく。リングには観客たちが挙って押しかけ、キルシュバオで宿や武器屋などの店を営む男連中がミスティオを医務室に運び出そうとしている。
それを見てラフィンたちは仲間同士で顔を見合わせ、脱兎の如く駆け出した。
「――アルマ!」
「う、うん! 急ごう!」
アルマであれば、ミスティオを助けられるだろう。出血は遠目からでもひどいのは確認できるが、急げば間に合うはずだ。
ラフィンはアルマの手を掴むと、親友と共に大慌てで駆け出した。




